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さんぽ道とは?

新しいコーナーができました。
その名も、「さんぽ道」。
自由にあなたの朗読にまつわる話をお送りください。

お送り頂くテーマは「朗読」また「話芸」など・・・自由です。

どなたでもご参加いただけます。

みんなで作る「寄せ書き風、フリースペース」です。

皆様のご参加、お待ち致しております

さんぽ道の投稿・お問い合わせなどは下記のメールまでお願いします。
info@kageyama.jp  

鞄の夢(続きの1)

                            溝口 浩

 新宿ゴールデン街という街があります。東京新宿の花園神社に隣接する一帯に木造長屋建ての店舗がマッチ箱のように並んでいる街で、作家やジャーナリストが集う街としても有名なのですが、ゴールデンという名前が標準的にこの町の体を表しているかといえば首をかしげざるを得ません。と言うよりはこの街に連なる飲食店が文壇バー、おかまバー、ぼったくりバーの三つに分類されることからみてもかなり怪しげな街だと言っていいのでしょう。
 ゴールデン街と名を変えたのは1958年4月1日、売春防止法が施行される3月31日までは青線地帯といわれる売春宿が軒を並べ、そしてこの青線というところにこの街の持ち続けている怪しさがあるのです。この街にほとんど隣接して新宿御苑までの間にある二丁目売春街は公に認められて赤線地帯と呼ばれていたのに対して無許可で赤線まがいの行為をする店が軒を並べていたのがこの俗にいう青線地帯でしたから、二丁目に比べると一段下のランクとしてみなされ、値段も二丁目が四百円のところを三百円という具合、当然そこにはべる女も吉原や二丁目から流れてきたような年増や程度の低い女も多く、全て非公認の店ですから暴力団の介在なども当然なことだったのでしょう。これから始まる人情話の発端はこのゴールデン街で起こった不思議な事件なのですが、公に出来ない怪しげな金の飛び交うこの街では特に不思議な出来事でもないのかもしれません。
 
新宿大ガード脇にある思い出横丁にカウンターだけの一杯飲み屋、共同便所の正面にあるこの店はいい気持ちになって外に出たとたんにアンモニアの臭いが鼻を襲ってくることさえ我慢すれば、四十を少し過ぎた若作りのおばさんを相手に気安く飲めて居心地はいいのです。
男は毎日のようにこの店に通って来ます、毎日来るといっても特におばさんに気があるようでもない、よっぽどこの店が気に入ってくれたのだろうと店の扱いも丁寧ですから男は機嫌良く飲んでゆくのです。
この日もこの店で飲んでから男はゴールデン街に足を向けました。
ちよっと飲み過ぎたかな、頭の隅にそんな思いを走らせながら思わずよろけると細い路地に倒れ込んだのです。何時間経ったのか、いや何分だったのかもしれません、突然肩に受けた重い衝撃に我に返った男は目の前に転がっている鞄をぼんやりと眺めながら、慌ただしい足音が乱れて遠ざかってゆくのを夢うつつの中で聞いたようでした。                 …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [266] 投稿日 [2012/2/7]

『朗読原稿の分析』について  (続きの6/6)

中 村 晴 重

目の前にある作品も、作者にとっては『過去の自分』であろう。また、当選すれば本になることを前提に書かれたとしても、実際に本に載り、「分析・解釈」されて、第三者が朗読するなどとは夢にも思わずに書かれたことと思う。きっと、「それは違う。自分は、・・・・。」という想いがきっとあるに違いない。「『380字』を突き回されても迷惑だ。』という想いもあるかも知れない。
「一方的で、失礼な分析や解釈ばかりで、申し訳ない。」と作者に心で謝りながら、それでも朗読を学ぶ者として、「分析・解釈」し、「朗読する。」のである。

 作者の心に迫る朗読のためには、
作者の心 ~ 作品(文字)~ 読み手の心(解釈)~ 朗読(肉声)
という流れを、何度も往復しなければならない。

 本稿の書き出しの2行を、声に出して読んでみた。
やはり・・・、朗読は難しい。
1行目と2行目の間には、どんな「間」がふさわしいのか。「難しい」の前には、どの程度の「間」が適切なのか。また、「難しい」は、どんな感じで声にすればいいのか。書いた本人が悩み、困るのである。「心の言葉」と「文字の表す意味」と「肉声」との違いに戸惑うばかりである。
「オギャー」とこの世に生を受けた時から今日までずっと声を出し続け、人に自分の想いを伝えるためにずっと喋り続けてきたにも関わらず、『素直に、自然に、話すように』朗読することは難しいのである。

なぜ、何のために、人は朗読をするのか。
「世の中には、『武術・武芸・武道』という言葉があるのに、話し方には、『話術・話芸』はあっても『話道』は無いのか?」などと、ますます泥沼に入り込んで行く。
『朗読の道』に想いを巡らすことは、人生に想いを巡らし、自らの生き様を模索する「求道」に通じるものなのであろうか。

『朗読とは何か?』
この問いに答えることは、難しい。
                              おわり
                                 中 村 晴 重
 
投稿者 [中 村 晴 重]  記事番号 [265] 投稿日 [2012/2/3]

『朗読原稿の分析』について  (続きの5/6)

中 村 晴 重

「おーい、さえ子」という会話文は、内言語なのか外言語なのか、頭の中の言葉なのか、口から出た声なのか、正解は無いのであろう。何度も何度も繰り返す日々の中では、声に出したこともあったり、声にならなかったこともあったりしたのではなかろうか。答え・正解というのは無いのであろう。「自分の感情」を「言葉」に置き換えられないのが、人間の「心の言葉」なのだから。
「肉声」なのか、「心の言葉」なのか、結論を出しかねたまま、時間が過ぎた。

 色々な状況・場面を想定し、読み方を変えてみた。しかし、結論は出なかった。どう読んでみても、それなりの話になる。結局、当日にどう読むかは、その場の自分の感覚に任せることにした。自分の順番の前に、全文を心の中で何度も読み返し、作品の世界の中に没頭することにしたのである。
特に意識したのは、「出だしの会話文は、最終段落の続きである。」という感覚で、文末の「・・・。」の感情を、そのまま出だしの雰囲気に繋げようと思った。そして、そのままの流れで、聴いていてくださる方の雰囲気の中にとけ込んでいくのが一番自然なのだと、自分に言い聞かせた。あれこれ解釈して突き回すのを止め、作品の中に自分を置くことにしたのである。
自分の番が来た時、出だしの文章を読み始める前に、一度、最後の一節、「俺の声が聞こえるかい、さえ子・・・。」を、心の中でつぶやくことにした。その瞬間に感じた文末の「・・・。」の感情が、出だしの声を決めてくれると信じたのである。

前に読んだ人からマイクを受け取り、一礼をして客席を見た。真剣なたくさんの眼差しを感じた。予定通り、最後の一節を心の中でつぶやき、「おーい、さえ子」と声を出し始めた。
   『「おーい、さえ子」と呼んでもおまえの返事がない・・・。』

朗読しながら、「今までと違う朗読をしている。」と感じる、もう一人の自分がいた。聴き手を前にした、「生の朗読」とは、こういうものなのであろうか。
聴いてくださった人の心には、何が届き、何が届かなかったのであろうか。
確かなのは、8月27日、私が、あの朗読会場に居た皆さんと、共に息をしながら、同じ作品を共有していたということだけである。「朗読している自分がいて、自分の声を感じた自分がいた。」という感覚である。
                                  (つづく)   
 
投稿者 [中 村 晴 重]  記事番号 [264] 投稿日 [2012/1/31]

『朗読原稿の分析』について  (続きの4/6)

中 村 晴 重

『一次案』を書いてみて、「何か、違うよな~。」と感じつつも、さらに読み続けていった。すると、何度となく読む内に、ある時、読みながら涙が出てきた。作者の心に、自分の心が共鳴した瞬間であった。
私は涙もろい人間で、本や映画だけでなく、人の話を聴いていても涙腺が緩んでしまう。感動的な本を読み聞かせしていると、涙声になり、声が詰まってしまうこともあった。「言葉の奥」にある情念に共感した時、涙腺が反応してしまうのである。
役者さんは自分の仕事として役を演じる時、身体全体でその人物になりきって、本当に涙を流したり、腹から笑い転げたりするのだという。そして、「役者としての自分が演じている姿」を、もう一人の自分が常に冷静に客席からそんな自分を眺めているのだという。役柄は、あくまで役柄であり、自分ではない。自分が演じる配役上の人物にすぎない。その役になりきりながらも、あくまで「演じている自分」をどこかで意識するのだという。
『朗読』でいえば、「読み手として内容を理解しようとしている自分」と、「声を出している自分」と、「それを聴いている自分」の関係に当たるのであろう。「自分が共感し共鳴した情感を、自分の声に乗せて聴く人に届ける。」つもりであるが、聴き手に届いたのは、「作品の心・作者の心」なのか、「自分の感情」なのか、難しいところである。届けるべきものは、「作品の心・作者の心」である。自分の声(表現)が、それを妨げていないか、悩むところでもある。

何度読んでも難しかったのが、最初の1行。出だしの「おーい、さえ子」という会話文である。
『「おーい、さえ子」と呼んでもおまえの返事がない・・・。』

初めは、「奥さんが生きていた時と同じように、実際に声を出している場面」と考えてみた。すると、一次案に書いたように、「居間から、台所にいる妻に、いつものように(明るく)声をかけている。」となる。そして、「~おまえの返事がない・・・。」に向かって、妻の死という現実を受け入れなければならない自分と向き合うようになる。当然、声も、外に向かう声から、内面に向かう声へと変化していく。その方が作者の悲しみが、より深く感じられると思ったのである。
しかし、この文章を最後まで読むと、「~俺の声が聞こえるかい、さえ子・・・。」で終わるのである。きっと作者は悶々とした想いで毎日を過ごし、走馬燈のように想いを巡らせ、何度も何度も、さらに何度も、妻に向かって「心の言葉」で呼びかけ続けているように思えてくる。たった「380字」の中に万感の想いを綴っているのである。
「肉声」なのか、「心の言葉」なのか。「肉声」だとしても、どのような「声」なのであろうか。
                                   (つづく)  
 
投稿者 [中 村 晴 重]  記事番号 [263] 投稿日 [2012/1/27]

『朗読原稿の分析』について  (続きの3/6)

中 村 晴 重
作者の真意とかけ離れ、誤解の塊であることは承知の上で、「朗読原稿 分析(一次案)」としてまとめてみた。自分自身の読みの限界を感じながら・・・。それが、以下の稿である。
8番目の『個人的な共感度』という項目は蛇足かも知れないが、あくまでも、作品に対峙する自分自身の気持ちを大切にしたいと思った。
    2011年8月9日
          朗読原稿 分析 ( 一次案 )
                                     中 村 晴 重
1,作品の大意
 元気だった奥さんが急な病で亡くなり、定年間際(直後?)の男性が、奥さんの死をなかなか受け入れられずに、奥さんの幻影に語りかけている。

2,主人公の人柄
 ・ サラリーマン生活を三十数年過ごしてきた。 
 ・ 妻は専業主婦で、子どもはいなかったかも知れない。
 ・ 子どもがいたとしても、既に自立して家を出ている。夫婦二人の生活が長かった。
・ 日常生活の多くを妻に頼ってきた男性。 (妻依存型の男性)
 ・ 妻に苦労をかけたと反省しているが、妻からの、思いもかけぬ優しい言葉を聞き、さらに、妻へ甘えている。
 ・ 急病(1年程度の看護)で他界した妻への思いが強く、あまりに急な変化に心がついて行っていない。
 ・ 妻の死後、一人で生きていく決意をしたにもかかわらず、妻の死を認められないでいる。

3,全体的な読みの調子
 ・ 死んでしまった妻への手紙であるから、落ち着いた優しい音調。
 ・ 夫は、優しく、弱いところがあるが、弱さを前面に出すのではなく、優しさの面を出す。

4,文章構成 (4段落構成)
  ① 妻に話しかけても返事のない生活。妻の死を受け入れられずにいる夫。
  ② 妻が入院した時のエピソード。二人の会話。妻の言葉で救われた夫。
  ③ 妻の優しさを胸に、生きていく決意をする夫。(弱気、あまり強くはない。)
  ④ 未練が強く、妻の死を受け入れられずにいる夫。①に戻っていく。

5,段落ごとの扱い
  ① 居間から、台所にいる妻に、いつものように(明るく)声をかけている。
  ② 思い出を静かに語る。独り言のように。
  ③ 決意であるが、強くはない。語尾の・・・は、上げ調子。
  ④ 会話文は、明るく語りかける。だんだんと、優しく、弱く、甘えるように・・・。
文章の終末部分なので、最終段落である事を予感させ、ゆっくりかみしめる。

6,6回ある「おまえ」の扱い
① 「おまえの返事がない」が初出。優しく、死別を予感させる。
  ② 「おまえの死を確認する」は、大切に。 死別が確定された。
③④⑤ 「おまえ」 優しく語りかける。
  ⑥ 「おまえの写真に向かって」 最後の語りかけ。 
    文末の「さえ子・・・。」に繋がる「おまえ」でありたい。

7,4回ある「さえ子」の扱い
  ①、③は、生きている「さえ子」さんに向けての語りかけの調子。
  ②は、入院中の「さえ子」さんへの語りかけ。
④、最後の「さえ子」は、だんだんと、優しく、弱く、甘えるように。・・・は、上げ調子。

8,個人的な共感度
 ・ 奥さんに優しい点は素晴らしいが、弱さが全面に出ており、“自立した男”としては、不満がある。
 ・ “女々しい”とまでは言わないが、“力強く生きる”メッセージが欲しい。
 ・ 女性読者からは、支持が多いかもしれない。

                                 (つづく)
 
投稿者 [中 村 晴 重]  記事番号 [262] 投稿日 [2012/1/24]

『朗読原稿の分析』について  (続きの2/6)



中 村 晴 重


 まず、本の1ページにまとめてある文章を、4段落に分けてみた。そして、自分が読みやすいように、句読点を補い、意味のまとまりを意識しながら改行を加え、区切りを入れて書き換えてみた。そして、A4サイズに印刷し、朗読用の手持ち原稿とした。

確実な文章読解のためには、視写が有効であるという。1字1字書き写していくと、作者の想いがよく解り、息づかいまでも伝わってくる。推敲を重ねたであろう文章の重みが、より深く理解できるのである。
文章をこのように書き換えた上で、自分なりに「どのように読むのがふさわしいのか。」、「どう読めば作者の心が聴き手に伝わるのか。」と悩みながら、作品分析を試みてみた。何をどう解釈すれば作品分析になるのか暗中模索であったが、まず、思いつくまま八つの項目を立て、文字を置いてみることにした。作者の意図に反する点も多いと思うが、まず、強引に自分なりに解釈してみた。
作品を読み、理解すると言うことは、作者の人生観・価値観を読み取っていく作業である。そして、解釈していくということは、自分自身の人生観・価値観に照らし合わせていくことだと思う。人は、「知っていることしか理解できない。」という。正に、自分自身が問われるのである。読みの深さは、自分自身の人生の豊かさに比例していく。
まな板に乗るのは、「作者・作品」ではなく、「自分自身」なのである。
                                   (つづく)
 
投稿者 [中 村 晴 重]  記事番号 [261] 投稿日 [2012/1/20]

『朗読原稿の分析』について  (続きの1/6)



中 村 晴 重

『朗読とは何か?』
この問いに答えることは、難しい。

 日常生活の中で、文字を声に出して読む機会は、ほとんど無い。新聞・書籍をはじめ、仕事上の書類など多くの「文字情報」を目にするが、大抵は「黙読」である。人に大事な話をする機会があると、必死に原稿を書いて、つい、それを「読んで」しまう。子ども達に「読み聞かせ」をした経験はあっても、「ただ読んだだけ」であったように思う。自分なりに、持てる知識を総動員して工夫をしたつもりではあるが、果たしてそれが「朗読」と呼べるようなものであったのか、はなはだ怪しい。「音読と朗読の違い」など、辞書的説明は理解できるが、解ったようで、結局、よく解らないのが実情である。
「朗読が上手になりたい。」と、単純な動機で朗読教室の門を叩いたものの、勉強するほど泥沼に入って行くような気がする。

「越中八尾 おわら風の盆 朗読会」に参加するに当たり、自分に割り当てられた作品をどのように朗読するのか、悩みが始まった。
 私の朗読する作品は、『60歳のラブレター』の中の一編で、380字程の短いエッセイである。しかし、それは、66歳の男性が、妻を看病し、その最期を看取り、独りで生活しながら、日々繰り返し頭をよぎる断ちがたい想いを込めて綴った『夫から妻へ』の『380字』である。テーマは重い。一つひとつの言葉の中に、二人の人生が詰まっているのである。その、わずか『380字』の中から、作者の人生を理解し、妻との生活を想像し、作者の妻に対する想いを読み取らなければならない。そして、読み取ったものを基に朗読し、聴き手に伝えなければならないのである。これは、神様でも不可能なことだと思う。しかし、それでも『朗読する。』のである。

 私の担当した作品は、文頭に掲げたものである。皆さんならどのように朗読されるだろうか。以下の稿は、私が『朗読とは何か?』と自問し、迷いながら進み、発表会当日をどのように迎え、そして、どのように「朗読」したのか、についての軌跡である。勉強不足や理解不足の点について、ご指導いただければありがたい。
                                   (つづく)
 
投稿者 [中 村 晴 重]  記事番号 [260] 投稿日 [2012/1/17]

 霊亀の社 (続きの5)

 本当を言うと私も心配してたのです、あれだけ私を可愛がってくれた帝ですから大勢の追っ手を遣わして無理やりにでも私を連れ戻しに来るのではないかとも思ったのです。でも杞憂でした、帝はわかってくれたのです。帝はおっしゃったそうです。
「どうにも仕方がない。その男を処罰したところで、今となっては姫宮を取り戻して都に戻すこともできない。それならば竹芝の男に生きている限りずっと武蔵の国を所領させ、税や賦役も免除することとしよう」
こうして私に武蔵の国を預けるということになったのです。男は私のために屋敷を皇居のように造ってくれました、穏やかな暮らしでしたわよ。子供も何人か出来たけど、男の子は武蔵の姓を頂いて栄えたのですよ。それに男も心得ていてそんな立派な屋敷も私が死ぬとすぐに取り壊して神社を建てたの、それが竹芝神社になったというわけ。そうそうこんな事があってから帝も懲りたのでしょうね、火たき屋には男を入れないで女を置くようにしたのですって。
 姫宮の長い話は終わりました。千年も前のおおらかな話です。
「そんなことがあったのですか、姫君も出来心が始まりとはいえ良い伴侶を得られて幸せでしたね」
「これが定めだったのでしょうね、宮中に生まれた種が武蔵の国に花を咲かせたのもそれなりの意味があるのでしょうね。あら、少しおしゃべりが過ぎたわね、ぼつぼつ帰らなければ」
「もうお帰りですか、またお会いできますか」
「そうね、あなたが翁と言われるようになったら、もしかしたらね」
二人はいつの間にか亀塚古墳の頂に座っています。海の方向に目を転じるといつもは出船入船で賑わっている芝浦の港も正月のこの日だけは静かな光を放っているようです。
太田道灌がこの丘の頂に創立した亀塚神社は江戸時代にこの丘の前を通る古代の東海道の反対側にあった二万坪の功運寺が明治維新とともに土地を取上げられ中野に移転した功運寺の跡地の一部、現在の土地に移されて今はありません。
「千年の昔もこんな風景だったのですか」
問いかけて振り向くとそこにはただ枯れ草をゆする風の音だけが通っていました。
「いい正月だ」背伸びをして立ち上がるとお雑煮の香りが鼻をくすぐります。
「いいかげんに起きなさいよ」母の声に気付くとまだ床の中、初夢の名残をもう少し楽しんでいたいな、受験勉強は明日から追い込みです。 
                             おわり
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [259] 投稿日 [2012/1/13]

 霊亀の社 (続きの4)

 男も驚いたでしょうが呼ばれたので恐れ入りながら欄干のそばにやってきたのよ。そこで「先ほど言った事をもういちど私に聞かせておくれ」って言ったの。そしたら武蔵の国から連れて来られたこの男は恐縮しながらも話してくれました。
 武蔵の国にいれば楽しく暮らせるのに、遠い京にまで連れてこられて宮中で火たき屋の衛士をしなければならない、どうしてこんなにつらい思いをしなければならないんだろう。私の国では七つ三つと造って置いてある酒壷に、さしかけて浮かべたひたえの瓢、瓢箪を二つに縦割りしたひしゃく、が南風が吹けば北になびき、北風が吹けば南になびき、西風が吹けば東になびき、東風が吹けば西になびくのを見ることも無くこんなことで毎日を過ごしているのだから情けない。
 この話を聞いて私の好奇心がみるみるふくれあがって、思いもよらないことを口走ってしまったの。
「私を連れて行って、それを見せておくれ。こんなことを言うのはそれだけのわけがあるんだから」
男は驚いたわよ、姫宮を連れ出すなんて恐ろしいことですからね。
それでも私の見込んだ男だけあって、あきらめがいいと言うか、運命に従ったというのか知らないけれど、私を背負って宮中を抜け出してくれたのよ。
この男は案外頭も良くてね、必ず人が追ってくることを予想してその夜は勢多の橋のたもとに私を座らせてから、この橋を柱一間分ほど壊して、それを飛び越えてから私を背負って一気に走ったので七日七晩目には武蔵の国に着いてしまったの。
 私の父母、帝と后は心配して捜してくれたけど、武蔵の国の衛士がとても良い香りのするものを首に引っ掛けて飛ぶように逃げていったという情報を聞いて使者を出したの。ところが勢多の橋が壊れていて先に進めず、三月目にようやく武蔵の国にたどり着いたのです。そこで私がこの使者を呼び寄せて、
「私はこうなる運命だったのでしょうか。この男の家が見たくて、私を連れて行けと言ったものだから、こうしてやってきたのです。ここはたいへん住み良く思います。もしこの男が処罰され、ひどいめに遭わされるのなら、私はどうしたらよいのでしょう。これも前世にこの国に住み着くという因縁があったからこそです。早く都に帰って朝廷にこの事を奏上して下さい」と言ったのです。
使者は私がこう言うのだからどうにもしようがない、ということで都に戻り、帝にそのままを奏上してくれました。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [258] 投稿日 [2012/1/10]

 霊亀の社 (続きの3)

 それから長い年月の後、太田道灌がこの台地に物見台(燈台)を置くにあたってこの祠を守護神として社を創立したので亀塚と言われるようになり、この丘が古墳と見られることから亀塚古墳といわれるようになったのです。
ようやく様子がわかってきました、なんのことはない子供の頃の遊び場なのですから。
「なるほど、そうすると芝浜坂というのは今の聖坂ですね」
「ようやくわかってきたみたいね、私も千年近くも眠っていたから景色はすっかり変ってしまったけどやっぱり懐かしいわね」
「そうするとあなたは本当に千年も前の人なのですか、それにお尋ねしたいのはあなたがどなたなのかと言うことなのですよ、まさか小野小町じゃないでしょうが、あっごめんなさいね、小野小町もこれ程かと思うようなお綺麗な方なんですが」
「無理しなくてもいいのよ、これでも私は宮中に居たのよ。だけど名前は無いの、この時代はね誰の娘とか言われるだけで本人の名前では記録に残されないてないのよ」
「宮中に居られたのならなおさらです、何故こんな武蔵の国にまで落ちてこられたのですか」
「それがね、ちょっとした好奇心からだから面白い話よね、実はね、この話の顛末が更科日記に書かれてるの」
 今はもう武蔵の国に入ってきた。特に景色のよい所も見えない。浜辺も砂が白くて美しいなどということもなく泥のようで、紫草が生えると聞く武蔵野も葦や荻だけが高く生え、馬に乗った人の弓の先が見えないほどです。その中を分け入って行くと、竹芝寺という寺があった。
 更科日記の記述はこうして始まるのですがこのご婦人、いや素性が分かってみれば帝の姫宮ですからこれからは恐れ多くも姫宮さまです、の回想をしばらく聞いてみましょう。
ある日のことです、私は一人で御簾のそばに出て柱によりかかってあたりを眺めていたんです。そうすると何となく耳に入ってきたのが御殿の前庭を掃いている男の声で、瓢がどうしたとか、どちらになびくとか独り言をいっているのです。それがなんとなく気になって、面白半分にその男に声をかけてみたのです。
普段はありえないことなんだけど、その時はちょっと変だったのね。御簾をかきあげると「そこの男、こちらへおいで」と声をかけたのよ。
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [257] 投稿日 [2012/1/6]

 霊亀の社 (続きの2)

 何が起こったのでしょうか、馥郁とした香りに呼び覚まされてあたりを見回すと香りの主は妙齢のご婦人なのです。
どうしたんだろう、神主さんにお祓いをしてもらって、寝床から出ようとは思ったのですが何しろ連日の夜更かし、大晦日は明治神宮に初詣のあと帰ってきたのが明け方で、昨日はまた従兄弟達とトランプのナポレオンが盛り上がり、ほとんど徹夜のレンチャンだから起きたくても起きられないのでした。どこかで「お雑煮を食べなさい」と言う母の声が聞こえたようなのですが、いつの間にか再びの白河夜船に身をまかせていたのでしょう。
 思いもかけないご婦人の出現に、粗相があってはと飛び起きたのですがそこで又驚きの連続です。
「あれっ、何処だここは」
「ほほほほ…」と鈴を振るわせるような笑い声の主は馥郁たる香りの主。
「あなたは?ずいぶん時代がかったお姿ですが、それよりもここは何処なんでしょう」
にこやかにこちらを見つめていたご婦人は静かに口を開いたのですが何を言っているのかさっぱりなんです。英語とかフランス語とかそんな種類の言葉ではないし、中国語や韓国語でもない。思いっきりゆったりとしたその言葉はそれでも何とは無く懐かしい響きを持っているのです。もしかしたら日本語?それもかなり古い時代の、そうだとしたら現代語バージョンに切り替えてもらわないと分かりません。
「あら、ごめんなさいね、私の時代の言葉で話したもんだから分からなかったのね」こちらの気持ちが通じたのか突然の現代語バージョンです。
「驚きましたね、いったいいつ頃の言葉なんです?それに私の時代の言葉ってどういうことなんです」
「ここはね、武蔵の国の竹芝というところよ、私は京の都からやってきたの、この先に坂があるでしょ、あれが竹芝坂、ここは竹芝寺の境内なのよ」
何を言っているのかわからないままにあたりを見回すと何となく見慣れた小高い丘が目につきます。
「あれは亀塚古墳に似てるけど、違いますか」
「よくわかったわね、私が死んだ後この地に建てられた芝浜寺にあった酒つぼの下に白い霊亀が住み着いたの。それをこの土地の人たちが神として祀り、和合豊熟を祈願したところたいへんな霊験があったのよ。それから何年かして大雨があった翌日に土地の人が参拝に行くと酒つぼも霊亀も石になっていたので人々は驚いて祠を設けて尊拝するようになったのね」     …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [256] 投稿日 [2012/1/3]

 霊亀の社 (続きの1)

                            溝口 浩
 昭和も二十年代の終わりともなれば東京の海岸線に近いこの街にも残されていた敗戦の傷跡が見えなくなり、貧しさは変らないまでも平和を楽しむ風潮は溢れていました。敗戦と共に盛んになったクリスマスともなれば子供達はサンタクロースの贈り物が待ち遠しく、若い大人たちは訳も無く盛り場に群れ集い、銀座などは新橋から当時尾張町と言われていた銀座四丁目あたり、それから有楽町方面に折れての数寄屋橋までは歩くのも容易でない程の混雑を楽しんでいました。今では信じられないことなのですが本当にそれだけが楽しみでただ訳も無く銀座にでかけて行く、そしてせいぜいが大混雑の喫茶店にもぐり込んでこの日だけのスペシャル価格といえば体裁はいいけれど、早い話が通常の何倍かのコーヒーを飲んでクリスマスという祭りを楽しんでいたのです。そんなことですから大学生の従兄弟についていってもただ銀座の人波にもまれて帰るだけ、大晦日もただ明治神宮にお参りして帰るだけでした。

騒がしい音とともに頭の周りを何かが飛び交っているような気配を感じて眼を覚ますと頭の上で白いものがサッサッという音を発しながら右に左に流れています。はっとして飛び起きると布団の上に正座をして頭を下げました。
 頭の上を右から左へ飛び交ったのは大麻(おおぬさ)というお祓いの道具で榊の枝に細く切った紙をくくりつけたもの、右から左へ振られてこれで終わりです。頭をあげると近所の亀塚神社の神主さんが白髭に埋もれた顔をほころばせています、1月2日の朝のことでした。
「よく寝ているからそのままでお祓いさせてもらいましたよ、おめでとうございます」
「ありがとうございます、今年は大学受験の年ですからよろしくお願いします」
寝たままでお払いを受けてご利益があるのかどうだかわからないけれど神主さんが請け負ったのだからお任せするしかないと観念してゆっくりと立ちあがります。神主さんはと見ればまだ隣で寝入っている大学生の従兄のお祓いにとりかかっていました。
 亀塚稲荷神社は現在の東京都港区三田四丁目、当時でいえば功運町、明治中期までは月の岬と言われた月見の名所である聖坂の途中にあります。1266年に建立した阿弥陀信仰を記した供養石があることから小さいながらも歴史を感じさせる神社ではありますが、三田の春日神社の末社にしかすぎません。氏子も少なく社前を通っても気をつけないと見過ごしてしまうほどの小さな神社なのですが、それだけに我々にとってはかなり身近な神主さんでもあったのです。                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [255] 投稿日 [2011/12/30]

風の盆朗読会(続きの8)



~疎水の音を聞きたくて         田中幸子    埼玉支部A

 八尾の旅では、素晴らしい蔭山先生の朗読、皆で頑張った「60歳からのラブレター」、富山市観光と楽しいたくさんの思い出ができました。とくに、風の盆恋歌の序の章に出てくる「疎水の音」を聞きたく、尋ね歩き、耳にした時の感激を忘れません。

~飾り気の無い温もり           久保田行江   埼玉支部A

 八尾の街はひっそりと優しく、飾り気の無い温もりで迎え入れてくれました。久しぶりにお聞きする先生の朗読の世界のヒロイン(?)になり、そしておしゃべりを満喫できた楽しい旅でした。

~艶っぽい作品で             根岸孝子    埼玉支部A

 蔭山先生の朗読会はさすがプロ
越中おわら風の盆にしっとり艶っぽい作品で、すばらしかったです。
おわら風の盆の踊りも間近で見ることが出来ました。又私も、朗読させて頂く事が出来て、とても良い勉強になりました。ありがとうございました。

                             おわり
*写真は富山市内、民族民芸村の五百羅漢②
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [254] 投稿日 [2011/12/27]

風の盆朗読会(続きの7)

~福袋                柳 宏子    埼玉支部A
 
わずか一泊二日でしたが大きな「福袋」をプレゼントされたようなとても楽しい、有意義な旅行でした。どうもありがとうございました。

~また参加したい旅でした       松井利江    埼玉支部A

 国際朗読ことば協会の八尾旅行、素敵な旅でした。参加された会員の皆様と親睦を深められたこと、つたない自分の朗読を聴いていただいたこと、そして何よりも蔭山先生の朗読を拝聴できたこと(それも物語の舞台で・・・)。
第二回朗読の旅があったらまた参加したいと思います。

~ピタリとはまった朗読        中村二三    埼玉支部B

 ずっと行ってみたいと思っていた八尾でした。先生の朗読は、あの八尾の町の雰囲気、たたずまい、空気にピタリとはまっているように思え、とても
“ステキ”でした。地元の方に風の盆の踊りも教えていただき感激しました。おどりでたっぷりと八尾の夜を楽しみました。ありがとうございました。

~深夜までも楽しみたい        大野寿美子    埼玉支部A

 帰宅してからCDを聴き、たどたどしい朗読に拍手を頂いた事に恥ずかしさと申し訳なさを感じました。風の盆は素晴らしく、深夜までも楽しみたいと思いました。

~胡弓の音色に酔って         下村良子     埼玉支部B

 水音の町八尾で、先生の朗読「風の盆恋歌」に聞き入り、街に出ては、越中おわら節の踊り、歌い手さんの歌声、胡弓の音色に酔い、風の盆をたっぷりと感じてきた八尾の夜でした。

                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [253] 投稿日 [2011/12/23]

風の盆朗読会(続きの6)



~地元ご婦人の好意         野崎千春     埼玉支部A

 八尾駅から「ぐるりんバス」で稲穂がこうべを垂れ始めた田園風景と水音、坂の町を眺めながら朗読会場に到着。
 朗読会は先生の「風の盆恋歌」の朗読に聞き入り感激冷めやらぬうちに会員による「60歳のラブレター」の朗読に入った。この読みがお客様にどう伝わったか不安な気分を引きずりながら「おわら風の盆」踊りの見物に出かけた。
 前夜祭というのに人出の多いのに驚いた。人ごみの中、やっとの思いで踊りを見る事が出来たが、想像していた雰囲気とちょっとちがうような気がした。
人ごみからぬけて下ってくると踊りの連から少し離れた一角で数人の踊り手が掛け声をかけながら踊っているのに出会い、我々の仲間の数人がそれに加わり踊りの由来や振り付けの説明を聞きながら踊った。なかなか経験できることではないので少し興奮した気分で集合場所に向かう途中、土産物の露天に立ち寄ったところ一人のご婦人がご自宅の玄関先まで案内して下さり、町の住居の由来やら特徴などを説明し、自分も若いころ踊り手として夜の明けるまで町中を踊り明かした経験などを話して下さった。そのご婦人の郷土を愛し、文化や風俗風習を後世に伝えて行こうという熱意に心を打たれた。
 翌日も好天に恵まれ、富山の歴史館などの見学を修学旅行気分であじわう事が出来た。
旅行を企画して下さった事務局のご苦労を思い感謝・・・・ありがとうございました。
                            …続く

*写真は富山市内、民族民芸村の五百羅漢①
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [252] 投稿日 [2011/12/20]

風の盆朗読会(続きの5)



~原稿読むのに精一杯       長藤 謙三    広島支部

八尾の町は、井田川に沿って三階建ての家並みが続いて見える坂の町、その情緒あふれる町並みは、少々窮屈なバスで、さっと通りすぎてしまうのはもったいない。もう一度、ゆっくりと歩いてみたいところでした。

山元食道を会場にした朗読会では、朗読の先輩方の中で、「60歳のラブレター」の一篇を読むという貴重な体験をさせてもらいました。自分なりに声にしようとして初めて気付くその作品の思いの深さやおもしろさに惹かれ、いっしょうけんめい練習しました。わずか数十秒の朗読とはいえ、私にとっては「朗読デビュー」となる緊張の一瞬です。もし、この手紙を書いた人がその場におられたら…。作者の思いを損なうのではないかと、申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになり、覚えていたはずの文章も頭の中からとんで、原稿を読み上げるのが精一杯でした。

蔭山先生のライブ朗読を初めて聴くことができました。しかも取り上げられたのは、まさにその地、そのときにぴったりの『風の盆恋歌』です。
何も構えることなく、自然で淡々とした、それでいて無駄もすきもない語り方。深いところへ、きちんと納まるような朗読でした。
先生の朗読の中で、風の町、水の町、八尾のもの静かで奥深い情趣を味わうことができたような気がします。

たまたま通い始めた朗読教室でしたが、もっともっと「朗読」というものを知りたい。自分もまた、ほんものの朗読ができるようになりたい。そのためなら自由に使える時間の全てをかけてもいい、そんな気持ちにさせられた越中八尾の朗読ツァーでした。

                            …続く
*写真は風の盆の踊り
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [251] 投稿日 [2011/12/16]

風の盆朗読会(続きの4)



~踊り手の指先に感動        友光春枝    埼玉支部A
 
八尾の旅は同行させていただき、本当に良かったと思っております。
朗読には参加いたしませんでしたが、皆さんの朗読は無理なく、とても柔らかく読まれ、あの場の雰囲気に合った素晴らしい発表でした。勿論、先生の朗読は素晴らしく、胸に来るものがありました。
 私は、以前読んだ「風の盆恋歌」から八尾の町の情景を想像しておりましたが、正に思い描いていたものと同じようでした。
昼間の町並みを歩いていると、どこからか水音が聴こえ、各々の家の玄関や格子戸の内にはさりげない季節の花が飾られており、しっとりとしたたたずまいの町並みでした。昼は観光客も少なく、ぼんぼりの飾られた家並みをのんびり散策できました。夜の賑やかさとは対称的でしたね。でも夜の踊りも素晴らしかったですね。女性の踊る姿はとても美しかったですが、私は男性(若者)が指先をピッと伸ばして踊る姿に特にとても感動しました。町中で伝統を守っているのだなということを強く感じました。
 とに角、八尾はたった数時間の滞在でしたが想像していた以上に感動でした。
二日目もまとめて富山のいろいろを見学できて、とても楽しく良かったです。
お土産もついついたくさん買ってしまいました。それにしても松先生がくるくるとよく動いていただき、面倒を見てくださったことがお疲れだったことと感謝しております。
 この旅ではたくさんの方にもお会いできました。私は朗読には参加せず便乗組みで申し訳けありませんでしたが、本当に楽しい富山の旅でした。

~実りある「合宿」でした      川西千加子    埼玉支部A

 先生の朗読を近くでじっくりお聞きでき、感動しました。また、拙いながら、同じステージで自分も参加できたこと。風の盆では、地元の方々と小っちゃな輪をつくり一緒に踊ったこと。富山の観光等々。今でも、心温まる思い出です。
 そして、何よりも先生方をはじめ、会員の皆様との尽きないお話「おしゃべり」が最高でした。 「合宿」・・・すてきですね。松先生の温かいご配慮に感謝いたします。楽しい旅を有難うございました。
                             …続く
*写真は八尾街中の夫婦地蔵
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [250] 投稿日 [2011/12/13]

風の盆朗読会(続きの3)



~「また、訪れたい異空間」         古家洋子   銀座教室

「富山はこんな町を隠し持っているんだ」
これが私の八尾の町並みに対する第一印象です。
江戸時代に迷い込んだかのような町屋と呼ばれる家並み、それを繋ぐ急な石段。
昔日の繁栄を物語る料亭に、寺院の前の蓮の鉢植え。ただの地方の田舎町では到底あり得ません。
 そんな町並みの一角にある町屋食堂を一軒借り切って、今回の朗読会は行われました。
会員の方々が各々個性溢れる朗読を披露。私も新参者ながら参加させていただきました。
そして、本場で聞く蔭山先生による「風の盆恋歌」。さすがに圧巻でした。
街と言葉が共鳴するとでも言うのでしょうか、ステージで聞くのとは異なった音色を感じました。まさしく一夜限りの「八尾言霊ライブ」です。

夜は街流しを追いかけて、皆で道から道へ走り回りましたね。
伝統芸能と呼ぶには余りに幻想的な音と踊りに、時の経つのも忘れて最終電車に駆け込む羽目になりましたね。
駆け足行脚もとっても良い思い出です。

町並みと音、富山の豊かさに現実を忘れた2日間でした。
また、あの異空間に包まれたいと来年のイベントを心待ちにしている私です。

最後に
運営からガイドまでこなしていただいた蔭山先生、事務局長。
撮影、時々引率まで担当していただいた溝口様、中村様。
本当にありがとうございました。次回も宜しくお願い致します。

                              …続く
*写真は八尾の街中②
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [249] 投稿日 [2011/12/9]

風の盆朗読会(続きの2)



~八尾追慕             藤原政恵    埼玉支部A 
 
しっとりとした蔭山先生の朗読“風の盆恋歌”を聞いた後、微熱めいた余韻に浸りながら、提灯の明かりの道を胡弓に泣いて流されてゆく。
先生によって今宵明確に息づかされた人物。私は今誰の思いを抱いて歩いているのだろう。土地の方々の親切さと仲間達の愛に包まれて輪になって踊るうち、静かに狂おしいものが込み上げてきた。妙に人恋しくなった一夜でした。
“あれが風の盆だった!” 連れて行って下さって本当に有り難うございました。

~水の音がきこえる         三浦和子    八王子支部
 
初めての八尾でした、水の町八尾ということでとてもたのしみにしておりました。水の音がきこえる~想像もつきませんでした。着いた日、町を少し歩きました。どこからともなく水の音が聞えてきました。何か心が洗われるようなきれいな水の音に胸うたれました。
 又、夜にみた男女の踊り、特に男女一人ずつ少し高いところに立って踊ったり。私は初めてよくみる事が出来ました。男踊りの手の仕草、とてもつやっぽく、すばらしく思いました。
 私の勝手で次の日体調を悪く早く帰していただきました。水の音と踊り、しっかり聞き、見させていただきました。大変たのしい八尾の旅でした。

                              …続く

*写真は理事長の朗読
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [248] 投稿日 [2011/12/6]

風の盆朗読会(続きの1)



 「おわら風の盆」は毎年9月1日から3日にかけて富山県八尾の11の町内で行われています。この3日間には、全国から20万人もの人がこの町を訪れるという大きな行事なのです。また8月20日から30日までは、前夜祭として毎夜、各町が交代で“町流し”と“輪踊り”をおこなっています。
 そんな町でのNPO法人国際朗読言葉協会の八尾朗読会は、その“風の盆前夜祭”に併せて8月27日に開かれました。蔭山理事長の朗読は高橋治の「風の盆恋歌」、その後は会員の皆さんによる朗読「60歳のラブレター」、長い歳月を共に過ごしてきた夫婦のラブレターと不倫の話を取り合わせた朗読会は「人生を語り、味わう」のにふさわしいテーマだったのかもしれません。
 ところで“おわら風の盆”はどのようにして始まったのでしようか。一説によると元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建お墨付」を八尾の町衆が町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。どんな賑わいもお咎めなしということで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など、鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら、仮装して練りまわりました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、台風の厄日とされる立春から二百十日目の9月1日から3日に行われるようになったのです。
 踊りについては豊年踊りと新踊りがあって、豊年踊りは農作業の動作を踊りにしたもので誰でも楽しめる踊りです、また新踊りとは男踊り(かかし踊り)と女踊り(四季踊り)に分かれる。男踊りは農作業を表して勇猛に踊り、女踊りは蛍狩りを表現して艶っぽく、上品に踊るのが良いとされています。
                               …続く

*写真は八尾の街中①
*写真は溝口 浩の撮影によるものです
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [247] 投稿日 [2011/12/2]

2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの7)







2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記(続きの7)

 翌、8月28日(日)。
朗読が終わった安心感からか、熟睡し気持ち良く目覚める。美味しい料理とお酒のお陰で体力・気力とも充実。天気の週間予報では雨の心配があったが、予想以上の晴天。今日は、富山市内観光。遠足気分である。都合で先に帰られた方と別れ、総勢20名。
事務局長、松先生のお薦めスポットは、「富山市 民俗民芸村」。昨日の朗読会では司会進行を一人で務め、今日は、バスガイドさんのように参加者を引率する。富山駅前から市内循環バスに乗り、民俗民芸村へ出発した。
 8月28日は、まだまだ陽射しがきつかったが、日陰に入った時の風は心地良かった。見学の途中で椅子に座わると、そのまま一眠りしたくなるほどであった。朗読発表を終えた安堵感が、一層、吹き抜ける風に安らぎを感じたのであろう。まずは、陶芸館の前で記念撮影。その後、考古資料館、民芸合掌館、民俗資料館、篁牛人(たかむらぎゅうじん)記念美術館等、園内の各施設を見学した。移築した古民家や民俗資料も素晴らしかったが、中でも、越中富山の薬売りに関する資料を集めた「売薬資料館」は、富山ならではのものであった。昼食を挟み、ゆっくりと民俗民芸村を満喫した。
 富山駅前で解散した後、近くのショッピングセンターでお土産を買う。地酒、ホタルイカ、風の盆グッズ等、色々買ったが、一番のお気に入りは、『風・風人
(ふうど)』と染め抜かれたTシャツである。
 多くの想い出を胸に、帰路についた。今回の朗読会で読ませていただいた「60歳のラブレター」を我が身に置き換え、「男の華・女の華」である60歳、70歳を、「人生の華」としての80歳・90歳につなげるように、これからも朗読の道に邁進したいと思う。さらに、「風の盆恋歌」のような出会いがあってもいいのではないか、などと不埒な思いも抱いた今回の「越中八尾 風の盆 朗読発表会」であった。
 蔭山先生、松事務局長をはじめ、一緒に朗読会を支え、盛り上げてくださった多くの方々に感謝しながら、「朗読会 顛末記」を閉じさせていただく。

 ※ なお、今回の朗読会の模様は、DVD(溝口さん制作)、CD(中村制作)として記録してあります。機会があれば、ぜひご視聴ください。詳細は事務局にお尋ねください。
                         おわり        
                              中村晴重
* 写真1は7つの有料施設を全て見学
* 写真2は当日の模様を録音したCD
* 写真3は民族民芸村 陶芸館の前で記念撮影
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [246] 投稿日 [2011/11/29]

2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの6)



2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記(続きの6)


風の盆を満喫し、八尾の駅に帰るバス停に集まったが、ここで、ハプニング勃発。
バス停で並んでいたが、人数が多過ぎて我々の手前でバスは満員になってしまった。「ここから後ろの方は、次の便にしてください。」という無情の言葉。JRに乗り遅れたら、ホテルに帰れなくなる。不安が走る。
何せ、大所帯である。余裕を見て、JRの最終便ではなく一つ前の電車を予定していたが、バスが最終便となると電車も最終便である。八尾の駅では乗車券を買ったりして乗り換えの時間が足りないかも知れない。事務局長の発案で、先発隊がタクシーで八尾駅に行き、先に全員の乗車券を買っておくことにした。
バス停にいた係員は、「バスの最終便が満員になると、乗れない可能性もあります。」と、物騒なことを言う。さらに、「これだけの人数なら、一つ前のバス停で待っていた方が、間違いないですよ。」とますます不安を煽る。
「一つ前のバス停は、西新町の踊りの会場のすぐ横手です。」という案内を頼りに、全員が移動することにした。バス停はすぐに分かったが、まだ踊りの真っ最中。この混雑の中をバスが通れるのかと、不安になる。「バスが来なかったら・・・」、「最終便の電車に乗り遅れたら・・・」と、不安が膨らむ。
しかし、不安は杞憂であった。5分前には会場に置いてあった物を含め、きれいに片づいてしまった。ついさっきまで溢れるほどの人混みだったのに、それも幻だったかのように、静かな通りに戻っていた。バスは予定通り10時にはバス停に着き、人のまばらな通りを走り始めた。
「運転手さん、JRの最終便に乗るから、間に合うように急いでくださいね。」とお願いすると、運転手さんは、「大丈夫ですよ。電車も分かっていますから、置いて行くようなことはしませんよ。」と、笑いながら言った。不安で緊張していた我々も、一気に和やかな雰囲気になった。「風の盆」のもつ魅力の一端に触れたような気がした。
最終便のJR電車の中は、「風の盆」の興奮が冷めやらず、賑やかな話し声で溢れていた。
                              …続く


*写真は越中八尾駅 富山JR行き最終便
 間に合ったので、この余裕。
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [245] 投稿日 [2011/11/25]

2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの5)









2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記(続きの5)


8時になった。楽しい時間は過ぎるのが速い。美味しい料理やお酒にも未練が残ったが、8時から風の盆の踊りが始まるというので見物に出かけた。全員がまとまって行動する予定であったが、人が予想外に多く、すぐに見失いバラバラになってしまった。
20日から30日までの前夜祭の期間中、各町内が順番に踊るそうである。27日の夜は、西新町と東新町の二つの町内が当番であった。幸い、二つの町は、朗読会場からすぐ近くであった。人が集まっている所を目指していくと、すでに始まっていた。見物人も一緒に踊ることができるそうであるが、私は気後れして、大勢の見物人の輪の外から写真を撮る事に専念した。「おわら風の盆」の全体像を見たわけではないが、二つの町の踊りは十分に「風の盆」の雰囲気を感じさせてくれた。
                           …続く

* 写真1は東新町の町流し
* 写真2はかわいい子供たちも踊っている
* 写真3は西新町の輪踊り
* 写真4は西新町の踊り
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [244] 投稿日 [2011/11/22]

2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの4)









2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの4)

続いて、各地の朗読教室会員による朗読発表会、「60歳のラブレター」である。「夫から妻へ」、「妻から夫へ」と、内容は様々であるが、直接には言いにくいことを、手紙の形で伝えている。
私が朗読したのは、66歳の男性の書いたもので、病死した妻への断ち切れぬ思いを絞り出すように叫んでいる作品である。暗唱できるまで読み込んだつもりであるが、余裕は無く本番はあっという間に過ぎてしまった。聴かれた方の心に、作者の想いが届いたであろうか。他の方の朗読を聴いていると、自分より遙かに上手に感じる。まだまだ修行が足りないようである。
マイクを次々と手渡しながら、緊張の中で朗読発表が進んだ。今回の読み手は次の17名(教室名)である。
① 下村良子 (埼玉B)
 ② 中村晴重 (広 島)
 ③ 松井利江 (埼玉A)
 ④ 田中幸子 (埼玉A)
 ⑤ 中村世津子(埼玉B)
⑥ 久保田行江(埼玉A)
⑦ 藤原政恵 (埼玉A)
⑧ 長藤謙三 (広 島)
⑨ 三浦和子 (八王子)
⑩ 中村二三 (埼玉B)
⑪ 古家洋子 (銀 座)
⑫ 根岸孝子 (埼玉A)
⑬ 野崎千春 (埼玉A)
⑭ 北山秀子 (埼玉B)
⑮ 川西千加子(埼玉A)
⑯ 大野寿美子(埼玉A)
⑰ 松 みき
 最後は、事務局長に締めていただき、朗読会は終了した。

 続いて、聴きに来てくださった方とご一緒に、懇親会。朗読が終わるまでは緊張していたので、お酒の味は、また格別。大いに盛り上がった。富山名物の料理とお酒を堪能した。
                             …続く
*4枚の写真は懇親会で笑顔が弾ける会員の皆さん
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [243] 投稿日 [2011/11/18]

2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの3)



2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの3)
                        
 
いよいよ、朗読会である。
まず、会場設営をする。蔭山先生の朗読用の席を作り、パソコン、プロジェクター、テープレコーダー、スピーカーなどを設置する。朗読に映像とBGMを合わせて、新しい朗読の世界を感じていただこうという趣向である。会場が準備できると、リハーサル。立つ場所、礼のタイミング、次の人へのマイクの渡し方、退場の仕方等、全員で確認する。初めて人前で朗読する人や、初めてマイクに声を通す人もいて、リハーサルにも緊張感が漂う。蔭山先生も、マイクテストとBGMの音量調整のためにリハーサルを行う。さすがに我々とは違い、余裕がある。

朗読を聴きに来てくださるお客様の席を用意し、準備完了。
13名のお客様が集まられて、いよいよ朗読会の開始。
事務局長は、挨拶、進行、マイク調整、BGMの音出し、映像の送り出しと、大奮闘。特に蔭山先生の朗読の時は、約40分間、効果音、BGM、映像等を次々と替える大仕事。照明を落とした暗い会場で、会場脇の狭い所に身を隠し、朗読原稿に合わせて次々と音と映像を切り替えていく。途中で、手元を照らすロウソクが燃え尽きて無くなったので大変。暗がりの中で必死にライターの火を頼りにテープカウンターの数字を読み取って、間違えないように音出しのタイミングを計る。
そんな舞台裏とは関係なく、蔭山先生の朗読は参加者の心を捕らえ、時間の経つのも感じさせず、『風の盆恋歌』は佳境に入る。情景描写、心情描写、年齢差のある男女のセリフなど、絶妙の間合いで作品の心を伝えている。
「不倫の話はどうも・・・・」という蔭山先生のお言葉ではあったが、“風の盆の最中”に聴く『風の盆恋歌』は、やはり味わいが深い。蔭山先生の生の朗読を聴く機会はあまり無いので、得難い体験であった。
                             …続く
*写真は リハーサル中の蔭山先生
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [242] 投稿日 [2011/11/15]

2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの2)





2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの2)


駅前から町の循環バスで、会場に移動する。座席が15程度の小さなバスである。いつも利用するお年寄りのために、前の席を五つほど空けて欲しいとのことであった。普段はその程度の利用者しかいないようである。20名余りの団体で乗り込んだので、半数は、バスの後ろで立つことになった。バス代は均一料金で、65歳以上は100円、65歳未満は200円。もちろん自己申告である。100円出すか、200円出すかで、大いに盛り上がった。私は、当然200円の組である。

発車時刻の関係で遠回りする循環バスに乗ったので、はからずも「八尾の町めぐり」のようであった。街の通りの両側にはぼんぼりが立てられ、それぞれに町の名前が書いてあった。時間はかかったが地図の町名を見ながら「今、ここを走っている。」と、町探検を楽しんだ。
 会場の山元食道に到着。緊張の中でリハーサルを行う。いよいよ朗読会の始まりである。次回は、朗読会・懇親会の様子をお伝えする。
 なお、“風の盆”についてもっと知りたい方は、ネット等で検索されると詳しく紹介されている。
                             …続く
*写真1は 循環バスに乗って会場へ

*写真2は 本番直前、会場の山元食道の前で

 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [241] 投稿日 [2011/11/11]

2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの1)



2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの1)

                             中村晴重

“おわら風の盆”は、毎年9月1日から3日にかけて八尾の11の町内で行われている。この三日間には、全国から20万人もの人が八尾の町を訪れるという大きな行事である。また、8月20日から30日までは、前夜祭として毎夜、各町が交代で“町流し”と“輪踊り”を行っている。それぞれの町の踊りには特徴があり、各町がその練習の成果を競い合っている。前夜祭にも多くの人が訪れ、各町が趣向を凝らした“風の盆”を楽しんでいる。
 今年の八尾の朗読会は、その“風の盆前夜祭”に合わせ、8月27日に実施することになった。過去3度、八尾の地で朗読会があったそうであるが、4度目にして初めて“風の盆”に合わせた朗読会となった。もちろん、蔭山先生の朗読は、高橋治の小説『風の盆恋歌』である。
 私は、広島教室で朗読を学び始めて3年目。ようやく朗読の楽しさが分かり始めたばかりだ。そんな私も、先生に誘われて初めて朗読会なるものに参加することになった。銀座、八王子、埼玉など各地の朗読教室生徒さんが16名も集まられると聞き、緊張する。朗読作品は、『60歳のラブレター』である。
 “風の盆”の熱気にあふれる越中八尾の町で、「60歳を過ぎた夫婦のラブレター」と、「不倫の話」を取り合わせた朗読会は、「人生を語り、味わう」のにふさわしいテーマであったかも知れない。

朗読会の後は街に出て、“風の盆”を見学する予定も入っていた。私は、富山県への旅行も初めてなので、朗読会に参加する緊張感と、“風の盆”を見学する期待感の中で当日を迎えた。
新幹線とサンダーバード号を乗り継ぎ、約5時間かけて富山に到着した。自分の朗読する原稿ばかりが気になって、沿線の景色はほとんど記憶にない。東京方面からの参加者は、列車の都合で予定より少し遅れて到着。昼過ぎには、全員が富山駅前のホテルに集合した。全員が揃ったところで、荷物をホテルに置いて八尾に移動。JRの越中八尾駅は、小さな駅舎であった。普段は、利用者も少ないのであろう。
                             …続く

*写真は石垣の坂が印象的な八尾の町
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [240] 投稿日 [2011/11/8]

感じし事を(続きの12)

 誰かに助けられたといえば忘れてならないことがあるんです。それが又私には全然記憶に無いことなんだから始末にわるいんですけれど。話は長男の嫁に聞いてそうだったのかと納得してはいるんですけれどね、話はこうなんです。
七十五歳で胃がんの手術をしてから五年たって、娘たちにハワイまで連れて行ってもらったりしてすっかり元気になったようでした。ところがそこに落とし穴があったんですね、今度もまた娘たちに連れられて長野の善光寺にお参りして帰ってきて三日目ぐらいでしたか、なんとなく朝から気分がすぐれなかったんですよ。午前中に来てくれた義姉のヘルパーさんが一時過ぎになんとなく私のことが気になったらしいのです。午前中にさよならを言ったときの様子がどうもいつもと違う、そんなことで念のために我が家をのぞいてみたら私が倒れていたというわけですぐに救急車を呼んでくれたんですね。脳梗塞は三時間が生命線だと言いますけれど、たぶん倒れてすぐに病院に運び込まれたから特にこれといった後遺症も無くてこうして元気に過ごしています。もしもヘルパーさんが気に留めてくれなかったら、いまこうしていられるかどうか、ヘルパーさんには感謝しきれないものがありますよね、こんなふうにいろんな人に助けられて卆寿の坂を越えることが出来たんですからね。。

 ころぶなと常に子等に言われしが今日は卵を持ちてつまずく

 裏山の松は伐られて山肌の見るにさびしく枯草の風

 短歌はむつかしくてね、先生がちっともほめてくれないので長男に愚痴をいったりしたんですけど、自分の感じた事を素直に詠もうと決めてから投稿する歌壇に入選するようになって張り合いがでてきました。

 添い寝せし孫は寝言に我呼べりながき睫よ何を夢みむ

 腰病める我を思ひて風呂洗ふ孫の仕草もたどたどとして

 七草の揃はぬ粥をすすりつつ新所帯の孫の正月思ふ

 道路掃く我に一礼しおはようと頬赤き子は声をかけゆく

  そろそろ疲れてきました、最近は人とお話をする機会が無くてね、こんなに長くお話をしたのは久しぶりなんですよ。それでも楽しかった、いろんなことを思い出させてくれて、ありがとうございます。
これでもう少し生きられるかもしれませんね、そうそう義姉の百歳まではまだ六年ありますからね。                     
                                おわり

                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [239] 投稿日 [2011/11/4]

感じし事を(続きの11)

生かされる命

 そんな時代から四十年の月日が流れて私たち夫婦も義姉と一緒に静かに暮らせるようになってきた頃で世の中はバブルとかで騒がしいけれど私たちには縁の無いことでした。静かな時が流れているだけのようで私も短歌を習い始めたんです。

 レザーの音ジージーと立つに安堵する恙なき夫の今日のはじまり

 連休に心待ちする子等は来ず落花掃きつつ猫によびかく

 子供会のお手玉作りをたのまれて軽々進む袋縫ふ手は

 公園の空きカン集めて腰のばす一日一善わずかなれども

 引き出しの隅に残れる一束は香港よりの長男の文

このままの時間が流れてゆけばいいなと思ってましたよ、でもね世の中は思い通りにはいきませんね、八十も半ばに近づいた主人が入院してしまったのです。この頃は病院も完全介護ではなくて家人が付き添わなければならないから私も病院に泊り込みました。もちろん子供や嫁たちも交代で泊り込んでくれたけれどどうしても私が主体になるわけなのですよ。そんなある日に先生からとんでもないことを告げられたんです。主人を診てくれている先生が貧血気味の私を調べてくれたら何と胃に大きなガンがみつかったの。すぐに子供たちに連れられて築地のガンセンターで胃の三分の二を取ったんだけれど一週間の入院の間主人が寂しがったそうでかわいそうだったけどしかたないですよね。無事に退院したらすぐに主人のもとに駆けつけたけど本当に嬉しそうな顔をしていました。私のことを待っていたんですね、それからすぐに旅立ってゆきました。
 
 ガラス戸に落つる結露は臨終の夫の悲しき点滴に似る

 私のガンは七センチもあってもう少し遅かったらリンパ線に転移していたらしいのです。主人に付き添っていたから先生に貧血を疑われて、それでガンがみつかった、主人のおかげで助かったのかもしれません。   …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [238] 投稿日 [2011/11/1]

感じし事を(続きの10)

戦後のこと

 食糧事情は戦時中よりもかなり悪くなって何でも配給です。その配給がまた途絶えがちなものでとても足りるものではありません。今だったら足りないですよと言って騒げば政府がなんとかしてくれるようですが、この時代は自ら確保しないと飢え死にしてしまうのです、だから買出しですね。この頃は目黒の碑文谷に住んでいたと言う事と、戦前は小田急線沿線に土地勘があったので登戸から東林間の方に行ってました。当時はものすごいインフレでお金の価値などは無いみたいなものですから農家も品物を持ってゆかないと食料を分けてくれません。食料といってもサツマイモが主ですがこれを着物と換えてもらうのです。ところが農家も足元を見て出し渋りをするものだから苦労しました。
 もちろん農家はお米をもっていますけれどお米は買えません、統制品なので帰りの列車の中で警察官に見つけられると没収されてしまいます。それでもお米を子供たちに食べさせたい一心でサツマイモの下に隠して持ち帰ったこともありましたよ。

 スーパーに食材あふれる今の世に時々思ふ戦後の粥食

 三陸の鰹手に入るぜひ来いと迎えをよこす嫁はやさしく

 野菜高七草粥も品足らずすずなすずしろのみでまかなふ

 佃煮にせんと摘み取る山椒の実鳥の餌にといささか残す

 一番目の短歌にある粥食なんですけどね、いまどきのヘルシーなお粥と違ってサツマイモの方が多くてお米が芋の間に見え隠れしているようなものだから寂しいものでした。この頃は調味料にも苦労しましたよ、塩だって海塩が無くて岩塩だったり、特に醤油の無いのには困りました。一時は朝も晩も野菜炒めで、隣家の人から「おたくは野菜炒めが好きなのね」などと言われたりしたけれどソースしかないから煮物なんかは出来なくてどうしても野菜炒めになってしまうのですよ。物不足のこの時代には醤油の原料である小麦や大豆が不足して作るのもままならないうえに、本醸造の醤油は製造に一年もかかったので簡単には手に入らなかったのです。
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [237] 投稿日 [2011/10/28]

感じし事を(続きの9)

 それから少しの時もおかずに超満員の車内に善意の輪が広がりました。
息子たちのそばにいた男性が「坊やいくよ」と言いながら次男を抱き上げると隣のおじさんに渡します、「ぼくも一緒だね」と長男も抱き上げられて隣の人に、こうして暖かい空気に乗った空中リレーは天から舞い降りるように二人の息子を私たちの手元に戻してくれたのです。次男はともかく長男は一年生でも大きなほうですから重かったと思うのですが、嬉しいことでした。
ところでこの戦時の旅なのですが主人はなるべく近いところに居て欲しいからだと言ってましたがどうにも納得がいきません。最近になって長男が連合軍の戦後処理情報をつかんでいたのではと言い出しました。軍需産業で景気のよかった主人ですから軍部接待の折に色々な情報が入っていたでしょうし、何よりもあの時期に列車のキップがよく取れたなと思うのです。
 敗戦時に連合軍が作っていた四カ国による日本分割統治計画によると北海道と東北がソ連で、関東、中部、近畿をアメリカ、中国地方と九州がイギリスで四国は中国でした。この計画が日の目をみなかったことはなんといっても幸せな事だったのですが別に九州は中国統治の案もあったようです。その当時はドイツの四カ国による分割統治が実施されていたので当然考えられることだったのです。そんな風に考えると生涯家族と生き別れになると心配した主人が戦時の旅を強行した意味が分かってくるのですが、そんな話は妻にも出来ない時代だったのですね。

 つるされし風鈴にふれ日記書く手もとはげまし風は過ぎゆく

 戦時の旅は神戸から名古屋を経て甲府にいたり、最終的には山梨県の石和に落ち着きました。石和は桃の産地ですからよく食べさせてもらいましたけれど食料全般に豊かかというとそうでもなくて子供たちに食べさせるのに苦労はしましたが、お米が少ないといっても大豆はあるので大豆をご飯に炊き込んだりしてそれなりの物はたべられましたよ。そうそう玄米を一升瓶に入れて棒で突きながら七分米にするのは長男の仕事でしたね。それから大豆を金槌で叩いてやわらかくするのもやってくれましたね。
 石和には敗戦後しばらく住み続けたのですがその年の暮れになると東京もようやく落ち着いたので帰ることになりました。嬉しかったですね、久しぶりに姉に会えるし、台湾の姉一家も帰ってくるという話ですからたのしみにしていました。                        …続く

 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [236] 投稿日 [2011/10/25]

感じし事を(続きの8)

 今から思えば敗戦まで二ヶ月もなかったんですけど、六月の終わりに突然主人がやってきたんです。会社の工場が疎開している山梨にこれから行こうと言うのですから驚きました。だってそうでしょ、空襲の激しい道中を子ども三人連れて、しかも一月半前に生まれた長女はまだ首も据わってないんですよ。
いやだともいえないのでついてゆくことにしたのですが迷惑といえば迷惑な話でした。
 戦時の旅は別府から船で神戸に着きました。この日から三十二日の後に広島に原爆が投下されるなんて誰も思ってはいませんでしたが、ぐずぐずしていたらどんな災難にであったかわかりません。神戸では空襲を受けた列車がひどく遅れてずいぶん待たされました。駅前の広場に大勢が座り込んで列車の到着を待っているのですが周りには戦災孤児たちの群れが鋭い目を光らせています。
おむすびを食べていた長男に孤児の一人が近づいてきました、長男はお結びをもったままぼんやりと孤児を見ています。突然真っ黒な手がお結びを狙った瞬間、私の手が長男のお結びを取上げていました。何事が起こったか理解しかねている長男が私を見上げています。よかったねと小さくつぶやいて小さく笑顔をみせるしかありませんでした。
何時間も待ってやっと到着した列車は超満員で子供連れでは乗れそうもありません。すると突然でした、主人が子供二人を窓から車内に押し込んだのです。びっくりしました、もしも私たちが乗れなかったら子供たちはどうなるんだろうって、もう気になるばかりで何が何でもと赤子を抱いたまま列車のデッキに押し込まれました。とても無理だと思った乗り込みは列車が動き出すとともにゆすられて隙間が出来てなんとか親子三人のスペースが出来たのですが、そうなると気になるのが二人の息子、背を伸ばしても見えるものではありません。たしかに窓から押し込んだのだからこの車内にいるのは確かなのだろうけれど顔を見るまでは安心できません。背の高い主人に様子を聞いてもわかりません。それが突然のことで一瞬何のことかわからなかったのですが「うまうまちょうだい」と聞きなれた声が聞こえました、次男がおなかが空いたときに訴える声なのです。すかさず主人が叫びます「いま、うまうまちょうだい、と言った子をこちらによこしてください」、驚きましたねこちらにといってもどうやってこの満員の車中を移動できるのでしょう。
 
朝毎に投げやるパン屑待ちきれずガラス戸つつく影絵の雀

…続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [235] 投稿日 [2011/10/21]

感じし事を(続きの7)

 大分市街も危ないということで小さな峠をひとつ越えた村に移ったのは三月の終わりでした。長男も一年生だからどうせ田舎に引っ越すのなら初めからその土地の国民学校に入ったほうがいいだろうというのもこの時期を選んだ理由でした。
 この頃の生活は都会に比べれば食料に困るということもなくて、大家さんの食事会に呼ばれて手打ちのうどんをごちそうになったり、お米にも別に困ることはなかったっですね。長男の話ではお弁当はみんながお米のご飯を持ってきているようだったし、この時期にしては恵まれていたのでしょうね。そんな環境の中で長女を出産できたのは幸いでした。長女の出産を機に東京に残っていた主人の姉が大分に帰ってきて子どもたちの面倒を見てくれるから私も楽でした。
 この義姉は私たちの結婚以来同居をしている人なので少しお話をしておきますと、二十代で亭主を亡くした義姉が主人を養子にしてそこに私が嫁入をしたというわけなので戸籍上は義理の母ということになっているのです、ややこしいでしょ。そんなことだから次男が生まれると長男は必然的に義姉が面倒見るようになったのですよ。それはまあありがたかったけれどちょっと困ったことになってしまったの。姉は長男に自分のことを大きい母ちゃん「おきかあちゃん」、私のことを小さい母ちゃん「ちいかあちゃん」と呼ばせはじめたんです。ちょっとひどいと思ったけれど義姉は家長だから文句も言えなくて、いやでいやで仕方なかったですよ。だから長男が幼稚園に入る前日に「うちのちいかあちゃんがね、なんて言ったらみんなに笑われるよ、今日からはお母さんて言いなさいね」と言い聞かしてそれから母の地位を取り戻したというわけ、がまんんも長い時間でした。
 そんなことがあったからといって義姉との仲が悪くなったことは特にはなかったですね。戦後の食糧難の時代には買出しなどは積極的に引き受けてくれたし、ずいぶんと世話にはなったと思います。主人が亡くなったあとも義姉がいてくれたからずいぶん助けられましたよ、そして百歳まで足以外はどこも悪いところ無しで生き延びたんだからたいしたものです。

 語るべき人も居まさぬ雨の日は樋より落つる音を友とす

 最近は気が弱くなって「私もぼつぼつ」などというと長男が「百歳まであと六年あるよ」などといってくれる、義姉の年まで生きましょうかね。
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [234] 投稿日 [2011/10/18]

感じし事を(続きの6)

 でもね、それでも空襲から命を守られたことだけは確かですからね、戦災孤児になってしまった子どもたちが、仮に都会に残っていたとしたらほとんどが親と一緒に死んでしまったはずだから結果としては良かったのですよ。だから今回の原発事故で真っ先に子ども達を強制疎開させなかったのは何故だろうって思うんですよ、少なくとも福島県の児童は全員他県に避難させなければいけなかったのに政府の対策は全く逆なんですからね。この時代を知らない政治家や官僚だから温古知新の考えが全く無いのですよ。子どもたちがかわいそう、これから何かと気に病みながら生きていかなければならないだけでも大変なことなんですよ。原爆投下の日に広島に居たというだけで結婚を断られたというような悲劇だけはくり返さないでもらいたいですね。
 私も小学校前の長男と次男を連れて疎開しましたよ、もちろん主人は仕事があるから東京に残りましたけどね。私一人が行くといっても大分には親も居るし兄姉や義兄たちもいるから心配はありませんでしたね。ところがちょっと困ったことがあってね、主人が私の姉のご主人に疎開の話を報告に行った時のことなんですよ。主人が疎開の話をすると「お前たちは非国民だ、東京でがんばれないのか、どうしても疎開するのなら兄弟の縁を切る」とまでいわれたのですよ。この方にはいろいろな事でお世話になっているのだけれど、さすがに主人もこれだけは受け入れられないので「結構です」って啖呵を切って帰ってきたんだけど悲しいことだったわね。それでも戦争が終わってみればそんな話は霧のように消えて、元の親しい姉妹のままで過ごせたんだから一時的な病気みたいなものだったのかもしれませんね。
 大分に帰ってみると東京でやらされていた防火演習なんか全く無しでのんきなものだったわね。それでも婦人はもんぺをはくのが強制されていて、私が着物のまま長男を連れて阪東妻三郎の「法松の一生」を観に行ったときには交差点で交通整理をしていた巡査に「外出にはもんぺをはく」としかられたわよ。
そんなのんきな時代がいつまで続くわけもなくて、豊後水道に侵入した空母から飛び立った艦載機が大分航空隊を攻撃しながらついでに我々の民家にも機銃掃射を浴びせる空襲が始まりました。警戒警報が鳴ると長男と次男を抱えて庭の防空壕に飛び込みます。やがて空襲警報が鳴るか鳴らないかの感覚で機銃掃射のカタカタカタという不気味な音が頭上を通り過ぎてゆきます、生きた心地なんて全くありませんでした。

 古棚に残れる息子のハーモニカ過ぎし日思い「故郷」を吹く
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [233] 投稿日 [2011/10/14]

感じし事を(続きの5)

 ところが空襲警報も鳴らないのに飛行機の爆音がするんですよ、不思議に思って庭に出てみるとはるかに高い空を爆撃機がゆうゆうと飛んでいるじゃありませんか。とりあえず次男を抱いて防空壕に入って飛行機を眺めていると長男がのんきな顔をして帰ってきました。長男が無事に帰ってきたので余裕も出来たのか知りませんけれど、飛行機を眺めていたのですがこれが米軍機だとは半信半疑だったですね。そのうちに高射砲陣地からの砲撃が始まったのでやっぱり米軍機だと納得したのですが、一万メートルの高度を飛ぶ米軍機まで高射砲の弾が届かなくて途中で放物線を描いて落ちてゆくんですよ。それに日本の飛行機が迎撃しないのも不思議なことでしたね。こうして悠々と帝都を偵察した米軍のB29は太平洋上に去ってゆきましたが、それからしばらくして日本の戦闘機が何機も飛び回っているのみると、今更なによ、と悔しくなりましたよ。
 この時の防空壕が今から思えば漫画のようなもので庭に穴を掘ってそこに大阪から引っ越してきた時の大きな木箱、六尺に四尺くらいあったかしら、そんな箱を埋め込んだだけですから屋根なんかないんですよ。だから雨が降ったら水が溜まってしまって、もちろん排水溝なんか考えてもいないから溜池ですね。それでも防空壕には入るように指導されているから木箱のふたを小さめにして浮かべたんですよ、五右衛門風呂の変形みたいでおかしかったわ、のんきな時代でしたね。
もちろんそんな時代がいつまでも続くはずもありません、七月にサイパン島が陥落すると東京が空爆の日帰りコースになって、しばらく続いた偵察空襲のあとに東京も空襲の危険が大きくなって小学生は疎開することになったの。地方に親戚や知人のいる家はそこに疎開して、それが無い家の子は集団で強制的に長野や群馬などの村に連れていかれたのですよ。それも子どもたちの安全を願うというよりも将来の兵士を枯渇させないための処置だからひどいといえばひどいものなんですね。経験者たちの話ではひもじい思いをしたのが深刻で、畑に盗みに入って捕まったり苦労したらしいのですよ。引率の先生だってひどい人がいてね、配給される食糧をピンはねして自分の家族に食べさせたり、生徒の一人があの先生だけは絶対に許せないと喜寿に近い今でも怒ってますよ。食べ物の恨みは恐ろしいことですね、そんな先生はほんの一部の人に限られていたんでしょうけれどね。とにかくみんな狂っていたんですよ、お国の為にとかいいながら結局は自分の為に動いていた人なんていくらでもいたんですからね、今も昔も変わりはないですよ。
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [232] 投稿日 [2011/10/11]

感じし事を(続きの4)

こうして話がばたばたと決まって五ヵ月後の十一月にはもう嫁入りだから私も流れに流されただけという感じだったわね。ただ私も気になってたんだけど嫁入支度するお金が無いのよ、父にはもうそんな力はないし、どうするのかと思ってたら四番目の姉が支度の一切を賄ってくれたの、ありがたいと思ったわ。私は姉たちに助けられてここまでこれたとつくづく思ったわね。   

 四番目の姉のご主人には女学生の頃からずいぶんかわいがってもらったわ、義兄はその頃は珍しいカメラを持っていたから私をモデルにずいぶん撮ってくれたんです。おかげであのころの写真がたくさん残っているのはありがたいことだわね。四番目の姉夫婦にはその後もいろんなことでずいぶんお世話になりました。

 故郷の海をしのべば思はるる亡き姉の歌海よめる歌

 仏前にこのみずみずしさを供えんと故郷に送る千葉の香水

 千葉の香水というのは千葉県名産の梨、八月中旬から下旬が旬の「幸水」のことを言っているのですけどね、姉はいつも喜んでくれていたようですよ。

 妙法蓮華経ととなえまつりて早朝の清き流れに供物を託す

 結婚式は大分市内で挙げたんだけど母の姿が見えなかったのは残念でしたね。父はもちろん出席したのですがちょうど台湾の姉のところに行っていた母はこの日のために帰ってくることはなかったんです。なぜ母が台湾に行ったのかはもう忘れてしまいました、何か理由があったんでしょうけれどね。

戦中のこと
 そんなことで結婚してからは夫の出征とかいろいろあったのですがほとんど忘れてしまって、そうねえ、戦争中のことなら少しは覚えてるわね。
昭和十九年(1944)の夏だったかしら、警戒警報のサイレンが鳴ったのでさっそく身支度をを始めました。身支度といってももんぺの上にゲートルを巻いてズック靴を履くだけなんですけど、それだけで身が引きしまる思いでした。幼稚園に行っている長男のことが気になったけれど、ぼつぼつ帰ってくる時間だし警戒警報だからたいしたこともないと思ってました。…続く   
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [231] 投稿日 [2011/10/7]

感じし事を(続きの3)

 こうして一人だけ残された私が両親とともに移り住んだのは近所の裏長屋だったわ。二階建ての四軒長屋でね、二階が六畳一間で一階が六畳と三畳、母はいつも静かに繕い物なんかをしている人だし、父は仕事も無いのでぶらぶらしていて好きな人形浄瑠璃なんかを観に行ってたわ。私は近所の加藤米店のアキちゃんと友達になって毎日遊んでてね、楽しかったわよ。アキちゃんとは生涯の親友になって、ここに来る前からの親友だったハルちゃんと一緒に長いおつきあいになったけど二人とも先に逝ってしまったわね。

 芋の葉に転がる瑠璃の露の玉集めて歩く七夕の朝
 
 九十までなほ生きゆかんと友に言ひ電話を切れば膝のふらつく

 朝顔の種くれし友は急逝す種ふくらみて芽吹くこの朝

 それから何年かしてこの長屋を出ることになったの、台湾の姉が新しい家を建ててくれたのよ、嬉しかったわね。私ももう小学校の五年生になってたから姉の気持ちが心に滲みたわ。そして何よりも嬉しかったのは台湾に避難していた二人の姉が帰ってきたことなの、新しい家が出来たからみんなで住めるようになったのよ。兄だけは台湾に残って台北旧制高校から台北帝大に入ってその後は毎日新聞の記者として敗戦まで台湾にいることになったんだけどハンサムで私の自慢の兄だったわ。

 楚々と咲く水仙の群れに木漏れ陽のゆらぎて光る早春の庭

 それから何年か経った頃の話だけど、いつの間にか二人の姉たちもお嫁に行ってしまって、また両親と二人だけの生活になっていたある日の事だったわ。女学校を卒業して間もない頃だったわね、思いもかけない人が訪ねてきたんです。市内で乾物問屋を手広く商っているお内儀さん、すぐに義母になる人よね、が突然我が家にやってきたのよ。普通は仲人をたてて静かに事を運んでくるのだけれど、この人の場合はいきなりやってきて娘さんをいただきたいというんだから驚いたわね。後で聞いた話だけど破産した家の娘を嫁にとることについてはかなりの反対があったらしいの、それでも義母だけは「破産したとはいえこの家に育った娘なら間違いは無い」といって譲らなかったらしいのよ、嬉しい話よね。                      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [230] 投稿日 [2011/10/4]

感じし事を(続きの2)

 九州の大分は豊後水道を隔てて愛媛と向き合う温暖な気候に恵まれた豊かな土地です。今ではブランド品になっている関あじ、関さばに城下かれいをはじめとした海産物、かぼす、干ししいたけなどの農産物がこの土地に彩りを与えてくれています。この土地に生まれ、一代で財を築いた祖父には男の子が生まれなくて、仕方が無いので二人の娘に養子を迎えて事業を継がせたのです。
次女である母に婿入りした父は製糸工場を受け継いだのですが経営にはあまり熱心ではなかったようなのですが、それでも私の生まれる少し前から生糸の輸出が急増して糸の値段が暴騰したんです。だからもうその頃はたいへんな景気でしてね、大きな屋敷には築山もある大きな庭もあって、姉たちは優雅な毎日を送っていたらしいのですよ。ところが私にはそんな記憶は全く無いのです、私だけ本当に損をしているみたいで悲しくなってきますよね。
 そんな優雅な時代を私が味わう事が出来なかったのにはわけがあるんです。ちょうど私の生まれた大正六年(1917)のことなんですが長野県諏訪市から片倉製糸と大和製糸が県内に進出してきたんです。大和はその後廃業してしまいましたが片倉はいまでも片倉工業として栄えている大資本ですから大分の中小製糸工場が太刀打ちできるはずがございません。悪いことに大正九年(1920)になると第一次世界大戦後の世界的大不況が経済恐慌になって、全国で倒産が続出するようになったらもう父の会社なんか持ちこたえられるはずもありませんわよね。そしてその上にですよ、本業だけならともかく相場にも手をだしていたんですから工場はもちろんのこと家屋敷まで全部はぎとられてしまったものだから私たちはこの家を出て行かなければならなくなったんです。
 この当時の我が家はお嫁に行った三人の姉と家を出ていた長男は別にして、あとに残されていたのは五人の子供たちと両親ですから七人の大所帯です。これから借りようという六畳二間の裏長屋に住めるわけがありません、だから台湾にいる二番目の姉のやっかいになろうとしていたのですが、姉もたいへんなお荷物をしょいこんだものだと思いますね。
 台湾の姉は大分県から初めて御茶ノ水大学に行った才媛でね、女学校の頃に姉の家庭教師を務めていた林房雄さんとのラブロマンスは後に著名な作家となった房雄さんの「美しき南の国」にくわしく書かれているんですけど、そんな姉はこの時台北女子師範の先生をしていたんです。それから姉のご主人は北大農学部を出て台湾総督府農林専門学校(後の台北帝国大学理農学部)の教授をしていて、私たちみんなの生活が姉夫婦の肩にかかってしまったんです、私たちだけじゃなくて両親の生活費もですよ、姉夫婦にはもう感謝してもしきれないほどなんです。                      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [229] 投稿日 [2011/9/30]

感じし事を(続きの1)

                             溝口 浩
幻の台湾
 旅立ちの朝だというのに心がはずむなどということは全くなくて、それよりも胸の奥底に重たい石を抱えているようなうっとうしい空気が流れていました。それも私だけではないんですよ、兄姉たちもみんな黙りこくったままだし、母は何かを言いたくてもいえない苦しさに耐えているようでした。こんな時にはみんなの中心にいて、元気付けてくれなければならないはずの父は奥の部屋にこもったきりで出てくる気配もありません。そんな空気を察してか空もまたどんよりと曇って、いまにも泣き出しそうでした。
 ぼつぼつ出立しなければならない時間なのに誰も動き出す勇気が無くて、ただうつむいているだけの兄姉たちだったのです。四歳の私は泣き出したいのを我慢してじっと足元の小石をにらみつけていたんですよ。だってそうするしかなかったんですもの。小さな女の子が母の元を離れて海の向こうに出かけてゆく、いくら二番目の姉が連れて行ってくれるといっても寂しさと悲しさで小さな胸は引きちぎられるようでした。一緒に行くことになっている二番目の兄や四番目、五番目の姉たちも本当は行きたくないんですからね。でも行きたくないなんて絶対に言えないことだったんです。
 何だかわかりませんが押しつぶされそうな緊張感が続いていました。二番目の姉が必死でこの緊張感を破るように口を動かそうとした時でした
「みんな行ってしまうんかい」
母の搾り出すような声が降ってきます。
「末ちゃんだけ残そう」
二番目の姉のとっさの声が私の体を包んでからす~と消えてゆきます
末ちゃんって、私のことだけど、残そうって、私はどうなるの、行かなくてもいいの? 真っ白になった頭の隅で四歳の女の子はぼんやりと何かを感じ取ろうとしていたのですが、ただ時間だけが流れてゆくのでした。
 
 この姉の一言が私の人生を決めてしまいました。その後どうなったのか全く覚えてはいません、気がついたときには兄姉たちはみんな行ってしまって、がらんとした広い部屋の中に母と二人だけ座っていました。
「末は残ったのか」
奥の間から出てきた父がいつもと違ったやさしい声音で声をかけてくれても、何の感興もありません。ただ母と一緒にいられるというだけの安心感の中に身をゆだねていたのでした。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [228] 投稿日 [2011/9/27]

地形の旅人(続きの47)



ちなみにこの歌は作詩者不詳であるが後に神保信雄が作詞し、「山男の歌」としてダークダックスの最大のヒット曲になった。
~娘さんよく聞けよ山男にや惚れるなよ 山で吹かれりやよ若後家さんだよ~

「武夫とここに来たことがあったな、あの時は紅葉が盛りだった」
この時期の伊豆山では紅葉にはまだ少し早い、巳之助は紅葉が見たくなった。
「箱根はもういいかもしれない、豊川様にご挨拶に行ってくるか」
三菱財閥の大番頭であった豊川良平の妻が箱根の宿に滞在しているという事は聞いている。良平が亡くなってからかなりになるが奥方は健在で四男に嫁を世話してくれた。
「もう一年になるか」
四男は去年の十一月十四日に式を挙げたから丁度一年になる。婚儀のご挨拶は済ませているが武夫の事でも心配をかけた。
「気持ちが静まったところだし、ご挨拶に伺うか」
初島に白い波が寄せている。
巳之助は立ち上がるといつものように胸を張って宿を出た。

                               おわり

                              溝口 浩
*写真は巳之助が撮影した雲崗の石仏

 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [227] 投稿日 [2011/9/23]

地形の旅人(続きの46)

この時から巳之助は興味を持っていたのだが訪ねる機会に恵まれなかったのである。雲崗への道中は次男に無理を聞いてもらったおかげで軍が協力してくれた。巳之助は雲崗石窟の巨大な石仏を前に武夫との長い会話を楽しんだ。
帰国すると休む閑も無く最後の仕事が待っている。巳之助は大別山の石を持ち帰った。大別山の超高圧で変成された大きな石、これをもって深川の正覚院に鎮魂碑を建立したのである。碑の脇にはこれも現地から持ち帰った八本の樹木が植えられた、巳之助は古希の坂を越えた。
 
 翌年の十一月十九日、巳之助は伊豆山にいる。伊豆山は熱海と湯河原の間にある地味な温泉地だが海岸近くにある「走り湯」が有名だし、伊豆山神社などの名所もあって贔屓の客も多い。伊豆山温泉の象徴である走り湯は約千二百年前の養老年間の発見といわれ、わが国でも珍しい横穴式源泉が山腹から海へ向かって噴出している。
 巳之助は十六日に投宿して四日間柏の間に泊まっている。宿は萬兆閣相模屋文作という長い名前だが千人風呂旅館として名が通っていて何度か投宿しているのでゆったりと疲れをほぐしてくれるのだが、それでも古希の坂を越えた巳之助はさすがに疲れがとれにくい、最近の五年ほどはいろんなことがありすぎた。
「お勘定をここに置かせていただきます」
出立を告げると部屋付の女中が勘定書きを置いて出ていった。
勘定書きが風で動いた、部屋代は一泊八円、十七、十八日は昼の席料が一円づつ足されている。上の酒を二合づつ飲んだ、十八日には調子が出て一合追加した、一合五十銭。十七日はビールを追加した、七十銭である。毎日十二銭の牛乳を飲んでいる。勘定書きの尻を見ると新聞代、サービス料込みで三十八円八十七銭、白米十キロ三円二十六銭の時代である、現在の金に換算するといくらになるのだろうか。
初島の向こうにうっすらと伊豆大島が見える。ぼんやりと海の彼方に目を泳がせていた巳之助の耳にかすかな音が届いてくる。
~娘さんよく聞けよ…..~
江田島の海軍兵学校生徒が歌う「巡航節」である。
「武夫がよく歌っていた」
~娘さんよく聞けよ 生徒さんに惚れるなよ 沖でドンと鳴りや 若後家よ~
「武夫も若後家を作ってしまったな」
結婚生活をいくらも経験していない嫁のことを思った
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [226] 投稿日 [2011/9/20]

地形の旅人(続きの45)

次男の手紙は本論に入る。
「往路は福岡、上海、南京、漢口の間を空路がよろしいでしょう。慣れないと疲れるかもしれませんが、それでも日数が短いからずっと楽だと思います。少なくとも南京、漢口間の往路は空路がよいと思います。船ではこの間で六日かかるのです、帰りは下りで四日です。夜は停船するのでそのくらいかかるのです」
長江(揚子江)には上海、南京、漢口、重慶など十三の貿易港があって日本郵船や大阪商船の出資した東亜海運の船が運航されている。夜間は航行しないというから危険があったにちがいない。話は具体的な手続きに入ってゆく。
「渡航制限が相当厳重なようですが渡航許可は海軍省からでも手を回してもらわないと、相当困難だと想像します。南京や漢口にも知人がおります、南京には総司令部第十五軍に渡辺三雄技師殿が居ります。まだ揚州、杭州は知りませんが近くその地へ行くつもりです。往路は上海に迎えに出たいと思います。上海は過般来軍人に対するテロが激しいので軍人の単独行動を禁じられております、もし行き違ったら蘇州駅で出張所の今村と聞き、電話されれば誰か迎えが出ます。ただ、秋の方が私の行動としては自由になるかもしれません」老齢の父を慮った細やかな配慮が行間ににじんでいる。
「道中で色々なことがあると思いますが、いざという時に無理を聞いてもらえるように普段からそれなりの手は打ってありますからご安心ください。荷物は出来るだけ軽くすること、ひとつがよろしいでしょう。旅館は一泊最低十円(朝食つき)と踏んでください」
細々とした話が続いた、日付は四月六日である。手紙を封に戻した巳之助はひとつうなずいてから以代に手紙を渡した。
「次男も元気のようだ」
巳之助は九月に大陸に渡った、次男の敷いた路線に従って埋葬地を訪れ八人の戦士にジュラルミンの塊を遺族に届けたことを報告した。李先林父子にも面会して謝辞を述べた。次男の心配りが実ってか軍も協力してくれて思いを達することが出来た。しかし欲が出た、武夫ともう少し一緒の時間を過ごしたい、巳之助は雲崗石窟を訪ねたいと思った。
 雲崗石窟は北魏が現在の大同を都とした460年ごろから彫り始め都を洛陽に移した524年を中心に彫り進められ、その後も続いたので隋や唐時代の仏像もある。石窟は東西一キロに及んで五十三の石窟に五万を越す石仏が彫られている。東京帝国大学の伊東忠太教授が明治三十五年(1902)に調査をして、その文化的価値を発表した。                 …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [225] 投稿日 [2011/9/16]

地形の旅人(続きの44)

 その日のうちに東京向島に宮川三空曹宅をも訪ね、土日を利用した遺族歴訪が始まった。遺族歴訪だけでも六十九歳の身にはこたえるが、その先に大陸への渡航が待っている。好きな酒を止めた、血圧を下げる薬を飲みながら養生にはげんでいる。
 二十五日には桜井兵曹長を茨城県筑波町に訪ね、三月四日山梨県韮崎に阿部二空曹の遺族宅を訪問した。続いて五日に山中三空曹宅の遺族を茨城県見栖町に弔し、十二日には岐阜県明知に堀一整曹宅を訪ねてひと段落ついた。さて問題は樺太である、奥地三整曹を訪ねて樺太の敷香に向かうつもりで父上に手紙を出したのだが連絡がつかない。後にわかったことだがこの手紙は樺太と札幌の間をさ迷っていたのである。この時期桜井兵曹長の父は札幌に出張中であったが、旅先で脳溢血のため急逝した、重なる不幸に巳之助は声も出ない。大陸渡航は迫っている、健康にも自信が無い、樺太はあきらめざるを得なくなった。

「お父様、お待ちかねのお手紙ですわよ」
次男の妻以代が巳之助に声をかけた。次男は次男(つぐお)という、自分宛の手紙ではないが大陸にいる夫からの便りである、息災でいることを知るだけでも嬉しい。
「おう、そうか、お前宛でなくて悪かったな」
軽い冗談を言いながら巳之助は封を切った。中支那派遣第三十野戦部郵便局気付登部隊森田隊蘇州出張所からの軍事郵便である。次男は鉄道省の職を捨てて志願し陸軍士官としてこの地に渡っている。巳之助は自らの考感詣でを次男に託していたのである。
「父上のご計画は進捗中ですか、考感行きの計画が出来ました」
巳之助の頬が紅く染まる。
「お歳のこともあり又各方面の治安のてんもあり、成るなら私が代わって参りたいのですが植木のことがあるので、また支那鳥瞰図の事もあり代われないわけでしょう」
巳之助はこの鎮魂の旅の総仕上げとして深川の正覚院に碑を建立し、その脇に現地で採取した八種の樹木を植えたいと計画している。また遠く中国まで行くからにはその雄大な景色を得意の鳥瞰図で表現したいと考えているのである。次男はそれだからこそ自分が身代わりとはいかないことを残念がっている、日本軍がこの地を制圧しているといっても中国は広い、面で制圧しているわけではなく点で制圧しているに過ぎないから常に危険に向き合っているといわざるを得ない、次男が心配するのも故なきことではない。      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [224] 投稿日 [2011/9/13]

地形の旅人(続きの43)

 宮川勝治三空曹を仮埋葬してくれたのは現地に住む李先林父子と二人の中国人であった。一部始終を見ていた四人は宮川三空曹の遺体を見つけると危険を冒して土中に葬ったが、ここに悲劇が起こった。李父子はすぐに逃亡して陸軍の庇護を受けたが残る二人は中国軍に捕らえられ漢奸として銃殺された。
 情報が少しづつは入ってくるようになった。今村家とは近親にあたる松野貞夫主計中尉が、現地近くに出張した機会を利用して、陸軍部隊に護衛されながら一月六日に現地の墓標に到着し八人の英霊を慰めた。更に松野は危険を承知で宮川三空曹の遺体を埋葬してくれた李先林父子に感謝の言葉を述べて、軍隊が持参した塩二俵を贈った。
 勝見捜索隊が収集した機の残骸は焼け爛れてジュラルミンの塊になっている。この塊の一部が木更津航空隊に送られてきた事を知った巳之助は、木更津を訪れてこれを貰い受けた。この塊の中に八人の魂が込められている、巳之助は八人の遺族を歴訪する決意を胸にした。先ず一月二十九日に今村家の菩提寺である深川正覚院で一周忌の繰上げ法要を執り行うと残骸の塊を八っに分け、白木の箱に収めた。巳之助の遺族巡礼が始まる。 
 二月十九日の夕刻、白布で蔽った小さな四角の包みを胸に抱いて逗子桜山の「得猪寓」と門標のあがった玄関先に立ったのは巳之助である。鶴子未亡人と実母の静子、それに二人の幼い忘れ形見に迎えられると真っ先に中佐の霊前に額ずき、持ってきた木箱を備えたとき巳之助の目に霊前に供えられた軍帽が目にはいった。
「坊!この帽子は坊のだね」
「ウーム、それはお父ちゃんの」
「オ、そうか、坊はえらい、おじいちゃんは間違えちゃったよ」
子供を相手に冗談を言った後未亡人に向き直った。
「中佐殿や倅やみんなが飛行機と一緒にえらい勢いで燃えて、天に燃え上がっていったのでしょう、この塊の中に一人いるか、五人いるか、八人全部いるのか~とにかく一番大きいのをこちらへ持って上がりました」
「人間は・・・」
夫人がフト何か言いかけて黙った。
 駅までの道中で巳之助は取材の新聞記者に語った。
「樺太出身者が一人ありますのでそこへも行かねば気がすみません。この遺族歴訪の延長として秋にはぜひ大陸に渡り、考感の現場をも弔う予定です。アッハッハ、女々しい爺の心根を笑ってください」
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [223] 投稿日 [2011/9/9]

地形の旅人(続きの42)

 巳の助の三男武夫は明治四十四年(1911)五月十日に渋谷区千駄ヶ谷で生まれた。東京府立第四中学校(都立戸山高校)を卒業の後海軍兵学校第五分隊に属して広島県江田島に駐していたが、中国大陸に移動して南京の飛行場にいる。南京は長江流域華南の中心地で十四世紀から十五世紀にかけて世界最大の都市であった。首都であったことも十指に余る。
 四月二十六日、今村武夫大尉の操縦する九六式陸上攻撃機は得猪治郎中佐指揮のもと南京基地を単機で飛び立った。密雲垂れ込める日を選んでの奇襲攻撃であったという。地図で見ると上海から西へ七百キロほどの漢口市の北、十六キロの位置にある考感飛行場への空爆である。得猪機が近づくと迎撃のため六機が舞い上がってきたが、難なくこれを撃墜した後、飛行場を爆撃して帰路につこうとしたその時であった。突然上空に避難していた一機が急降下、攻撃に転じてきたがたちまち得猪機に撃たれて墜落状態になった。ところが不幸にもその敵機が得猪機の翼端に衝突し、敵機はそのまま墜落していったが得猪機もまた操縦がむつかしくなり、ふらふら状態で飛行を続けた。これを見た残りの敵機が襲い掛かり、得猪機はこれに応戦して三十分にわたり交戦したが遂に敵地の空に華と散った。
巳之助が一報に接したのは翌日である。
~現地航空隊上坂司令の報告によれば昭和十三年四月二十六日、密雲を利用、考感飛行場の奇襲を決行すべく得猪指揮官は攻撃力優秀なる今村機を選抜し、勇躍基地を離陸して目的方面に飛翔したるまま帰隊せず~
生死の程はわからぬまま四月二十九日に外国通信記事が「激戦のうえ地上に突入し壮烈な最期を遂げた」ことを告げ、これを知った巳之助は家族に武夫の戦死を告げた。
 六月二日所属鎮守府において盛大な合同葬が執り行われ家族親族多数が出席した。式の後巳之助は空柩を捧げて家郷に向かった。葬儀はあらためて自宅で執り行われたが祭壇には遺骨はおろか一筋の髪も無い。
 武夫の戦死から半年がたったが遺体も発見されず詳細もわからない、わかっているのは全爆弾を投下した後敵戦闘機と激戦を交え、搭乗八人が全て壮烈な死をとげた事だけである。それでも調査は続けられていた。十二月十七日考感方面警備の陸軍藤江部隊が考感の北東十五キロの地点に墜落機があり、搭乗員は現地中国人の手で仮埋葬されているとの情報を得た。さっそく得猪機乗員の分隊長であった勝見五郎大尉を指揮官とした十六名からなる捜査隊は十八日未明に現地に急行した。現地に到着して仮の墓を掘り返してみると宮川勝治三空曹の遺体だけが現れた。遺体は直ちに火葬に付された。    続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [222] 投稿日 [2011/9/6]

地形の旅人(続きの41)



 北海タイムスの記事はなおも続く。
「今村氏は六月初旬に渡道し、同月末まで一往復乃至二往復の実地見聞を行い、七月初めから約一ヶ月かかって下図を書き上げた。これを札鉄局に送って承認を得た上本図に取り掛かったのが八月上旬、以来六十八歳の老齢に鞭打って毎日役所を休み、東京渋谷区千駄ヶ谷の自宅に引き篭もって精進すること一日二十時間に及びようやく完成をみたものである」
これに対して巳之助は嬉しそうにインタビューに答えている。
「ようやく三巻の表装と索引一部が出来上がって、残る一巻だけ表具屋に出していますが、十七日には全部完成するので十八日に発って札幌に持参する心算でいます。日時が無かったので毎日二十時間も老骨に鞭打ってようやく完成しほっとしているところです」
 大役を終えた巳之助は上野の鈴本を覗いた、金原亭馬生が出ている、巳之助は以前から目をつけているがしょっちゅう名前を変えるし全くうれない噺家なので偶然の出会いでしか聴けなかったのだが、馬生になってからは一皮むけたようにうれだしている。この男は人情噺に見るべきものがあるのだがこの夜は「替わり目」をやった。この時期に人情話を聴く客などほとんどいない、不況で笑いだけが求められている。「替わり目」は笑いをとる噺である、いつも酔っ払って帰る亭主が今夜もべろべろに酔って帰り、どうしても酒を飲ませろという。さんざん押し問答が続くがこのやり取りが馬生は絶妙である。根負けした女房が酒の肴におでんを買いに行くのだが、それまで威張っていた亭主が独り言で「あんないい女房はいない、いつも感謝してるんだ」などと本音をはく、ところが出かけたと思った女房がまだ家にいることに気づいてあわてるという噺である。巳之助も大役からの開放感もあって大いに笑った。金原亭馬生は三年後に五代目今古亭志ん生を継ぐ。ちなみにこの年の二月二十六日に起こったクーデター、いわゆる二・二六事件で警視庁を占拠した麻布の近衛歩兵第三連隊に柳家栗之助が一兵卒として加わっていた、この男が後の人間国宝五代目柳家小さんというのも面白い。
二年近くが過ぎた、昭和十三年(1938)三月にはナチス・ドイツがオーストリアを併合して欧州は一触即発の状態にあり、アジア大陸でも戦火が広まっている。四月には国家総動員法が公布され、総力戦を遂行するため国家の全ての人的、物的資源を政府が運用できる旨を規定された。経済の戦時経済化が急務であったので経済の統制化が図られたのである。         …続く
*写真は「昭和天皇北海道行幸ご説明鳥瞰図」下図のうち室蘭付近の図
  彩色されていないのが残念です。
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [221] 投稿日 [2011/9/2]

地形の旅人(続きの40)

 巳之助の沿線行脚が始まった。それぞれの路線を一往復、又は二往復して沿線の風景をスケッチしながら脳裏に刻み込んでゆく。六月も終わりに近くなって沿線の見聞を終えた巳之助は札幌の宿で札幌鉄道管理局長の山下と対座している、藻岩山の麓の宿には梅雨を知らない北海道の薫風が流れ込んでくる。
「四巻に分けた巻物にしたいと思うんですがね」
「巻物だとご説明し易いですね、門鉄からも説明しやすい素晴らしいものだったと聞いていますので大船に乗った気持ちでいますよ」
門鉄とは昨年の陸軍大演習で説明図を作った門司鉄道管理局である。
「概略なんですけどね、一巻目は室蘭から滝川まで、第二巻は滝川から旭川を経由して帯広までにします。それから第三巻は帯広から釧路を経て根室までにするんですが、問題はその後がややこしいルートなので迷ったんですが第四巻は帯広から大樹間、下富良野から滝川間、そして岩見沢から小樽へとこんな区分けにしたいと思っています」
「なるほど、それならばご説明し易いですね、ところでいつ頃完成しますか」
「それが悩みの種なんですよ、巻物となると表装もしなければなりませんからその時間も見なければなりませんからね、それでもなんとしても間に合わせないわけにはいきませんから何とかやってみますよ。陛下の室蘭ご入港は九月二十四日ですから遅くとも二十日までにはお届けしますよ」
 帰京した巳之助の奮闘が始まった。スケッチブックには山や谷はもちろん街や工場の様子も描き込まれている。これをもとにして下絵を描いたがこれからが大仕事である。本番は絹の布に描く、もちろん極彩色に色づけされる。時間が無い、不眠不休が続いた、六十八歳の身にはかなり辛い。
 鳥瞰図は三万三千分の一の縮図になっていて一キロが三センチの割合になっている。これを幅九寸(27㎝)長さ九十五尺(28.5m)の絹地巻物に収め、四巻に分けてそれぞれを表装し苦心の労作は完成した。この間の経緯を昭和十一年九月十七日付の北海タイムスは次のように報道している。
「行幸御道筋を描く光栄の鳥瞰図四巻 今村翁の謹作成る」と大見出しのあと
晴れの地方行幸に際し室蘭ご上陸から小樽でご上艦迄の陸路ご乗車中沿線の事情を山下札幌鉄道局長から親しくご説明申し上げることになっているが、このご説明材料として札鉄の依頼で鳥瞰図を鉄道省嘱託今村巳之助氏の手許で謹製中であったが、十七日をもって立派に完成するので今村氏が携行、十八日夕べの急行で上野を発ち渡道の上札鉄局に届けることになった」
札幌鉄道管理局だけでなく北海道のマスコミもこの鳥瞰図の完成をかなり気
にしていた。                     …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [220] 投稿日 [2011/8/30]

地形の旅人(続きの39)

 昭和四年五月、三年の嘱託期間を過ぎて巳之助を迎え入れてくれたのは鉄道省である。鉄道省としては好き好んで迎え入れたわけでは勿論ないのだろうが、規模は小さくてもまさに「天下り」でそれなりのメリットがあるのだろう。それにしても話題の天下りがこの時代からしっかりと根付かされていた事を思えばめったなことでは根絶できない根の深さを改めて感じるのである。巳之助も鉄道省への移籍を「陸地測量部より差し回される」と書き残している。
 鉄道省での仕事は特に決まってはいない、鉄道省としても還暦を過ぎた老人に特に期待するものもない、それでも巳之助の一日は過ぎてゆく。
「七時時報、天気予報を聞き修養講座中に出勤準備をして七時二十五分に音楽放送に送られて出門、七時三十五分に代々木駅発車、七時五十五分東京駅着、鉄道省玄関の二つの胸像に黙祷して八時に入室する。出勤簿には靖国神社の祭神桂島松涯氏手刻の印章を押捺し、八時半に給仕が茶をいれてくれるまで代々木駅で買い求めた読売新聞の読み残しを通読する。昼は時間が来れば誰よりも早く食堂に行く。隠居はすいているうちが邪魔にされない。食事は特殊の場合のほかは蕎麦の盛りである、昔江戸っ子は早飯、早糞、早走りを最善としたから、この教訓で気が短くなっている。気短には菜を要さない盛り蕎麦、かけ蕎麦に限る、うどんよりも滋養があって風味がある。」
こんな巳之助を見ていると全く閑な毎日を持て余しているようだが、巳之助がそんな器用なことが出来るわけも無い、世間が放っておかないのである。
細かな絵描きは勿論だが雑文書きの注文も舞い込んでそれなりに多忙な毎日を送っており、昭和十年十一月には陸軍大演習が宮崎県の都城で行われた折に、天皇への説明地図の作成が門司鉄道管理局より依頼されて好評を博している。
 
昭和十一年(1936)六月十七日、巳之助は旭川に近い層雲峡の宿、層雲閣の鶴の間で鉄道地図を前にして構想を練っている。
昭和十一年九月二十四日、昭和天皇が乗艦された戦艦比叡は横須賀を出航し同月二十六日に室蘭に入港する。それから札幌経由旭川、帯広、釧路、根室に至り、帯広に戻って昭和七年に開通したばかりの広尾線で大樹、下富良野、それから岩見沢を経て小樽への約八百七十四キロの行幸となる。そしてその間の行程を札幌鉄道管理局の局長が天皇にご説明するのだが、その為の鳥瞰図作成の命が巳之助に下っているのである。巳之助はまだこの長距離をどのように表現すればいいのか思案がたっていない。巻物にするしかないなとは漠然と考えてはいるがそうすると表装にも時間がかかる、間に合うのだろうかそれが気がかりだった。                      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [219] 投稿日 [2011/8/26]

地形の旅人(続きの38)



 幸いにして家族は無事であった、家は傾いてはいるけれど立派に住める状態を保っている。ただし家の中は混乱しているから片付けに手間がかかるがそんなことは倒壊したり焼け出されたりした人たちの事を思えば何ほどのことも無い。参考にお見せする地震直後の今村邸はつっかい棒で支えられているが何よりも障子紙の異様な破れが繰り返された揺れの強さを示している。
 関東大震災は相模湾北西沖八十キロを震源として発生した。東京はもとより千葉、茨城から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらした。地震の発生が昼食時間だったことが重なって百三十六ヶ所で火災が発生した。加えて能登半島沖に発生していた台風の影響で強い風が吹いていた。火は強風に煽られて火災旋風を起こしながら広まり、百九十万人が被災し十万人以上の人が死亡した。この間に流言蜚語が飛び交った、深刻な事態を招いたのは「朝鮮人暴動」の誤報である。流したのは警視庁官房主事、混乱の中で情報を遮断された日本人は朝鮮人の強奪や強姦を恐れる者も多く、朝鮮人と見れば暴力を加え、これにより死亡した朝鮮人は二百三十一人、間違えられた中国人三人、日本人五十九名と記録されているが実際の数字はこんなものではなかったのかもしれない。
第一次世界大戦による戦争景気は、戦後の反動不況を招いた。追い討ちをかけるように襲ってきた関東大震災は京浜工業地帯を崩壊させ、不況は慢性化してしまった。昭和に入ると不況は一層深刻化し昭和二年には震災手形の処理をめぐる国会中の片岡蔵相の失言から、経営不振の銀行が明らかとなり銀行の取り付け騒ぎが起こった。こうして経済界や金融界が混乱し金融恐慌が起こった。この恐慌は田中儀一内閣のモラトリアム(一時的な債務の支払い猶予)と日銀融資で一応の処理はされたのだが不況は改善されていないまま昭和四年(1929)の世界恐慌に遭遇し、農村の疲弊を中心とする昭和恐慌が始まった。
 巳之助の身にも不況の影は忍び寄っている。世界的な軍縮の波と財政の逼迫もあって陸軍でも人員整理が始まった。人員整理といっても六十歳の巳之助はとっくに定年を過ぎているわけだし、整理されたとしても不満を唱える立場には無い。それよりも陸地測量部がこの年になってもまだ巳之助を雇い続けているということに驚くが、その後の寓しかたをみると彼の存在価値が理解できる。
 巳之助は四十一年間奉職した陸地測量部を辞したが陸地測量部は手厚く彼を寓している。まず大正十五年(1926)五月に給与の階級を二階級特進させた。こうして退職金の基準を大きくした上で翌月に解雇したのだが、そのまま嘱託として再雇用している。嘱託の期間は三年続いた。      …続く
*写真は関東大震災直後の巳之助邸、障子の異様な破れが衝撃である
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [218] 投稿日 [2011/8/23]

地形の旅人(続きの37)

ちなみにこの白華庵は翌年にオンドルからの失火によって焼失してしまった。
 十日、雨去リ九時ニ出発、食料五回ニ弁当ヒトツ付デ一円六十三銭、老僧ガ餞別ヲクレタ。十時に再び雨が降り出し、更に強くなったのでびっしょりとぬれてしまった。その後は温井里の温泉場にしばらく滞在して測量を続け、十六日に鶴松園に入って今回の職務を全うした。十一日間の測量、観測は金剛山を一望できる大鳥瞰図として実ることになる。
余談だがこの年、金剛山の各地をくまなく見て廻った歌人の大町桂月はこの時期金剛山で一時的に盛んになっていたタングステン採鉱の為の三井鉱山事務所に宿泊したり休息したりした。三ヶ所あった事務所はいずれも山奥にあってそこでの面白い経験を話している。
「夕食に猪の肉が出てきたのですが、なんとこの猪の肉は狼が食い残した肉だったのですよ、ちょっと驚いたけどね、とにかく旨いもんだから全部いただきましたよ」
 この時代の金剛山に行くということは観光に行くというよりは探検に行くと言ったほうが正確だったのかもしれない。

大正十二年(1923)九月一日、巳之助は三宅坂の陸地測量部にいた。この日は土曜日だから半ドンである。
「もう昼かな」
見上げた先に時計の針が十一時五十八分を指していた。
帰り支度をしようと腰を浮かせた時であった、部屋全体が大きく揺れた。間仕切りの衝立が倒れ、窓ガラスが砕け散った。照明灯が散乱した、誰かが「机の下に逃げろ」と叫んだ。巳之助も机の下に身を隠したが揺れは止まらない。しばらくして揺れが止んだので今のうちにこのビルから脱出しようとして机の下から這い出ると又揺れだしたので机の下に逆戻りした。大きな揺れが三度繰り返された。ようやく揺れが止んだので机の上を整理して階段を駆け下りた。コンクリート壁にいくつもの亀裂が走っている。外に出てからも小さな揺れは際限なく襲ってくる。
「電車は無理だな、歩くか」
警視庁の本庁ビルから煙が上がっている、濠をはさんで帝劇からも火の手があがった。
「大変なことになったな」
心配なのは千駄ヶ谷の自宅である、家族は無事だろうか、巳之助は足を速めた。
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [217] 投稿日 [2011/8/19]

地形の旅人(続きの36)

翌朝四時半、暁鐘連打の響きに目覚めたけれど東方の山々は高く聳え立っていて未だ夜は明けていない。少しばかり眠って五時半に起きると早くも洗面する人たちが列をなしている。朝食は貝二皿、豆腐、大根に煮豆等が出た。大盛りの飯の半分を弁当箱に貝と一緒に詰めて出かけた。荷物を憲兵出張所に預けたのが八時二十分過ぎ、寺の前を過ぎるとすぐに表示があって、表示どおりに左岸を二町(220メートル)程行くと支渓黄泉江に出る。そのまた左岸を一町半で橋を渡り右岸を進むと突然視界が開けて奇岩奇石の重なり合う先に釈迦峰が聳り立ち、さすがの巳之助も初めて看る佳境であった。
 その日は白華庵に泊まる。白華庵は長安寺に近い表訓寺の末寺に炊事場、浴場、便所を新設して日本食を出せる様にした施設だが、これが内金剛の観光開発の始まりだといわれている。 
 夕食は七菜二汁だから詳しく記す。①豆もやし胡麻浸し②昆布柚焼き③唐菜唐辛子漬け④岩海苔煮つけ⑤豆腐付け焼き⑥大根六角切塩漬け⑦大豆油煎り胡麻かけ、以上七菜に椎茸、じゃがいも、豆腐の汁、それから普通の汁の二汁である。飯は山盛りで約五杯分だから驚く。
八日は三仏岩のあたりを見回って四時半頃白華庵に帰り着いた。
そこへ篭を背にした男が登ってきた。現地の荷物持ちが大きな行李を背負っている。植物採集かな、と思っていたらその通りで靴を脱ぐ早々に整理をし始めた。名を聞くと河野宗一といい平壌中学の教諭をしているという。
 河野宗一は明治二十年(1887)埼玉県所沢に生まれた。広島高等師範学校を卒業と同時に鹿児島県師範学校に奉職、二年後請われて平壌官立中学校に移った。後に官立京城師範学校の舎監長教務部長となり教科書編集官を兼任した。敗戦後は荒地の開拓を行い、埼玉県入間市三ヶ島に研磨微粉の製造工場角三工業株式会社を創設した。
 八月九日終日風雨、一歩モ出ル能ワズ、周りの山々は茫漠としてほとんど見えない。外からの冷気を避けてだだオンドルの上に横たわっているだけである。
河野氏ト僧侶(貫虚老師、六十三歳)トノ問答を興ニワズカニ閑を医スルノミ。
よっぽど閑だったのだろう、閑となれば食事の話につながってくる。
 食事二汁七菜、丁重ナレド何時モ同献立ナリ。いくら七菜といえども同じ献立では仏の顔も三度で食欲も衰えるかと思いきや、当庵の料理風味スコブル口ニ適ヒ、ザンジ食料増加セリ。だから何のことやら訳がわからない。早い話がこの宿の料理が気には入っていたのだけれど、もう少し色をつけてくれよという贅沢なお願いなのだろう。ところが宿のほうとしては慣れない日本料理でこれ以外作りたくてもレパートリーが無かったのかもしれない。 …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [216] 投稿日 [2011/8/16]

地形の旅人(続きの35)

金剛山観光は大正四年(1915)頃には道路の整備も始められた。この年は日本の韓国併合から満五年目であったので「始政五年記念朝鮮物産共進会」という催しが大々的に行われ、事業の一つとして京元線方面から金剛山に向かう道路が整備された。ただ整備されたといっても何とか自動車が通れるくらいの道路で、バスなどの定期の自動車運行は無く、徒歩や馬での利用が中心の道路であった。ちなみに京元線というのは日本海側の港町元山と京城(ソウル)とを結ぶ路線で大正三年に敷設された。大正十三年(1924)にはこの路線の途中にある鉄元駅から金剛山電気鉄道という私鉄路線が分岐したが大正七年にはもちろん存在しないから巳之助は鉄元駅から自動車で来たのである。なお共進会の開催は金剛山の観光開発にかなりの効果があったようで、共進会の江原道協賛会が内金剛の入り口にある末輝里に食料品や絵葉書などの売店を兼ねた金剛山観光の案内所を設けた。また朝鮮鉄道局の経営する金剛山ホテルという西洋式ホテルがオープンした。韓国一の老舗といわれるウエスティン朝鮮ホテルの創業が前年の大正三年(1914)だから、金剛山が未知の山であった時代にホテルを建設したというのは大英断であったと言わざるをえない。
この時巳之助は同僚の河野と共に測量に来ている。河野は大学出の秀才で小学校中退の巳之助にとっては一緒に仕事をすること自体が嬉しい。二人は金剛山観光の表玄関である長安寺にその第一歩を記している。八月というのにオンドルが焚かれている。オンドルとは朝鮮半島や中国の華北北部、東北部で普及している床下暖房である。本来は台所のかまどで煮炊きした時に発生する煙を居住空間の床下に通し、床を暖めることによって部屋全体を暖める設備である。火災の危険を避けるためにオンドルを備えた家の土台はすべて板石を用いて築き、部屋の床は石板の上を漆喰で塗り固め、その上に油をしみ込ませた厚紙を貼っている。また暖房の必要の無い夏季には床下につながらない夏季用のかまどを使った。なお現代ではほとんどが床下温水暖房であるという。
 八月でもオンドルが無ければ寒いというのに渓の水を浴びた、骨に凍みるのはあたりまえだが自動車とはいえ砂塵の中の長旅は水浴びを待ちかねていたのであろう。
 長安寺は内金剛の入り口にあって、奥のほうにある景勝地に行くためには自然に長安寺の前を通るような地形になっている。その長安寺の食事が岩海苔やゼンマイ、貝などで三十五銭であったという。そのほか二十五銭や十五銭もあるというから寺の食事でも松、竹、梅のランクがあったのだろう。官費旅行だから自動車での道中とか松の食事とか豪勢である。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [215] 投稿日 [2011/8/12]

地形の旅人(続きの34)

 翌大正四年、東京名勝図衝立が大正天皇に献上されたという知らせを聞きながら巳之助は四月から丹波地方を測量して二十万分の一の地図を製作すると、直ちに朝鮮総督府付臨時土地調査局嘱託製図事務という長ったらしい辞令を受けて半島に渡った。
 前年に始まった第一次世界大戦は早期終結の予想に反して長期化の気配が濃厚となっている。ドイツ軍とイギリス、フランスなどの連合軍はフランス北東部に塹壕を構築し、それはやがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで繋がる。映画「西部戦線異常なし」に描かれた緊張の中の静寂な世界である。
 大正も七年となった八月、巳之助は引き続き朝鮮半島にいる。この頃内地では富山に始まった米騒動が全国に広がろうとしていた。第一次世界大戦の影響による好景気は、都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらし、更には養蚕などによる収入の増加があった農家はこれまでの麦や稗といった食生活から米を食べる生活に変化していった。このようなことで農業人口の流失と米の消費量が増大したことに加え、大戦によって米の輸入量が減少したことも加わって米価が暴騰したのである。更に大陸では四月に日本軍と英国軍が自国の居留民保護を理由としてウラジオストックに上陸し、八月二日には日本軍がシベリヤ出兵を宣言、アメリカもこれに同調して出兵した。大陸の情勢も又かなりきな臭くなっている。
 北朝鮮の日本海側、韓国との国境近くに金剛山がある。海岸線に沿って三十八度線を越えて韓国に達する太白山脈に属する山で、古来朝鮮半島では白頭山と並ぶ名山とされてきた。金剛山は内金剛、外金剛、海金剛に分けられるが、内金剛や外金剛では花崗岩からなる奇岩怪石が連なる山々や美しい渓谷の景観を堪能することが出来る。そして海金剛では海や湖の絶景が楽しめる。また自然の美しさばかりでなく、新羅時代より仏教が盛んであった金剛山には由緒正しい寺や石塔、石仏などが多くあって、自然美の調和が魅力である。
 大正七年八月六日午後五時、自動車で長安寺着、寺経営の旅房ニ入ル、約八畳、床オンドルデ暖カシ。渓水ニテ浴ス寒冷骨ニ徹ス。夕食岩海苔、ゼンマイ、南瓜、貝、昆布。三十五銭ナリ、次ハ二十五銭、十五銭。
ちょうど掌に収まる程度の小さな手帳に鉛筆で書かれた細かな文字と繊細な風景、巳之助の残した旅行記である。老眼鏡を必要としない筆者でも目を細め、時には天眼鏡で覗き見るような細かさの上に自分の為の走り書きであるから解読に苦労する。それでも一番の原因は筆者の浅学が巳之助の達筆についてゆけないという事で、これは巳之助を恨むものではない。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [214] 投稿日 [2011/8/9]

地形の旅人(続きの33)

 巳之助は竹内を訪ねた。代表作に「神武天皇像」や「伎芸天」を残したこの男は五十六歳で巳之助とは一回り年長だが巳之助の技術を認めて好意を示してくれる。
「巳之助さんが顔を見せたってことは、お前さんに決まったようだね」
「恐れ多いことですがそんなことで」
「恐れ多いことなんかあるもんか、いろいろあったらしいがお前さんに決まると思ってたよ」
「それで先生は何を彫られるんですか」
「天文台だ、あんまり面白くもねえが」
「天文台ですか、麻布にしか無いもんといやあ天文台ですかね」
「初っから決まってんだからしかたがねえや」
東京天文台は明治二十一年(1888)に東京大学理科大学付属東京天文台として麻布の飯倉に建てられ、大正十一年(1922)に三鷹に移設されるまで存在した。
「ほかの区も決められてるんですかね、日本橋なんかも」
「日本橋は魚河岸だそうだ、芝は芝の浜だ」
「そうですか、名人といわれる皆さん方に引けをとらないものを描きますよ」
「名誉なことだからな、一世一代の仕事だ」
竹内久一にとってまさに一世一代の仕事になった。この時から三年の後この世を去るのである。
 この衝立を見て不思議に思うのが、当時の名工といわれるその道の達人たちが精魂込めて作り上げた各地区の名所図絵が散らされた衝立の中央にある極彩色の地図が、周りの名人達に少しも負けていないのである。これはもう東京美術学校がデザインした時から地図は今村巳之助と決められていたのではないかとさえ思われるのだが贔屓目なのかもしれない。
 余談だがそれから九十七年の後にこの衝立は子孫の目の前に現れる。宮内庁三の丸尚蔵館での特別展示「大正期皇室御慶事の品々」、たまたま友人に誘われて入館した巳之助の孫娘は展示されている東京名勝図衝立の前に立ち尽くしていた。説明文に書かれている今村巳之助の文字がまぶしかったという。巳之助の残した書付の中にこの衝立の名もあったのだが、どんな物なのか何処に在るのかは皆目わからなかったから、偶然とはいえ衝撃の出会いに息を呑む思いで、ただ見入っているばかりであった。この報は直ちに一族に伝えられ、巳之助を祖父や曽祖父とする者たちが次々に訪れ、先祖の作品に触れる事ができた。
 六ヶ月続いた展示が終了する七日前のことであった、奇跡の出会いと言っていい。                           …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [213] 投稿日 [2011/8/5]

地形の旅人(続きの32)



時代は明治から大正へと移ってゆく。大正四年の天皇即位式に先立ってこの日に献上される「東京名勝図・万歳楽図衝立」が東京市から東京美術学校に制作依頼された。この衝立は横285cm縦216cmの大型の衝立で、表面は桐柾目地の中央に東京市の地図、その周囲に東京市在住の工芸家による十五の区の名勝を扇面で散らすという大作である。この東京市地図の制作が東京美術学校から陸軍陸地測量部に依頼された。地図といえば陸地測量部に頼むしかないので当然といえばその通りである。一方陸地測量部で鑑賞に堪える地図となれば黙っていても巳之助の仕事になりそうなものだが、そうは簡単にいかないのが浮世の常で自推他薦の者が殺到する。東京市の地図といっても唯の地図ではない、皇室の御物として永久に保存されるのである、名を残せるうえに名誉も残せる。腕に自信があるなしに関係なく希望者は多い、それに贔屓筋がつくから簡単には決まらない。政治的な贔屓筋を持たない巳之助の立場はおぼつかないものである。ところがこれが案外とすんなりいってしまった、身に着いた運といえるのかもしれない。
「例の衝立だけどねぇ」と巳之助に話しかけたのは小倉倹次である。
「地図の監修は私に決まったよ、よろしく頼みます」
「それはよかった、落ち着くところに落ち着くもんですね」
「皇室への献上品だからね、最高の物を作らないと後で大変なことになる、何よりも周囲には名人達の扇面画が睨みつけてるんだからね、これに負けるような地図じゃあいけませんよ」
「それでどのように描きますか」
「それはもう今村さんの好きなようにやってよ」
「周りの扇面は誰なんです」
「日本橋が香川勝広、芝は加藤陶寿」
小倉は担当の決まった扇面の担当者の名を上げてゆく、香川は彫金、加藤は磁器、いずれも名人である。
「それから麻布は竹内久一、ああ今村さんはこの人とは面識があったね」
「竹内さんですか、これは強敵だなぁ、意欲が沸いてきますよ」
竹内久一、木彫家である。安政四年(1857)浅草で生まれ象牙彫刻を学んだが奈良の古像を観て木彫を志し、寺社の古彫刻を研究して古仏の模刻像を多数制作した。岡倉天心に協力して東京美術学校を創立し、彫刻科の初代教授となった。巳之助が知恩院の設計などをしていた時に知り合い、その後も親交を暖めている。                           …続く
*写真は「東京名勝図衝立」
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [212] 投稿日 [2011/8/2]

地形の旅人(続きの31)

 資金調達、戦闘指導力に加えてこの戦を勝利に導いたものとして優秀な諜報活動がある。明石中佐は開戦時に山形有朋の英断により今の金額にして四億円以上を支給されると、ロシア革命支援作戦を画策した。ヨーロッパに潜伏する反帝政組織を中心として工作資金をばらまき日本陸軍最大の謀略戦を行ったのである。この活動によってストライキ、サボタージュ、武装蜂起などが起こり、ロシア国内が不穏となって厭戦気分が増大し士気が衰えた。この活動は後のロシア革命に繋がる。こうして国の総力を傾けた戦に勝つことが出来た日本だがこれ以上戦を続ける力の無いことを見透かされ賠償金を取ることも出来ず、外債の支払や金利の負担に苦しみ続けることになる。

明治四十三年(1910)にロンドンで開かれた日英博覧会には巳之助の「日光地図が出品され、翌四十四年には図絵科教育主任となり後進の育成にもあたっている。この年の十月に小倉倹司から声がかかった。久留米の特別大演習である。小倉は日清戦争の折に陸地測量部の写真班として従軍したがこの時に従来の乾板からフイルムが使用され、写真班としては日本最初のフイルム撮影といわれている。巳之助が台湾に赴任する際には下関のふぐで壮途を祝ったが、その後すぐにドイツ、オーストリアに写真術と製版技術研究のため留学し、明治三十二年までの四年間を過ごした。帰国後間もなくオーストリア陸地測量部のヒューブルから学んだコロジオンエマルジオン法による写真乾板を使って三色版の研究をおこない、一般刊行物では最初の三色版印刷物を発表した。明治三十五年には参謀本部においてこれを天皇にご覧にいれる栄に浴している。明治三十七年(1904)の日露戦争にも従軍して撮影した水師営の会見は先に述べた。小倉は写真の先駆者として不動の地位を築いている。
「久留米の大演習にご臨席される陛下にご説明用の絵図を描いてもらいたいんだけど」
「それは名誉なことだ、喜んで描かせてもらいますよ」
「身分としては写真班として行って貰うから辞令は「久留米特別大演習統監部管理部写真班」という長ったらしい名前になるけれど」
陸軍大演習統監のため明治天皇は十一月十日に久留米市にお入りになった。大演習は南北軍に分かれて行われ、十五日には久留米練兵場で観兵式、午後から工兵第十八大隊南側作業場において大宴会が催され大演習は終わった。この時天皇にご説明する為の絵図を巳之助が作成したがこの図が後の北海道ご巡幸の為の絵図につながる。 
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [211] 投稿日 [2011/7/29]

地形の旅人(続きの30)

 日本側ではこの提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下に入り、日本の独立も危険な状態に陥る。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配置されている軍隊の極東方面への移動が容易になるので戦うならば開通前に開戦しなければならない。かくして明治三十七年(1904)二月二十六日に国交を断絶した、日露戦争のはじまりである。
 列強の中で極東の小国日本が大国ロシア帝国に勝てると予測するものは皆無に近かった。しかし日本人は政治力、諜報力、軍事指導力を駆使してよく戦った。政治的にはイギリスと結んだ日英同盟が大きかった。イギリスは北海から極東に向かうバルチック艦隊のスエズ運河の通行を拒否したのみならず、艦隊の通過情報を逐一日本にもたらした。スエズ運河の通過を拒否されたバルチック艦隊がやむなくアフリカの喜望峰を大迂回して日本近海に到達したのは翌年の五月二十七日である。この七ヶ月に及ぶ大遠征によって兵員は疲労の極みにあった。待ち受けていたのは東郷平八郎率いる連合艦隊、両艦隊の激闘は二日間にわたって続けられ、バルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失い司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受け、連合艦隊は喪失艦が水雷艇三艘という圧勝であった。世界のマスコミの予想を覆すこの結果は列強諸国を驚かせ、トルコなどロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。この結果日本の制海権が確定してロシア側も和平に向けて動き出したのである。
 戦争には金が要る、当初対露戦の戦費は四億五千万円と見積もっている、ところが全く金の無いところから戦争を始めたのだから金集めの専門家たちの苦労も並大抵ではない、とりあえず一億円はほしい、この難役に挑んだのが日本銀行副総裁の高橋是清である。まず高橋が苦労したのは諸国が日本の負けを信じ込んでいることであった。負けるとわかっているものに金を貸すバカはいない、開戦とともに日本の既発行の外債は暴落している。是清はロンドンで活動を始め、四月には関税収入を担保にしてイギリスの銀行家たちと五百万ポンドを成約し、続いてドイツ系のアメリカユダヤ人の知遇を得てニューヨークの金融街から同じく五百万ポンド(約五千万円)の成約を得た。戦況は金の流れを変える、明治三十七年(1904)五月に朝鮮半島の付け根、中国との国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)の渡河作戦で日本軍が勝つと国際市場で日本の外債は安定し、第二回、第三回の募集では大盛況となった。結局日本は六回の外債発行によって約十三億円の金を調達したが日露戦争開戦前年の一般会計歳入は二億六千万円であったから如何に巨額の調達であったかがわかる。ちなみにこの戦争の戦費総額は十八億を超えた、国の歳入の七倍である。
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [210] 投稿日 [2011/7/26]

地形の旅人(続きの29)

 講堂で、お廊下で、或いは時々校長室の窓から拝していたお姿、私達とは全くかけ離れた遠くのほうに厳しく光っていらっしゃるとしか考えられなかったお姿、それなのに余りにもお優しい態度にびっくりして先生のご様子を拝見しなおしました。何と言う静かな和やかな微笑でしょう、何と言う真情の篭ったお言葉でしょう。先生はいろいろとお聞きあげ下さり、またお話くださいました。本当にこんなみすぼらしい一生徒の為にお考え下さるあり難いご温情に感謝いたしました。学校の私達のお父様なのだ、ひしひしと胸に迫る歓喜と感激に涙ぐみながらお部屋を辞した私は、あの夕闇の中をお帰りになられるお姿をいつまでもお送りいたしました。ハッと我に帰った時、門灯の光がうるんで見えていた。昭和四年十二月の思い出。
巳之助は後に槇山に勧められて奈良洛中図を描きあげる。
 
 世界中の予想を覆して日清戦争に勝ち、領土を広げたこの国はそれ故にこその重圧がかかってくる。世界情勢もまた日露の戦いに向けて動き出した。この頃のロシア帝国は広大な領土を守るために多数の軍港を必要としたが、これらはウラジオストックのように冬季には凍結してしまうので冬季にも凍結しない港を得ることが悲願であった。その達成のためにロシア帝国がとったのが南下政策で、トルコ帝国と戦って得た勝利でバルカン半島に大きな地歩を獲得した。
ところがヨーロッパ諸国からみればロシアが増強されることは大きな脅威になることから、ドイツ帝国のビスマルクは列国の首脳を集めてベルリン会議を主催してロシアの得た権益の放棄を求めた。これによってロシアは南下政策を断念して、進出の矛先を極東地域に向けることになったのである。
 一方近代国家の建設を急ぐ日本では、安全保障上朝鮮半島を自国の支配下に置く必要があるという意見が大勢をしめていたが、この時代の日本にはロシア帝国と戦えるだけの力は無く、戦争を回避しながら交渉によって解決する道を選んだ。ところがロシア帝国は清との間に密約を結び遼東半島の南端に位置する旅順、大連を租借し、旅順に太平洋艦隊の基地をつくるなど、満州への進出を推し進めていった。明治三十六年(1903)の日ロ交渉では朝鮮半島は日本、満州はロシアの支配下に置くという妥協案が出された。よその国を勝手に分けようとしているのだから対象となる国の民にとっては迷惑な話だが、そんな話も何の疑問も無く議論されていたのである。これに対して急進派が主導権を握ったロシアは朝鮮半島については北緯三十九度線以北を中立地帯として、一切の軍事利用を禁止する案を出してきた。自国の強大さを信じ込んでいるロシアとしては日本との戦争を恐れる理由は全く無かったのである。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [209] 投稿日 [2011/7/22]

地形の旅人(続きの28)

 槇山栄次の晩年は女子教育に捧げたと言っていい。ここに奈良女子師範学校内にある左保会が発行した「槇山栄次先生記念」という槇山を偲ぶ一冊がある。
以下この一冊の頁を繰りながら槇山の人となりを探ってみる。
 先ずは長女春子の思い出話から逸話を拾ってみると、「父の蘭画きは少ない趣味の一つでした。「お父様の蘭はいつも同じ形だ」などと私どもに悪口を言われながら、それでも蘭を描くということは父には本当に愉快なことだったのでしょう。春の卒業式前になると毎朝数枚づつ描いては学校に持ってゆき、夕方には「またこんなに頼まれた」と嬉しそうに白い色紙を持って帰ってきたものです。夏で思い出すのは父のビール飲みです。その頃一日井戸に沈めておいた冷たいビールを大きなコップに注いで一息にゴブゴブと飲み干すのが毎夜の楽しみでした。口ひげに泡がついているとはやしたてると「ア・ウマイ!」と息をつきながら圓い手でクルッと口のまわりを撫でた父の姿。ある時従姉が井戸から壜を上げる拍子に紐を切って落としてしまい、すっかりご機嫌を損じてしまったこともありました。秋のなり物、柿栗も大好物でした。栗はよく薄く切って食膳にのせるのを喜んで食べていました。また、まだ一家が東京にいた頃食後父のお供をしてわざわざ町の果物屋まで大きな柿を買いに行ったことも覚えております」栄次ととくの築いた家庭の様子にほのぼのとさせられる。
 教育者としての槇山の素顔は多くの関係者が書き残しているが彼の人となりを含めて教え子の木村満佐さんの一文をそのまま紹介する。
「はい」御返事が聞こえたので、いそいでハンドルを握ると静かにドアを開いた。サッと冷たい風が流れ込むのを感じながら礼をすると、お部屋の空気が暖かかったせいか急に上気して真っ赤になってしまった。黄昏の光が南の窓から斜めに入り込んでいるが、お部屋は何となく重苦しい灰色に感ぜられた。東の窓に近くストーヴが赤々と燃えていた。その側の東向きのお机に何かしきりにお仕事をなすっていらっしゃった先生は、こちらを振り向かれて眼鏡越しにご覧になるとやさしく「こちらにいらっしゃい」と仰言ってすぐ筆を置かれて眼鏡をおはずしになられた。宿舎を出る時もう風呂に行く友もあったのに、この寒い日にこんなに遅くまでお仕事をなすっていらっしゃるのだと思った時、もったいなく、すまなくて前に出ようとしても、堅くなって動きがとれなくなったように思われた。すっかり向き直られた先生は、も一度「もっとこちらへ」と仰った。やっと数歩歩み寄ってお示しくだすった椅子の前で慌てて一礼してハッとした。「寒いでしょう」何もこだわっていらっしゃらないような、そして全く隔てのないご様子が意外でした。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [208] 投稿日 [2011/7/19]

地形の旅人(続きの27)

 札幌の春は五月も下旬にやってくる。雪に閉ざされていた大地に若葉が萌えだすと梅、桜など春の花々が一斉に競い合う。北海道のお花見にはジンギスカンが付き物である、一歳未満の子羊のラム肉を兜を伏せたようなジンギスカン鍋で玉ねぎなどと一緒に焼いて食べる。花の下はもうもうたる煙が充満して桜も燻されているようだが花のことは視野にない。ジンギスカンと道産子は切っても切れない間柄にある。ところが北海道でジンギスカンが普及し始めたのは昭和の初めからで、この時代には北海道にジンギスカンは無い。それでも長い冬の間閉じ込められていた屋内から花々の溢れる戸外に飛び出せる喜びは変わるものではない。
 巳之助は妹のとくが嫁いでいる槇山栄次宅を訪れた。
「これは義兄上よくいらっしゃいました、長らくご無沙汰をしております」
槇山は慶応三年(1867)の生まれだから巳之助より二歳年上であるが妻の兄であるから義兄として遇している。
「栄次さんも大変なご出世で嬉しい限りです、とくも息災のようで何よりですな」
「台湾の仕事が終わったら今度は北海道ですか、ご苦労なことでございます」
「兄は山歩きが好きですから喜んでるんですよ、特に北海道はご贔屓ですからね」
「台湾に比べれば北海道は天国みたいなものですよ」
「台湾の治安はようやく落ち着いたようですが、危ない目にもあったんでしょうね」
「初めの頃は測量などをやっていると何時襲われるか分からなかったから、今こうしてここに居られるのも奇跡といえるかもしれませんね」
「お兄さん、槇山はドイツ語の会話も勉強もしてるんですのよ」
「ドイツ語に堪能な栄次さんがさらにご勉強ですか」
「いやいや、ちょうどビール会社の社員に達者なのがいましてね、勉強させてもらっています」
槇山栄次は山形県米沢の生まれ、教職員として山形県下の小中学校で教鞭を取っていたが、その才を認められて文部省に引き上げられた。しかしあくまでも現場の教育に拘り、秋田県尋常小学校々長などを経て前年に北海道師範学校、現北海道教育大学、の校長として赴任して来ている。翌明治三十五年には女子高等師範学校の教授に転じた後文部省の各種委員を歴任した。槇山が名を残すのは大正八年(1919)に奈良女子高等師範学校、現在の国立奈良女子大学、の校長となってからである。                 …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [207] 投稿日 [2011/7/15]

地形の旅人(続きの26)

 思いもかけない言葉に重吉は聞き返した。
「知恩院ですか、それはどういうことです」
「今村は測量屋だけど宮大工としても一流だからね」
「京都の知恩院の阿弥陀堂が荒廃が進んだんで取り壊して建て直すんですよ、本格的な作図は二年後なんですけど取り壊す前によく見ておかないとね、そんなことで帰って来いというわけなんですよ」
嘉義の九月は暑い、日中は三十度を越え、最低気温が二十三度だから夜といっても二十五度以上はある。酒を酌み交わす三人にとってもはや暑さは苦にもならない。この後の重吉は僅かな期間のうちに嘉義の長者と呼ばれるようになる。
 明治四十四年(1911)に開通した森林鉄道は阿里山から切り出した木材を大量に運搬できるようになり、製糖会社も繁栄して嘉義の町は大いに栄えた。嘉義はまた山海の産物の集散地ともなり、阿里山への登山口としても世界的に有名となったのである。明治神宮や靖国神社の大鳥居には嘉義の檜が使われている。
 知恩院は京都市東山区にある浄土宗の総本山で本尊は本堂の法然上人像と阿弥陀堂の阿弥陀如来である。三門を潜り急な石段の男坂を登りきると左手に巨大な屋根を持つ雄大な建築物が見える。俗に大殿といわれるこの建物は法然上人の御影をまつることから御影堂と呼ばれている。その御影堂の西側に立つのが阿弥陀堂で、その阿弥陀堂が荒廃しており、再建が宮内省の内匠寮技師である木下清教に託された。木下は巳之助無くしてはこのプロジェクトは為しえないと判断し、助手として参加してもらえるように陸軍陸地測量部に申し入れた。従って設計の責任者は木下清教だが、それは名目で実態は巳之助の肩に全てがかかっている。ところが共に働く製図担当者は八田巳之助、清水磯吉、岩城庄之丈、横田某という者たちでほとんどが木下と同じ内匠寮の京都系技師であるから意思の疎通が万全とはいかない、巳之助は工手学校(現在の工学院大学)を出て建築家の道を歩みだしていた弟の竹次郎を加えた。この時に木下清教が書いた設計料が五百円という文書が残されている。この当時の五百円がどのくらいの価値があったのだろうか、明治三十三年の米一石が十六円十九銭というから現在の米価と比べてみると五百円が百五十万円に届かない。そんなに少ないの、と言いたくなるが米の生産量は当時に比べて格段に増えているし、値段も下がっているので比較は難しいのかもしれない。ただしこの五百円が全てであるのか一部の設計料であるのかに多少の疑問も残る。
 阿弥陀堂の仕事を終えた巳之助は本業に戻って北海道に渡る。札幌では嬉しい出会いが待っていた。                   …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [206] 投稿日 [2011/7/12]

地形の旅人(続きの25)

 翌明治三十一年三月に台湾総督が児玉源太郎に代わった、桂太郎、乃木稀典などを経て四代目である。児玉以前の三人は悉く統治に失敗している、児玉は最後の切り札といっていいが見事にこれに答えた。児玉の成功は民政局長に後藤新平を起用したことによる、後藤は先に送り込んでいた浜野弥四郎に上下水道の完成を急がせ、新渡戸稲造を呼び寄せて殖産局長兼精糖局長に任じた。新渡戸は精糖による統治の経済的基礎を確立させることになる。新渡戸の肖像は五千円札紙幣で見ることが出来る。後藤の功績について李登輝前総統の言によれば「今日の台湾は後藤新平が築いた礎の上にある、後藤が度量衡、司法、教育などすべての近代的な制度を築き上げ、植民地になってわずか十年で、日本本国の援助がいらないくらい生産性も上がり、教育程度も高まった。後藤新平の台湾統治は搾取するための植民地化ではなかった。台湾に文明を分けてくれたのである」という最大の賛辞である。
巳之助に転勤命令が出た、早速宮崎重吉が送別の宴を設けてくれる。
主賓が巳之助なのは勿論だがあとは浜野弥四郎一人というこじんまりした宴である。
「檜の事業は順調な様じゃないですか」
「今村さんのお陰です、一足早く事業にとりかかれたのが成功でした。少ない資金ではじめたのですが利益が大きいので走りながら事業の拡大が出来ているのですよ」
「それにしても父上は残念だったね」
巳之助の父弥兵衛は昨年の暮れに亡くなっている、せめて一年でも長生きをしていてくれたらと浜野は言うのである。
「死に目には会えなかったけど葬式には間に合いましたからね、父も六十六年間の生涯を自分流に生きてきたからね、満足してますよ」
「今村さんは帰られますけれど、浜野さんはまだまだ居られるのでしょ」
「まだまだですね、何時のことになるのやら」
浜野は苦笑しているのだが結局は二十三年間も台湾に居続け、その結果は見事な業績である。浜野が作った二十一箇所の上下水道などで台湾の社会環境が大きく変わり浜野がこの地を離れる頃には、農業の灌漑面積も八千ヘクタールから四十六万ヘクタールにまで急増した。台北の上下水道は現在でも当時のものが使われているという。
「ところで今村さんは東京で何をなさるんですか」
「知恩院ですよ」                     
…続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [205] 投稿日 [2011/7/8]

地形の旅人(続きの24)

 巳之助の話は具体的になってきた。阿里山の檜は良質で森も深い、何より好都合なことは水源が鳥頭山(うとうさん)に求められるようなので有里山がダムになることはなさそうである。ところがこんな宝の山がいまだ世に知られていないから手を打つのは今のうちだという。それに、と巳之助は言葉を継いだ。
「伐採の許可願いを出すときには植林計画も添えたほうがいい、役所の印象がよくなる、なによりも森の資源を枯渇させないことが大事ですからね」
 森林資源、日本の国土に占める森林率は68%でフインランドの74%に次ぐ森林国である。先進国ではイタリア、アメリカ、ドイツなど30%台で日本の半分以下だ、中国などは21%しかない。その日本も歴史的に観ると森林を失う危機は何度となくあった、特に徳川初期には末期的症状であった。戦国時代には武将達が競って城を築き、寺社の建立も盛んであった。更に徳川時代に入ると人口が急増して建材需要が旺盛となり森林破壊は留まるところを知らず、本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半が失われた。このような状況を憂慮した徳川幕府は1666年以降森林保護に乗り出し、森林資源の回復と厳格な伐採規制、流通規制をした。この保護策の伐採規制は違反者には死罪を申し付けるほどの厳格さであったという。こうしてこの国の森林は蘇り世界で二位の豊かな森を持つことが出来たのである。その森林が危機に瀕している、森林の維持には手間がかかる、その手間が人手不足、金不足で森が荒れている。日本人は自国の森林を残して他国の森林を荒らしてきた。こうして入ってくる安い建材が自国の林業を衰退させたにもかかわらず森が荒れるのに手をこまねいている。最近では外国からの建材も高騰して国内産と変わらないというが、一度構築されたルートは簡単には正せない。筆者は数年前から消費科学連合会の主唱する森林ボランティア活動を通じて林業を営む人々と交流の集いを続けている。彼らはそれぞれが積極的に行動を起こして成功もしているがいまだ全国的な広がりにはいたっていない。我々の務めは林野庁や環境省への働きかけなどを行うことは勿論だが実態をご存知でない人々に浸透してこの国の森林保護活動の輪を広げることが責務だと思っている。
 余談が過ぎた、宮崎重吉に戻る。それからの重吉の活動はすさまじいものであった。事業の元手を作るために漢文教師のかたわら生命保険の代理店など、金になることならば何でもやった。そして小金が溜まれば金貸しで増やしながら檜の事業に邁進した。
 阿里山一帯は檜の原生林が台湾の背骨にあたる二千メートル級の山々に群生していてその開発に重吉達日本人が入り台湾の嘉義は林業の町として繁栄を極めるようになる。                      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [204] 投稿日 [2011/7/5]

地形の旅人(続きの23)

巳之助もこの地域の測量をしている。浜野弥四郎とは同年の上に疎開先とはいえ同じ千葉県で生まれたのも何かの縁と深い交際が続いている。
「この方は宮崎さんといわれるのだが、阿里山の檜の事を聞きたいらしいんだ」
「檜ですか、具体的な調査はまだなんで今のところは何とも言えませんね」
愛想無しの返事だが重吉は言葉の中に含みを感じた。未来が開けるかもしれない。

 その日の夕刻である、宮崎重吉は一升瓶を下げて巳之助の宿を訪ねた。
「今日は突然にぶしつけなことをお訊ねして申し訳ありませんでした、ここの檜に目をつけて調査をしているのですが素人なもので不安もあるんですよ」
「いや、こちらこそ失礼した、立ち話では都合の悪いこともあろうかと思いましてね」
「そうでしょうね、そんな気配が感じ取れましたのでぶしつけながら突然うかがったわけなんですが」
せっかく来たんだからと招きいれながら巳之助は不機嫌な様子でもない。重吉も追い返されるのを覚悟の上で訪ねてきたのだから、招じられるままに遠慮することもなく上がりこむと一升瓶を差し出した。
「私もいま始めたところだ、飲みかけだがいっぱいやりませんか」
これもまた遠慮はせずに差し出された盃を一気に飲み干すと自己紹介からはじめた。大分の出身であること、三倍の給料に惹かれてやってきたこと、漢文の教師で終わる気は全く無しで、事業を起こすことに生涯をかけている事などを熱っぽく語った。
「そうですか、それでここの檜に目を付けたけれど確信が持てないというわけなんですね」
「おっしゃる通りです、先ほどの様子では見込みがありそうだと感じましたが」
「私は測量屋だけれど元々は宮大工だからね、檜は良い物を見続けてきたんですよ」
「それはまたお見それいたしました、それほどのお方にお会い出来たのは幸運と言う他はありませんね、どうぞよろしくご教授いただきたいんですが」
「買いかぶられても困るけど多少のお手伝いは出来ると思いますよ」
「それで品質なんですが、良いものなんでしょうね」
「間違いないね、それに運び出すのもそんなに厄介ではない、台湾の特産品になれるよ」
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [203] 投稿日 [2011/7/1]

地形の旅人(続きの22)

 太陽が地表を照らす角度は季節と時刻によって変化する。いちばん角度が大きくなる正午ごろの場合春分と秋分の日には赤道上で垂直に照らす。また北半球の夏至には北緯23度26分で太陽が垂直に照らす、この緯度が最も高緯度で太陽が天頂に来る地域であって、この緯度を北回帰線と呼ぶ。
 さつまいもの形をした台湾のほぼ中央を北回帰線が走っている。その北回帰線の真下、統治下にあって日本の最高峰として知られた三千九百五十二メートルの新高山、現在は玉山と呼ばれている、に連なる有里山の麓に嘉義がある。都市でいえば台北から台中、嘉義、台南、高雄と南に下るほぼ中央に位置しているこの地で水源を見つけながら上下水道の設計をしている男がいる。
 男は浜野弥四郎と言う。浜野は明治二年に成田市寺台の豪農、黒川久兵衛の次男として生まれ、佐倉市の旧佐倉藩医浜野家の養子となって東大工学部に入り、英国出身で東京の上下水道を設計した水道技師バルトンに師事した。このバルトンが当時の内務省衛生局長、後に台湾総督児玉源太郎の下で民政局長として辣腕を振るった後藤新平のすすめで台湾に渡り、浜野も助手として付いて来た。ちょうど巳之助がこの地に赴任した時期に重なる。あれから二年が過ぎて明治三十年、二人は台北の上水道の調査から始めて各地を廻り、浜野は嘉義に来ている。この間バルトンはマラリヤにかかり東京に戻ってしまっている。
「突然お声をかけて申し訳ございませんが、水道の調査をされているとお見受けいたしましたが、阿里山に水源地があるのでしょうか」
それこそ突然である、浜野と同年輩の男が声をかけてきた。
「まだはっきりしたことは言えませんが阿里山ではないでしょうね」
「それでは阿里山にダムなんかは出来ないのですね」
「ダムを造るとすれば鳥頭(うとう)山でしょう、阿里山にはありませんね」
「それはありがたい、檜が台無しになってしまうところだった、申し遅れましたが宮崎と申しましてこの地で漢文を教えております」
宮崎重吉と名乗るこの男は明治三年に大分県大分郡宮苑に生まれた。家は代々神主であったが暮らしは楽ではない、そんな重吉に転機が訪れた。政府は台湾振興策として現地勤務の公務員を募った。給料は内地の三倍という触れ込みに重吉は乗った。嘉義に住み着いた重吉は漢文の教師をしながら事業を夢見ているのだが、阿里山の良質な檜に目を付けているのである。
「檜ですか、私はあまり興味はないけれど、ちょうどいい男が来ましたよ、山のことならあの人に聞けばいい」
やって来たのは巳之助である、浜野とは別行動だがここ何日かは嘉義に滞在している。                          …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [202] 投稿日 [2011/6/28]

地形の旅人(続きの21)

余談だが大分市の「ふぐ良」はふぐ専門店として県下でも一番の店と知る。
昭和から平成に変わる何年かの間、国民のほとんどが中流階級の幻想に浸っていた幸せな時代に筆者は何度かこの店を訪ねた。ふぐの刺身は薄造りが普通だがこれはふぐの身が硬いことによるのともう一つは高価な魚だけに少量を多量に見せる技でもある。ところがふぐ良のふぐは身が厚い、それが少しも硬さを感じることなくふぐの身の量感を味わうことができる。筆者の従兄の縁から必ず別室で付き合ってくれたこの店の親父さんの話では硬さを感じないぎりぎりの厚さで薄造りにしていると言う。
ポン酢にふぐの胆を溶いて、これを薄造りにつけて口中に運ぶ、ねっとりとした胆の味がふぐのボリューム感にからんで二三度かみ締めたあと喉をすり抜けてゆく。博多のふぐはご贔屓の「千太」でシーズンには連日のように食べていたからその素晴らしさはよく知っていたけれど、それとは全く別の珍味ではある。
「夏のふぐも美味しいんですよ、一度夏に来てくださいよ」
親父さんにそう言われていたけれどとうとうその約束も果たせずに今日まで来てしまった。東京では食べられない九州のふぐの想い出である。

 清は台湾を「化外の地」としてほとんど整備していなかった。その為に土匪(どひ)が横行して住民を困らせていた、土匪とはアウトローの更にたちの悪い者達で裕福な家の人たちを誘拐しては身代金を要求するのである。そんな時代であったから各地に点在していた部落は土匪から村を守る為に、部落全体を竹薮で囲んでいた。部落に入る道は牛車がやっと通れる程度の細い道で竹薮は密集しているし棘が多いので土匪が侵入しにくく銃弾さえも通り抜けない程竹薮が密集していたという。ところがこの囲いは土匪に対しては堅固だがその反面蚊の大量発生を招きマラリヤで倒れるものが後を絶たなかった。また原住民の高砂族たちは部落間の争いが激しく、首狩りなどもまだまだ風俗として残っていたのである。新たな統治者となった日本は土匪征伐と同時にこのような竹薮を切り払って町を整備するところから始めねばならなかった。
 日本軍の台湾上陸は続く、十月には乃木稀典の指揮する第二師団が南部に上陸し二十一日には台南に入った。十一月十一日には大本営に全島平定が報告され、軍政から民政に移行すると翌年四月一日に大本営は解散した。
 この間の日本軍の損害は大きく、五万人の兵のうち五千人が死に、一万五千人がマラリヤや赤痢にかかって戦闘力を失った。同様に女子供を巻き込んで抵抗した台湾側は一万四千人の死者を出したと推定されている。   …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [201] 投稿日 [2011/6/24]

地形の旅人(続きの20)

五月八日に日清講和条約が発効すると日本は割譲された台湾に近衛師団を送り込んだ。二十九日に近衛第一旅団が北部に上陸し、六月十七日に台北で台湾総督府始政式が行われた。しかし南進が始まると流言蜚語などによる武装住民達の抵抗が激しく、増援軍を派遣して七月二十九日に台北管区を制圧することが出来たが、全島を制圧するには至っていない。厄介なのは住民の抵抗だけではない、この土地の風土病が兵士達を苦しめた。衛生状態が非常に悪い、暑い時期にゲリラ戦に巻き込まれたこともあって腸チフス、赤痢などにかかる兵士が多く、近衛師団長の北白川宮能久親王陸軍中将がマラリヤで陣中に没した。
下関条約の図面作成の任務を終えて旅順から下関に戻っている巳之助に辞令が下っている。八月一日付で台湾総督府陸軍幕僚付を命ず、こんな不穏な時期に台北に渡らねばならない。陸軍の支配下にあるのだからあたりまえといえばそれまでだが死の覚悟だけはしておかなければならない。戦闘員では無いといっても彼らにとって日本人は敵なのである。
「いよいよお別れだな、台湾はかなり厳しい状況にあるらしいから覚悟して行かねばな」
「小倉さんとはずっと弥次喜多でやってきたけど、いよいよですね」
「こんな時代だ、わずか九ヶ月の間に広島、下関、旅順、下関と渡り歩いて、お互いに先も見えないけれど好きな道を歩いてるんだから文句は言えないね」
「そのうえに下関のふぐが食べられるんだから云うことはないですよ」
二人は割烹料亭の春帆楼で初めてのふぐを肴に酌み交わしている
 この時代にふぐを食することは禁じられている、ところが山口県下に限ってはふぐ食が解禁されている。ふぐと云う魚は美味ではあるが猛毒を持ち、度々人の命を奪ったことから豊臣秀吉の時代から明治初頭にかけて武士のふぐ食を禁じていた。特に長州藩は家禄没収などの厳しい処罰が定められていた。維新となり武士の法度が消えるとふぐ中毒が増加したので明治十五年(1882)には「ふぐ食う者は拘置科料に処する」という令が発布され、全国でふぐが食べられなくなった。ところが明治二十一年に下関を訪問した伊藤博文が割烹料亭の春帆楼でふぐを食べたところその旨さに感動し、山口県知事に働きかけて山口県下のふぐ食を解禁したのである。
現在ではふぐ食は全国的に認められているが胆を食べることは禁じられている。ところが唯一大分県だけはこれを禁じていない。ふぐに関する条例は都道府県の条例で規制されているのだが大分県の県条例ではふぐの胆を食すのが禁じられていないのである。
…続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [200] 投稿日 [2011/6/21]

地形の旅人(続きの19)

 日清戦争の発端は明治二十七年(1894)朝鮮李王朝の圧制に反抗した農民達が起こした「東学党の乱」を鎮めるために朝鮮政府が清国に出兵を求めたことに始まる。これに対して朝鮮を清国から独立させて国交を結ぶことで朝鮮への支配権を強化しようとしてきた明治政府にとって、清国の出兵を認めることは、せっかく築いてきた防波堤を崩されることであり、日本の生命線を侵すものであった。こんな状態がいつまでも続くものではない、日清両軍の衝突が各地で起こった後の八月一日宣戦が布告された。
 ただちに大本営が広島城内に設置された。大本営とは戦争を指揮するための最高機関で、天皇自らがこの地に乗り込まれた。これは同時に臨時の皇居である行宮にもなり日清講和条約締結後の翌年五月三十日までの二百二十七日間この地で指揮を執り続けた。
 戦争が始まった年の十月一日、巳之助は大本営付の辞令を受け広島にやってきた、巳之助にとってこの年ほど多忙な年はない。
 巳之助は広島市大手町二丁目四十四番屋敷の紀本米蔵方に下宿している、現在で言うと平和公園から平和大橋を渡ってNHK広島の前を左に折れ、少し歩いて袋町交差点の少し手前あたりであろうか。初めて親の元を離れての下宿住まいだから巳之助も勝手が分からないが、親のほうも心配して手紙や小包がひんぱんに届く。二十五歳の立派な大人なんだから放っておけばいいものを親としてはそうもいかないらしい。送り状には何を送ったかは書かれていないけれど米なんかも送ったのかもしれない。
 戦況は日本軍が戦力、士気ともに劣る清軍を圧倒して黄海海戦に大勝した後、その勢いで大連、旅順などを落とすようになって勝利を確定し、翌年の三月に戦いは終わった。直ちに巳之助に命が下る、平和条約(下関条約)に添付する地図の作成の為である。直ちに下関に向かった。
 下関条約は四月十七日に割烹料亭の春帆楼で締結された。領土的な内容に絞ると遼東半島、台湾及びその周辺の諸島の割与、である。ところが遼東半島については直ちにロシア、ドイツ、フランスから干渉されて諦めざるを得なかった。
 この日に先立つこと一ヶ月ほど前に大本営の出先機関として征清大総督府が旅順に設営され、講和会議に圧力をかけ、また講和決裂の場合に備えた。四月一日付で巳之助は征清大総督府付の辞令で旅順にいる。ここで条約の地図作りに励んだ。戦時も同様な外国の地である、好きな山歩きどころかちょっとした楽しみもままならない。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [199] 投稿日 [2011/6/17]

地形の旅人(続きの18)

 話は少し戻る、戻るというよりは実際は先へ飛ぶといったほうがいいのかもしれない、分水嶺の話である。この時から百十三年の時が過ぎてこの国の中央分水嶺が完踏された。2006年に完踏したのは巳之助も会員として活躍した日本山岳会の中央分水嶺調査を担った会員達である。巳之助が圓朝に話をしていた頃には日本の中央分水嶺がどこをどのように走っているかなど具体的なことは分かってはいない。
 北海道、山形、飛騨、宮崎など全国の会員が調査に参加した結果であるが、この中央分水嶺は宗谷岬から鹿児島の佐多岬に達する五千キロの大分水嶺である。これを簡単にのべると、北は宗谷岬に始まり十勝平野を一望に出来る狩勝峠から支笏湖の南、苫小牧と千歳にまたがる樽前山を経て松前の白神岬に達する。ここから津軽海峡を抜けると十九キロ強を走って津軽の竜飛岬に上陸する。この距離の東側を結んだ地下には津軽線が通過する青函トンネルがあることを思えば、このトンネルは大分水嶺に沿っているのかもしれない。竜飛岬からは八幡平、栗駒山、蔵王を経て福島県の安達太良山、谷川岳から三国峠を抜けて飛騨白山を通り岩国の平家ヶ岳に及ぶ。関門海峡を渡ると福岡県京都郡みやこ町という珍しい場所にある味見峠、峠の名も珍しい。それから古代から信仰を集めていた英彦山(ひこさん)、宮崎のえびの高原を通って鹿児島は佐多岬に達し種子島との間の大隈海峡に消える。消えたあとはどうなるのだろうか、興味は尽きない。中央分水嶺が完踏されるまでには巳之助の死後も六十一年の歳月を必要としたのである。
 
 朝鮮半島が揺れている、西欧列強によるアジアの植民地化は進み朝鮮半島も危機に瀕している。日本の側から見ればこの地にロシアやイギリスなどを進出させない為には清の勢力圏からの切り離しが必要であり、朝鮮を独立させて親日化することが急務であった。この時期にはロシアの南下政策は露骨になり、朝鮮との接近も進んでいる。
 一方の清から見れば西欧列強のアジア植民地化への脅威は日本と同じだが、日本による朝鮮の開国干渉が気になり、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとしていた。
 朝鮮の支配権をめぐって戦われた日清戦争は、相手が「眠れる獅子」と呼ばれ、近代化が著しく遅れていた清国とはいえ近代日本が経験した最初の本格的対外戦争であった。巳之助も東京にのほほんとしてはいられなくなる時が近づいている。
                               …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [198] 投稿日 [2011/6/14]

地形の旅人(続きの17)

 「東京雑感」は昭和十五年十一月に発行されたがその中で玉川上水の続きをこう記している。
安松金右衛門が設計して武蔵野の背骨の上を蛇行していた玉川上水を新水道の設計者はお気に召さず、しゃにむに直線コースを採って低表面には築堤をしてその上にコンクリート壕を造ったので、大震災は遠慮なく高築水道を震り破って堤下へ貴重品たる上水様を排除してしまい、戦場の如き震災地では一滴の消火水も放射出来ず、あの惨禍をもたらしたのだから温故知新の好学問である。
 まさに歴史は繰り返すで同じ過ちを今でも繰り返しているのはなんということだろうか。江戸の上水について巳之助は更に語っている。
江戸幕府の当初に遡ると上水はまだ井の頭でさへ手が届かず、差し当たり府内で多量の水源を得て八百万石の膝元を潤そうというわけで、不忍池か溜池かと議論になったが、溜池は名は溜池とイメージは悪いが透明度からいってもよさそうだし主源流は清水谷であるから文句なしに溜池と決まった。こうしてしばらくは府内の使用に耐えたが江戸は日を追って繁盛し、やむなく井の頭を引き、玉川を羽村から引いて都下の飲料と武蔵野台地の耕作灌漑に引用した。千川上水はその副産物として本郷上野方面に給水した。時は移って近代に出来た村山山口の二貯水池も昭和十五年の照梅雨にはほとんど六百万都民が飲乾して、当事者は悲鳴をあげ川崎及び千葉県の用水を応援に仰ぐ始末、実施中の小河内大貯水池も同じ多摩川の水を止めるのでは高の知れた話だから、大利根を引こうかとか霞ヶ浦を入京させようかと、今のところありったけの智恵を逆さに振るってる騒ぎとか聞き及んでいる。
 沼田宿の大竹屋では名人と測量士達の話が弾んでいる。
「ところで後ろに居る少年はどなたですか、私の話を熱心に聞かれている様子などを見ると、失礼だが駆け出しの芸人とは見えませんが」
「ははは、お目に留まりましたか、やまと新聞の条野採菊をご存知ですか、それの息子で鏑木健一といいます」
「ああ、創刊号から師匠の「松操美人生理」を連載して大好評でしたね」
「ありがとうございます、それ以来条野とは親しくしております。その採菊の息子が絵を画いて、なかなか筋がいいので今回初めて連れてきたのです、少しでも勉強になればと思いましてね」
鏑木健一、この時十五歳である。二年後には父の主宰するやまと新聞に挿絵を画くようになり、十代にしてプロの挿絵画家として認められた。後に鏑木清方と名乗った。昭和五年に画いた「三遊亭圓朝像」は重要文化財に指定されて彼の代表作のひとつになっている。               …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [197] 投稿日 [2011/6/10]

地形の旅人(続きの16)

 巳之助の話を圓朝はうなずきながら聞いている、だいたいがこんな話が好きな男なのである。
「それじゃあ、その分水嶺の真上に降った雨はどうなるのか、なんて心配した奴がいたんですが、太平洋、日本海どっちに流れようかと迷っているうちに雨が止んで蒸発しちまった、まさに天に召されたなんていう話もありますが」
「落とし噺に使えそうですね」
「名人から著作料をもらえるかもしれませんな」
「それがだめなんですよ、私の速記本なんかもずいぶん売れてるんですが著作権はありません、しゃべっただけでは著作権にならないというから馬鹿な話ですよ」
「どこまでお話しましたかね、そうそう武蔵野にも分水嶺があるというところまででしたね。その大分水嶺が右へ左へ緩く曲がったり稲妻形に曲がったりしているのを測量、設計したのが玉川上水の始祖である川越藩士安松金右衛門なんです。それに忘れてはいけない人物が居ます、この工事を請け負った庄右衛門と清右衛門の玉川兄弟で、二人の苦労は並大抵ではなく、幕府からの資金が底をついて自らの家屋敷を売り払ってこれに当てたというほどなんですよ」
話は本題に入るのだが少しばかり専門的になるのをお許しいただいて「東京雑感」から一部を除いてそのまま記す。
武蔵野は狭山丘陵を除いては青梅の多摩川排泄口から約八キロほどの間はおよそ六十メートルの水準差だから百三十分の一勾配で、平野としては急勾配である。それから武蔵野の五十キロほどの間が百メートルの高差になっているから五百分の一の極く緩やかな勾配の標準原野と云えよう、更に分水線すなわち背稜線を電光形に曲がる上水路は六百分の一の流傾であるが、推し進める水量が多いから逆巻くが如くに揉み合って東京に達する勢いは目の覚めるようであるが、この勢いで水は浄化するのである。
「こんなことで安松金右衛門の設計した玉川上水は武蔵野の背骨の上を蛇走しているのですよ」
巳之助の話がどれだけ圓朝の参考になったかを記した資料はみあたらないが、ちょうど一年前に柳家小三次で真打になった男が後に三代目柳家小さんになる、
夏目漱石が「三四郎」の中で名人として称えた男である。この小さんが「水屋の富」を得意とした。圓朝の作とは伝えられていないし、三遊派でもない小さんの噺ではあるが何かしら関わりがあるのかもしれない。
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [196] 投稿日 [2011/6/7]

地形の旅人(続きの15)

 話をもう少し具体的にいうならば、と圓朝は続ける。
「牡丹灯篭の話はともかくとして、ちょっと気になっているのが「水屋」という商売なんです。江戸っ子は、水道水で産湯を使った、と自慢するくらいなのに本所や深川には水道がなくて天秤棒を担いで毎日やってくる水屋から水を買ってるんですが、水道があればこんなことをしなくても済むものをと得心がいかないんですよ」
江戸市中には玉川上水と神田上水によって給水され、玉川上水は四谷の大木戸から暗渠で江戸の中心地に送られている。神田上水の場合は関口町(現在の目白椿山荘の付近で神田川に分流する堰があった)から御茶ノ水まで引っ張ってきて水道橋で神田川を渡した。どちらも地中のトヨで給水され、井戸に水を溜めて汲み上げて使ったのだが、このシステムは明治三十一年(1898)淀橋浄水所が完成するまで続いた。ちなみに淀橋浄水所は現在の東京都庁などがある新宿副都心に変わっている。
「これは今村さんの専門ですね」
「小倉さんだってよくご存知なんでしょうけれど、じゃあ私がお話させていただきましょうか、それにしても名人の前で一席うかがうというのも気恥ずかしいもんですな。こちらも気楽に話しますからどうぞおみ足を崩されてお聞き下さい」
この時に話した事々は後に巳之助が残した「東京雑感」に詳しく記されているが要点だけを述べておく。
「武蔵野というのは単に平らな台地なんですが、多年の間に侵食されて谷も背も出来ています。それらは山地の様に明らかではないのですが全広野を背負って立つ大分水嶺が存在します」
「腰を折るようで恐縮なんですが、大分水嶺とはどのようなものでしょう」
「ああ、これは失礼いたしました、我々の専門用語なんでおわかりにならないかもしれませんでした。分水嶺というのは大小あるのですが日本列島全体としてお話しするのが判りやすいのかもしれません。日本列島を流れる川は太平洋側に流れる川と日本海側に向かって流れる川に分かれていますが、それぞれが勝手にそうしているわけではありません。日本列島を貫く線があってその線よりも地図で観ると南側に降った雨は太平洋に注ぐ川となり、地図の北側に降った雨は川となって日本海に注ぐのです。細かく言えばオホーツク海や東シナ海に注ぐ川もありますが、要するに表日本と裏日本にはっきりと分けられる、これが日本の中央分水嶺なんです。こんな分水嶺が小さい規模ですが各地に存在すると言う事なんですよ」                  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [195] 投稿日 [2011/6/3]

地形の旅人(続きの14)

 陸地測量部に雇用されてから五年の歳月が流れ、巳之助は上州一帯の測量に従事している。明治も二十六年になると交通網も発達して、熊谷まで鉄道が通じ、前橋まで鉄道馬車が走っているから山歩きの測量も現地到達までの便利さは格段の進歩である。
 この日の仕事を終えて風呂からあがった巳之助は相棒の小倉と沼田宿の大竹屋の二階から街道を眺めていた。
「おや、あれはもしかして圓朝じゃないですか」
「こんな所に圓朝がいるのかね、それにしてもよく似てる」
彼の高座を聴いている小倉も半信半疑ながら否定はしない。
茶の道行を着て、褄からげをし、紺の脚班を穿いた初老の男が蝙蝠傘を杖にしてこの宿に入ってくる。少年ともいえる若者が後に続いていた。
「圓朝という人は噺を作る時には必ず実地を踏んで得心がいってから作り出すというから、何か新作を考えているのかもしれませんね」
 寄席の高座を下りてから二年、今ではすっかり作家である。高座に上がらなくても速記本は売れるし「牡丹灯篭」や「塩原多助」などが歌舞伎で上演されるなど全国的に人気は衰えていない。
「お客様、お休み中のところ恐縮でございますがよろしゅうございますか」
食事を済ませた二人の前に宿の主人が身を小さくしてかしこまっている。
「この宿に三遊亭圓朝というお方がお泊りになっておられるのですが、話のはずみで測量のお仕事をされている方がお泊りと申しましたら、ぜひにもご高説をお聞かせいただきたいという事でございますが如何でございましょうか」
「おやおや、変なことになってきたね、噺家を前にして一席語ろうとは思わなかった」
「いいじゃないか、圓朝と話が出来るなんて滅多に無いことだから、話に乗ろうよ」
「小倉さんの写真の話なんか喜ぶかもしれませんね」
部屋に案内されると正座した圓朝が下座に座っている、部屋の隅には先ほどの若者が控えている、世話役で付いてきた前座にしては芸人らしくない。
「お休みのところを恐縮でございます、失礼とは思いましたがこんな機会はなかなかありませんので宿の主人を通じてお願いした次第でございます」
圓朝のいうところではこの男の噺に出てくる関東平野の地形がもう少しよくわからない、牡丹灯篭などは二十三歳という若い頃に作ったものだからその辺の知識が充分でない、少しご教授を願いたいというのである。    
…続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [194] 投稿日 [2011/5/31]

地形の旅人(続きの13)

 圓朝はその晩に演じる噺の道具を用意して初日をあけた。ところが圓朝の前に高座に上がった圓生が次に道具まで準備して演ずるつもりの演目を先に演じてしまったのである。
 たとえ素噺と鳴り物入り道具話との演出上の違いがあるといっても、同じ噺を演じるわけにはいかないので、急遽その道具で間に合うような題材の噺に変更して初日の夜は乗り切ることができた。ところがその後も毎夜師匠の圓生は用意した道具の噺を先に演じてしまう、このことから圓朝はやむを得ず創作噺に活路をみいだしていくことになっていく。
 こうして始まった創作噺の「累ヶ淵後日怪談」が後に整理されて「真景累ヶ淵」として人気を博し、次々と繰り出す新作を大掛かりな演出で人気は沸騰した。この間に師匠の圓生が死んで三遊派の総帥になった圓朝は三遊派の盛り立てを画策する。ところが三遊派が人気があるといっても所詮は圓朝だけの人気なので、二人目の人気者を作るために弟子の圓楽に三代目圓生を継がせ、その上に自分で作って用いていた芝居噺の道具を全て譲ってしまった。
 このような次第で素噺に転向した圓朝はこの時から人情噺の手法による正当な話芸として演じるようになり、名人と称えられて寄席の世界の頂点に立った圓朝は、明治二十四年(1891)に井上馨邸での園遊会で明治天皇の御前で「塩原多助」を演ずるという名誉も得たがまさにこの時がこの男の絶頂期であった。
その圓朝が寄席の高座から降りたまま上がらない。御前での「塩原多助」は四月二十四日のことであったがそのわずか二ヶ月足らずの後のことである。
話のいきさつはこうである。圓朝は落語家の生殺与奪の権を握っている寄席の持ち主、席亭に大きな不満を持っていた。ある時社交界での雑談中にそんな話が話題になり、井上馨が「何軒かの寄席を買って自分の定席にしたらいい、その為の資金は後援者から調達したらすぐに集まる」といいだした。圓朝は非常に喜んですぐに行動に移したが席亭に内緒で進めたつもりが弟子の圓遊と圓太郎の口から立花屋の席亭に洩れてしまった。早速席亭達が切り崩しに動き、何かと席亭に不義理の多い噺家達はあっというまに霧散してしまう。事の次第を知った圓朝は今更のように芸人の社会の結びつきの薄さに失望して、今後一切寄席の高座には上がらないことを宣言したのである。
こうして名人の座を捨てた圓朝だが、彼の演じた人情話の口述速記本が売れた。売れただけではない、結果的には明治二十三年に開設された帝国議会に必要な速記者を養成したことになり、また二葉亭四迷がこの速記本を参考にして小説「浮雲」を書いたことによって言文一致の近代小説が生まれることになる。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [193] 投稿日 [2011/5/27]

地形の旅人(続きの12)

店の金五十両を掏られ、死んでお詫びをするという文七に長兵衛は迷いに迷った末大事な五十両を与えてしまう。それからすったもんだがあって文七とお久が夫婦になり、独立して新工夫の元結が文七元結として大いに売れたというハッピーエンドの噺になるのだが、心理描写の難しい噺ではある。
「五十両を投げつけるようにしてやってしまうまでの心の動きが凄いですね、聴いてる方も迷いの中を行ったり来たりしてしまう、普通の寄席は三銭か三銭五厘のところを圓朝だけは四銭とるんだけど客はよく入っている、下種のお笑いがはびこっている落語界だけど圓朝を聴く人がこれだけいるというのは捨てたもんじゃぁありませんね」
 三遊亭圓朝、偉大な男である。この名人が二年後には寄席の舞台から去ってしまう、後から思えば小倉検司も貴重な体験をすることが出来たのである。夏目漱石の言葉を借りれば「聴ける時に聴いておかないと聴きたいときにその演者は居ない」のである。
 巳之助が晩年に著した「東京雑感」の中で「芝居の神様が團十郎ならば圓朝は寄席の神様である」といっている。歴代の團十郎が名声を博すると共に神様ならではの苦悩と悲劇性から逃れられなかったと同様に、圓朝もまた名人と称えられ一般的に知られている以上に多方面での足跡を残しながら、苦悩と悲劇の中に存在し続けた。
 安政二年(1855)十七歳で真打に昇進した三遊亭圓朝は、この年の十月二日に起こった安政の大地震の後の復興景気に乗って扇子と手拭だけで演じる素噺でもそれなりの人気は博していたのだが、二十歳になった頃から鳴り物噺を始めた。これは芝居の世話狂言を模擬って高座の後ろに書割の道具を飾り、内容に合わせて雨の音、波の音などの擬音を交ぜたりして客に芝居を観るような雰囲気にして喜ばせた。この書割は全て圓朝自身が書いたのだが、十三歳の時に浮世絵の歌川国芳の内弟子として修行したこともあり、これが役に立ったのかもしれない。ただこの頃は真打といっても二流で、それなりの寄席にしか出演することが出来なかった。
 翌年に下谷の御数寄屋町にある「吹きぬけ」という寄席で真打としての看板を上げた。寄席の出演順は最後にトリといわれる真打が出る、その前には音曲や奇術のような色物で、これは寄席の気分を新しくしてトリを引き立てる役だからあまり受けてもいけないしだれさせてもいけない。その前に中入りという小休止があるがこの中入り前には大物が出る。この中入り前に師匠の圓生に出演を頼んでおいたのだが、結果として後の圓朝に導いていくことになった思いもかけないことが起こる。                  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [192] 投稿日 [2011/5/24]

地形の旅人(続きの11)

 小倉倹司、日露戦争に写真班として従軍し水師営で乃木将軍とステッセルの会見写真を撮ることになるこの男も巳之助と同時期に陸地測量部に入ってきた。
写真による測量を担当するこの男も現在は研修中の身の上だから巳之助とは一緒にいることも多く、気の合う関係にある。その二人が人形町の末広で圓朝の人情話を聴いたあと甘酒横丁の「玉鐡」で軍鶏鍋(しゃもなべ)をつつきながら酒を酌み交わしている。
 甘酒横丁の由来を簡単に述べれば芝赤羽の有馬藩邸にあった水天宮が明治5年(1872)に現在の地に移転され、参詣人に人気の尾張屋という甘酒屋が繁盛していたのでこの時代には甘酒屋横丁と呼ばれていた。この横丁は現在の場所よりは南に位置して道幅も狭かったのだが水天宮の参拝客の他に芝居の明治座、寄席では末広、喜扇亭、鈴本亭などが客を呼んで賑わっていた。
 この街の由来になっている甘酒は甘味の少ないこの時代には老若男女を問わず愛された貴重品であった。箱根古道を畑宿から元箱根まで登るちょうど中間にあって旅人の英気を養った甘酒茶屋は歌舞伎の最大人気狂言である仮名手本忠臣蔵の影響を受けて、忠臣蔵外伝として神崎与五郎の又潜りの逸話の舞台となり、今もなお現地で当時を偲ぶことができる。同じく歌舞伎十八番の一つの助六に兄の曽我十郎が甘酒売りとして出てくるが、特に桃の節句には欠かせないものであった。甘酒は奈良時代以前からあったといわれ、日本書紀に出てくる米麹とご飯を使って短期間で造る甘い飲み物で、万葉集には「一夜酒」として登場する。室町時代までは、甘酒は祝い事のお神酒であって主として腐りにくい寒い時期に作られた。しかし商品経済が普及する時代になると夏でも売られるようになり、俳句の夏の季語として定着するようになってくる。
 いま二人が飲んでいる「玉鐡」は軍鶏鍋が名物で宝暦十年(1760)の創業という老舗である。後に親子丼を創始したのもこの店で、現在も「玉ひで」として健在である。
「初めて圓朝を聴いたけれどさすがだね、連れてきてもらってよかった」
「小倉さんが圓朝を聴いてなかったとは驚きですね」
「速記本で牡丹灯篭なんかは読んでたけどね、今日の文七元結はすごかったよ」
三遊亭圓朝作の文七元結、左官の長兵衛は腕は立つのだが無類の博打好きが高じて仕事もせずに借金を抱えている。娘のお久は吉原に身を売って金を工面し、父に改心してもらいたいと長兵衛の出入り先であった大店「佐野鎚」に駆け込み、五十両の金を借りることにする。佐野鎚の女将の情けで金を懐にした長兵衛が吾妻橋に差し掛かると身投げをしようとしている文七に出会う。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [191] 投稿日 [2011/5/20]

地形の旅人(続きの10)

 息子と一緒に居る職場は楽しい、巳之助は弥兵衛の技術を吸い続けて基本的な技ではもはや教えることもない。それよりも弥兵衛が楽しみなのは息子の持つ向上心である、素人が見ても分かりやすく綺麗に描こうとする意欲は並のものではない、これが天皇への御案内図として採用されたりしている理由だと弥兵衛は思っている。
「お前の見せ場は分かりやすい地図だからな、等高線だけの無味乾燥な地図だけじゃだめだよ」
「それじゃあ父上、許してもらえるんですか」
「お前がその気なんだからそのまま進んだらいい」
「ありがとうございます、父上の言われるとおり父上考案の配置図法を参考にした地図を描こうと思っています」
「まあ、気の早いこと、まだ採用されるかどうかわかってないんじゃないですか」
横で心配そうに話を聞いていた母のしげが口をはさむ。
「巳之助の技術だ、間違いはない」
巳の助の転職は決まった、陸軍陸地測量部は喜んでこの男を迎え入れた。

 明治政府の地図、測量行政は内務省と陸軍省の二本立てでスタートしたのだが、明治十七年(1884)に国防上の見地から陸軍省参謀本部測量局に統合された。その後明治二十一年(1888)に全国を二万分の一の地図で覆う計画を立てた。この時陸地測量部として独立し、巳之助も採用されたのである。
 巳之助は採用されたからといってすぐに戦力になるわけではない。建築図面ではかなりの技術を持つとはいえ、測量については素人である。勉強の時代が続いているがのんびりはしていられない、戦略上の理由からも国土の地図は完成が待たれている。ところが待たれているといっても測量して地図にするのは人間であり、しかもそれ相当の技術を持つ者が揃わなければならないが悲しいかなこの辺が決定的に不足している。二年後には二万分の一を諦めて五万分の一にしても早く完成させるように改めた。五万分の一に改めたから早く完成するかといってもそうはいかない、後に国土が広がったのである。実際に計画の実施にあたったのは明治二十五年(1892)からなのだがすぐに台湾、南樺太、朝鮮が加わり、現在の日本とは大違いの国土になっていた。結局五万分の一の全国図が完成するのには昭和十二年(1937)まで待たねばならない。
 巳之助は測量技術の基礎勉強を続けている。建築設計の基礎があるうえに設計に関してのセンスが測量技術の習熟を早めている。     …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [190] 投稿日 [2011/5/17]

地形の旅人(続きの9)

 巳之助は宮城御造営事務局の設計室で昼食後のお茶を飲んでいた。隣席に新聞が置いてある、巳之助は常々報知新聞を購読しているから他紙に目を通すことなどめったに無い。隣席にある新聞は読売新聞である。何気なく紙面の上っ面を走った巳之助の目がピタリと止まった。新聞を取り上げると自らのデスクに座りなおした。
巳之助の目の先には「陸軍陸地測量部創設・部員募集」の文字が躍っていた。
 陸軍陸地測量部、前身は1871年兵部省に陸軍参謀局が設置され、その後組織が何度か変わったが直近では参謀本部測量局として存在していた。1888年になると陸地測量部条例が公布され今回の新聞広告になった。その後陸軍陸地測量部は国内外の地理、地形などの測量、管理にあたり敗戦後は国土地理院として現在に至っている。
巳之助は父と向き合っている。
「おまえが今の仕事に満足していないことは知っている。だがなあ、そんなに若いうちから大きな仕事がまかせられるというものではないんだ。我慢していれば腕を振るえる時代も必ずくる、それが又勉強の時間なんだぞ。」
「それは分かってるんですが、どうもこの仕事は私には向いてないような気がしてしょうがないんです」
「そんなことはないよ、お前はいい仕事が出来る腕を持っているし仕事のほうもこれからいくらでも出てくる。給料だって不満はないはずだ、陸地のほうだってたいしたことはあるまい」
「給料は減りますよ、もう銀座の松田料理店なんかには行けなくなりますね。それでも好きな山歩きが出来て給料がもらえるんならこんないいことはありませんよ」
「なんだおまえ、松田なんかで飲んでたのか、贅沢だな」
「一合の酒をちびちび飲ってただけですよ、そういえばこのあいだ服部様にご馳走になりましたよ」
「ほう、服部さんはお元気だったか」
「ご機嫌でしたよ、芝居の話なんかを肴にだいぶ飲ませていただきました」
話は妙な展開になって、なんとなく父の弥兵衛は巳之助の転職を認めさせられたようなかんじで吹っ切れないものがある。それでもよく考えてみると弥兵衛にしてみれば、自分の仕事を継いでもらえないという不満が転職に賛成できない理由の一つであることを否定することはできない。さらに和風建築という枠の中に息子の未来を閉じ込めてしまってもいいのだろうか、と考えてみるとそれはまた残念な気もする。おれの負けだな、弥兵衛は心を決めた。 …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [189] 投稿日 [2011/5/13]

地形の旅人(続きの8)

 半蔵はこの時四十一歳、男盛りを満喫している。巳之助は十七歳、ようやく大人の仲間入りがかなう年になった。明治も十九年の春である。
「それも分かってるんですが、なんの足しにもならないような仕事ばっかりで」
「それも勉強の内だぞ、暫くは忍耐が第一だ。知らないうちに力がついてくる」
腕には自信があるからすぐにでも大きなとは言わなくてもそこそこの仕事はさせてくれると思い込んでいただけに巳之助の失望は大きい、可愛がってくれている半蔵の前でしかも酒が入っているから思わず愚痴が出てしまう。最近ではこの職に就いたのが本当によかったのか疑問も持ち始めていた。
「ところで寄席には行ってるのか」
「寄席も面白くないですねぇ、あいかわらずステテコの圓遊なんてのが売れてるけどひどいもんですよ。田吾作又引を端折って毛脛を叩きながら変な姿勢で引っ込むなんざあ失礼ですよ、野卑ですね、あの男は」
 この頃の寄席は都内に八十七軒あり、池袋とか千住の端席を入れると百二十軒ちかくもにもなった。そして木戸銭は三銭から三銭五厘であったから不況にあえぐ市民にとってはもっとも安価な娯楽であり彼らが求めるのは刹那的な笑いで、じっくりと人情話など流行はしない。それでも三遊亭圓朝だけは別格で木戸銭も四銭であった。
「圓朝も速記本のほうが売れて寄席にご無沙汰気味だけど正月の九代目は観たかね」
「観ましたよ、圓朝の「英国孝子伝」でしょ、役者が揃ってたからちったあ期待もしてたんですけど」
新富座の一月興行は九代目團十郎に市川左團次、坂東秀調などによる「西洋噺日本写絵」で圓朝の「英国孝子伝」の劇化ということが話題になった。
「九代目も西洋かぶれした物ばかりやってないで勧進帳とか助六とかやってもらいたいね」
「寄席も歌舞伎もつまらなくなりましたね、そんなことで最近は山歩きですよ、もっとも休みの日だけですけどね」
「山歩きか、それはいい、こんど連れて行ってくれよ」
二十四歳の垣根を越えて二人の歓談は続いていた。

 それから二年がたった。巳之助は十九歳になったが仕事の内容はたいして変わらない、かなりのストレスが溜まっている。そんな巳之助にちょっとした偶然が人生の転機を持って来た。
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [188] 投稿日 [2011/5/10]

地形の旅人(続きの7)

 宮城御造営事務局和式建築課に採用された巳之助は新入りとはいっても九歳から五年間馴れ親しんでいる職場である、実質はベテランといっていい。ところが実際はそうもいかない、資格としては十七等図工という下働きだから腕の振るいようがない。
「父上、もう少しましな仕事は出来ませんか」
「黙ってればいつまでも下職から抜け出せないからな、配置図法で売り込むか」
配置図法、弥兵衛が考案した図法である、立体的に素人にも分かりやすく描く図法である。
「陛下が造営中の宮城を御巡覧されるからそのご案内地図を作ったらどうだ」
「誰かが作ってるんじゃないですか」
「誰にも負けない物を作れば採用されるさ、まともな物を描ける奴なんざぁ何処にもいないよ、教えてやるから自信をもってやってごらんよ」
弥兵衛の指導を受けて作成した「御案内地図」は早速採用され、翌年、翌々年の御巡覧の際にも巳之助に御下命された。これで巳之助は自信をつけた。
その後伏見宮邸全景図を同様の配置図法で描きあげたが本格的な設計は廻ってこない。それでもお上の仕事である、給与だけはそこそこもらっている。
 銀座の松田料理店は店全体を色ガラスで張り巡らし、夕映えに美しくまた宵闇深まると名物のガス灯も映えて見惚れる人も多かった。この松田料理店に上がった巳之助は一合三銭の美酒をちびりとちびりと飲むのを楽しみにしている。
「巳之助くんではないか」
「あっ、服部さま、とんだところでお目にかかります」
「こんなところで飲めるとは若いにしちゃぁ豪勢だな」
「いえいえ、一合だけで退散なんですよ」
「一合だけでも結構なことだが手前の銭で飲むんなら立派なもんだ」
服部半蔵、桑名藩の家老で巳之助の父弥兵衛の上司であったが弥兵衛を尊敬して維新後は友達付き合いをしている。戊辰戦争で敗れた後許されて桑名藩大参事の職に就いたが廃藩置県の後桑名郡長の職にある。東京には時々出てくるがその折に弥兵衛を訪ねるのを楽しみにしている。
「ところで仕事のほうはどうだ」
巳之助の前に自らの膳を運ばせると半蔵は大あぐらをかいた」
「それが下働きばっかりで、面白くもなんともないんですよ」
「そりゃあそうだろうよ、君より腕が悪くったって先輩は先輩だからな、先輩を差し置いて新人にやらせるわけにはいかんだろう。しかも先輩より良い仕事が出来るのはわかってるんだから」          …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [187] 投稿日 [2011/5/6]

地形の旅人(続きの6)

筆者は図面というものは「引く」ものだと思っている、それを巳之助の図面に限っては「描く」と表現してきた。読者の中にも「これは違うんじゃないの」と思われた方もおられると思う。巳之助のこの当時の図面は現存しないがその後の図面を見たり、また地図を見たりしていると「引く」という無機質な表現では言い表せない趣があることに気が付く。そんなことでわがままながら「描く」と表現しているのだがこれから先はますます「描く」という表現の方向に色めいてゆく。
 巳之助は房総の千葉村新田、現在でいえば千葉県庁の近所に生を受けた。父の弥兵衛は江戸八丁堀越中橋畔に生まれ育ったから巳之助も三代続いた純正の江戸っ子を自負しているけれど、止むを得ない理由があって少しばかり江戸を離れたという傷がある、維新の動乱は江戸っ子を房総の片田舎に避難させたのである。この時代に一般の江戸っ子たちが疎開したかといえばそんな事は無い。
「江戸っ子だい、疎開なんて出来るかい」というような心意気で江戸に留まったということではない、宵越しの金を持たない江戸っ子達は疎開する金を持っていなかったというだけの事にしかすぎない。
 巳之助の父弥兵衛は士分の家柄ではあったから維新戦争の情報も早かったし、そこそこの蓄えも持っていたので疎開が出来たということなのである。巳之助の先祖の話をすれば曽祖父弥兵衛は寛政の改革で名高い松平定信に白河藩の作事係として仕えたが文政六年(1823)藩主貞永の白河藩は伊勢の国桑名への領地替えとなって弥兵衛も桑名藩の作事係となり以後吉田家は三代にわたって作事係を勤め弥兵衛を名乗ってきた、曽祖父と父が同名なのはこれが故である。
 巳之助が生まれたのは明治二年、千葉村新田に別邸を持っていた亘(わたり)多兵衛の世話になっていた。多兵衛は幕府陸軍奉行であった旗本竹中重固の用人であったが弥兵衛との友情はこの一家を動乱から守り抜いた。   
 竹中家の旗本領は大阪の吹田にあり、吹田の庄屋を亘家が代々つとめている。多兵衛はこの亘家から出て用人を務めており旗本竹中家の台所は亘家が仕切っていることになる。この多兵衛と弥兵衛との出会いは京都であった。竹中重固が陸軍奉行として度々所司代屋敷を訪れた折に従っていた多兵衛は弥兵衛と出会い、同年の気安さもあって親しい仲になっていた。また重固も陸軍奉行を罷免された後は多兵衛の案内で弥兵衛との交わりを濃くしていたのが巳之助の誕生と幼い頃の成長に大きく関わった。二人は巳之助の恩人と言っていい。重固は後に北海道に渡り開拓に後半生を捧げたのでその後の巳之助との関わりはない。
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [186] 投稿日 [2011/5/3]

地形の旅人(続きの5)

父の破産により全てを失った樋口家の生活は一葉の肩に重くのしかかった。一葉が家族を支える為には小説を書くことしか無かったのである。そして数々の名作が生まれた。
 五歳の一葉に戻る。三月に本郷小学校に入学した一葉が四月には退校届けを出した。理由は「幼少に付き当分退校願候」であった。四月に小学校を退校した樋口一葉は九月に私立吉川学校に入学した、五ヶ月ほど中を開けたのはいきなりの退学から他校への入学では都合が悪いので、ほとぼりを冷ます期間が必要だったのかもしれない。ここでは小学読本とともに四書の素読を受けた、これが一葉の作家として大成する糧となったと推測は出来る。本郷小学校の授業内容は五歳の一葉にしてみても退屈の他は無かったのかもしれない。
 明治の学制の施行は全国民が読み書きを出来るようにする為には大きな貢献をした。その一方で一頭抜きん出た子等にとっては不満の授業だった。
 巳之助もまたその一人である、本郷小学校の授業にあきたらない巳之助は駿河台の金華小学校に移った。ちょうどその頃市ケ谷小学校から転向してきた二歳上の男が居る、夏目金之助と名乗った。
「君は本郷から来たんだってね、何故こっちに来たの?」
「やってることの程度が低いんですよ、ばかばかしくてやっちゃあいられない」
「ここはそんなにいいのかね」
「いいとは思わないけど、ちったぁましかと思いましてね」
「私ははっきりした理由があってね、第一中に入るにはここで勉強したほうがいいんだよ」
東京府第一中学校の事である、後年大文豪となるこの男は二年後の十二歳になるとその後の府立一中から日比谷高校と変わった東京府第一中学正則課に入学した。ところが正則課では大学予備門受験に必要な英語の授業が行われていない事と漢学、文学を志す為に二年で退学し漢学私塾二松学舎に入学し、更に二年後には神田駿河台の英学塾成立学舎に入り頭角をあらわした。
 後年落語好きで名高い二人なので連れ立って寄席にでも行ってもらいたいのだがまだそんな年ではない。ちなみに金之助が小説「三四郎」の中で「彼と時を同じゅうして生きている我々は大変な仕合せである、今から少し前に生まれても聴けない、少し前に生まれても同様だ」と絶賛している三代目柳家小さんはこの時はまだ二十台前半で、常磐津家寿太夫と名乗って義太夫を語っていた。
授業にあきたらない巳之助は十四歳の最終学年を残して退学した。待っていたのは宮内庁の宮城御造営事務局和式建築課である。       
…続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [185] 投稿日 [2011/4/29]

地形の旅人(続きの4)

奈津、後の樋口一葉の父母は甲斐の国、現在の塩山市から駆け落ちをして江戸に逃がれてきたいわば流民である。余談になるがそれがここまで成功するにはそれ相当の苦労話があった。
父為之助と母多喜は甲斐の国山梨郡萩原村の中農の家に生まれた。二人はいつしか恋仲になったが親が許さない、特に多喜の家柄が上位にあることが最大の障害であった。こうなれば心中か駆け落ちが定石だが彼らは生きる道を選んだ。塩山から江戸への道中は甲州街道を大月から八王子に出て江戸に入るのが常道だが、追っ手を恐れた彼らは山を越えて静岡へ抜け、東海道を品川から江戸入りした、1857年、一葉の生まれる十五年前のことである。
為之助は同郷の先輩である真下専之丞の世話で幕府の藩所調所の小使から医書類の印刷工を経て御勘定組頭菊池大介の中小姓となった。中小姓とは大名では公用人ともいい、幕府との交渉をする窓口役である。
一方母の多喜は長女ふじを里子に出して自らは旗本の乳母になり、二人は蓄財に励んだ。こうして蓄えた金を元に八丁堀同心(下級の警察官)の株を買って1867年に幕府直参となった。ところがこの三ヵ月後の明治元年に幕府崩壊という不運が待っていたが、これが案外不運とも言えないのはこの男の不思議なところで幕臣から東京府の下級官吏、御府内受領地並びに戸籍改掛下役にもぐりこんだ。この辺りはかなり世渡りには長けていると言わざるをえない。
その後もこの男の運は続く、1867年には士族の廃止によって政府から発給された金録公債証書、早く言えば士族への手切れ金である、が金に変わって五百五十円を得ると本郷六丁目に敷地二百三十三坪、建坪四十五坪の住まいを購入した。そして東京都の下級官吏という職を投げ出した退職金百六十円で更に百坪買い増した。それから五年、金貸しと不動産売買や仲介で利益を上げ続けている。折りしも明治維新の動乱期、地方の大名たちの屋敷跡が無数に残っていた。樋口家の絶頂期であったといっていい。
ところが好事魔多しで栄華は長くは続かない、一葉が七歳頃になると為之助の運も傾き始め家屋敷を売り払って芝高輪北町に転居したのち荷車請負業組合設立に参加のため神田区表神保町二丁目に引っ越した、巳之助の同じ町内である。この頃自宅の裏長屋に小奇麗な娘が越してきたことを知った竹次郎が少しばかり気にしてはいたけれど十六歳になっているこの娘があの小さな女の子の成人した姿であるとは気付くこともなかった、竹次郎十七歳の春である。
 荷車請負業組合は早々に破綻し、為之助の最後の賭けは大失敗に終わった。一家は債権者に追われて神田淡路町に夜逃げしたが為之助は病の床に伏し、二ヶ月の闘病の末あっけなく五十八年の波乱の人生に幕を引いた。 …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [184] 投稿日 [2011/4/26]

地形の旅人(続きの3)

 この時代の小学校は明治五年に発布された学制に依っている。学制によれば小学校は国民全てが学ぶ学校であり満六歳で入学し、下等小学四年、上等小学四年の二段階であわせて八年の学校と定められた。その後明治八年には小学校令で満六歳より満十四歳までとなった、従ってこの時の巳之助は四年生ということになる。小学校の教科は欧米の学校の模倣で、書き方、習字、会話、読本、音楽、体操など十四教科であった。ちなみに小学校の上には下等三年、上等三年の中学校がある。
 こうして明治五年に発足した明治新政府の学制だが、明治八年には全国に約二万四千校、児童数は百九十三万人に達し、学齢児童の就学率は35%にまで達した。この数字だけを見れば驚くべきことと言わざるを得ない。ところが内情をみれば問題山積である、なにしろ予算の裏づけも無しに始めた制度であるから校舎を建てたのは明治八年でわずか18%、あとは寺子屋、藩校をそのまま使った。授業は一日五時間、週二十時間で各校の児童数は六十人以下だったから先生は一人で全学年を見た。それでも先生が足りない、教員免許証を持つ先生だけではとても間に合わず、神官、僧侶、士族など字が読める人なら優先的に採用された。これは幕府崩壊で職を失った武士階級には大きな救いであったが中身の薄さは如何ともしがたい。
 巳之助は神保町の我が家から本郷小学校に通っている。生徒は男六十人、女五十二人、教師二人の当時としては大きな学校である。この年明治十年には弟の竹次郎が入ってきた。
「兄さん、女の組に小さな子が居てね、よくよく話を聞いてみると五歳なんだって、六歳にならなきゃ入学出来ないんだよねぇ」
「決まりは六歳からなんだけどな、勉強したい者は来ればいいんだよ。ただし我が家は規律に厳格な父がいるから無理だけどな。それより五歳で授業についていけるのかねぇ」
「それなんだけどね、ほとんど先生の話を聞いていないらしいんだ、そのくせ何か質問されるとしっかり答えるらしい。変な子だって皆んなが言ってるよ」
 この小さな女の子は樋口奈津といい本郷六丁目、現在の本郷五丁目、ちょうど東大赤門の向かい側に住んでいる。敷地三百三十三坪、建坪四十五坪の屋敷で庭には池もある。奈津の父為之助は幕臣から東京府の下級官吏となり金貸しや不動産売買を生業としているが、廃藩置県による士族の廃止によって受け取った金録公債証書による四百五十円に加えて東京府の退職金百六十円とで手に入れた土地建物なのである。この当時としては勝ち組に属する父を持つこの女の子が後に樋口一葉として世に出るとはまだ誰も想像すらしていない。…続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [183] 投稿日 [2011/4/22]

地形の旅人(続きの2)

 東京は明治十年(1877)を境に大きく変わる。西郷隆盛が薩摩に兵を揚げた西南戦争が鎮圧されると国内での大きな戦はこれが最後となった。この年から東京はようやく江戸から東京へと変わってゆく。
 服部半蔵は伏見宮邸の建築現場に今村弥兵衛を訪ねている。徳川家康に仕えた初代服部半蔵から十二代目にあたるこの男は弥兵衛が作事係を務めていた桑名藩の家老職にあったが、十四歳年上の弥兵衛の建築技術に接して若い頃から尊敬の念を失わずにいた。江戸が東京と変わっている明治十一年の今では兄とも慕う関係にある。
 廃藩によって職を失った弥兵衛が明治九年に宮内省建築課に採用され、有栖川宮邸建築工事で頭角を現すと次々に重い役を任されていたが半蔵にしてみればそれが嬉しい、俺の目が正しかったと自慢したいくらいだ。てきぱきと指示する弥兵衛の仕事振りをまぶしそうに眺めている。突然半蔵の目が弥兵衛の脇でしきりに図面を描いている小男に注がれて止まった。小男と思ったが大人ではない、まだ子供である、それが見事に図面を描いている。
「弥兵衛さん、脇で図面を描いているのはどこの子です?」
「あはは、お恥ずかしい、私の長男ですよ、巳之助といいます、まだ九才なんですが図面を描くのが好きで毎日やってきてはああして描いているんですよ」
「なに、九才?それは凄い、さすがは弥兵衛さんの息子だ」
「いえいえ見よう見まねなんですが、やってみたいというからやらせてみたらそこそこの図面は描くものですから重宝して使ってます」
 弥兵衛は謙遜しているがなまじっかの設計士よりはよっぽどしっかりした図面を描く。これで小学校の学費を自ら稼いでいるというから立派なものである。
ところがこれだけではない、余ったお金を貯めると地誌を買い集めている。地誌とは地理上の特定地域を自然、地形、気候、人口、交通、産業、歴史、文化などの様々な要素を加味してその地域性を論じた郷土誌であるが、この時代には廃版になったり散逸するものが数多であった。これを九才の子が集めていた、よほどの物好きと言わねばならない。
「ほおぅ、地誌を集めてるのか、地誌など読むご時世ではないのになあ」
「読むご時世ではないから廉価で、私のようなものでも集められるのです」
「なるほど理にかなっておる、建築家を目指す者には役に立つだろうな」
話に無駄が無い、幼くして先を見る目を持っている、何より自立心の旺盛さが頼もしい、もしかすると父の弥兵衛に勝る業績を残すかもしれない。九才とは思えぬ巳之助の応答に服部半蔵は頼もしげに目を細めた。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [182] 投稿日 [2011/4/19]

地形の旅人(続きの1)

 地図にも魔力があるらしい、ここに地図に魅入られた男がいる。男は羽振りのよい建築家の地位を投げ捨てて、薄給の測量士の職に飛び込んだ。男が好きだという山野の駆け巡りには好都合の職ではある。仕事と道楽とが一体となったから薄給を苦にはしない。しかし天の配材は適材適所、地図の魅力にとりつかれた男の残した地図は皇居三の丸尚蔵館に眠り、何年に一度かの覚醒の時を待っている。
 東京三宅坂の陸軍陸地測量部の一室で老齢の男が二人、コーヒーブレイクを楽しんでいる。小倉倹司六十八歳、日清戦争に陸地測量部の従軍写真班として日本で初めてフイルム使用の写真を撮ったといわれ、写真による地図測量のパイオニアである。後の日露戦争にも従軍して旅順要塞の攻防における乃木将軍とステッセル将軍との水師営の会見写真はこの男が撮った。
「今度の赤紙には今村さんも驚いたでしょう」
「まさか戦地にとは思わなかったけれど、こんな年寄りが今更どんなお役に立つのかと思いましたがね」
答えたのは今村巳之助六十三歳、地図三昧の生涯を送ってきた。小倉とは五歳年下だが二年後の敗戦によって「国土地理院」と名を変えた陸軍陸地測量部が明治二十一年(1888)に創設されて以来の五十年を越す付き合いだから先輩も後輩もない。
「女房がね、あなたみたいな年寄りを呼ばなきゃならないほど兵隊さんが少なくなってるのかしらって言うくらいだから、驚くよねぇ」
昭和十八年、快進撃の戦況は劣勢に廻り二月にはガナルカナル島で敗れ、四月には連合艦隊司令長官山本五十六がソロモン諸島上空で戦死するなど悲報が続いている。
「それが封を切ってみればのんきな話でねえ」
「陸地測量部で昔語りの随想録を作るから出て来いだもんね、あっちこっちで名文を披露している今村さんならともかく、私が出て来てもしょうがないと思うけどね」
「いやいや、小倉さんの話がなければこの随想録は価値がありませんよ」
「今更いわれてもすっかり忘れてしまったよ」
「まあ、二人で雑多な話をしていれば色々と思い出すんじゃないですか」
「コーヒーじゃねえ、銀座に出て一杯やりながらだと話が早いんだけど」
それはもうその通りだろうけれど、いやしくも陸地測量部に召集されている以上はそんなわけにもいかない。それでもコーヒーの香が記憶の糸を少しずつ解きほぐしはじめた。            …続く     
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [181] 投稿日 [2011/4/15]

ヘレーネの涙(続きの18)

紀元330年、コンスタンチヌス帝によって東ローマ帝国がこの地を首都と定め、コンスタンチノーブルとなった。それから千年余を経た1453年この地はオスマントルコの大軍に攻撃された。ここにビザンチン帝国とオスマントルコ、言い換えればキリスト教文明とイスラム教文明との激突が行われたのである。
ルメリ・ヒサール要塞、メフメット二世がコンスタンチノーブル攻略の為に築いた要塞がヨーロッパ大陸側の小高い丘の上に見える、この要塞はアジア大陸側に作ったアナドル・ヒサールと連携してビザンチン帝国への武器や食料の搬入を絶った。ビザンチン帝国は窮地に陥った、気分はもう塩野七生さんの世界に漂っている。当時の皇帝コンスタンチノス十一世は西ヨーロッパ諸国に救援を求めたけれど反応は鈍く、商業拠点としてこの地を重要視していたヴェネツィアとジェノバは援軍を送ったが、二千人の傭兵を含めて七千人の防衛軍で二十六キロの城壁を守りきらねばならない。一方のオスマントルコ軍はメフメット二世直属の精鋭部隊二万を中心にした十万の大軍である。
コンスタンチノーブルを陥すにはボスフォラス海峡から港のある金角湾に入らなければならない。キリスト教側が金角湾の入り口に鉄鎖を張ってトルコ艦隊の侵入を阻止しようとすれば、オスマントルコ側はボスフォラス海峡から金角湾に山越えで船を運び込むという奇策で対抗した。金角湾の北側の陸地に油を塗った木の道を作り、それを使って陸を越えて七十隻の船を金角湾に移すという「オスマン艦隊の山越え」と呼ばれるこの作戦は成功した。そして二ヶ月に近い激闘の末コンスタンチノーブルは陥落した。そのボスフォラス海峡が、そして金角湾がいま目の前にある、遊覧船は快適なエンジン音を残しながら時の流れを遡ってゆく。
 今日もまた快晴である、青く輝くボスフォラス海峡を渡るかもめの鳴き声が響き渡る。トロイの石畳を濡らしたヘレーネの涙雨は七十年にわたって積み重ねてきた罪の全てを洗い流し、幸せな旅をもたらしてくれた。明日からまた新しい罪が重なってゆく。
                              おわり
                             溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [180] 投稿日 [2011/4/12]

ヘレーネの涙(続きの17)



 悪夢の一夜が明けると小奇麗な食堂車で朝食、簡単なもので三十分と時間を切られての忙しなさだが腹が満足するとそれだけで幸せになるのか、昨夜の不満を口にする者はいない。イスタンブールの駅に降り立つとにこにこと挨拶を交わす。面白くないことはさらりと捨てて今日の楽しみに身をゆだねる、皆さん旅なれていらっしゃる。天気はいいし残りの二日を楽しもうという気になってくるから旅は楽しい。

ボスフォラス海峡

 ボスフォラス海峡と金角湾をのぞみ、イスタンブールの街全体を見渡せるトプカプ宮殿は丘の上にある。十五から十九世紀にかけてオスマン帝国の中心としてここで国政が行われスルタンの家族が住んだ。外観は地味だが中の装飾や陳列してある宝物はさすがに見事であるが宝石などにはあまり興味が無いからたいした感慨も無い。そのかわり十七世紀のイズニックタイルで覆われたブルーモスクの内部などには感嘆する。このモスクは1616年にアフメット一世によって建てられ6本のミナレットを持つ。ミナレットとは尖塔でここから決まった時間ごとにコーランを流す。6本の尖塔を持つモスクはここ以外には無いという。
 ボスフォラス海峡の流れに身を任すとアジアとヨーロッパを両手に抱きしめることが出来る、写真では右がアジア、左がヨーロッパである。塩野七生さんの名著「コンスタンチノーブルの陥落」に胸をときめかせたのは何年前だったか。それ以来の念願が叶ってのボスフォラス海峡クルーズである。1950年代にヒットしたアメリカンポップス「イスタンブール」で唄われているようにイスタンブールはかってコンスタンチノーブルと呼ばれた。この歌を唄ったコーラスグループの名は記憶に無いが江利チエミがカバーしている。余計な話はやめて本題に戻る。東ローマ帝国はこの地に誕生し、この地に滅びたのである。                    …続く
*ヨーロッパとアジアを結ぶボスフォラス大橋
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [179] 投稿日 [2011/4/8]

ヘレーネの涙(続きの16)

悪夢の寝台特急

 人生もそうだが旅も順調な時にはこれを覆そうとする何かがそっと忍び寄ってくる。アンカラ発22時30分のアンカラ・エクスプレス、イスタンブールまでの九時間半の豪華列車の旅もまたこのツアーの楽しみであった。たっぷりの待ち時間で期待は膨らんでいるなかに新情報が入ってきた。臨時列車が30分早く出るからそれに乗ると言う、早い分には文句は無いから歓んだのが間違いの元だった、災難は何処に潜んでいるかわからない。
 我々の個室は10号車の5,6番と指示されている。10号車は最後列で重いトランクをごろごろ引きずりながらたどり着いたのだが、途中で通り過ぎた8号車、9号車が7号車より前に連なる豪華客車と違っていやに古びている、その上10号車となるとまったく違う車両である。だいいち5,6番の部屋などは陰も形も無い、やってきた車掌に聞くとこの部屋に入れと目の前の部屋を指された。部屋に入ってみると図解で説明されていた洗面台が無い。冷蔵庫の水、ジュースは無料としてあるが冷蔵庫が見つからない。冷蔵庫なんて物は探してみつかる物ではないから狐に騙されたような気がして室内を眺めると座席に申し訳程度の水とジュースが置いてある。タオルがついているはずだがそんなものは陰も形も無い。誰が見たって一等車でないことぐらいは分かるから早速クレームをつけようと添乗員を探すけれど何処にいったものやら。そのうちに9号車に割り当てられた仲間がやってきて室内を見渡す。
「あら、こちらはきれいねぇ、うちのほうはひどいのよ、壁にかびが生えてたりして、あれじゃあ寝られないわよ」
試しに8号車、9号車を覗いてみると設備的には確かに一等車だが汚れきっていて横になれば全身にかゆみが走りそう。臨時列車の車両が足りなくなって何年も車庫に眠っていた車両を引っ張り出したのに違いない。こうなれば添乗員に抗議するしかないのだが添乗員もかわいそうにどうしてよいか判断に苦しんでいる。
 少しばかり冷静になって考えてみると汽車は走り出しているから今更降りるとも言えないし車庫から引っ張り出された一等車よりはこちらのほうが少しはましで不潔で寝られないことは無い。むしろ二等車に乗せられたことを幸せと感じて明日の好転を待つ気持ちに切り替えるしかないな、と諦めるのは早いほうだから寝付くのも早い。ところが何十年ぶりかの夜行列車である、停車する毎に目が覚める。目が覚めると何でこんな仕打ちを受けなければとしゃくの種がうずき出す。                       …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [178] 投稿日 [2011/4/5]

ヘレーネの涙(続きの15)


トルコの白河郷

 トルコ共和国の首都でイスタンブールに次ぐ人口を擁するアンカラから黒海に向かって北上するとサフランボルがある。ガイドによればトルコの白河郷と言うことになるこの街は十七世紀から十九世紀に建てられたオスマントルコ様式の古い木造建築の街である。壁は白い漆喰で塗られていて石畳が何処までも続く。写真の左側はお菓子屋さんで名物の「ロコム」を売っている。ロコムはビスタチオ、アーモンド、ヘーゼルナッツなどが入ったお菓子で和菓子で言えば「ゆべし」や「ぎゅうひ」に似たもちもちの上に真っ白でさらさらの粉砂糖が振りかけてある。トルコを代表する菓子だが地域によってだいぶ違うらしい。
 菓子といえばお茶が欲しくなるがトルコの人はお茶が好きで「チャァ」と言うのを小さいグラスで何杯も飲む。街中を歩いていると四人ぐらいが店先でテーブルを囲んでチャァを飲みながら麻雀をやっている。この国でも年寄りの男は暇らしい。年寄りといえば日本とはかなり事情が違うようで六十歳以上の人はわずか4.8%しかいない、日本では2005年の統計で25.6%だから一桁違うのではと疑ってみる。そして六千七百万人の人口のうち二十五歳以下が三千二百万人だというからこの国の前途は洋々である。ところがそうは単純に理解出来ないところが悩ましいところで、六十歳以上が少ない理由が問題なのだ。先に紹介したお菓子の「ロコム」をはじめトルコの人たちは甘い物が大好きだ、だから糖尿病が多い。そして恐ろしい話だが六十歳前に命を落とす人が多いという。生活習慣というものは死と直面しても変えられないものなのだろうか。
 旅は終章を迎えようとしている。これから再びアンカラに戻りイスタンブールまでの夢の寝台特急が待っている、ここで事件が起きた、といってもアガサクリスティーではない。                  …続く
*写真は木造建築と石畳が美しいサフランボルの街
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [177] 投稿日 [2011/4/1]

ヘレーネの涙(続きの14)





美しき人の国

 トルコ人は元々から現在の地に居たわけではない。十一世紀というから日本で言えば平安時代の中期であろうか、中央アジアの遊牧民であったトルコ民族がこの地に進出してきたのである。従って我々が思っている以上に日本人とは近いところに祖先を持っているのかもしれない。

もっとも二つの民族は全く別のルートを辿り、特にトルコ人はシルクロードやスパイスロードの中心地にいたから多種多様な血が入り混じったわけで風貌だけ見ればかなり違ってはいる。
しかし生活習慣などはかなり近いものもあってお互いに親しみを感じられる。
旅で出会った美しき人達を紹介する。
              …続く
*写真はサフランボルの高校生
それからサフランボルのお嬢さん、
ピンクの子はカッパドキアに両親と遊びに来ていた女の子
黒いカーディガンはバスの運転手の友人の娘、ドライブインでたまたま出あった。
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [176] 投稿日 [2011/3/29]

ヘレーネの涙(続きの13)


 カッパドキアの地層は数億年前に起きたエルジェス山の噴火によって火山灰と溶岩が積み重なり、凝灰岩や溶岩層となったものが長い年月をかけて雨と風で浸食されたが、各層で硬度が違うところから現在見られるような不思議な形の岩が生まれた。きのこ岩はその形によって親子岩、ラクダ岩、ガイドのいう団子三兄弟岩などユニークな岩が立ち並んでいるが、これらの岩もこれからの気の遠くなるような時間を経て形を変えてゆく。形を変え、朽ちてゆくきのこ岩もあれば新しく生まれるきのこ岩もある。きのこ岩の奇観を眺めていると、きのこ岩予備軍と言われるいまだ独立していない岩が見える。この予備軍の中から独立した新しいきのこ岩を見ることが出来るのは何代目の孫なのだろうか。            
 紀元前二十世紀頃インド・ヨーロッパ語族の一派が移動してきて、もともとこの地に住んでいたハッテイ人を支配し、史上初めて鉄器を使用する大帝国、ヒッタイトを興した。この帝国の首都であったハットゥシャシュを訪れている。
3660年も前からあるこの遺跡は城壁の周りをひたすら歩かされる。ひたすら歩いた後には長い階段がある、それでも先へ行くほどそれぞれの感動がある。城壁の角の石組みはエジプトのピラミッド建設に大きな影響を与えたと言うだけあって素人目にも見事であるし、皇帝の門、ライオンの門、突撃の門などはかなりの保存状態である。
 この国は紀元前1530年にメソポタミアのバビロニア王国を滅ぼし、1285年にはエジプトのラムセス二世の軍を撃退した。この時に両国の間で結ばれたのが世界最初の平和条約で「平和条約の書簡」の粘土板が発見されている。すこしばかり離れたところにヤズルカヤ遺跡がある。ハットゥシャシュの神々を祭る神殿で十二神将のレリーフなどがあるが先客がドイツからの観光客、先を急ぐので彼らの間にもぐりこんだがゲルマン民族の巨体の間を右往左往しても結局はまともに遺跡を見ることも出来ず、ガイドのドイツ語のシャワーを浴びるだけだった。                    …続く
*写真は妖精の煙突といわれるきのこ岩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [175] 投稿日 [2011/3/25]

ヘレーネの涙(続きの12)


 スターになった若者の話はしばらく置いて早朝の話から始める。日の出の写真が撮りたくて朝早く起きたのだがどちらの方向が東だかわからない、そんなことは前日に調べておけばいいのだがどうにも気が廻らない、年のせいにはしたくないが全てがその場しのぎである。それでもなんとか東の方向に走るとまさにその時で、いくつもの気球がのんびりと浮かんでいる。山の端が五色の帯に彩られると二筋の光が交差する。カッパドキア海抜千二百メートルの夜明けだ。この時間の気球は日の出を楽しむのが目的のようだが乗ってみたい気もする。ところが格安ツアーにはこんなぜいたくは許されない、オプションにもなっていない。添乗員に聞くと、この会社では安全のために気球には乗せないという。それならばあきらめもつくけれどどうせ二万円も払って乗る客がいないことを見越しているのかもしれない。ガイドの話ではきのこ岩の景観は下から見たほうがよっぽどきれいだし、気球に乗っても損した気分になりますよというけれど、それも貧乏人へのなぐさめかと妙にいじけてしまう。
 さてお待たせのスターになった若者の話です。朝から「妖精の煙突」といわれるきのこ岩のスポットに出かけるとそこはすでに大勢の観光客で満ちている。
突然のことだったが我が仲間の若きイケメンがトルコの女子大生の一群に取り囲まれた。いきなり「写真を一緒に撮らせてほしい」といわれて彼もまんざらではなく、嬉しそうに写真を撮られると次々に「私も、私も」ときりがない。
まさに映画スターか売れっ子のタレントなみでこんなこともあるのかと多少のやっかみ気分で眺めていると今度は我が身に奇跡が起きた。
 一群の女子大生の輪から抜け出した美形が近づいてくるや思いもよらぬ一言に我が耳を疑った。
「写真を撮らしていただいていいですか」
「えっ、私とですか」
それがまた女子大生の一群で一番の美女なのだから「こんな爺さんでいいのか」という言葉を飲み込んだまま彼女の笑顔の横にしなびた顔を並べた。 …続く
*写真はカッパドキアの夜明け、気球が浮いている
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [174] 投稿日 [2011/3/22]

ヘレーネの涙(続きの11)

 見ず知らずの二十数人がたまたまの出会い、その未知の人たちの気持ちがようやく近づいてきた。夕食の後でいつもならば「おやすみなさい」でお別れなのだがこの日は少しばかり違う雰囲気があった。
「上のテラスでお茶でもしませんか?」いつもは控えめだが隠された活発さが見え隠れするご婦人の提唱で宴は始まった。
「部屋のある階からすぐ出られるところにテラスを見つけといたんですよ、ウチヒサール要塞のライトアップも見えますよ」
「ウチヒサールというとあの天空の」
「そう、天空の城ラピュタを見ながらビールを飲みましょうよ」
話が決まれば動きは速いのが酒飲みの常、テラスに上ると誰も居ないのを幸いにテーブルをまとめて人数分の席を作る。ところがである標高千二百メートルの地だから外は寒い、ここで調子に乗って風邪をひいたらせっかくの旅が台無しになる。これからの行動が年の功で、素早く部屋に取って返すと初日の夜に助けてくれたセーターを着込み、念のためにジャンバーまで羽織って万全の体制、これでも最後は寒くなったのだから年寄りの用心深さも馬鹿にしてはいけない。
 レストランからウエイターを呼んでビールやワインを注文すると新たな酒宴が始まる。
カメラ自慢の二人がライトアップされた天空の城を撮している。彼らのような高感度カメラを持ち合わせない当方は奥様方と歓談するしかないと諦めていると天空から声が降ってきた。
「楽しそうにやってますね」
同行の仲間だが二廻り位年下の男女である、夫婦とは思うがそれ以上の詮索は野暮だ。一つ上の階の部屋でなんとベランダがついている、我々の部屋とは大違いだがこれもめぐり合わせだから気にもならない。早速カメラ自慢が月を入れて二人を撮ろうと仰向けにレンズを覗く。
「ワインのいいのがありますから持って行きましょうか」一緒に飲もうよという呼びかけに嬉しい答えが返ってきた。
 酒宴は続き、やがてふくらんでゆく。仲間に二十代の男性が四人いる、この四人が夜の街を散策したあと、階段を上ってテラスから部屋にもどるつもりで通りかかったところを年寄りに取込められた。若い人が入ると場が明るくなる。
彼らは関東の電車区に勤務する車掌さん四人組みで年末年始の多忙な時期を前に英気を養いに来たらしい。四人ともいい男だがこの中でひとり抜きん出たイケメンがいる、これが翌日にはスターになった。       …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [173] 投稿日 [2011/3/18]

ヘレーネの涙(続きの10)


妖精の煙突

 パムッカレからコンヤ平原に入ると樹木は姿を消し、果てることの無い平原が続き、羊の群れが次々と現れる。そして更にカッパドキアに近づくと草木の様子も一段と乏しい荒れ野の景観に変わってゆく。この辺りで作られるトルコ絨毯は名品だがこの自然環境を見ると厳しい自然を逆手にとって名品を作り出した意味がよくわかる。絨毯は羊の毛で織られるのはご存知の通りで、トルコ絨毯特有の模様を織り出すのは糸を草木染にするのである。ところがこの地方ではその草さえも育たない、だから染色が出来ないのだ。そこで考えられたのが羊の毛の自然の色を活かす織り方、黒い部分は黒い羊の毛で、白い部分は白い毛で、そして茶色の羊の毛は茶色の部分を織り出して見事な絨毯が出来上がる。
トルコ人にとっての絨毯は日本人にとっての畳、いや現代ではそれ以上の意味があるのかもしれない。トルコ人と日本人は履物を脱いで家に入ると言うことから見れば世界でも稀有な民族であることから見ても直に座る為の物という感触は大事にされているのだろう。
きのこ風の奇岩が次々と現れるカッパドキアに到着すると先ずは地下住居にもぐりこむ。三世紀の頃迫害を逃れたキリスト教修道士が住み着いて岩をくりぬいて教会に発展したといわれるこの地は、その後ギリシャからの侵攻に備えて地下住居が作られたというが本当のところはわからない。もぐりこんだカイマクルの地下住居は八階建ての地下都市になっていて無数の部屋はもちろんだが炊事場、倉庫、トイレ、教会、墓場、ワイン倉庫なども整っている。中は迷路になっていてギリシャからの攻撃を受けるとこの迷路に誘い込んで各個撃破したらしい。それにしてもいくら逃亡の民とはいえこのような厳しい土地に住み着いたということは何がそうさせたのだろうか、信仰なのだろうか、それとも何が。この夜は洞窟ホテルに泊まった、この旅での最高の夜が待っていた。 …続く
*写真はカッパドキアの丘に立つトルコの兄妹  
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [172] 投稿日 [2011/3/15]

ヘレーネの涙(続きの9)


ベリーダンサーの踊りに不満だらけの観客がうっぷんを晴らすように沸く。ダンサーも主役の座を奪われたようで複雑な笑みを浮かべてはいるが、この女性に任せておけば楽ができると思ったのか乗り乗りの彼女を自由に躍らせている。どんな踊りをやっているのだろうか、ほとんどプロ並の身のこなしでフロアーを滑ってゆく。
こんな調子で何となくショウも終わりかとみていると、さすがにプロフェショナルの本性を現したダンサーはチップをねだって客席をまわりはじめると眼の色が変わる、初めて真剣に踊っている、いや媚を売っている。先ず日本人が狙われた、胸の谷間に札をねじ込む。彼女の胸の谷間は財布だからさすがに深い、どんな細工をしているのか知らないが。こちらに来られても困るから一生懸命ビデオを撮っているふりをしていたら同じテーブルの仲間が捕まった。
日本人が終わると中国人が餌食になる、そうなると彼らは大騒ぎ、いくらのチップか知らないが大勢で騒ぎまくる。ドイツ人の客ははっきりとはねつけた、さすがお堅いというか野暮なゲルマン民族である。トルコの下呂温泉は紅灯の消えぬまま更けてゆく。

パムッカレの街を見下ろす丘の斜面に真っ白な空間が広がる。この地域の温泉水に多く含まれる炭酸カルシュウムが水中の酸素と結合して沈殿し、長い時間を経て形成された石灰棚である。バスが近づくと朝日を浴びた石灰棚は青白く輝く。ガイドの指示どおりタオルを持ってきたのは石灰棚を歩いてみる為である、ところが本来は湯量が豊富でこんな棚状に出来たのだが観光のために湯を使いすぎて枯渇の危機にさらされたから湯量制限をしている。一日おきに半分ずつ流しているから途中まではお湯の流れていないところをはだしで歩くから足の裏が痛い。それでも透き通った湯が溜まっては流れる石灰棚に到達するとこの世の物とは思われぬ白い棚を歩き続けた。写真の左上を見ていただきたい、豆粒が人である、この比較からこの棚のスケールを想像してもらえるだろうか。
                            …続く
*写真はパムッカレの石灰棚
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [171] 投稿日 [2011/3/11]

ヘレーネの涙(続きの8)

トルコは温泉の国である、そのてん日本と似ている。ただし裸では入浴しない、水着をつける。水着着用だから混浴でも風紀は乱されない。ガイドの言うトルコの下呂温泉に着いた、パムッカレである。今までのホテルでもトルコ風呂の設備はあったけれど有料だしガイドも薦めないからご遠慮願ってきたがここはタダで入れる、そのうえ泉質は一番だというから入らない理由は無い。
入る前に風呂の入り口で少しばかり偵察してみると部屋から水着に着替えて出てくる若い女性もいるが、ほとんどはロッカーで着替えを済ます、男女の別は無い。円形のプール状の露天風呂は中央に岩山が君臨していて頻繁に湯を吹き上げている。星明りの下でよく見えないがコーヒーのようにも思える湯に片足を浸けると底に溜まったぬるりとした物が足裏にからみつく。湯の花なのか何かの不純物なのかは知らないが悪い気持ちではない。首まで沈むと赤土の臭いもするが心地良いぬめりが全身を包んでくれる。若い人たちが中央に寄って噴出する湯を浴びながら歓声をあげている。顔をひと撫でして夜空を見上げれば星が瞬いて月も出ている。トルコの国旗は月と星だったよな、何気なくそんなことが頭をよぎる。女房は底の泥をすくっては美容に良いとか言って体になすりつけたりしている。今更とは思っても口に出すわけにはいかないから黙ってながめている。湯に浸かったままそうしてずいぶん長い時間を過ごした。ぼつぼつ出ましょうか、仲間に声を掛けた。
速いテンポでトルコの民族音楽が始まった、ホテルでのベリーダンス・ショーがワンドリンクで観られるというので会場の最前列に座る。ホテルの余興だから簡単なものでCDプレイヤーから流れる音をバックに男が一人ギターをかき鳴らしている。聞いていて時間稼ぎであることは明らかなのだが観客はビールなどを飲みながらじっと耐えている。一つのテーブルを八人もが取り囲んでいて水のボトル一本で済ませようとした某国のツアー客がウエイターにクレームをつけられて、しぶしぶ水を人数分注文している。さすがに最近近隣を騒がす大国の民である。散々じらした末にダンサーが出てきた。ベリーダンスは映画では何度も観ていて妙齢のご婦人が美しい体を震わせて官能の世界に取り込んでくれるものと理解しているが、どうせこんなところで安く見せるんだから期待は出来ないとは思っていた。予想は幸か不幸か外れない、妙齢のレベルをかなり下げても無理がある。こんなところで真面目にやってられないわよ、とでもいいたげな身のこなし、とにかくお腹が震えない。ただ手足を動かしながらぐるぐると廻るだけ。そのうちに客の一人を呼び入れて一緒に踊り出したのだがこの人が並の人じゃあない。中国人のツアー客の一人でちょっと観だけでかなり心得のあることが判る、この人が会場の人気をさらった。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [170] 投稿日 [2011/3/8]

ヘレーネの涙(続きの7)

 ネジアティ・ウトカン元駐日トルコ大使の話は
「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子供たちでさえエルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それでテヘランで困っている日本人を助けようとトルコ航空機が飛んだのです」
 こんなことがあって串本町では近年特に積極的にトルコとの友好関係を築いていると串本町のホームページでも伝えている。
 ツアーは「デラックスバスで行く世界遺産の旅」だからバスはデラックスでなければならない。横三人掛けで足元も充分で至極満足なのだが充分すぎて足の短い者には脚掛けに脚が届かないのがしゃくの種、それでも行き逢ったツアー客が「凄いバスね」などと羨ましげに見ているのは優越感をくすぐる。ただしその分食事にしわ寄せがいって隣のツアーと差がついたりするのが悩ましい。
 ガイドの話は日本人の唄ったトルコ語の歌に移ってゆく。先ずは江利チエミの「ウシュクダラ」これは1953年にアーサー・キットが唄ったヒット曲をカバーしたものだが、彼に言わせるとトルコ語の発音がいいと言う。次にこの歌手は誰でしょうとクイズ付きで曲が流れてきたのが「ムスターファ」この日は最前席に座っていたので「坂本 九」と答えて「バックコーラスはダニー飯田とパラダイスキング」と続けたらバスの中は感嘆の声「この時代の話は何でも聞いて下さい」と見得を切った。これはウシュクダラよりも少し後だがトルコのコーラスグループが唄ったのを九ちゃんがカバーした、邦題は「悲しき六十歳」。
 つまらない見得を切ったものだがその日の昼食時に早速質問が飛んできた。
「EH エリックはトルコ人ですよねぇ、弟が岡田真澄の」
いきなり古い話の速射を受けてとまどったけれど下手な見得を切った以上は返さなきゃならない。
「岡田真澄は母親がデンマーク人でお父さんが日本人ですからエリックも同じですね、ロイ・ジェームスがトルコ人ですよ」
 ロイ・ジェームス懐かしい名前である、民放が始まった頃は売れっ子だった。
特に「洋酒の寿屋がお贈りする・・・」で始まる「トリス・ジャズゲーム」は人気番組で有楽町のビデオホールに公開録音を何度か観にいった。ピアノ中村八大、ベース上田剛、テーナーサックス松本英彦、ドラムジョージ川口という当時の超一流がレギュラーで、ビブラフォンの平岡精二などがゲストで出たりして当時の高校生を憧れの世界に誘ってくれた。
 バスは間もなくトルコの下呂温泉に到着する。       …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [169] 投稿日 [2011/3/4]

ヘレーネの涙(続きの6)


トルコの下呂温泉

 「一に健康二に天候」は万全なものになってきた、あとは「三、四が無くて五にガイド」である。ガイドはトルコの人だがこの人が素晴らしい、とにかく知識が豊富である、トルコの知識だけではない、日本の知識も並じゃあない。
それに日本語が上手い、ガイドの中には日本語が上手いといってもやっぱり何処かが違っていて、聞いているうちにこちらが疲れてしまう人も多いのだがこの人は能弁な「日本人」である。バスはこの人が「日本の下呂温泉」という場所に向かっている。
 車中ではガイドがトルコと日本の緊密さを語っている。
 1890年9月16日の夜、明治天皇との謁見を終えて帰国の途中だったオスマン・トルコの軍艦エルトゥールル号が、台風のために本州最南端の地和歌山県串本町大島野崎沖で沈没しました。この時大島の人たちは自らの体温で温もりを与えるなど献身的に生存者の救助を行い、五百四十人の死者を出したけれど六十九人の命を救ったのです。大島樫野埼には慰霊碑が建立され、トルコと串本町の友好のしるしとして記念館も建てられています。
 それからおよそ百年の歳月が流れます。1985年3月、イラン・イラク戦争が勃発、イラクのサダム・フセインは「四十時間後にイランの上空を飛ぶ飛行機はすべて打ち落とす」と発表しました。イランに住んでいた日本人達は慌ててテヘラン空港に向かったけれど、どの飛行機も満席で乗れません。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したけれど、日本政府はすばやい決定が出来ない為に空港にいた日本人はパニック状態に陥ってしまったのでした。そこに一機のトルコ航空の飛行機が現れて日本人二百六十人全員を乗せると成田に向かって飛び立ったのです。タイムリミットの一時間十五分前の事でした。
 なぜトルコ航空機が来てくれたのか日本政府もマスコミも分かりませんでしたがこの時元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏がその歴史的理由を明かしたのです。
                             …続く
*写真はドライブインで出会った両親と娘
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [168] 投稿日 [2011/3/1]

ヘレーネの涙(続きの5)


 ヘラクレスの門を潜るとクレテス通りがはるか彼方のケルスス図書館に続く。右側は邸宅の跡で左側にはトラヤヌスの泉やローマ皇帝ハドリアヌスが建てた神殿が不思議なほどしっかりと残されている。公衆トイレには驚かされる、便座式に穴の開いた椅子式トイレの下を下水が流れている、足元には手洗い用の水が流れる水路がある。完全水洗で用を足した後は目の前に流れる水をすくって後始末をする。この時代から千年も後の十七世紀ヨーロッパ大都市の不衛生さに比べたらどちらが新しい時代だかわからない。
 クレテス通りを更に進んで三叉路に達すると勝利の女神ニケのレリーフがある、ルーブル美術館にあるサモトラケのニケは頭が無いがこのレリーフを見ると見ることの出来ない頭部を想像できる。ちなみにナイキのロゴマークはこのニケの羽の形がヒントだという。
 この道の突き当たりはセルスス図書館、当時世界の三大図書館のひとつと言われたほどの蔵書を誇っていた。ここから右に曲がると娼婦宿がある。職業として成り立った最初は売春だったと言うがこの時代にこれほどしっかりとした宿が出来ていたのは驚きである。おそらくは高級娼婦宿だったのだろう。小さいといっても十畳は楽にある小部屋を覗いてゆくと今にも妙齢のご婦人が微笑みながら現れるようで妙などきどき感を禁じえない。紀元前百八十年頃には世界の三大都市のひとつだったと言われているがその頃には共和制ローマの支配下にあって、紀元前二十年代にはアントニウスがクレオパトラと共にしばし滞在したこともある。そのクレオパトラが行進したというメイン道路、アルカディアン通りは別名クレオパトラ通りとも言われて港に通じる道なのだが天下の美女クレオパトラと聞いただけで特別な道に見えてくる。クレオパトラ通りを港を背にして行き着くところに大劇場がある。現在残されている遺跡は七世紀のものが主流だというが、それでも千四百年はたっている。それがこの保存状態である、正門から場内に入ると客席が見事に残されている、音響効果は素晴らしい、山の斜面を利用していることが地震国トルコの地でもこの日まで残された最大の理由だという。古人の技術の凄さにただ驚くばかりである。           …続く
*写真は山の斜面を利用して造られた大劇場、地震に耐えてきた。
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [167] 投稿日 [2011/2/25]

ヘレーネの涙(続きの4)


 トロイの話は続く、早く先へ行けという声も聞こえそうだが筆者のトロイに対する思い入れの深さから許していただきたい。
 まったくの余談にしかすぎないのだが古代ローマ帝国の建国伝説にトロイは繋がっている。ギリシャ連合軍の木馬作戦で炎上するトロイの城内から脱出に成功した一群があった。美と愛の女神ビーナス(アフロデーテ)、そうですこの悲劇の原因を作った女神が人間の男との間にもうけた男、トロイ国王の婿になっていたアエネアスが老いた父と息子、そして数人の男女を連れての脱出であった。彼らの逃亡の旅はテロス島、クレタ島などを経てローマの近くに定住し息子の代にアルバロンガという都市を建設して王になる。それから四百年の歳月が流れた。アルバロンガの王の死後、王座を狙う叔父によって巫女にされた王女が川のほとりでまどろんでいると軍神マルスが一目惚れして彼女と愛を交わす、そして双子が生まれた。双子は叔父によって籠に入れられて川に流され茂みに引っかかった。泣き声を聞きつけたのは付近を通りかかった狼で双子は狼の乳で飢えを免れた。その双子、ロムルスとレムスを羊飼いが拾い、彼らが成長の末にアルバロンガを攻略して復讐を遂げた後現在のローマに都市を建設したという。
 トロイの遺跡は三千二百年の出来事を見続けてきたのだろうか、それともシュリーマンに発掘されるまでは深い眠りについていたのだろうか、雨に濡れていた木馬も乾いてきた。この時から快晴が続き体も快調、ヘレーネの涙雨はすべての不運を洗い流してくれたようだ。

エフェスの遺跡
 
 トロイからエーゲ海の沿岸沿いに南下する。海沿いと言っても山の中をバスは走る、赤松の山中は日本の見慣れた風景に重なる。とてもトルコの地とは思えない。
 トロイから六時間走るとエフェスに着く、敷内に入るとその広大さにびっくり。そして保存状態の良さに感嘆、これほどの遺跡はめったに見られない。
と意気込んだが、その奥深さは想像を越えていた。        …続く
*写真はヘラクレスの門から見たクレテス通り  
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [166] 投稿日 [2011/2/22]

ヘレーネの涙(続きの3)


 この戦は十年の長きにわたって続いた。アキレスの踵で知られる不死身の勇者アキレスも唯一の欠点アキレス腱を矢で射られて命を落とした。アキレスが生まれたとき母は彼を逆さに吊るして冥界のステュクス河に全身を浸けたのでアキレスは不死身となった。しかし母が掴んでいたアキレスの踵だけは河の水に浸かることはなかった、ここが彼のウイークポイントになった。「アキレス腱」はこの故事から名付けられている。
ホメロスの詩「イリアス」に出てくるこの戦とこの都市は神話の世界の物と信じ込まれていた。ところがこれを実在する物と信じて疑わなかったドイツの考古学者シュリーマンが発掘を続けて1870年に遺跡に辿りついた。この地に集落が出来たのは紀元前三千年ごろ、その後栄枯盛衰が繰り返され紀元四百年までの間に九つの時代の都市が重なり合ったので九つの時代の物が混在するという複雑な遺跡になっている。ちなみにトロイ戦争のあった時代は第七市とみられている。
 十年にわたったトロイの戦はあっけなく終わった。退却したと見せかけたギリシャ軍が残していった木馬を城内に引き入れて戦勝の祝宴となり、城内が寝静まると木馬から這い出してきたギリシャ兵が城門を開きトロイの城は陥落したという。
 トロイの丘の向こうには平野が広がっている。トロイ戦争の時代にはすぐ傍まで迫っていた海岸線も堆積した土砂によって遠くに去った。そして港としての価値を無くしたトロイもまた歴史の舞台から去ったのである。
 遺跡の丘に立って遠くを見詰めると今は畑になっている向こうに押し寄せるギリシャの大艦隊が見えるようである。そして城壁にたつ我の傍らには絶世の美女ヘレーネが、いやロッサナ・ポデスタが微笑んでいる。
紀元前千九百年から千三百年頃、第六市の時代、東の塔と城壁は見事な石積みが続く。更に驚きは紀元前二千六百年から二千三百年の第二市の時代に作られた階段、大理石の敷石がしっかりと整備されている。紀元前九百年から三百五十年の第八市に作られた生贄場、羊を殺して祭壇に捧げる様子がよく分かる。
一つ一つの遺跡を訪ねた後はトロイの木馬、これはもう想像の中にあるものだから再現された物がどうであろうと意に関するものではない。 …続く
*写真は生贄を捧げる祭壇です
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [165] 投稿日 [2011/2/18]

ヘレーネの涙(続きの2)

ヨーロッパ側のゲリボル半島にあるゲリボル港からダーダネルス海峡をフエリでアジア側のラプセキ港に渡る。ゲリボルはビザンチン帝国の要塞があり、軍隊用の食料やワインの貯蔵庫があったりして栄えたが、1354年の大地震で壊滅、その後トルコ人が移り住み、オスマン帝国がヨーロッパで初めて手に入れた街となり、ここからバルカン半島に勢力を伸ばす端緒となった。そんな古い街だから雨に煙っての風情は心憎い。港のカフェテラレストランで名物の鯖料理が予想外に旨い、鯖の料理は臭みを取るのに苦労するのだがそれをほとんど感じさせないのは獲れたばかりの新鮮さが理由かもしれない。道端の屋台では焼き栗の試食をさせてもらう、旨いけれどこれはまだ我慢したほうがいい。
かもめに見送られての船出から浪は高く雨は小降りだが風は強まってきた。
女房の姿が見えないと思ったらカメラを覗きながら甲板をうろうろしている。回復傾向にあるとはいっても半病人に近い身としては無理は禁物とキャビンのストーブの隣で英気を養っている。乗客は国際色豊かで巨体揃いのドイツ人が目立つ。ほかにイタリア、そして今や世界中で見られる中国、韓国の人、日本人客もいくつかのツアーが混在している。
 紀元前千二百年頃に起こったトロイ戦争には座興から起こった女神達の争いがおおいに絡んでいる。ある日の神々の宴でゼウスの妻ヘラ、戦いの神アテナ、そして美の女神アフロデーテの三人が、誰が一番美しいかを競い、ゼウスに判断を迫った。ゼウスとしてもうっかりと判定するわけにもいかず、トロイ王家の王子パリスに判定をゆだねた。ここがゼウスのずるいところなのだが若いパリスにはそんなことは分からない。三人の女神達はそれぞれ賄賂をちらつかせて誘ったがアフロデーテが提案した絶世の美女として名高いヘレーネとの結婚につられたパリスはアフロデーテの勝ちを宣言した。ところがこれが不幸の始まりでヘレーネはれっきとしたスパルタの王妃、子供もいる。この略奪婚に怒ったスパルタ王はギリシャ連合軍の大艦隊を率いてトロイに迫った。
 余談だが映画「トロイのヘレン」が公開された時高校三年生であった筆者は三万人の美女の中から選ばれてヘレン役を演じたロッサナ・ポデスタに憧れた、ギリシャの女神とはこんなに美しいものかと思った。その想いが五十年を越えた年月を隔てて、なおくっきりとヘレンの面影として浮かび上がらせてくれる。
 ところでこのロッサナ・ポデスタだがあまりにもヘレン役にはまりすぎていた。だからというわけでもないのだろうがその後の出演作では印象が薄い、「黄金の七人」での魅力も「トロイのヘレン」にはかなわない。そんなことを言っても理解に苦しむだろうから写真をお見せしたいのだがあいにく持ち合わせが無い、残念です。ちなみにヘレンはヘレーネの英語読みである。 …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [164] 投稿日 [2011/2/15]

ヘレーネの涙(続きの1)



トロイの丘

 ヘレーネの涙雨が三千二百年の歳月を経たトロイの赤茶けた城壁を濡らしている。トルコの世界遺産を巡る旅の二日目、「一に健康、二に天候、三、四が無くて五にガイド」に照らしてみればこの旅の不運さはなんということだろう。前夜はセーターを着たままベッドの中で震えていたのである。成田からの直行便でも十二時間、イスタンブールは夜の七時を過ぎていた。空港近くのホテルに草鞋を脱ぐと、バスタブに湯を溜めるのもおっくうなのでシャワーで済ませたのが間違いの元だったのかもしれない。エアコンが壊れているのか少しも暖かくならないからベッドにもぐりこんだのだが寒い、赤いセーターを引っ張り出してみたけれどそれでも寒さは治まらない。それでも無いよりはましで時とともに効果を現してくる。セーターは持ってくるつもりではなかったが出発の前夜に妻の友人から電話があった。友人は前日にトルコから帰ってきたという。
「カッパドキアでは雪が降ったわよ」
この一言がセーターに繋がったのは幸いで、寒さは落ち着いてきたが下腹がグルグルと鳴りだした。不安の雲が湧き上がってくる、もしかしてノロウイルスだったら、旅は中止、入院隔離、強制送還、思いは巡って一時間毎に目が覚める、その間は又不安との格闘で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の心地して、芭蕉が大阪御堂筋の旅宿で味わった思いもかくやと俳聖の心中を思いやるのも夢のうち。ほとんど寝ずの夜が明けても芯の悪寒は治まらない、食欲も無いのでパンひとつとスープで済ました朝食がここで奇跡を起こした。レストランには妻に笑われながらもセーターの上にジャンバーまで着込んで行った。ドイツ人の観光客などは半袖シャツ一枚である、病人にしてもさすがに暑い、全身に汗が噴出した。体の芯に巣くっていた寒さはうそのように消えて下腹のグルグルも跡形も無し、空腹を覚えてクロワッサンの一つぐらいと思ったけれど、ここは調子に乗らず我慢のしどころ、旅は始まったばかり、ここで完治させとかないと何時何処でまた同じ苦しみを味わうことになるかもしれない。原因は下腹の冷えでノロウイルスでないことだけははっきりしたのだから幸いである。   …続く
*写真は再現されたトロイの木馬                  
                             溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [163] 投稿日 [2011/2/11]

香港1967(続きの11)

 写真では水面に顔を出した毛沢東が元気そうな顔を見せている、ところが毛沢東の顎にある黒子の位置が微妙に違うという、この写真も影武者だという噂も流れている。四十年後の現代ならば首の挿げ替えなど簡単だが、この時代では写真は真実のみを写していると信じられている。この時期の毛沢東は権力闘争の真っ只中にいる。この年香港も紅衛兵による騒乱の渦に巻き込まれてゆく。
 洗髪して隣を見るとタレントの鈴木某がいる、相手は信次郎を知るはずも無いが異国に来て日本人に声を掛けられるとすぐに親しくなるのは自然の理かもしれない。ぜひ行ってみたいという上海風呂に案内して「スペシャル垢落し」なんかをやってるうちに意気投合していつもの小料理屋の止まり木に座った。
「鈴木君の生まれは何処なの?」
「鎌倉です」
そんな話から彼の同級生が信次郎の会社の後輩だって事がわかったりして話は盛り上がる。
「こないだイーグルネストにミッキーが出てたよ」
イーグルネストはヒルトンホテルの最上階にあるナイトクラブである。
「ミッキー安川ですか?」
「ミッキー・カーティスだよ、日本人客がかなり入ってたよ、私はあまり興味は無くてご相伴で聴いたんだけどピアノの弾き語りでそこそこやってたよ」
「そうですか」とあまり興味はなさそう
「君もせっかく来たんだから何かやったらどう」
「いやいや、今回は全くの静養ですから」
「静養できるくらい暇になったんだ」
「きついこと言いますね、その通りだから仕方が無いけど」
「まだお互い二十代だからね、先は長いよ」
彼はこの時はまだまだ売れっ子だったからこんな冗談も洒落で受け流してくれている。

もう少し夜を楽しみたいという彼に別れを告げて信次郎は九竜サイトから香港サイトに最終便の出たフェリに替わるワラワラで渡ると、真っ直ぐにヒルトンホテルに向かった。酒を飲むとラーメンが食べたくなるのはこの男の習性で、日本式のラーメンの無い香港ではこのホテルの中地下にあるレストランでオニオンスープを愛用している。
 半地下のウィンドウに向かったカウンターから低い視線で見る深夜の香港の街は全ての雑多な物を闇に消し去って街燈のみが白くぼやけている。陶製のふたを開けるとあめ色のオニオンスープからの芳香が鼻腔をくすぐる。パルメザンチーズをたっぷりと振りかけて一口すするとあつあつの液体が下唇を焼きながら口中に流れ込んでくる。チーズと一緒にオニオンを舌に乗せる、滑らかなオニオンにチーズが絡んで舌にすがりついてくる。胃の中のブランデーの残りが大あぐらをかいているところへ「ちょっと席を空けてくださいよ」とオニオンが滑り込んでゆく。ブランデーはいつものことだから「どうぞ、どうぞ、お待ちしてました」と席を空ける、信次郎の背中にうっすらと汗がにじんできた。
 百万ドルの夜景は瞬くことを知らずに南シナ海の闇に浮かんでいる。   

おわり
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [162] 投稿日 [2011/2/8]

香港1967(続きの10)

「さすがに女房も慌てたらしいけど小さな息子にしてみれば何年も会っていない男だから、突然現れた人をパパと認識出来なかったとしても無理は無いんだよな。それよりも予告無しに帰って驚かせようとした俺のすけべ心が仇になったんだな、電話の一本も入れておけば女房だってパパが帰ってくるんですよと息子に言い含めることも出来ただろうから、こんな悲劇を見なずにすんだんだろうけどね」
悲しい話ではあるけれど単身赴任の長いパパにしてみればよくある話らしい。そんな事があってからの奥さんは毎朝彼の写真を前にして「パパにご挨拶しましょうね」と顔を忘れないようにする為に息子のトレーニングを続けている。
話がしめっぽくなったので河岸を替えて飲みなおすことにする。日本人の女将さんが一人でやっているカウンターだけの小料理屋に席を移すと二人は軽口を叩きながら飲み続け、ぼつぼつお開きと帰りの船上に居る。
「信次郎さんじゃないの」
突然声を掛けてきたのは銀行マンの高井さん、一ツ橋出身の香港在住者の集いの帰りだそうでかなりご機嫌。心地良い潮風に吹かれて歌を唄いだしたがこの人たちには敗戦前のバンカラの気風が残っているのかもしれない。唄い始めたのは「ローレライ」十人ちかくの合唱だから乗客の目をひくのは止むを得ない。
「香港でドイツの歌なんか何故唄うんだ」唄い終わると前の席にいた英国人が聞いてくる。
「今渡っている海をライン川に見立てて唄ってるんじゃないの」と信次郎が応えれば、ここをライン川とどうやったら感じられるのかねと不審の表情は変わらない。香港島に着いてみればこれが最終便らしい、幸いでした。
 余談だがフェリの便が無くなっても別に困ることは無い。もぐりの業者がいて「ワラワラ」という小船を出す。料金はフェリの倍以上だがたかが知れている。小船に詰め込まれて海面すれすれの位置を走るのも風情がある。
香港の床屋は耳掃除専門のおじさんが居て散髪の後で心地よく穴をほじくってくれる、日本でもやってくれるところはあるが普通の理髪店ではまじない程度に耳掻きを動かすだけだから後でやり直さなければならない。理髪中は新聞や雑誌が読めるようにしてくれる。シーツ状の布を首からかけてくれるのは同じだが両手首だけを出してクリップで留めてくれるから掌は自由に使える。時は旧正月が過ぎて間もない頃、信次郎は理髪椅子に座りショートカットをしてもらいながら雑誌を読んでいる。中国の雑誌だが写真があるからある程度は楽しめる。最近は毛沢東の写真が多い、この雑誌にも彼が揚子江を泳いでいる写真が載っている、健康のアッピールだろう。          …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [161] 投稿日 [2011/2/4]

香港1967(続きの9)

通い始めた潮風が心地よい、ビールがもう少し冷えていれば極楽なんだろうけれど。舟遊びは続く、艪を漕ぐのは中年の親父がほとんどだが、客引きの中に可愛い少姐(シュウチェ)がいた時がある。彼女に船が漕げるかと聞けば漕げると応えて、お前が漕ぐのなら乗ってもいいよと言えばこれで商談成立。船頭さんでもやぼな男よりは三橋美智也じゃないけれど娘船頭さんがいい。この日は特別に楽しかった。波のほとんど無い入江だから船頭の腕はたいして問題ではない。それに竿は三年艪は三月といって艪を漕ぐのはそれほどではないらしい。途中マッサージの船に寄る。並んだ数艘の小船に一人ずつマッサージの女性が座っている、ほとんどが眼の不自由な人らしい。乗り移った船にはマットが敷いてあって、腹ばいになると全身を揉み解してくれる。道中にはそのほかに怪しげな船もあるが、さすがに恐ろしくて近寄ることはしない。
ナイトスポットとしてはボールルーム、舞廰、がきらびやかに軒を連ねているけれど、ここはナイトクラブの雰囲気で客の一人一人に女性がつく。チークダンスを踊ったりしながら話をつけて連れ出すのが普通で、店には連れ出し料を払う。連れ出した後はどうなるかは本人次第だから霧の中。こんな様子だから客は一時的に滞在している人が主体で、駐在員は個人的にはそんな所に足を向けない。日本からも沢山の店が来ていて築地の料亭金田中もミラマホテルの中に店を出している。ここの女性達は全て東京から派遣されていて寮生活をさせられているのだが気のいい子ばかりで気楽に飲める。
村山さんと信次郎の二人はリザーブしてある村山さんのヘネシーをオンザロックで飲っている。ブランデーはブランデーグラスを掌に包みながらゆっくりと飲むものと思っていたのだが、香港では水やソーダをドボドボと注ぎ足して割飲する、さすがに信次郎はそこまでは出来ない。ちなみに信次郎はヘネシーではなくクルバジェのVSOPをオンザロックで飲っている。値段はヘネシーの三ツ星と同じ二十三香港ドルだから千四百円くらい、この時の日本では関税も高かったからそんな値段で買えるわけも無く個人的には高嶺の花だったがここでは気楽に飲める。
「信さんよ、結婚するとなあ、いろんなことがあるんだよ」
話が信次郎の結婚の事に飛ぶと声を落とした村山さんが語り出した、かなり酔っている。
「今年の初めに東京に帰ったんだよ、息子にもしばらく会ってなかったからどんなに大きくなってるか楽しみにしてたんだ。それがだよ、顔を合わせたとたん何て言ったと思う?、このおじちゃん誰?、だよ」
                              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [160] 投稿日 [2011/2/1]

香港1967(続きの8)

香港は香港島と九竜半島、それに千八百九十八年からイギリスに九十九年の期限付きで租借された新界からなっている。信次郎の事務所も住まいも香港島にある。香港島から歓楽街のある九竜半島にはフェリで渡る、現在のような地下道や地下鉄などは無い。一等と二等があって二等はかなりの匂いが入り混じって独特の雰囲気がある、日本人や英国人はほとんど乗らない。一等は船の前後に位置してキャビンがあり、木製の長椅子だがゆったりできる。この一等を分けて更に別室がある、一等客は自由に行き来できるのだが何故こんな物があるのか不思議である。中国人の友人に聞けば、ある時代までははっきりと仕切られていたらしい。偉い人専用だったというから英国人専用だったのだろう。
 半年ほど時計の針を戻す。香港の夏は蒸し暑い、エアコンから出る水が一日でバケツ一杯分にもなる。事務所からの帰り支度をしていた信次郎に友人の村山さんからの電話が鳴った。村山さんは大手商社と地元との合弁会社に派遣されて五年になる、その前は上海に居たというから海外は長い。流暢な北京語を話し、広東語も達者である。
「久しぶりに舟遊びに連れて行ってくれよ」
「いいですよ、天星碼頭(ティンシンマートウ)で会いましょう」
天星碼頭はスターフェリの発着場である、フェリに乗り込んだ信次郎と村山さんは九竜側に着くと早速タクシーで十分足らずの所にある小さな湾に向かう。
 道路いっぱいに並んだ屋台の一つに座ると肉絲炒麺(ロキシーチャウミン)と店の親父に告げる。この辺りでは日本人を含めて外国人はほとんど眼にしない。見渡したところ不衛生といえば確かだが充分に火を通した物だから心配は無い、と自らに言い聞かせている、何よりも安くて旨いのがいい。
 お腹の落ち着いたところで少し散歩しながら海のほうに向かう。これから楽しもうとしている舟遊びは別の友人から教えてもらったが先日村山さんを案内したらひどく気に入ってくれた、長くこの地に居る彼も知らなかったらしい。
夕暮れ時の舟遊びは値段の交渉から楽しみである。海岸にたむろしている若い客引きや子どもの客引きが群がってきて、そのうちの一人を選んで交渉する、勿論広東語しか通じないから余計に面白い。小舟で二時間湾内を巡って十ドルだと言う、香港ドルは六十円だから六百円、これを三ドルにまけろと言い値して交渉の末に五ドルで決着。いつもこんな程度で船賃は決まったが、日本人のほとんどは言い値で乗っている、ちなみに広東人は三ドルで乗る。涼風のなかを船は漕ぎ出してゆく。行くほどにビールや食べ物を売る船が寄ってきて、更には楽隊の船も近寄って来る。日本人と見れば決まって夜来香を胡弓の音も淋しげに演奏して三曲いくらとかで聴かせてくれる。     …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [159] 投稿日 [2011/1/28]

香港1967(続きの7)

余談だが、この時おまけにフイルムを五本つけてくれた、一本三分の撮影可能だから十五分、これが信次郎の新婚旅行の記録になる。さて問題はこの後だ、撮したのはいいけれどそれだけでは人に見せられない、他人どころか我が身さえ見ることも出来ない。大枚を払って映写機を買ったのは新婚旅行から帰って国内勤務の厳しい現実を味わってからだ。海外手当てが無くなったから何分の一かの給料でどうやって二人暮らそうかという時だから、思い切った買い物である。安売りの家電量販店など無い時代だからほとんどが定価販売、幸いに広告代理店にいる友人の縁で安く買えたのは幸いだった。八ミリのカメラと映写機が揃えば元々が動画好きの信次郎である、間もなく長女が生まれると動画記録に熱中する。娘の記録だからその事自体は結構なことなのだが結構でないのが費用である。この三分のフイルムは現像代を含めて千五百円、一才の記念版は一時間だったからフイルムに掛かる費用は二十本で三万円、安月給の一ヶ月分である。こんな費用が次々と生まれてくる子供達の日常やら夏休みのイベントなどに費やされて信次郎の小遣いの大半はこれに消えた。
昼飯は日本人クラブに限ったわけではない、「飲茶」にもたびたび通う。若い女の子が日本の駅弁売りのように首から紐で吊るした大きなケースに蒸篭に入れた焼売や饅頭などを「シュウマイ~」などといいながら店内を廻る、これが情緒があっていいのだが四十年も後の時代では消えてしまったらしい、人件費の高騰が原因だといわれている。スープとか麺類はウエイターが注文を取りに来る、信次郎は卵を溶いたスープが好きで自宅の阿嗎にジェスチャーを駆使して習った鶏蛋(ガイタン)を知っていたから特性の卵スープも楽に注文できる。勘定はそのテーブルの担当ウエイターに売票(マイタン)と言えば伝票にさらさらと書いてくれるから入り口にいる会計に持ってゆけばいい。手軽で旨い物が好きなだけ食べられるから繁盛している。
信次郎がとぐろを巻いている麦当労道(マットンロウト)は別名日本人村とも云われている、日本人の住人が多いからなのだが信次郎は好んでここに住んでいるわけでは無い。前任者がこの地区に住んでいてその縁でここに住まわせられただけの話だが今のところ満足している。この地区の日本人は交流も盛んで独身の信次郎は気軽に呼ばれて行く。エレベーター会社の松山さんは料理が得意でプロ並の腕だが奥さんに言わせれば「あれだけたっぷりと鰹節を使えば誰だって美味しいのが作れますよ」だそうだ。この人はまた編み物が好きで食事時以外は客の前でも両手を動かしている。奥さんや子供たちのセーターは全て彼の作品、こんな趣味もいいな、と思わせるものがあるが家族はあまり有難味を感じていない。                    …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [158] 投稿日 [2011/1/25]

香港1967(続きの6)

 香港島の中心部、信次郎の事務所から五分程度のビルに日本人クラブはある。会員はこの地に進出している日本企業や官庁の出先などが会員になっているが個人会員もかなりいる。当然のことだが個人会員の会費のほうが安いので一人駐在の信次郎は個人会員として登録されている。会員は日本人に限らない、中国人も特別会員として登録されていれば自由に出入りできるし、非会員でも会員の同伴であればフリーである。昼食時や夜には情報交換もかねた会員達で賑わう。昼食を取っている信次郎のテーブルになれなれしく寄ってきた中国人がいる。この地に赴任してきて間もない頃だから、なんとなく気安い気分になるこのクラブで中国人とはいえ流暢な日本語を話すこの男のペースに乗りそうになるが、体制を立て直して観察するとどうにもうさんくさい臭いがする。適当にあしらって退散させたがすぐにチエックが入った。
「信次郎さん、あの男とは関わりあわないほうがいいですよ、評判悪い男ですからね」
この友人がどこで見ていたのかは知らないが常に監視されているようであまりいい気持ちではない。それでも生き馬の目を抜く香港で日本でののんびり社会しか知らない若造が危険なめにあわないように見守ってくれているのはありがたい。
ここのレストランのメニューは当然のことながら日本食だけれど日本食もどきと言ったほうがいいのかもしれない。天ぷらなどは人気のメニューだが天ぷらというよりはフリッターのようで長崎の卓袱料理にでてくる長崎天ぷらに近い。ウエイターは広東人がほとんどで日本語も解すが安心は出来ない、彼らが書いたメモを確認しておかないと別物が出てきたりする。そのかわり愛想だけはいいから気持ちよく食事が出来る。支払は全てサインで翌月に請求書が来る、本当は細かくチエックしなければならないのだろうが彼にとってそれほどの金額でもないから無頓着に支払うのは独身貴族の故か。
全くの偶然でフジフイルムの藤井さんとテーブルを一緒した、この人の事はフジフイルムの人だということを知っているという程度で言葉を交わすのは初めてである。たまたま話が信次郎の結婚になった。
「新婚旅行には八ミリ撮影機がいるんじゃないの」
「欲しいんだけど高値だからね」
「値段はまかせとけよ、三時過ぎには用意しとくから事務所に来てよ」
妙な成り行きでズームレンズ付きのシングルエイトを買わされるはめになったがこれが信次郎と動画を生涯結びつけることになる。藤井さんと話をすることはその後一度としてない、こんな不思議な因縁もある。      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [157] 投稿日 [2011/1/21]

香港1967(続きの5)

 翌朝のことである、トーストとコーヒーそれにオレンジの朝食を運んできた阿嗎が言う
「先生、冷蔵庫に入れといたからすみがひとつ無くなってるんだけど知りませんか」
「先生」とは日本語で言えば「…さん」「川嶋先生」などと使うがこの場合は「旦那さん」といったような成人男子に対する尊敬語で広東語では「シンサン」と発音する、信次郎にしてみれば自分の名前をその筋の女性に呼ばれている気がして気持ちがいい。もっとも「信さん」は「シン」にアクセントをつけるが『先生』のほうは「シンサン」とアクセントを付けずに平板に言うから少し趣が違う。ちなみに奥さんは「太太」タイタイと発音する。奥さん方は家事を阿嗎にまかせて亭主の留守中は麻雀に明け暮れて美食をしているから名は体を現しているケースが多い。
「あれはくれたんじゃないの」
「そうじゃないんですよ、旦那さんが台湾に行っていろいろ買ってきたんで冷蔵庫が一杯だったんです、だからここの冷蔵庫を借りたんですよ」
「それならそうと言ってくれればいいのに、何の断わりもなく冷蔵庫に入ってるんだからいただいたものだと思って食べちゃったよ」
「それじゃあ困ります、私が取ったと思われたら困ります」
「同じ物は近くで買えないのかい」
「買えるけど高いですよ」
「僕が払うよ、いくらなの」
かなりの金額である、台湾の最高級品だから物価の安い台湾ではたいしたことがなくても香港ではそれなりの金額になる。手土産も高い物についてしまったけれどいい思いをしたんだからまあいいか、と独身貴族だから傷も少ない。
 信次郎がこの部屋に初めて入った日であった。ベッドの位置が気に入らないので動かしたがこれがトラブルの元になった。この男は生まれてこの方一軒家のしかも平屋にしか住んだことが無いから、部屋の物音が階下にどんな影響を与えるかなど考えたことも無い。阿嗎に手伝ってもらえば何のこともなかったのだが来たばかりで彼女とも面識が薄くて頼む気にもなれない。重いベッドを一人で引きずりながら位置を変えた。すぐに階下の住人から電話がはいり奥方が飛んできた。とんでもない男を下宿させたものだと後悔しているような眼で見詰めている。新次郎としては考えもしなかったことだが言われてみれば反論の余地も無く、平謝りに謝るしかない、この時に生じた奥方の信次郎への不快感はその後消えることはなかった。            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [156] 投稿日 [2011/1/18]

香港1967(続きの4)

広州では7月に地元テレビの広東語放送を北京語を基本とした標準中国語に切り替える計画が浮上した。十一月のアジア大会に向けて全国から訪れる人が理解できるようにするのがねらいであったという。ところが広東語は広東省を中心に五千万人の人が話し、香港、マカオや海外の華僑の間でも広く使われているだけに広東人の広東語に対する愛着は強い。このため広東人の間に「母語が無くなる」という危機感が広まり、広東語の歌を口ずさみながらの抗議デモが繰り返された。その後テレビ局は計画を否定して一応の収まりは見せているが首謀者が連行され十日間も拘留されたこともあって広東人の間には危機感が消えていない。広東語と同じく有力な上海語はそれ以上に危機的状態にある。経済都市上海への中央の統制が強まり地元テレビには上海語のチャンネルが無くなってしまった。広東人はこれを警戒しているのである。
 香港の上流階級の奥さんは家事を一切しない。炊事は炊事阿嗎、子守は子守阿嗎が一切を請け負う。香港はリベート社会である、使用人の基本給は少ないがかなりの裁量が任されている。阿嗎は買い物に行くと店からリベートを取る、自家用車の運転手は主人が出勤している間は白タクで稼ぐ。アパートメントの門前に何人かが常にたむろしていて、だいたいタクシーの半額ぐらいで行ってくれるからありがたい。
阿嗎の陳さんは色黒の小柄な広東人である。なにかと粗相の多い信次郎の世話を気軽にやってくれる。そんな彼女におおきな迷惑をかけた。その日銀行マンの友人宅に招かれていた信次郎は部屋に戻って一風呂浴びると、出かけようとして踏みとどまった。「手土産を忘れた」手ぶらで行くわけにもいかないので事務所を出てから、なにか買い求めるつもりだったのが忘れたのである。さてどうしょうかと悩みながら何気なく開いた冷蔵庫に思いもかけず珍なる物が鎮座している。
「お~っ、からすみじゃないか、しかも二つ」何故ここにからすみなどがあるのか考えもせずにその一つを取り上げた。
「これだ、こんないい物があった、多分家主さんがお土産かなんかでくれたんだろう」勝手に都合よく決め込んだ信次郎は何よりの手土産と決め込んだからすみを包むと友人宅を訪れた。
「あら、立派なからすみじゃないの、これどうしたの」奥さんの嬉しそうな声に友人も目をみはっている。
「大家さんがくれたんですよ、ちょうどいいから一緒にいただこうかと思って」
「なんだかもったいないみたいね」
ダイヤのように輝くからすみを肴の宴は遅くまで続きます。   …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [155] 投稿日 [2011/1/14]

香港1967(続きの3)

 ようやくのことで宴から開放された信次郎は香港島の麦当労道(マットンロート、英語読みではマクドナルドロード、の我が家に辿りついた。我が家といっても香港政庁の役人である李さんの一部屋を借りているのであるが二十畳に近い部屋だから独り者には充分でバスもトイレもついている。
 酔いが醒めてくると小腹に物足りなさを感じた信次郎は東京から持ち込んだインスタントラーメンを取り出した。この時代にはインスタントラーメンもお湯を注いで三分間待つのだぞが出ていたが、この男は煮込むラーメンにこだわっていたから阿嗎(アマ、女中)に頼んで卵入りを作ってもらう。信次郎がこの土地に来た頃は、この卵ひとつとっても阿嗎に意思を伝えるのに往生した。
 インスタントラーメンを作ってもらうのは鍋にお湯と麺を入れて火に架けるだけだからすぐに意思は通じたのだが卵が通じない。紙に「卵」ではわからず「鶏卵」でもだめ。信次郎はやむなく恥を忍んで最後の手段に出た。この当時人気のNHKクイズ番組「ジェスチャー」を真似て、両手を小さく両脇に広げてばたつかせながら、「コッ、コッ、コッ」と鳴いてからお尻に手をやると「ポン」といって掌を丸くして突き出した。笑い転げる阿嗎は「わかった、わかった」という仕草をしながら冷蔵庫から卵を取り出した。卵は「鶏蛋」と書き広東語で「ガイタン」ということはこの時知った。「今晩は家で食事をするから頼みますよ」などは死活問題だからすぐに覚える、こうして半年もすると街中でもそこそこの用は足せるようになった。
 余談だが中国の方言は多彩である。その方言は我々日本の方言とはかなり趣が違うことを知らないと理解できない。日本の方言は全く別の民であった琉球と江戸時代に幕府の隠密の侵入を防ぐ為に独特の言葉を作った薩摩を別にすれば、耳慣れないといってもよく聞いていれば理解は出来る。一方中国の方言は例えば北京語、広東語、上海語など発音的にはまるで外国語同士であるから文字は同じでも何を言っているのか理解も出来ない。中国の人口は二千九年の統計公報によると十三億三千万だが一人っ子政策によって隠れた子ども、「黒戸口」と呼ばれる戸籍から漏れた人たちは2億人いるといわれている。その話はともかくとして正式な人口のうち漢族は九億を上回るが、その人たちにしても各地で外国語と同じような方言をそれぞれが使っているのだから我々日本人から見れば想像の外にある。
その中国でこの時から四十三年後の二千十年に異変が起こっている。九月十八日のことだが広東省広州市で「広東語を守れ」をスローガンにしたデモが当局によって計画段階で押さえ込まれた。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [154] 投稿日 [2011/1/11]

香港1967(続きの2)

 この年の五月に信次郎の結婚が決まっている。この男にとっては生涯でも記念すべき年なのだが、この香港にとっても歴史的な年になるというような事は予想もされていない。予兆はある、中国本土で二年前から広がった文化大革命の騒動が燎原の火のごとく燃え盛っている。文化大革命とは政策の失敗で国家主席を辞任した毛沢東が仕掛けた権力奪還闘争で、彼の親衛隊である紅衛兵を使って対立派の要人一千万以上の人を虐殺した騒乱なのだがこの時にはまだそんな事は明らかではなく、真相は知らされていない。新年会のメンバーの一人を自宅に訪ねた時も壁に毛沢東(マオ ツゥオトン)の肖像画とベッドには真っ赤な表紙の「毛沢東語録」が置かれていて彼は「マオこそ希望の星だ」と眼を輝かせていた。紅衛兵の傍若無人の動きは中国本土に広がっている。それでもまだこの地では対岸の火事としか見られていなかった。
 信二郎は会社の代表として一人でこの地に赴任している。こんな所に二十八歳の若造一人を駐在させる会社も会社だが、恐れ気もなく意気揚々と出かける信二郎もたいした度胸ではあった。この男は特に才長けているわけではないし、この地での仕事に必要な英語が堪能なわけでもない。何故この男がここに居るのかは常識では判断の外なのだが、早く言えばこの時代の運に乗ったと言うしかない。日本から海外への観光旅行が解禁されたのがわずか三年前で、為替レートは一ドルが三百六十円、香港ドルは六十円である。個人が海外に持ち出せる金は五百ドルに制限されている。そんな時代だから海外に足を延ばせる人など稀な存在で、商社マンならいざ知らずメーカーの人間が海外に赴任することなどよほどの実力者で無いかぎりあり得ることではない。まして信次郎の所属している会社にしてみれば唯一の海外拠点なのである。ところが四十数年後の現在からみれば不思議な事実も当時の事情から見れば別に不思議でも無い。信次郎に香港駐在の白羽の矢が立ったのは人材不足の一言で説明がつく。早い話が英語が堪能で仕事が出来る男がいなかったと言う他は無いが、この地に赴任する前に信次郎を可愛がってくれている同姓の役員との間でこんなやりとりがあった。
「君は食べ物は何でも食えるか?」
「食欲が無くなることなんかありませんよ、何でも食べられます」
「そうか、そんなら大丈夫だ、頑張ってこい」
こんなことだけでこの地に赴任させられたわけでもないのだろうけれど、こんな雰囲気だから彼も気楽にこの地に赴き、気楽に仕事をこなし、気楽に青春を謳歌している。信次郎はまだ宴の中にいる、かなりの酩酊だが周りの連中は許してくれない。                    …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [153] 投稿日 [2011/1/7]

香港1967(続きの1)

 香港の正月は旧正月だから二月である。この地の正月は恭喜発財(コンウェイファッチョイ)に満ちている。店頭にはこの祝いの文字が並び、人々はこの言葉で挨拶を交わす。子ども達や使用人はこの祝いの文字が書かれた祝儀袋を嬉しそうに押し頂く。恭喜発財とは「お金が貯まりますように」という意味だそうだがいかにも中国らしく具体的でいい。
 川嶋信次郎は得意先の社長の自宅での酒宴の真っ只中にいる。上海人の社長がこの日だけは従業員の全て、といっても八人だが、を招いての無礼講の席に彼も呼ばれている。社長の子ども達に恭喜発財の祝儀袋を渡した後、社長はもちろん従業員達とも週に何回かは顔を合わせているから酒の席にもすぐに溶け込める。この日信次郎は結城の着流しに博多の角帯で現れた。日本の民族衣装など写真では知っていても、身近に見るのは初めての連中だから感嘆の声とともに周囲に群れて、彼はそのまま輪の中心に居続けている。この男は父の習慣に倣ったわけでもないのだが和服を着ることが身についていて、社会に出てからはその習慣もかなり薄れたとはいえ正月は着物で過ごすのを習性としていた。そんな信次郎が香港の正月を和服で過ごしたいと思うのも無理の無いことで、その為にトランクの底に雪駄も含めて和服一式を忍ばせてきたのである。酒はブランデー、この日はヘネシーの三ツ星をグラスにドクドクと注いでくれる。何杯めかの勧めに若い信次郎もさすがに苦しい。
「私はヤップンヤンだからヤップンにしてくれ」
信次郎の言いたいのはこういうことだ、日本人(ヤップンヤン)と半分(ヤップン)をかけて「私は日本人だからブランデーはグラスに半分にしてくれよ」。洒落に言ったつもりだが洒落を理解できないのか、それとも日本のヤップンと半分のヤップンが彼らにとっては同音語ではないのかもしれない。彼の願いもむなしくドクドクとグラスを満たして全部という意味の「ハンバラン」を連呼する、早い話が一気飲みを促している。それに対抗して「ヤップン、ヤップン」許容量は越えている。
 酔った勢いでピアノの前に座る。たどたどしく引き出したのはテネシーワルツ、全くの自己流だがまがりなりにも両手で弾いているから全員が寄って来て感心して見ている。この曲はヒットした曲だから知る人も多い。ところが本格的にピアノを習っている子ども達は「こんな弾き方があるんだろうか」というような不思議そうな顔をして立っている。今まで姿をみせなかった奥方が笑顔を見せながら「信次郎さんはピアノが弾けるんですね」と寄って来る。彼女は京劇をチャリティーで支援していて、信次郎も何度か観劇したから顔見知りではあるけれど、こんな風に褒められると気恥ずかしい。      …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [152] 投稿日 [2011/1/4]

最南の島再び(続きの9)

 夜の帳が下される頃ケルンからデュッセルドルフに戻ってきました。食事をしたいのですが知ってる店などあるわけも無くビアバーを探して歓楽街を探検します。さてここからですね、私の長年鍛えた嗅覚が役にたったのは。先ずは店の外の雰囲気、私の視覚に外観だけ合格した店の重い木のドアを開けて覗き込みました「違うな」嗅覚がノーを告げます。三軒目でしたねドアを開けて覗き込んだ次の瞬間には右足が店の中、ゆっくりとカウンターに座るともう落ち着いて、以前に何回か来たような気分になります。この街ではアイスビールを飲めと教えられていたので店の親父と思しき人に注文すると小さなグラスで出てきましたよ。ミュンヘンでは超特大のジョッキで飲んでいたのでアイスビールのグラスはいやに小さく見えますがそっと口をつけてみると実に素直な液体が喉を通り抜けてゆきます。このアイスビールというのは製造工程で氷の結晶を形成させるまで冷やして造るビールなんです。一度凍らせることでビールの雑味成分を取り除いてクリアな喉越しのビールになるのです。この国では百年前から行われている伝統的なビールなんだそうです。デュッセルドルフのビールはアルトビールだとあとで言われたけれどアイスビールとアルトビールがどんな関係にあるかは浅学で知りません。そんなことより店に対する嗅覚の話で、亭主と何が旨いか話をしてソーセージとザワークラウトの一皿をつつきながらアイスビールのグラスを重ねられたのは幸せでした、私の嗅覚は衰えてなかったのです。
 さて石垣島の居酒屋の話に戻ります。小ざっぱりした作りで店の手前の大きなテーブルには地元の若衆が数人で笑いあっています。中央に衝立で囲われた席について店内を見回すとまだ早い時間なのか右手の席に三人がいるだけ。メニューを見るとガチュンの唐揚げとかギーラの刺身、壁を見ると「アダンの新芽あります」と書いてある。知らない物ばかりだから注文を取りに来たおかみさん風の人にいちいち聞いてはみたけれどやっぱり注文するのは一見馴染みのありそうな物で、先ずは島豆腐のサラダとミミガーの酢味噌和え、それに石垣牛の串焼き。酒のお勧めはご当地の泡盛「直火請福」三十五度、これをお湯割りにしてもらってちびちびやりながらの島豆腐、ミミガーと石垣牛はなかなかの旨さ、直火請福も極上です。次のメニューのお勧めは「おばあの天ぷら盛り合わせ」でグルクン、エビ、イカ、人参、明日葉。そして最後は名物「八重山そばちゃんぽん」隠し味は「島とうがらし酢」唐辛子を酢で漬けたものですがこれを少しだけ振りかけるとこくが出てきます。気がつくと店は奥のテーブルまで満員、観光客らしきは一人もおらず地元の人たちが酒だけはかなりでしょうが少しだけのつまみを肴に盛り上がっています。この雰囲気にもう少しの間漂っていたい気持ちを振り捨てながら予想をかなり下回る代金を払って店を出ました、雨はとっくに上がっています。
翌日ガイドにこの店の話をすると、彼も一人の時にはこの店なんだそうで彼が誰にも教えなかったのは観光客に荒らされるのがいやだったのでしょう。そんなことで私もこの店の名前は秘密にしておきます。                         
こうして私の南の島を訪ねる旅は後に残す物もなく幕を閉じたのですが、島巡りがこれで終わったわけではありません。三十年前に札幌に居た時、どうしても行きたい島がありました。それが予定よりも早い転勤が原因で私のスケジュールの中で利尻島と礼文島だけが残ってしまったのです。残ったままにされた利尻、礼文への想いは三十年という歳月を経てもなお発酵し続けています。        南の島を訪ねる旅はひとまず終わりました、つぎは北へ向かいます。   
おわり
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [151] 投稿日 [2010/12/31]

最南の島再び(続きの8)

 仲間川の両岸には広大なマングローブ湿地帯があって、これがもうワクワクさせてくれます。ここはもう日本の風景ではないんです、マングローブの根の間から巨大な魚や鰐が出てくるんじゃないかと期待心も少しはあるんですが、そんなことありっこないんだけれど、そんな思いがワクワクさせてくれるんです。船は高速で走りながら時々ポイントで緩行して説明が入ります。二十年前に来たときには西表山猫が泳ぐのが見られることもあると言っていたのですが、今回は山猫の「や」の字も出ませんでした、寂しいですね。
 
 最後の夜は夜食がオプションになっていてホテルの食事から別料金で選ぶのですが、さすがに旅慣れた人たちのツアーのようで全員がこれを断ってそれぞれ夜の街に散ってゆきました。
 ところで我々夫婦、ホテルから散歩がてらぶらぶらと飲食店が集まっているという美崎町まで歩いて適当な店を探そうと足を踏み出したんですがとたんにパラパラと雨の気配、仕方なくタクシーに乗ったのを幸いに運ちゃんに店を紹介してもらったのが大正解でした。ところが一寸先は闇の中、タクシーで居酒屋に乗りつけるのもいかにも観光客っぽくていやなんで少し手前でタクシーを離れたのが大間違い、とたんに天の底が抜けたような雨で携帯用の小さな傘などは無いも同然です。さすが南国のスコールは凄いなんて暢気なことを言ってる場合じゃないんです。ほうほうの態で教えられた居酒屋に飛び込んだときはかなりの濡れ々々状態でした。
 店に頭をつっこむと懐かしい空気が広がっています。飲食店というものは自分に合う店と合わない店があって、気持ちよく入れた店だとまず間違いはありません。余談ですが十年程前にミユンヘンからデュッセルドルフに廻って来た時、ドイツに詳しい同行者の後ばかりついて行くのも面白くないので、最後の日だけフリーにしてもらったんですよ。ここへ来た目的の機械の展示会は昨日見てしまったけれど、誰が来たか来なかったかなんていう情報は業界中にさっと伝わってしまうので、会場へは念のためにこの日もちょっとだけ顔を出して義理を果たし、「さあどうする」です。だいたいこの地方がどんなところかなんてことも調べてなかったので地理的なことも分からない。たまたま電話ボックスがあったので我が家に電話すると都合よく娘がいて教えてくれましたよ。ケルンが近いから大聖堂を見てきなさい。教えられたとおりに列車でケルンに行ってきました。話しが妙な方に動いてしまいましたがお話したいのはその後なんですよ。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [150] 投稿日 [2010/12/28]

最南の島再び(続きの7)

余談ですが製糖会社は補助金をもらって生き延びています。生産コストが外国製に対抗できないからなんですが、全く同じことが北の地でも行われています。北海道では甜菜(てんさい)が栽培されて甜菜糖が作られていますが、これが全くの保護産業です。二年前に帯広まで見学にいったのですがすっかり機械化されているのはいいけれど需要の少ない特殊な機械ですから、開発費なんかも上乗せされてかなりの割高になっているんでしょうね、補助金はもちろん税金から出されるのですからこういうところにも関心を持ちたいですね。
 トルコのカッパドキアに近い平原でも甜菜畑と甜菜糖工場を見ました。バスでいくら走っても甜菜畑は続きます、平野の真中を一本の線路が走っていて線路の果てに甜菜糖工場があります、線路には甜菜を満載した貨車が連なり道路には甜菜を積み上げたトラックが長蛇の列で荷下しを待っています。このスケールだけを見ても勝てっこないなと思いますね。余談はこのへんで…
 
西表島に隣接して由布島があります。海流によって堆積した砂だけで出来た小さな島で人はほとんど住んでいません。由布島と西表島の間の海は満潮時でも1メートル位にしかならないので観光用の水牛車で渡ります。潮位が低いときには車や徒歩でも渡れるというから便利な島です。水牛車は竹富島の物と同じようなものですが御者の唄うのは夏川りみの「涙そうそう」彼女は石垣島の出身なのでこの地方最大のスターなんです。
島に渡ると熱帯性の植物が生い茂っており温室にはオオゴマダラ蝶が舞っています。この生い茂る熱帯性の植物はもともとあったわけではありません、そこには一組の夫婦の汗と涙があったのです。かっての由布島は竹富島や黒島から移り住んだ人々で栄えていました。彼らは西表島に持っている水田を耕作して生活していたのですが、1969年の台風で壊滅的な打撃を受けほとんどの人が命を失ったか又はこれをきっかけに西表島に移り住んでしまいました。島の人々が消えていくのを寂しく見詰めながら西表正治さん夫妻は島に残り、再び人々が島に戻ってくることを信じてたくさんの椰子の木や花を植え続けました。そのお陰でこの島には沖縄本島では見ることの出来ない熱帯性の植物が生い茂り、沢山の動物も生息しているのです。
再びの水牛車で西表島に戻るといよいよメインイベント、西表島の中央部、南よりの山地から東に流れ仲間港に注ぐ仲間川のジャングルクルーズです。
沖縄には川らしい川は無いのにこの島にだけは大きな川が二つもあります。最大は浦内川で仲間川は二番目、それでも河口は200メートルもある大きな川なんですが、この川を船で遡ってゆきます。         …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [149] 投稿日 [2010/12/24]

最南の島再び(続きの6)

 竹富島から船で西表島に着きます。二十年前には岸壁の他何も無かった港には立派な建物が出来ていて二十年前の面影は何もなし、ところが港の建物を一歩出ると昔の景色が広がっています。バスが動き出すとすぐの交差点で信号機に再会です。懐かしい教育信号、実際は必要が無いんだけれど島民が他所の地域に行ったときに信号を知らないと危険であるということで島民の教育の為に設置されているのです。二十年前は一箇所だけでしたがいまでは二箇所に設置されているそうです。その信号が守られているかどうかは明らかではないけれど、別に無くてもいい信号だからどうでもいいんでしょうね。ちなみにこの時のバスは青信号だったから止まることもなかったですよ。
 前日の台風の被害はかなりなもので蘇鉄が根こそぎ倒れていたり、砂糖黍も倒れたまんま、それでも住民に悲壮感は無し。ブーゲンビリアなどは全滅ですがこれは三ヶ月もすればまた生えてくるというから人も動植物も台風慣れしているのでしょう。二十年前に西表島製糖の工場を訪ねた時、工場長の部屋に60メートル以上の台風の年度別グラフが貼ってあって説明を受けました。こんな台風が年に度々来るのでこの島には大きな木は育たないのだそうです。この工場長にはお世話になったのですが今回は会えません。残念に思っていると土産物屋で西表精糖製の黒砂糖をみつけて嬉しくなりましたね、懐かしい味です。
製糖会社は冬だけの稼動でこの時は休業中、鹿児島の焼酎酒造も冬だけの稼動で半年は休業、従業員はこの休業中は失業手当を貰ってましたから製糖会社も同じなんですかね。財源不足の現在ではそんな制度が残っているかどうか知りませんが、この鹿児島の焼酎会社はこんな制度を利用してそのほかにも色々と工夫してました。例えば一升瓶などは自社で作ったりしないで全て清酒の空ビンを集めてきて使う、だから倉庫には菊正宗や白鷹などのラベルのついたビンが並んでいました。あまり細かくいうと何処の会社だかわかってしまうのでこの位にしておきますが、そのほかにもとにかく余計な経費は使わない仕組みが徹底しております。ここで社長自ら汲んでくれた樽の中で熟成した原酒のとろりとした旨さは何とも言えない陶酔の中に誘い込んでくれました。この酒はなんと五十度もあるんだそうですが、とてもそんなに強いとは思えません、焼酎というよりも上質のブランデーかもしれない、まあ見事なものでした。そんな焼酎も昔はかなり荒っぽいもので、四十何年か前に友人の結婚式で鹿児島に行き、城山観光ホテルでの披露宴で飲んだ焼酎の臭いことといったらありませんでした。それでも焼酎しかないんですからかなり飲みましたよ、翌朝は自分の息の臭いのに辟易したものです。            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [148] 投稿日 [2010/12/21]

最南の島再び(続きの5)

もう少し与論島の話を続けます。この島は奄美の島に属していますが沖縄に最も近く、それだけに昔から沖縄本島との交流が盛んだったのです、気候的にも風俗的にも奄美というよりは沖縄風なので本質的には沖縄の島と言えるかもしれません。
そんな島に「与論憲法」という新参者に対する洗礼儀式があります。例えば仕事でこの島を初めて訪れると、その夜は酒宴となります。この時に新参者は招待主の盃を受けねばなりません。ところがこの盃が並みの盃ではないんですよ、差し渡し二十センチはあるかというような大杯に三十度の黒糖酒をなみなみと注がれ、これを飲み干さなければならない。更には飲み干したことを立証する為に盃をひっくり返して自分の頭上にかざしてみせなければならないのです。しかも相手が複数ならその数だけの繰り返しです。ひどいでしょ、これが出来ないと仲間に入れてくれません、と言うことは取引をさせてくれないのです。
この時は必死でしたね、幸いに酒は飲めるほうだったからこの酒の口当たりの良さにも助けられて仲間に入れてもらえました。飲めない人はどうなるんでしょうね。
 西表島や石垣島のある八重山の天気予報は信じないほうがいいといわれます、天気予報で沖縄地方の予報を見て西表島も同じだと思ったら大間違い、なぜなら那覇と西表島とでは400キロも離れているのです。東京から400キロの地域といえば西は神戸、北は盛岡ですから仮に東京の天気を兵庫県や岩手県の天気予報をみて判断するようなものなのです。そんなことも原因で今回のツアーは現地のガイドも苦労したようようなのです。なにしろ瞬間風速60キロの台風が通過中に明日の天気を予想しなければならない、お客さんが石垣島までたどり着けるかどうかが判からないのです。
 まず羽田から那覇までの便が飛ぶかどうか、次に那覇から石垣島への飛行機が欠航にならないか。その時点では那覇からの便の方が危なかったようで那覇まで来た客を泊める那覇のホテルの手配、その後の客の扱いなど色々なケースを予測して対策をたてたそうです。ところが一夜明ければ嘘のような晴天、飛行機は順調に飛んでツアー客は何事も無かったようにスケジュールに乗ったのです。この地域での台風は珍しくもないので過去にも与論島で台風にあったりして苦労した経験もある私なのですが、その時はなんとかなるさとほとんど気にもしていなかったのが幸運を呼んだのかもしれません。    …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [147] 投稿日 [2010/12/17]

最南の島再び(続きの4)

 憧れの星砂の浜は紺碧の空と濃紺の海をバックに広がっています。両掌を広げて砂につけば砂と一緒に星砂がついてきます、運がよければね。
 星の砂は原生生物である有孔虫の殻から出来ています。生きている有孔虫の殻内は原形質で満たされているのですが、有孔虫が死ぬと有機質である原形質が分解されて丈夫な殻だけが残ります。この有孔虫は鮮新世といいますから500万年から160万年前に生存していたといいますからたいへん古い時代からの贈り物なんですね。
 ところがこの貴重な贈り物が激減しているのです。いうまでもなく違法な乱獲です。違法な乱獲といっても取り締まりも徹底していませんから違法といっても持ち去った者は罪の意識なんかなかったでしょうけれど。それが更に二十年以上前となると違法でもなかったのかもしれません、いくらでも自分の物に出来たんですよ、それが与論島なんです、500キロ以上も離れたこの島で星砂が売られていたのです。与論島の話は何故か「十九の春」の発祥の地として出てきましたが、星砂でもまた与論島です。
 昭和59年からの5年間、夏の楽しみは与論島でした。この島でのお定まりのコースは熱帯魚とのお遊び、百合ヶ浜近くの砂浜から漁船に乗せてもらってスポットに行きます。シュノーケルをつけて静かに波間に浮かぶとそこには色とりどりのサンゴと熱帯魚の群れ、人差し指を突き出すとチョンチョンと親愛の情を寄せるようにつついてきます。なんとも可愛いい情景なのですが、実はこの熱帯魚達、体が小さい割には気が強くて縄張り意識が強烈なのです。だから人差し指をつついてくるのは親愛の情ではなくて縄張りへの侵入者を追い払う行動なのですが、そんな理屈はわかっていてもこの可愛いいお友達とのお付き合いの為に毎年この島を訪れたのです。私のお気に入りの百合ヶ浜にやってくると浜辺に座り込んでいるおじさんが星砂を小さなビンに入れて売っています。「一握り千円だよ」、私の手はそんなに大きくはないけれどかなり握れそう、試しに掴んでみたら八個のビンを掴めたので本番開始、おじさんに目を瞑ってもらったというところもあったけれど十一個のビンを掴んで千円でした。中身は星砂ばかりとはいえなくてもほとんどが星砂、無料同然に持ってきて売っているのでしょう。その星砂のビンはしばらく我が家の居間に並べてあったけど子どもや若い女性たちが次々に持っていったから今はありません。今は貴重な夢の贈り物もその程度の存在だったのですよ。そんな今から思えばと言うような貴重なものはいくらでもあるんですね、無くなって初めて気付くのは寂しいことです。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [146] 投稿日 [2010/12/14]

最南の島再び(続きの3)

 水牛車は16人ほどが座れる幌つきの車を引っ張って進みます。のんびりとした風情がこの島の街並みに溶け込んでいます。御者、と言うのか水牛使いと言うのか知らないけれど最前部に座って大小便の始末をしたり、たまには鞭を鳴らしたりしていたおじさんがおもむろに三線(さんしん)を弾きながら沖縄の唄を唄い始めます。沖縄の唄の音階はド・ミ・ファ・ソ・シの5音階です。試しにド・ミ・ファ・ソ・シ・ドと唄ってみてごらんなさい、それだけで沖縄っぽくなるでしょ、これは何年か前に歌手の中島啓江さんの話を聞いたときに知ったことで沖縄の音楽が話題の時には使わせてもらっています。
 水牛使いのおじさんが唄い出したのは「安里屋ユンタ」これを本調子で唄ったあと速調子でも繰り返します、宴会のときなどはこの速調子で踊ったりするのでしょうか。この唄は那覇などでも代表的な唄だと思うのですが竹富島の唄だとは知りませんでしたね、歌詞は二十三番まであるそうでこの島に実在した絶世の美女と琉球王国から派遣された役人との恋がらみのやりとりを面白おかしく唄いこんだものなんです。余談になりますがその話をちょっとだけご紹介しましょう。
 十八世紀の八重山は庶民に過酷な人頭税を課せられて厳しく取り立てられていた。琉球王朝からこの地に派遣された役人が安里屋クヤマという絶世の美女に惚れて盛んに言い寄ったが、彼女は首を縦に振らない。彼女はこの役人の言うことを聞く気は全く無いのだがまがりなりにも相手は税金取立人、ぴしりと拒絶するわけにもいかずこの辺りの恋の駆け引きが延々と語られる。最後には役人も諦めたがくやしまぎれに「おまえより美しい娘を嫁にする」と捨て台詞を残し、イスケマという娘を娶って帰国した。役人とすれば次善で我慢したのでしょうがだいぶ差があったんでしょうね。イソップ物語の葡萄を取り損なって「あの葡萄は酸っぱいんだ」と言って去った狐の話に繋がりますね。この当時の島の人たちが役人に楯突くことなど考えられもしなかったのに、この美女が役人を手玉に取ったことは島の人たちの反骨精神の象徴として語り伝えられたのでしょう。ちなみにこれだけは耳に残っている歌詞「マタハリヌ チンダラ カヌシャマヨ」は八重山方言の古語で「また逢いましょう、美しき人よ」の意味だそうです。
 次に唄ったのが「十九の春」~わたしがあなたに惚れたのは、ちょうど十九の春でした、いまさら離縁というならば、もとの十九にしておくれ~。
与論島が発祥のこの唄は沖縄地区全域に広がってその地区なりの歌詞が出来てなんと百もあるといいます。私には田端義男が歌ったのがしぶとく残っています、これも大脳新皮質に蓄えられていたのでしょう。       …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [145] 投稿日 [2010/12/10]

最南の島再び(続きの2)

 那覇から石垣空港には一時間かけて無事着陸、無事というのにはわけがあって隣の西表島では昨日の台風が瞬間六十メートルを越える風速を記録したのです。一日早ければ完全にキャンセルの憂き目をみなければならなかったのですからお天気男の面目躍如というところなのです。
 翌朝は沖縄らしい青空が広がって、石垣島から観光フエリーで約10分の島、私の心の中に積み残された最後の南の島、竹富島へ渡ります。小さな波止場に足跡を残すと大きく息を吸い込んでから「ようやく来れたよ、待たせたね」と笑顔で愛想を振りまくと島も「待ってたよ、よく来たね」と迎えてくれます。
 「あれっ、ちょっと違うな」島の中に足を踏み入れてなんとなくそんな風に感じたのですがたしかに何か違います。ほかの沖縄の島とは少しばかり雰囲気が違うのです。何が違うかといえば赤瓦屋根の家並みが整然としていて綺麗なんです。沖縄のほかの島が汚いなんて一言も言ってませんよ、この島特有の気持ちよさというか爽やかさが漂っているのです。
理由は次第にわかってきます、この島の人達は昔ながらの街並みや文化を保存しようとする意識が非常に高いのです。この島にはいくつかの約束事があってそれを忠実に守っています。例えば新しく家を建てる場合は平屋の赤瓦の家を建てねばならない。窓ガラス等は見えないように簾などで隠す。建物の外に看板などを露出させることは原則禁止。そしてこれが一番の嬉しいことなのですが大規模リゾート開発などを目的とした土地買収には応じないのです。近所の島では日本の企業ならまだしも中国人などの外国人に買い漁られている島もあるんですから、こんなことは徹底してもらいたいですね。更にもうひとつ大きな理由がありました、珊瑚を砕いた白砂の道は住民が毎朝掃除することでいつも綺麗なんです。それにこの白砂は雨や台風で少しずつ海に流れてしまうんだそうです、それで住民は砂浜で白砂を集めてきて定期的に道を補修している、こんな住民達の努力の結果が綺麗な街並みを維持できてるんですね。
 こんな家並みを囲むサンゴ礁を積み上げた塀にそっての白砂の道を水牛車に乗ってのんびりと揺られます。水牛は案外頻繁に大小便をするようでこればかりは所かまわずなんですよ。尻に布をぶら下げていてこれがおむつなんでしょうか、ここにころころしたのを歩きながら出すとその布が受ける仕組み。その後はバケツに移してましたね。水牛のお尻に持っていってもバケツ(馬の尻)とはこれいかに、などと一番前に座って一部始終を眺めながら考えていました。おしっこの方はその時に限って水牛が立ち止まるので御者のおじさんがバケツを地面に置くと狙い通りにバケツに入ります、かなりの量ですよ。
                               …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [144] 投稿日 [2010/12/7]

最南の島再び(続きの1)

 十年を一昔と数えるならばもう二昔前のことになりますが南の果て、台湾とは目と鼻の先の西表島がどうしても行ってみたい最後の島のはずでした。一年前に書いた「南の島巡り」でもその時の嬉しさを綴っています。だから南の島についてはもう満足していたはずでした。ところがですよ、もう一つ憧れの島があったんです。
 連れ合いが新聞紙上で見つけた八重山諸島ツアー、西表島、石垣島、由布島の島巡りで西表島にはもう一度行ってもいいかなと思って眺めていると、オプションに竹富島があるのを見つけて、これはいかなくちゃ、と早速応募しましたよ。そうです、星砂の浜で名高い竹富島が私の未経験の島として大脳新皮質の片隅に残っていたのです。
 羽田から勝手に乗り込んだツアーメンバーが那覇空港で顔を合わせると南の島巡りだけあっていつもの年寄りばかりの団体と違って若い女性の姿もちらほらで、もうそれだけで心が浮き立ってきます。海外にしても国内にしても私の参加するツアーはどうして年寄りばかりしか集まらないのかと残念がっていたのですが、場所によっては若い人ともご一緒できるのが嬉しいですね。
そういえば十数年前のイタリアツアーは良かったですよ、二十四人のツアーで五十歳台の男女が六人、あとは全て新婚さんという熱気溢れる団体でした。そんなことで仲良くなった二組の新婚さんとは今でも交流が続いているのですが、そうなると彼女達の子どもなどはお腹にいるころから報告があって私にとっても孫みたいなものだから勝手に爺さんだと思い込んでいます。そんな孫の一人が春に嬉しいことがあったんです。熱海にMOA美術館がありますがここの主催で全国小学生の絵画コンクールが催されて、それに彼が入選したのです。岡山在住の彼らは簡単には熱海まで観に来るわけにもいかないので我々夫婦が代理で晴れの舞台を観てきたというわけ。彼の「岡山西大寺、三重塔」多少デフォルメされた姿が楽しい作品です。それにしても小学生達の作品の楽しいこと、特に低学年の子ども達の作品は思わず唸ってしまうような表現の凄さにしばし立ちすくむほど、世界の名画の鑑賞もいいけれどこんな絵も心の肥やしになりますね。
ついでに梅園に足を延ばすとこれが満開、そして信じられないでしょうが二月だというのに桜、熱海桜が爛漫と咲き誇っているのです。この熱海桜は早咲きで有名な河津桜よりも1ヶ月早く咲くのですがこれほど見事に梅と桜の満開に出会ってしまうと、もう顔も緩みっぱなしで足取りも軽く海辺の宿に一宿二飯を求めたのでした。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [143] 投稿日 [2010/12/3]

追突(続きの7)

 翌日彼は会社にやってきました、手土産はサントリーオールドです。それはまあご丁寧なことで鹿児島の男に比べれば雲泥の違い、なにより申し訳ないという気持ちがにじみ出ているのです。残念ながらサントリーオールドは私の趣味ではないので部下にやってしまいましたが、決して彼への好意を阻害するものではありません。ただし彼との関係は加害者と被害者ですからそんな事に惑わされるわけにはいきません、せっかく会社を立ち上げたところに思いもかけない不運ですから同情しないわけではないのですが悪いのは本人で私はまた苦しまなければならないのです。忘れかけていた不安の雲は再び広がり始めました。今までの追突は渋滞中ですから相手もその程度のスピードです、それに対して今回は五十キロ以上のスピードでもろにきたんですから被害が少ないわけはありません。三十年以上も無事故無違反を続けている私がなんでこんな被害にあわなければならないのかと思うのです。もっとも厳密に言えば違反のほうは単に罪にはならなかったというだけの話で、札幌では黄から赤に変わる寸前に交差点に飛び込んだところを捕まりました。これはだめだと観念したのですが藁をも掴む気持ちで「何日か前に追突されたので、またやられるんじゃないかと怖くて止められなかったんですよ」と訴えたら「そんな事情ならやむをえませんね、今後は気をつけてください」で無罪放免でした、簡単にあきらめてはいけませんね。
 予想通りといってもいやな予想が当たってしまったんですが例の症状が出てきました。治療を始めればこの男が自費で払えるとは思われないのですが、とりあえず前金を貰って治療を開始、ところが彼にしてみれば一万円札が何日も保たないで飛んでゆくのですからとうとう音を上げて事故扱いに切り替えてきました。保険を使わないということがどれだけの出費を伴うのかということが理解できなかったんでしょうね、いやそれよりも自分が免停になって立ち上げたばかりの仕事に影響が出ることが怖かったのでしょう。
 今度は三度目ですからしっかりと、それに転勤もないのでじっくりとリハビリに専念できたおかげでその後の後遺症はありません、それでめでたしなんですが加害者であるこの男のことを時々思い出すのはどうしてなんでしょうか。そのとき限りで縁もゆかりも無い男でその後の噂も聞いておりませんが、立ち上げた仕事はうまくいったんだろうか、スタートでつまずいたのが影響しているのではないだろうか、少しばかり気にはなります。男子が志を持てば必ず試されると言われます、現代では男子に限らず誰でもが志を持って何かをスタート出来ます、それは仕事とは限りません、そんな時に必ず試練という厄介な物が襲ってきて試されるのですが、ここはもう信念を曲げることなく突き進むのが一番ですね。私もそんな試練を乗り越えてというほど大層なものではありませんが、とにかくそんな経験を繰り返しながら今日まで生きてきました。この男の場合も試されたのでしょうね、それでも彼の真摯な人柄を思えばお客さんにも恵まれて成功していると期待を込めてそんなふうに思っているのです。
                           おわり                                     
                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [142] 投稿日 [2010/11/30]

追突(続きの6)

指の硬直はその後も続きます、医者は「追突の後遺症と断定は出来ないけれど、原因の一つである可能性はあってストレスなどが加わって発症した症状なのだろう、二週間ぐらい入院してのんびりしますか」。新任地の仕事のほうはひと段落着いて二週間ぐらいは部下にまかせてもなんとかなりそうだし、いざという時には病院に相談に来てもらえばいいということで生涯二度目、学生時代の蓄膿症の手術から四十五年振りの入院となったのです。
入院での治療は毎日二度だったか三度だったかの首の牽引、これを自分のベッドに寝たままやります、あとはとにかく安静にしてるだけ、大量に持ち込んだ本を読みましたね、読みすぎても安静にはならないのかもしれませんが。
同部屋の五人は全て椎間板ヘルニヤで建築関係の職人ばかり、特に左官職にとっては職業病だそうでいろんな話を聞かされました。この連中は入院歴二回、三回のベテラン揃いだから病状と治療や手術については豊富な知識を持っています。ここの医者は手術が大好きですぐに切りたがるんだそうで、椎間板ヘルニアの手術などもお腹を開いて小腸などを取り出して行うなんて話はこの時が初めてでした。取り出した小腸は手術後に腹中に納めると自らうごめいていたかと思うといつのまにか元の位置に収まってしまうんだそうで、そんな話を実感として聞けるのは入院のお陰なのでしょう。ところでこの人たち、夜の九時ごろになるともそもそとカップラーメンなどを食べてます、そのお陰でしょうか皆さんメタボ、その頃そんな言葉は無かったけれど腰まわりは太やかで腰痛も止むを得ない体形ではありました。
 それから六年ぐらい経った頃ですね、この頃の熊谷市は連日のように最高気温の更新がニューとして流されていましたが、そんな耐え難い暑さに道路も波打って見えるような県道を走っていました。右手の硬直は小指に多少の違和感はあるもののまずは気になることもなく健康的には順調な毎日ではあったのです。県道から近道の為の小道へ、小道から出てくる対向車を待って停車していると左後部に激しい衝撃、後続車が衝突寸前で気がつき必死で左にハンドルを切ったけれど間に合わなかったのでしょう、追突した若い男はただただ平謝りに平身低頭するばかりです。
 とりあえず警察に届けた後の彼の話では最近独立して会社を立ち上げたばかり、ここで運転免許停止となると仕事にならないからまさかの場合の治療費は負担するから事故扱いにしないでほしいと言うのです。私の身に何も無ければよいのですが今までの経験から無事なはずはありません、もちろん車の修理費も含めてのはなしですからかなりの額になるでしょうが負担しきれるとは思えないのです。              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [141] 投稿日 [2010/11/26]

追突(続きの5)

 どんな病気でもそうですがむち打ち症の苦しみは味わった者でなければ分からないでしょうね。どこかが猛烈に痛むとかそんなことじゃあないんですが、何か訳の分からないモヤーッとしたいやな気分に支配されて、こんな気持ちでこれからの毎日を送らなければならないのかと思う不安が加害者への恨みとなって心をかきむしる、なにしろ自分には何の落ち度も無いのですからね、それがまたいやなのです。
 むち打ち症の症状は事故後すぐに出てくるとは限りません、何ヵ月後、いや何年後に出てくるかも分からないのです、その不安感もまた症状を悪い方向に導くのかもしれません。私の場合も四年後に新たな症状が出てくるのですがそれは後のお話です。わが身のことながら辛い話しが続いて申し訳ありませんがもう少し症状の話をしますと、むち打ち症の難しいところはレントゲンに写る骨には異常がみられない場合が多いことなのです。今ではCTなどで筋肉や筋の捻挫などが診断されるようですが当時はそんなものはありませんからレントゲンだけでは異常なしの診断がほとんどで仮病扱いされて保険屋も認めないのがまた苦しみの元でもあったのです。
更なる症状が現れたのはしばらくしてからでした、右手の握力が左手の半分しかないのです、これは明らかにむち打ち症だということで保険屋も傷害保険を認めてくれたのはありがたいのですが新たな不安の雲が広がります。
薄紙を剥がすように癒えるといいますが、あれほど苦しんだ気分の重さがいつの間にか薄くなり、右手の握力も左手と同様程度には戻ってきました。そんな中で首の牽引を中心にしたリハビリは続けていていたのですがここでまた持ち上がったのが転勤の話、相手の保険屋に話すとチャンス到来とばかりに治療完治の示談に話を持ち込んで揺さぶりをかけてきます。仕事の上の交渉ごとになれば案外しつこく粘るほうなのですが自分のこととなると淡白なのが悪い癖で「ここまで治ったんだからまあいいか」となってしまうのが私の欠点なのは分かりきっているのですが、多少の不安を残しながらも示談の印を押したのでした。
典型的な転勤族が福岡を経て埼玉県の大宮支店に移ってから半年たったでしょうか、一人住まいの身が朝の異変に気付いたのです。それは突然の事でした、朝の目覚めと共に右手の指の全てが第二関節から曲がってちょうど熊手のようになって硬直しているのです。不審に思いながら指を伸ばそうとしたのですが全く指先に力が入りません、何事が起こったのかと思いますよねぇ、左手で硬直した指の一本々々を伸ばしてやると普通の状態に戻って何事もなかったようです、ところがこんな事が次の日にも続いたので不安になります。  ..続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [140] 投稿日 [2010/11/23]

追突(続きの4)

 東京の新しい職場には問題が山積していて肩の凝りなど気にしていられる状態ではなかったのですが、少し落ち着いてくるとやはり気になります、なんとなく気分の冴えない日が続きます、整形外科を受診してみると首の牽引をやってみろということでしばらく続けたら、いつの間にか気にならなくなってきました、軽く済んだのは幸運と思わねばなりません。
 九州の地図を逆さにすると二匹の子鹿の頭のように見える半島があります、薩摩半島と大隈半島です、鹿児島の名はここからきているのですが地図を逆さに見ると今まで見えなかったものが見えたりして意外な発見があったりします。例えば日本列島を大陸側から見ると日本海は大きな湖のように見えたりして、太平洋側に生活している人間にとってみれば日本海側の各都市が大陸や半島の都市と意外に近い距離にあって、太古から大陸や半島との交流が盛んであったことがなるほどとうなずけるのです。
 昭和六十年の夏でしたね、この年の鹿児島は桜島の活動が活発で鹿児島市内には連日のように灰が降っていました。この灰と雨が一緒になるとフロントガラスがすぐに視界不良になるんで常に水を噴射しながらワイパーを動かしていなければなりません。そして水が無くなったら走行不能になるんですがこの日もそんな灰と雨の中を鹿児島最大の繁華街である天文館の裏道を走っていました。悲劇は何の前触れも無くやってきます、ちょっとした渋滞でのろのろ運転をしているとドンとやられました。後ろの車から出てきたのは小太りの大柄な男、サンダルを引きずっています。こいつが横柄な野郎で「ごめんなさい」とも言わないで「どうするの?」だからね。もちろん事故にすると言いましたよ。そこに横丁から出てきた彼の女房と思しき女が「どうしたの」と訊ねれば「事故ったんだよ」と男が返し、女は私の顔を見て状況を把握したのかプイッと顔をそむけると足早に立ち去って行きました。亭主が亭主なら女房も女房だといやな奴に追突された身の不運を嘆いたのです。この男は武道の先生とかでこんな野郎に教えられている生徒こそ気の毒だと思ったのですが、後に地元出の部下に聞いてみるとどうにも評判の悪い先生らしい、いろんな男がいるもんです。もちろんそれっきり顔を見せるわけでもなく、こちらとしても見たくもない顔なのですが、そんなことよりも首が痛くなって気分が重っ苦しくて仕方が無いんです。人を恨むのなんてあまりしたくないのですが今回ばかりはあの野郎のお陰でこんな苦しみを、と思うのがたまらなくいやなのです。後に警察官から「出来れば寛大な処置をしてやりたいのですが、よろしいでしょうか」と聞かれたときには言ってやりましたね、「冗談じゃない、あんな男は厳罰に処してください」                      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [139]

追突(続きの3)

 この銀行支店長婦人は不思議な人でした。事故の翌日には早速事務所にやってきて、「昨日は申し訳ありませんでした」と謝るのはいいのですがこちらとしては予算作りで忙しいので持って来た菓子折りだけ置いて早くお引取り願いたいのに腰を上げません。そのうちいろんなことを話し出します。
「昨日は苫小牧で昔のお友達に久しぶりで会っておしゃべりしてたんですのよ、あんまり楽しかったのでそんなことを思い出しながら運転してたらぶつけてしまったんです。そんな事を思い出さないで運転していたらこんな事にはならなかったのに、みんな私が悪いんです」
いまさら言われなくてもあなたが悪いんですよ、と言いたいところを我慢していると更に凄いことを言い出しました。
「弁護士にも言われたんですけど本当にいい人にぶつけたって、運がよかったんです」
おいおい、誰の前で言ってるんだ、いい人だからって追突されたんじゃあたまったもんじゃない。言ってることは分かりますよ、亭主が銀行の支店長だからやくざな男になんかぶつけたら銀行に押しかけられて、亭主の出世にも影響したかもしれない。それに比べてこっちは一流とは言えないまでもまがりなりにも一部上場の多少は名も通っている会社の人間で、ちょっと見はおとなしそうな常識人間らしい。これはラッキーだったと言いたいんでしょうが面と向かって言われたんじゃあ面白くないですよ。面白くはないけれどとにかく仕事の方が進まないのでハイハイと聞き流して帰ってもらうしかなかったのです。
 翌日には電話してきて示談の話しになったのですが、こちらは間もなく東京に帰らなきゃあならないし、追突事故なんて初めてのことだからその恐ろしさも知りません。肩こりは治らないけれど仕事疲れが原因と思い込んで相手の提案を呑んだのです。手回しよくすぐにやってきた彼女と示談書にサインしてわずかな示談金を受け取った後またいやなことを言われましたね。
「弁護士が言ってるんですけど、この程度の事故の場合には示談金は無いのが普通なんですってね」
ひでえことを言いやがる、それじゃあ私がゆすり取ったようじゃねえか、よっぽど示談を解消しようかと思ったけれどその後で札幌と東京間の話し合いになるのも面倒と思い直したのですが、どうもこのおばさんに引っ張り回され続けたようでしゃくですね。想像ですが銀行の事故担当が軍師に付いていて支店長婦人を動かしていたのでしょう。百戦錬磨の事故担当にかかったら事故処女の私なんか赤子の手を捻るようなものだったのでしょうね。
                    …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [138]

追突(続きの2)

 私のみまわれた追突事故は日本列島縦断です、最初が札幌市、次が鹿児島市、最後が真中に戻って埼玉県の熊谷市、三回も追突された人だって珍しいのに日本列島の端と端、それに真中、こんな経験をした人も珍しいんじゃないですか。
 昭和五十三年の九月でしたね。札幌から東京への転勤を一週間後に控えて、得意先への挨拶回りも最後の苫小牧からの帰り道でした。北海道で得意先の挨拶回りをするとなると飛行機や車などで二千キロを走ります。通常の挨拶回りは暮れと正月にそれぞれ二千キロを走るわけで、正月を挟んで二度も行かなくてもいいだろうと思うのは素人の赤坂見附なんですね。挨拶に来なかったというだけで簡単に仕入先を変えられてしまいます。もう少し具体的な話をすると北海道では冬の間は家が建ちません、当然建築材料は売れないのですがここでのんびりしていると夏も売れなくなってしまうのです。家の建たない冬の間こそ食うか食われるかの商戦だったのです。もっともこれは三十年以上も昔の話ですから今はこんな馬鹿なことはやってないと思うのですがどうなのでしょうかね。話は後先になりましたが私は建材のメーカーで働いていたのです。北海道の冬の得意先周りは温暖な地方にいると想像もつかないことがいくらでもあるのですが、吹雪の中の峠越えなどは怖かったですね。とにかく先が見えないのですから崖から転落したり雪溜まりに突っ込んだりするのはよくあることですから、それを防ぐ為には電飾を付けたトラックの後にピタリとくっついてひたすら追いすがってゆく、トラックに何かあったらこちらも一巻の終わりですがその時はその時と腹を決めての決死隊みたいなもんでした。こんな話をしても雪国の人にしてみれば冷笑の対象にしかならないのでそうが暖国育ちの私にしてみれば必死の行動だったのです。
 苫小牧から三十六号線を札幌市内に入って林檎で有名な平岸あたりまで来ると急に渋滞が始まって前車の後に止まってから少しの間があった後ドスンと衝撃を受けました。小型の乗用車から降りてきたのは銀行の支店長婦人、警察への届けは勿論ですが病院でのレントゲン検査にも付き合ってくれて特に異常は無し、これで何も無ければお互い少しばかりの不幸で済んだのでしたがそうは思い通りにはいかないものでした。それから二日後のことなんですが肩がごちごちに固くなったんです。ちょうど来期の予算作りを急いでやっていたのでそれが原因かと思い違いしたのが不幸の始まりでしたね。パソコンなど普及していない時代で全て手作りの予算作りですからそんなこともあったのです。そんな事も転勤の雑事に紛らわされて特に気にすることも無く、ばたばたと示談にして東京へと帰ってきたのでした。               …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [137]

追突(続きの1)

 追突と聞くとすぐにいろんなことを思い出すんですよ。車を運転していると事故の危険から逃げることは出来ないのですが、予防できる事故と自分ではどうにも予防出来ない事故があるんですね、その一つが追突される事故なんです。そしてこの追突事故に三度もみまわれてその度に苦しまされたとなれば、恨みの一つも言いたくなる事故だってありますよ。追突事故というのは車同士の事故の中ではダントツの一位なんだそうで、あまり嬉しくない一位ですが原因はといえばまずほとんどが追突したほうの不注意であることは間違いありません。まあそうはいっても追突されるほうが悪いケースだってあるぞと言われればその通りで、追突したほうがかわいそうなケースをいくつも見てますから一つぐらい紹介してもいいのですが、今日はあんまり心を痛めるような話はしたくないので自分の話だけにしておきます。
 追突されるということは追突した奴がいたということで、この相手の対応がどうにもしゃくの種、こっちは鞭打ちになったりして苦しんでいるのに加害者は何の苦痛も感じていない、こんな馬鹿なことがあるのかいとそれが悔しくてしょうがないんですが、そんなふうに人を恨んでいる自分というものが嫌になったりしてそれがまた苦しいものなんです。ただしあれから何年もたって少なくとも現在では後遺症らしいものも残っていないことからそんなふうに恨んでばかりいてもしょうがないので、プラス面を探してみるとこれがあるんですね、三度の追突のお陰で今現在生き延びていられると言えるかもしれないのですよ。
 三度追突されたお陰で身に付いた習慣があります。信号でも渋滞でも停車する前には必ずルームミラーで後方を確認するんです、これが命を救ってくれました。
 もうあれから十数年になります、埼玉県の大宮に単身赴任していたのですが週末には千葉県の自宅に帰ってきます。首都高速川口線を走ってきて三郷線と合流する小菅付近、今まで快調に流れていた前車のハザードランプが点滅を始めてストップしました。このころの私は何故かキープレフトなどというものが嫌いで追い越し車線専門走行でしたからそのまま前車の後ろにブレーキをかけながらルームミラーを覗くと後続車がスピードを緩めることなく走りよってきます。まさに一瞬の判断でしたね、左後方を確認したのと左側の走行路線にハンドルを切ったのは。後続車がブレーキに悲鳴を上げさせながら右横に急停車したのは寸秒の後でした、前車との距離は20センチもありません、もしも私の車が左に逃げていなかったら、想像するのも恐ろしい出来事でした。
                            …続く
                          溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [136]

戊辰の風(続きの21)

神田表神保町の寓居で妻のしげが淹れてくれた茶を飲みながら弥兵衛は庭に積もる雪を眺めている。
「北海道に未練があるのですね」
「そうだな、もう一度行ってみたかった、遣り残したことといえばそれだけかもしれない」
そんな弥兵衛に春風のように忍び寄った遠い未来がそっと声をかけてきた。
「弥兵衛さん、未練を残すことはないですよ、次の世代が望みをかなえてくれますよ」
遠い未来が予言した通り宮内庁を辞した長男の巳之助が陸軍測量部、現在の国土地理院、に採用され北の大地を訪れてその全土を測量して歩いた。更には昭和天皇の北海道巡幸に際してはその足跡を辿り、室蘭から札幌を経て旭川、そして根室から帯広を廻る全行程を全五巻の天皇行幸図として作成し天皇に献上したのである。北海道との繋がりは子孫によって更に繋がれてゆく、弥兵衛の曾孫達の家族がこの地に留まり、五人の玄孫(やしゃご)がその幼年期を北の大地に抱かれることになる。
 
 時代の風は個人の力の及ばない時がある、戊辰の風はまさにそんな風であった。吉田弥兵衛はこの風に翻弄された、この男の意思に逆らって事態は展開していった。弥兵衛の何度かの決断もその時々に現れた男によって無に帰した。
しかしこの男はそれによって人生を諦めようとはしなかった、常に将来を見据え己がいま何をすべきか、何が出来るかかを問い続けた、これがこの男の未来を作り上げた。明治の風は弥兵衛の実力を発揮させる場をもたらした、吉田姓から今村姓への改姓も精神的な転換となった。新しい時代は弥兵衛の力を求めていた、求める時代と弥兵衛の実力が出会ったとき建築家今村弥兵衛という花が咲いた。明治に咲いたこの花は巳之助という大正の大輪の花に繋がった。巳之助の描いた東京市図は東京名勝図衝立の中央に納まって宮内庁三の丸尚蔵館に収められている。
 大正に咲いた花は実を結び新たな花を咲かせている、昭和の花、平成の花、四代で百を越えて広がった花々はそれぞれの個性を見せながら存在を主張している。生き延びた弥兵衛がいたからこそ咲いている花なのである。
遠い未来が囁くこんな話は弥兵衛には聞こえていない。
しげが茶を淹れ替えた、弥兵衛はまだ雪を眺めている。
おわり
                             溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [135]

戊辰の風(続きの20)

 時代が変わるということは世間が一体で変わることではない、個人の間での変化は尋常でない。時代の変化に対応できる者もいれば時代についてゆけない者もいる。これは激動の維新期に限ったことではない、太古の時代から繰り返されたことである。時代の波に乗れる者と乗れない者の違いはどこにあるのだろうか、それはひとつに己の未来を見詰める目にあると弥兵衛は信じている。
この男高木剛次郎もまた己の未来を見詰めていた、江戸家老を切ったという事実は消すことが出来ないが薄めることは出来る、その為に無理をしてアメリカに渡った、そして持ち帰ったのが商業簿記である、この国で商業簿記に通じた者はまだ居ないといっていい。後に十五銀行の支配人になった。
酒宴は酩酊の度をたかめている。
「吉田どの、貴殿はたいしたものだ、私が思っていた通りの出世だ」
「あはは、だいぶご機嫌になられましたな、だが私は今村でございますよ」
「そうであった、内儀の姓に変わられたのでしたな」
「明治七年ですからもう五年になります、千葉村新田を引き払って東京に出てきたのを汐に生まれ変わったつもりで女房の姓を名乗ったのです、この年が私の厄明けでもあったから踏ん切りがついたのですよ」
「あれから運が廻ってきたようだな」
「おっしゃるとおりです、二年後に宮内省建築課に拾われて、それから好きなようにやらせていただいております」
東の空が白々と明けてきた、嬉しい宵越の宴はぼつぼつお開きである。

 五年の歳月が流れた、弥兵衛は東京高等工業学校、後の東京工業大学、で教鞭を執っている。長男巳之助は前年に小学校を中退して宮城御造営事務局和式建築課に採用された。この時代の小学校は満六歳で入学し下等小学四年、上等小学四年の二段階で合わせて八年の学校であったから一年を残しての中退である。巳之助は若年ながら明治天皇御臨幸縄張御巡覧の砌御案内地図を作成して認められ、現在は弥兵衛が考案した配置図法に従って伏見宮邸全景図を作成中である。見事に己の後を継いでくれている長男の姿に弥兵衛は目を細めながら更なる飛躍を願っている。その巳之助が思わぬ方向に進んで朝鮮、台湾を含めた全国に足跡を残そうとは想像もしていない。弥兵衛も五十代の半ばに近づいている、この時代ではすでに老境にあると言っていい、東京高等工業学校で後進の育成を最後の勤めと定めた余生である。
                           …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [134]

戊辰の風(続きの19)

 宮内省建築課に入ってから三年、その間有栖川宮邸や伏見宮邸の建築工事で実力を認められた弥兵衛が皇居内に造営される宮城門造営表御館の設計監督を拝する内命を受けたのは数日前のことだった。
「函館、いや七飯村で習った西洋建築、それを千葉新田で実地に試してみたことから日本建築に新しい工夫が出来たのです、それが実を結ぼうとしているのですよ」
「あちらこちらと引っ張り回したけれどその中でよくぞ勉強したものだ、さすが弥兵衛さんだ」
「色々な場所にお連れ頂いたのが勉強になりました、服部さまのお陰です」
「皮肉半分だな、いや七分か、いずれにしてもめでたい、今日は酒と蛤を持って来た、桑名の蛤が旨いのだがそうもいかない、江戸前だが焼いていただくように内儀には頼んである」
酒は嫌いなほうではない、焼き蛤の香に誘われて交わす盃も数を重ねると話は昔話に戻ってゆく。
「七飯村もかなりの混乱があったそうですね」
「ガルトネル開墾契約事件か、新政府も対応に苦労したらしい」
プロシャの貿易商ガルトネルが幕末から七飯村で開墾事業を行い蝦夷島政府が函館を占領すると九十九年間の賃貸契約を結んだことはすでに述べたがこの賃貸契約が国際問題になったのである。函館戦争が終わり新政府がこの契約を引き継いだが九十九年間という契約内容を問題視して契約の解除を申し出た。
九十九年間の賃貸ということは北海道に三百万坪の外国領地があることと同様である。中国に例をとってみればイギリスに割譲した香港と九竜半島は別にしてもこれに接した新界地は九十九年の租借である、これは実質的にはイギリス領であることに変わりはない、日本の国土にこのような例を作るわけにはいかないのである。契約の解除は難航した、日本としては契約を重視する近代国家としての姿を諸外国に見せねばならない。莫大な違約金が支払われたであろうことは想像に難くない。
 酒宴は夜更けまで続いてもお開きの気配も無い。
「高木剛次郎がアメリカから帰ってきた」
高木は江戸家老吉村権左衛門を切った男である、庄内で降伏した後松平定敬を説得する為に函館にやってきたが定敬の脱出と行き違いになった。その後がこの男らしい行動で降伏した男が新撰組に入り土方の配下になった。維新後はアメリカに留学していたが帰ってきたようだ。
「驚くのはあの男が商業簿記の講義をしているのだ」     …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [133]

戊辰の風(続きの18)

 弥兵衛は伏見宮邸の建築現場にいる。明治九年宮内省建築課に入った弥兵衛は有栖川宮邸建築工事で頭角を現し、次々に重い役を任されていた。現場の隅では長男の巳之助が図面を引いている、三年前に数えで九才の息子がその時に担当していた有栖川宮邸の現場にやってきて見習いで図面を引きたいと言うから弥兵衛も驚いた。試しに引かせてみると並みの職員よりましな図面を引く、他の連中も感心して賛同したので使ってきた。その後も役に立つので使っているがみるみる腕を上げている。我が子ながら末が楽しみと嬉しさを抑えて厳しく指導してきたかいがあった。もはや何処に出しても恥ずかしくはないがなんと言っても十二歳だからいまだに見習いで使っている。本人は図面が引けることが楽しいのか毎日やってきては小遣いを稼いでゆく、その中から学資も自分で払い更には廃版になった地誌を見つけては買い集めている。さすがの弥兵衛も息子の能力の底を計りかねていた。

 神田表神保町の我が家には珍客が待っていた、服部半蔵である。
「これはこれは服部さま、今日は又何事でございますか、もう戦は終わりましたでしょうに」
「これはまた手厳しいな、もはやそんな生臭い話はないぞ」
「二年前に殿様のお供で薩摩へ戦をしに行くと言われた時にはまさかとは思ってもどきりとしましたよ、またついて来いと言われるんじゃないかと思って」
明治十年に起こった西南の役、西郷隆盛が薩摩で挙兵した国内最後の戦に松平定敬は桑名兵を率いて新政府軍として参戦したが、その折にも半蔵は訪ねて来たのである。
「あの戦は官軍だったから楽な戦いだった、今までは逆賊で苦労したからな」
「それにしても坂本竜馬さんが生きていたら西郷さんは立ちましたかね」
「土方が生きていたら新撰組の残党をかき集めて西郷の下へ駆けつけたかもしれない、あの男は何処にでも死に場所を見つけようとしていたからな」
「そうですかね、歳三さんが生きていたら竹中重固さまと北海道で殖産事業をやっていたと思いますよ」
「死んだ人を生き返らせてあれこれと思いをめぐらせるのは面白いものだ」
家老と作事係の垣根が取り払われて、元々が弥兵衛に尊敬の念をもっていた半蔵である、二人の間は親子に近い感情が流れはじめていた。
「話がとんだところに飛び火して肝心な事を忘れていた、今日はお祝いを言いに来たのだ、皇居の宮城門造営表御館の設計図監督に抜擢されたそうではないか」                           …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [132]

戊辰の風(続きの17)

 明治も六年となると世の中は激しい変貌を遂げながらも一応の落ち着きを見せ始めている。この年から太陽暦が採用された、明治五年の十二月三日が明治六年の元旦になった。従って約一ヶ月ほど季節が早まった、今まで述べてきた季節は全て旧暦だから今の暦からみれば一ヶ月遅いことになる。
上総では菜の花が盛りというのに下総の千葉村新田ではまだ春寒を抜けてはいない。
「いよいよお別れでございますなあ」
「思いもよらず長い逗留となってしまいましたが多兵衛さんにはご迷惑のかけ通しで」
「何をおっしゃいます、吉田さまが居られるお陰でこのあたりの建物は見違えるようになりました、お礼を申し上げるのはこちらでございます」
「それにしてもアッという間の歳月でした、多兵衛さんが函館まで誕生を伝えてくれた巳之助も五歳ですよ、多兵衛さんが知らせてくれなかったらあのまま七飯村の農場に残ったかもしれない」
この時弥兵衛は四十三歳、五歳になる巳之助と隣の部屋で遊んでいる八歳年下の妻しげの姿を追いながら目を細めた。
「そういえば竹中様が北海道に入植されましたが、弥兵衛さまにもお誘いがあったそうですね」
「竹中重固様にはご恩があるし一度はあの地に根付く気にもなったのですから迷ったのですが、私にはやりたい事が出来たのですよ」
弥兵衛を蝦夷地から連れ帰った竹中重固は旗本の領地を没収されたが明治四年に養父竹中重明と共に北海道に入植し、一時的に東京府に出仕した時期もあったが生涯を殖産事業に捧げた。竹中家に用人として仕えた亘作兵衛は竹中家から離れて千葉村新田の開発に力を注いでいる。この間弥兵衛は作兵衛に求められるままに建築に力を貸していたのだが、七飯(ななえ)村で覚えた西洋建築の技術を取り込んで新しい工夫を編み出していた。これを大きな舞台で試したいという思いが東京への復帰を決断させたのである。
余談だが明治維新は武士が故郷の藩に戻ったり、徳川家が駿河に移り住んだ為武家地の多くは空き地となった。これから弥兵衛一家が移り住もうとしている神田の表神保町も元は旗本神保家の屋敷である。この地に表神保町、裏神保町などが出来たのは前年のことで、後に神田区表神保町六番地となる。
弥兵衛を東北の各地へそして北へと運んだ戊辰の風はすっかり息を止め、弥兵衛自身の意思を乗せた明治の風は高みを目指して確実に吹き始めていた。
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [131]

戊辰の風(続きの16)

「おぬし何故ここに居る、服部殿に何か言われたか」
竹中重固である、弥兵衛が妻を疎開させる為に便宜を図ってくれた男だ。
その竹中が弥兵衛の目の前に居る、別に不思議ではない、蝦夷共和国の海陸裁判所頭取の要職にある。
「服部様と共に船に乗れと」
「それは止めたほうがいい、おぬしは上海に行くつもりか」
「上海とはあの上海でございますか」
「そうだ、あの上海だ、それよりもおぬしに吉報がある、内儀に男子の誕生だ、多兵衛が知らせてきた」
「あの、男子とは私のでございますか」
「ほかに誰が居る、もしかしておぬしは内儀の懐妊も知らなかったのか」
「まことでございますか、いや何も存じておりませんでした、多兵衛どのが知らせて下さいましたか、ありがとうございます」
「そうと聞いたら早く江戸に帰りたいだろう、十日後にイギリス船に乗る、それにおぬしも乗れ」
 事態は急展開し始めた、混乱する頭を整理しながら弥兵衛は嬉しさに震えている。亘多兵衛からの報告は数日前に届き、その中に男子誕生の話を見つけたとき竹中重固は弥兵衛を自ら連れ帰ろうと思いイギリス船に一人分を追加していたのである。
 松平定敬が服部半蔵などを連れて乗り込んだ外国船は上海に向かって出航した、前夜密かに姿を消した弥兵衛は乗船していない。酒井孫八郎は定敬を直ちに江戸に連れ帰り恭順の意を表させたかったのだが定敬はひとまず上海に逃げた。こんなところが殿様の幼児性かもしれないが結局は何を為すことも無く上海に二週間ほど滞在してから五月十日に上海を発ち十八日に横浜に着いた。五稜郭で習い覚えた英語を試してみたかったのかもしれない。三日後に東京に出て正式に降伏した、周りの者にしてみれば迷惑な長旅だったのかもしれない。
 その後の定敬は明治五年に罪を許され、直ちに結婚しその年の暮れにはヨーロッパに旅行している。明治二十七年には日光東照宮の宮司になり明治四十一年に六十二歳で没した。
 四月九日官軍は江差に近い乙部に上陸した、榎本や土方は各地で転戦している、蝦夷共和国軍の戦況は芳しくない。脱出を図った竹中重固の一党はイギリス船に乗り込んだ、弥兵衛も加わっている。五稜郭総攻撃は出航の日から二十日余の後に迫っていた。
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [130]

戊辰の風(続きの15)

函館、この頃は箱館と言われていたが混乱を防ぐ為に文中では函館で通している、の五稜郭から大沼に向かって三里程の七飯村、プロシャの貿易商ガルトネルが蝦夷島政府との間で九十九年間の賃貸契約を結んだ三百万坪の広大な農地を見回しながら弥兵衛はこれからの己の進むべき道を考えている。
 土方歳三から勧められるままに七飯村に足を向けた弥兵衛はその日から毎日のように通いつめている。相手になってくれるのは菊池楯衛、ガルトネルの弟子の一人で当初からこの農地に関わってきた。菊池はこの年二十三歳、若さが満ちている、弥兵衛は十五歳年下のこの男に腰を低くして教えを乞うた。菊池は後にこの地で習得したアメリカ流接木法とりんご樹形の仕立て法を故郷の弘前に持ち帰りりんご栽培を始めた、青森りんごの始祖である。
 弥兵衛が特に興味を持ったのはもちろん西洋式建築である。ここにあるのは農業用の建物に過ぎないのだが日本式とは明らかに違う。我が国の家屋は高温多湿に対応する為に夏の涼しさのみに重点を置き、冬はほとんど無防備である。内地ではなんとか凌ぐことが出来ても厳寒の蝦夷地では耐え難い苦痛を強いられるこの家屋形式がそのままこの地に持ち込まれ明治になるまで何の進歩も無かった。弥兵衛が目にした西洋式家屋は斬新であくまで合理的であった、この地の冬が春のように感じられる家屋など想像の外にあった。菊池楯衛は建築については素人である、しかしこの若者はこの地の家屋の建設に関わることで得た知識を求められるまま弥兵衛にその全てを与え続けた。弥兵衛の前途に新しい世界が開けてきた。
 
「孫八郎が桑名からやって来た、もちろん殿を説得する為だ」
服部半蔵に呼び出された弥兵衛が何事が起こったのかと首をかしげている。
孫八郎とは酒井孫八郎、半蔵の異腹の弟で同年である、半蔵と同様に家老職を務めている。この男が藩主定敬を説得する為にやって来て遂に説き伏せた。定敬もとうとう降伏することになったのである。
「その上に榎本や土方とも交渉して話をつけてしまった、孫八郎もなかなかの男だ、それで四月十三日に船に乗る」だから弥兵衛も乗れと言う。
有無を言わさぬ一言である、私はこの地に残り七飯村で勉強したいと言い出す間も与えず半蔵は席を立った。
 戊辰の風に翻弄されながら弥兵衛はみずからの意思に関係なく各地を渡り歩き蝦夷の地まで来てしまった、そして今またこの風に吹き流されようとしている。こんどこそ逃げ出すか、ようやく立ち上がった弥兵衛の前に意外な人物が立ちふさがった。弥兵衛の身辺にも明治の風が吹き始めた。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [129]

戊辰の風(続きの14)

蝦夷地平定祝賀会からすぐに年が明け明治も二年になった。戦闘に適さない蝦夷地の厳しい冬は蝦夷共和国の人々にとってつかの間の安らぎを与えてくれる。それでも彼らにとってのんびりとしている暇は無い、一月から二月にかけては五稜郭の整備に多忙を極めていた。こんな中で一人だけ多忙の枠外にいる男が不遇を嘆いている。既に述べたように松平定敬は役目をはずされて英語の勉強に励んでいる、親分がそんな事情だから本来ならば城の整備などには欠かせない弥兵衛ではあるが、親分が閉職にあれば子分に仕事など廻ってこないのである。そんなある日の事である、弥兵衛は土方歳三からの招きで幹部達が常用している武蔵野楼にいた。
「その節はおおきにお世話になりました、それにしても弥兵衛どのとこんな所で酒を酌み交わせるとは思ってもいないことでした。今日まで生きながらえてきたけれど、少しはいい事もあるようです」
「あの時はさすがに驚かされましたよ、しかもこの話を家老の服部半蔵が知っていたのでもう一度驚かされた」
「弥兵衛どのにご迷惑がかかるといけないと思って逆手を取っておいたのですよ。朋友の高木剛次郎に委細を話して服部殿の耳に入れてもらった。服部殿は弥兵衛どのの贔屓だからたいそう喜んだそうです、せっかく助けていただいた竜馬が桂早之助らに殺されたのは残念ですがこれもあの男の役割が終わったということかもしれない」
「役割が終わりましたか、私は私の役割が分からなくなってきている」
「弥兵衛どのは建築という立派な技術を持っておられる、これからの時代に一番必要なのはあなたの技術なのですよ、私だってここに生きがいを求めようとしているんですからね」
二人の交わす盃のピッチが上がってきたようだ。   
土方歳三は鳥羽伏見の戦いで敗れた後死に場所を探しながら激戦を潜り抜けてきたと言っていい。それがこの蝦夷の地に流れ着いてから生きがいを見出したというのである。
「ここから三里ほど先に七飯村というところがあります、ここに目をつけたプロシャの貿易商ガルトネルが西洋式の農地を作り始めたのです。蝦夷共和国としてもこれからのこの国の経営の為には願っても無いことなので、援助する為に九十九年間の賃貸契約を結んだのです。新しい形の農業に立国した共和国が生まれる、これが私の生きがいになりそうです。ただし官軍との戦に負けなければ、の一言を飲み込みながら歳三の目は遠くを見詰めていた。
                             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [128]

戊辰の風(続きの13)

函館北方の内浦湾に面する漁港鷲の木浜はすでに一尺の雪が積もり海上には高波と暴風雪が荒れ狂っている、「徳川脱走兵」と呼ばれるようになっていた兵士約四千人を乗せた七隻の軍艦がこの地に錨を下したのは十月二十日の早朝であった。弥兵衛は船倉で目覚めている、錨を上げてから一週間、冬の荒波に耐えながら新天地への希望も持ち始めていた、いや希望を持とうと必死だったのかもしれない。親しいといえば土方や服部半蔵、ここでは簡単に会える人ではない。一般の兵士達とは仲間にも入れない、この軍隊の中での自分の異質さを思い知らされていた。錨が下されたことは知っているが下船命令はまだ出ない、甲板に顔を出すことも無く時間だけが通り過ぎてゆく、自分は何故ここに居なければならないのか、自問自答は続いている。
この軍隊を実質的に率いる榎本武揚は直接函館を攻めることはしない。小さな漁港である鷲の木に先ず上陸したのは鰊漁で潤う裕福なこの村が食糧調達も容易であり、また函館から小樽への街道筋の要衝としても重要な地点であったからである。艦上で行われた軍議では五稜郭までの本道軍総督を大鳥圭月、別働隊としての間道軍総督に土方歳三が任命された。この時一緒に乗船していた板倉勝静備中松山藩主、小笠原長行唐津藩主、それに桑名藩主の松平定敬は指揮権を持たない客員扱いに棚上げされ三藩の藩士は全て土方歳三指揮下の新撰組に組み込まれた。ただし戦闘員でない吉田弥兵衛が新撰組に組み込まれたという記録は無い、二人の関係から言っても歳三の配慮があったのかもしれない。
 
函館五稜郭を占領した榎本軍は松前や江差を占領した後、各国領事を招待して蝦夷地平定祝賀会を催した、こんなところに海外留学経験のある榎本の国際政治的配慮もあったのだろう。その後幹部を決定する選挙が行われ榎本を総裁とする蝦夷共和国が成立し、歳三は陸軍奉行並となり函館市中取締も兼務した。
一方桑名藩主松平定敬(さだあき)は他の二藩主と共に体よく棚上げされてすることも無い、暇に任せて英語の勉強を始めた。それにしてもこの殿様は不思議な人である、逃げ回るのであれば初めっから官軍に恭順の意を示せばいい物を結局はこんな北の果てまで流れ着いたあげくに部下を全て取り上げられ、全くの閉職に追いやられている。その人が英語の勉強を始めるとは案外先を見る目があったのかもしれない。その男が弥兵衛の親分である、弥兵衛は新撰組に加えられていないし歳三の部下でもない、ということは依然として定敬の部下であることに変わりない弥兵衛は現在では定敬の唯一の部下ということになっている。ところが定敬も弥兵衛もそんな事には気付いてもいない。   
…続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [127]

戊辰の風(続きの12)

 脱走といえばなんとなく胸がときめくようだが弥兵衛の場合はそうでもない。
世間一般には脱走すると言うことは死を覚悟して決行しなければならないから、ひとたび決断すれば決行は速い。ところが弥兵衛が脱走しようとすれば実に簡単なのである。監視する者など誰もいないから物見遊山の風を装って仙台藩の陣営に近づき、自らの名を名乗って投降すれば全ては終わる。元々が桑名藩に関わりのある者といっても幹部には程遠い身分であるから、多少の尋問を受けたとしてもすぐに解き放たれて巧く行けば江戸までの便宜を図ってくれるかもしれない。だからである、かえって決行しづらいのである。
 ふんぎりがつかぬまま時間だけが過ぎてゆく、気持ちはすでに江戸にあるのだが体がついていかない。行きつ戻りつの葛藤を続ける弥兵衛は意を決して仙台藩の陣地への道を歩み始めた。
「吉田どの、弥兵衛どのではないか」
聞き覚えのある声に振り向くと思いもよらぬ人物が笑っていた、土方歳三である。
「弥兵衛どのも来ておられたのか、奇遇ですなあ、これからしばらくご一緒できるとはありがたい」
何のことかと不審げな顔をしていると一緒に箱館に行くのだと言う。これで運命は決まったなと思いながら弥兵衛は土方歳三に決められたのならばそれもいいかと少しばかりの安堵感の中に居た。
 土方がなぜここに居るのかを説明する為にはこの男の足跡を辿ってみなければならない。勝海舟と西郷隆盛との会合で江戸城が四月十一日に無血開城されると土方は江戸を脱走し秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を勤めた。下館、下妻を経て宇都宮の戦いに勝ったが壬生(現在の栃木県下都賀郡壬生町)で破れ、再び宇都宮で戦った折に足を負傷した。この為会津に護送され三ヶ月の療養生活の後に完治、戦線に復帰して官軍を迎え撃ったが戦況は芳しくなく、援軍を請う為に庄内藩に向かった。ところが庄内藩はすでに官軍に恭順の意を表しており、もはや為すすべも無く仙台に向かった。
 仙台に至ると榎本武揚率いる旧幕府海軍に出会って合流し、榎本と共に奥羽越列藩同盟の軍議に参加した。この軍議で土方は同盟軍総督に推薦されたがすぐにこの同盟は崩壊、同盟軍が次々と官軍に下るなかで新撰組生き残りの隊士に桑名藩士らを加えて箱館に向かうことを決めたのである。
 旧幕府軍艦太江丸に乗船した土方歳三、桑名定敬に桑名藩士や新撰組の生き残り隊士などは他の六隻の軍艦と共に十月十二日仙台折浜を出航した。弥兵衛もまたこの船上にいる。              …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [126]

戊辰の風(続きの11)

 柏崎は北陸街道の宿場町というだけでなく、江戸期から明治の中頃まで物流の主流をなしていた北前船の寄港地としての存在があり、更には小千谷や十日町といった中小都市との間に高田街道が延びる交通の要衝として発展した。特に地域間の街道からは小千谷縮が運び込まれ柏崎宿はその集積場として大いに繁盛した。その販路は江戸、大阪、京都はもとより九州や蝦夷地にも広がっていたという。この地は江戸初期の高田藩成立以降十八世紀前半まで幕府領となった一時期を除いておおむね高田藩に属した。宝永七年(1710)松平定重が桑名から高田に入府、以後久松松平家の支配するところとなり、転封によって白河藩、桑名藩となっても飛地領として柏崎に陣屋が置かれている。
 弥兵衛は竹中重固の言葉を思い出していた。重固はあんな小さな城で籠城なんか出来るものか、と言ったがとても城なんてものじゃない。本当に籠城なんかするのかと思う間もなく半月もたたないうちに定敬は柏崎を発った。官軍が攻めてきたからである。定敬は闘う気など無いのだろうか、それなら江戸で恭順の姿勢を見せればいいものを、おかげで妻を残してこんなところまで連れてこられ、これからも行く先知れない道中を続けなければならないとは弥兵衛こそいい迷惑である。
 桑名藩の一行、軍隊を一行というのもおかしいが戦う気も無い集団は軍隊とは言えない、は松平容保のいる会津若松に向かった。ここで華々しい戦に巻き込まれるかと思いきや又逃げた、官軍が迫ったからである。会津若松を出た一行は米沢、福島などを経て仙台に着いた。ところが仙台藩は官軍に降伏していたので仙台に入ることが出来ない、引くも進むも出来ない状態に陥っている。
「服部殿」目の前を通り過ぎようとしている半蔵に弥兵衛は声をかけた。
「やあ、弥兵衛か、天は我に味方したぞ」言いながら近づいた半蔵が耳元でささやいた。
「榎本武揚殿の率いる旧幕府海軍の軍艦がたまたまこの沖に停泊していたのだ、これに乗せてもらえることになった」
「それでどちらに向かうのです」
「箱館だ、ここには五稜郭という立派な城がある、弥兵衛にも活躍してもらわねばならぬ、たのむぞ」
とんだことになってしまった、まさか蝦夷地へ連れていかれるとは思わなかった。仙台で降伏してしまえば弥兵衛などたいした罪にもならずに放免されるだろうに、蝦夷地へ渡ったが最後本格的な戦いに巻き込まれて生き延びられる保障は無い。
弥兵衛の頭に「脱走」の文字が浮かんだ。         …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [125]

戊辰の風(続きの10)

 余談だが千葉県船橋の戊辰戦争について述べる。この当時船橋市街の本町通は団十郎人気と成田不動尊の信仰が合体した成田詣の増加で宿場町として繁盛しており最盛期寛政年間の二十二軒には及ばないまでも飯盛女を抱えた宿が建ち並んでいた。慶応四年の閏四月三日である、江戸開城と共に江戸から散った幕府軍の一部が船橋の大神宮に篭っていたが追ってきた官軍との間に壮絶な戦闘を展開した。この間に佐土原藩の兵による放火により船橋市街は猛火に包まれ大神宮の神殿も含めて灰燼に帰した。上野寛永寺に篭った彰義隊の話はたいした戦闘も無いにもかかわらずよく知られているが船橋の戊辰戦争はほとんど知られていない。この火災の為に古い歴史を持つ船橋の古文書は悉く失われてしまった。市内海神の念仏堂に千葉県が建立した官軍の墓がある。その一方で幕軍の死者は公には葬られることも無かったが地元の篤志家が建立した幕兵の墓が市内にいくつか残っている、幕兵は「脱走さま」と呼ばれて住民から贔屓にされていたという。

 妻を現在の千葉県庁に近い千葉村新田の亘家別宅に疎開させた弥兵衛は服部半蔵に命じられるまま江戸湾からプロシャの船に乗り込んだ、三月十六日のことである。半蔵の命を受けてからの弥兵衛は不眠不休の連日であった。竹中重固の好意で千葉村に妻を避難させることが出来たのは奇跡に近い幸運であったが千葉村まで十二里余りの道のりを大八車二台を引いて行くのは大きな困難を伴った。家財道具は最低限のものにするとしても、建築関係の資料や書籍は江戸市中に残すわけにはいかないからである。一台は弥兵衛が引き妻が押し、残りの一台は下男夫婦が続いた。
 またまた余談で恐縮だが昭和二十年に筆者は空襲を逃れて疎開先への道すがら甲府に出た。そこから父が東京から持って来た家財道具を大八車に積み込み、夏の盛りに乳飲み子を抱く母と五歳の弟、それに一年生の筆者も乗せられて石和は一宮村末木の農家に借りた八畳一間まで行軍したが父と手伝いの若い男の苦労は並大抵ではなかったろう。大八車は江戸時代から使われ始めたが構造的にいえば木の枠を組み、その枠に板を張ったものに大きな車輪を付けた物である。昭和になってからリアカーの登場によって衰退していったがこの頃にはまだまだ使われていた。こんな前世紀の遺物でも道路標識において「自転車以外の軽車両」をあらわす図案としてその姿を見ることが出来る。

 弥兵衛を乗せて江戸を出帆したプロシャの船は津軽海峡を通り、三月三十日に桑名藩分領地である越後柏崎に錨を下した。         …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [124]

戊辰の風(続きの9)

 翌日江戸八丁堀越中橋畔の弥兵衛宅を訪れた者がいる、旗本竹中重固(しげかた)この日はまだ僧形である。この日はと言うのにはわけがある、重固は幕府の陸軍奉行として長州征伐などで活躍し、若年寄並にまで昇進したが鳥羽伏見の戦いで破れたので罷免されて出家した
「その頭巾は何ゆえでございますか」
「頭に不精な毛が生えてきたのだよ、熊谷次郎直実を気取ってみたんだが、陸軍奉行を首になったことの照れ隠しぐらいなことはすぐにばれてしまったよ、坊主を続けてもしょうがないから還俗して戦場に戻る、幕臣達が黙ってはいない。それで後のことはこの亘多兵衛が取り仕切るのでよろしくという事でお別れがてら訪ねて来たという次第だ」
 亘多兵衛、竹中家の用人である。竹中家の旗本領は大阪の吹田にあり、吹田の庄屋を亘家が代々つとめている。多兵衛はこの亘家から出て用人を務めており旗本竹中家の台所は亘家が仕切っていることになる。この多兵衛と弥兵衛との出会いは京都であった。竹中重固が陸軍奉行として度々所司代屋敷を訪れた折に従っていた多兵衛は弥兵衛と出会い、同年の気安さもあって親しい仲になっていた。また重固も陸軍奉行を罷免された後は多兵衛の案内で弥兵衛との交わりを濃くしていたのである。
「ところで桑名公は柏崎に向かわれるようだが、おぬしはこれからどうする」
「それが殿のお供をすることになりまして」
「戦闘要員でもないおぬしがなんでついて行かなければならんのだ」
「城作りに必要だそうです」
「ばかな、籠城でもするつもりか、あんな小さな城で籠城なんか出来るものか、それで内儀はどうするつもりだ」
「江戸が火の海になることを思えば何処かに疎開させねばならんのですが」
「葛飾郡の船橋にある別荘では如何でしょう」
「いやだめだ、船橋では江戸に近すぎて危険だ、もっと先にないか」
「それならば亘家の別宅が下総の千葉村新田にございます、ここならばお気遣いなくお住まいいただけますが」
「それはいい、どうだ千葉村にご内儀を疎開させなさい」
竹中重固の的確な判断が弥兵衛の妻、さらにいえば翌年に生まれてくる長男巳之助の命を救った。重固の予想通りこの年の閏四月三日には江戸を逃げ出した幕府軍が官軍と戦い船橋市街は猛火に焼かれた。重固の先祖は豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛重治であるという、稀代の軍師の末裔が弥兵衛の家族を救ってくれたのである。               …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [123]

戊辰の風(続きの8)

「弥兵衛殿、坂本竜馬は残念なことだったなあ」
突然呼び出しを受けた弥兵衛が服部半蔵と対している。半蔵は京都から逃げ出した定敬に従って船で江戸に来ているのだが桑名藩内が大もめで寝る暇も無いはずである。そんな時期に弥兵衛が呼び出されたのには合点が行かずにいる、弥兵衛は思いもかけない第一声に耳を疑った。
「竜馬殿が残念とは何事でございます」
「なんだ、知らんのか、あの男は去年の暮れに命を絶たれたのだ」
その事実を弥兵衛は知らなかった、人が殺される事など毎日のことで、しかも一般には名も知られていない坂本竜馬が殺されても江戸庶民の口の端にも上らない。江戸藩邸にそれを知る人がいても弥兵衛にわざわざ知らせてくれる人などいるわけもない。
「竜馬がおぬしの事をえらく褒めていたそうだ」
「ご存知でございましたか、出すぎた事をいたしました」
「それはよいのだ、あの男はこの国に必要な男だった。それを馬鹿な奴らが近江屋で彼を暗殺したのだがその中に元所司代同心の桂早之助が居たと言うのが残念でならない」
「桂早之助ですか」
「そうだ、おぬしもあの時き奴にかかわったそうだな、この時は見事な捌きで竜馬を救ったそうだが」
「何事もご存知で恐れいります」
「話は土方と親しい高木剛次郎から聞いたのだ、私も又聞きだからそれ以上のことは知らんが」
「高木様といえばご家中に混乱を招いたようですな」
「殿としてもここまでくれば官軍に従うことなど出来るわけもない、近いうちに船で越後の柏崎に居を移すのだ」
越後の柏崎には桑名藩の分領地がある、国元が勝手に官軍に下ってしまった以上定敬の行く場所は柏崎しか無い、と半蔵が言い出したので弥兵衛はいやな予感がした。「そこでだ」と半蔵がとんでもない事を言い出した。
「柏崎に居を移してそこで官軍を迎え撃つとなれば城の普請をせねばならぬ」
だから弥兵衛も一緒に柏崎まで一緒に来いと言うのである。
「旅立ちは三月半ばだ、江戸からプロシャの船が出る、これで津軽海峡をぐるりと廻って越後柏崎に向かう」
三月半ばといえば残すところ旬日もない、戦乱必死の江戸に妻を残してゆくわけにはゆかない、弥兵衛は焦った。             …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [122]

戊辰の風(続きの7)

 竜馬は掛け軸を押し上げて這い出してくると弥兵衛の前に両手をついた。
「助かりました、見事な機転とご胆力に感服しました、それにしてもこんな所に隠し部屋があったとは驚きましたよ」
「こんなご時世ですからね、どんな危難が降りかかるか分かりませんからな、遊び心半分でこんな部屋を作っといたのだが、役に立ちました、それにしても掛け軸が揺れているのに気付いた時は肝を冷やしました。とっさに図面のほうに注意を向けようと思ったのですが見事に引っかかってくれましたよ」

翌日の夜半まで坂本竜馬は弥兵衛の家で過ごした。弥兵衛は何事も無かったように現場に立ち、竜馬は一人で部屋に潜んでいたが図面やら資料やらが山積みになっていて退屈することはなかった。歳三が迎えに来ると迷惑をかけたが楽しい一日だったと弥兵衛に礼を言って去った。
 竜馬がどのような手順で薩摩屋敷に逃げ込んだのか弥兵衛は知らない。しかし風の便りにこんな話を聞いた。
 竜馬が薩摩藩邸に逃げ込んだことを嗅ぎつけた伏見奉行所は再度に渡って引渡しを要求したが薩摩藩は拒否し続け、大阪から船で薩摩に脱出させた。その後しばらくの間は薩摩領内で温泉などを巡りながら潜伏した。このお龍との蜜月が日本最初のハネムーンと言われるようになったのは後の世になってからである。
 
 慶応も四年の春を迎えた、弥兵衛は江戸に居る。一年前に京都の勤めを終えて八丁堀の我が家に戻ってきた。時代は大波に揺れている、この慶応四年も半年後には明治という新時代に変わってゆく。この年の一月に京都郊外の鳥羽伏見で幕府軍の敗退が決まると桑名藩主松平定敬は将軍をやめた徳川慶喜や京都守護職松平容保らと共に船で江戸に脱出した。この時代全ての藩は幕府につくか官軍に従うかを喫緊の問題として抱えている、桑名藩もその例にもれない。
藩主定敬は京都で共に治安の保持に努めた兄松平容保があくまで幕府に殉じる事を決めたため兄に従うつもりであるが藩内の意見は割れている。それどころか国許の桑名は藩主の許しも得ぬまま勝手に官軍に城を開いてしまった。追い詰められた桑名藩江戸藩邸で事件が起きた。家老の吉村権左衛門が国元からの密使を得て定敬に官軍への恭順を勧めために抗戦派の高木剛次郎に切られてしまった。定敬は追い詰められた、待っていたのは北への逃避行だった。
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [121]

戊辰の風(続きの6)

 弥兵衛は坂本竜馬、土方歳三というこの時代を鮮やかに駆け抜けた二人の男と話し込んでいる。この時歳三は三十一歳、竜馬が三十歳、そして弥兵衛三十五歳である。話の輪は建築に移り必然的に弥兵衛が輪の中心にいる。
「待て、何か聞こえなかったですか」
「足元に気をつけろとか言っていたようだ、草平の声だ」
「桂早之助、奴が来たのか」
弥兵衛はつと立ち上がると床の間の掛け軸に手をかけた。めくられた掛け軸の背後に現れたのは人一人が入れる黒い空間だった。歳三と竜馬は意外な展開に顔を見合わせたかと見る間に壁の向こうへと消えた。
「竜馬さんはそこに潜んでいて下さい、歳三さんは今が好機ですそのまま裏口に出てお帰り下さい」
短く指図した弥兵衛が一息ついたその時、戸が激しく叩かれた。
「吉田様、草平でございます、お伝えしたいことがございます」
一呼吸置いた弥兵衛が静かに戸を開けると青白い顔をした貧相な男が飛び込んできた。男は奥の間の気配を探りながら弥兵衛をにらみつけている。弥兵衛の左眼の端に掛け軸が見えた、かすかに揺れている。瞬時に弥兵衛は右隅にある机上の図面に眼を走らせた、貧相な男がこれに反応した、これが竜馬を救った。
男の眼は机上の図面に吸い寄せられている。
「俺は桂草之助だ」
「だから何だと言うのだ」と一言抑えてから静かに声を発した。
「人の屋敷に案内も無く入り込むとは無礼にも程がある、何の用があるのだ」
「このような夜更けに灯りが点いておる、不審に思うのは当然だと思うが」
「夜は明日の手配りの為に図面を眺めながら思案をしているのだ、それに夜中に灯りを点すのは今日に始まったことではない、草平も存じておろう」
「それはもうよく存じております、それが、その様に申し上げたのですがお聞きいれくださいません、お許し下さい」
「そんなことは分かっておる、その机上の物を拝見いたしたい」
「この図面は上屋敷の増改築の詳細を記したもの、ご家老のお許しが無ければ何人にも見せるわけにはいかない、強いてと申すのならばおぬしご家老に掛け合うか」
草之助の息が止まった。
「草平、足元が物騒だ、お怪我の無いように門の外までご案内いたせ」
桂草之助は部屋の中を一舐め見回すと鶏のように飛び出していった。掛け軸の揺れはピタリと止まっていた。      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [120]

戊辰の風(続きの5)

 年も明けて慶応二年の松も取れた一月二十三日の夜半であった。密かに戸を叩く音に目覚めた弥兵衛が招き入れたのは土方歳三である、連れが居る、名を土佐の脱藩浪人坂本竜馬と名乗った。
 土方の話によると伏見奉行の捕り方百数十人が寺田屋を取り囲んだ。いち早く気付いたこの家のお龍が宿泊中の竜馬に急を知らせた。世にいう寺田屋事件である、捕り方に踏み込まれた竜馬達は拳銃や手槍を使って捕り方数人を殺傷したが、自らも手の親指を負傷して逃げるところを土方に助けられた。土方はお龍に伏見の薩摩屋敷に駆け込んで竜馬の危機を知らせるように指示し、薩摩藩が竜馬を引き取りに動くまでの時間稼ぎの為にしばしの間弥兵衛宅に匿ってくれと言うのである。
「いくら伏見奉行といっても竜馬が所司代屋敷に潜伏しているとは思わないでしょう、我ながら名案だと思いますね、ただしちょっとだけ気になることがあるのです」京都見廻組に桂早之助というのがいる、この男は以前から竜馬をつけねらっているのだが元はといえば所司代の同心であった。当然所司代屋敷に親しい者も居るだろうから竜馬の潜伏がわかれば情報はすぐに伝わる、だから気をつけてくれと言うのである。ちなみに翌年十一月十五日に中岡慎太郎と共に竜馬が暗殺された近江屋事件にはこの桂早之助が加わったといわれている。
「土佐の坂本殿をなぜまた歳三さんがお助けするのですか」
「この人は幕府を倒そうとしているのですから新撰組にとっては敵なんですがこれからの日本にはどうしても必要な人なんですよ」
歳三はこれからすぐに立ち返りお龍の報告を待って竜馬を薩摩藩邸に連れ込む算段をしなければならないのだが、新撰組が薩摩藩士と接触したりすれば大乱闘になることは目に見えているので歳三はあくまでも影の存在でなければならない。
「吉田様、草平でございます」ほとほと戸を叩く音がして門番の草平の声がした。手練の剣士が揃っていながら草平が近づくのに気付かなかったのは不覚である、所司代の屋敷内であろうと一瞬の油断も出来ない。
草平の顔が緊張している、京都見廻り組の桂早之助が門番詰め所にやって来た、だから歳三にはしばらくここに潜んでいてくれというのである。
「とんだところへ北村大膳ではない、桂早之助だな、何事も思うようには行かぬ物だ、弥平衛殿にはご迷惑だがしばし籠城させてもらいますか」
目の前に居る男、坂本竜馬、後の世に人気第一の歴史人になるこの男の凄さを弥兵衛はまだ知らない。              …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [119]

戊辰の風(続きの4)

 京都守護職は先に述べたとおり京都所司代などを傘下に置いていたが頼りにならず、会津藩士だけでは手が回りきれなかった為守護職お預かりとして新撰組を支配下に置き治安の維持に当たらせていた。その後弟の定敬を所司代に任命するとようやく兄弟で京都の治安を守る体制が確立できたのであるが、このことが会津、桑名両藩の財政を更に窮迫させ戦乱の渦の中に巻き込ませてゆく。
 弥兵衛は早速仕事にとりかかった。所司代屋敷は上屋敷、中屋敷、下屋敷の他に新屋敷といわれる与力同心組屋敷で編成されており、それぞれの屋敷にも手を入れたいところがあるのだがそこまでは手が廻らない、上屋敷だけでも四苦八苦なのである。それはまさに資金の逼迫故であった。
「見事な普請でございますなあ」
見慣れない男がしばらく弥兵衛の手配りを興味深そうに眺めていたことには気付いていたが、自分の仕事振りを黙って見られているのはあまり嬉しいものではない。しかもこの男は人を近づけない鋭さを持っている。その男がいつの間にか弥兵衛の傍に来て声をかけている。
「職人達への指示が単純明快でしかも的を得ている、奴らの動きが違います」
褒められて悪い気はしないが何処の誰だかわからないのが気にかかる。
「これはご無礼した、拙者は土方歳三と申す」
何処かで聞いた名前だと思いながら顔を向けると思いもかけず人懐っこい笑顔が待っていた。
「壬生の土方でござる、所司代の方々には何かと世話をかけております」
壬生と聞いて「ああ新撰組の」と言いかけて息をのんだ。京都所司代は他の追随を許さない情報量を持っている、同じ守護職の配下で活動している新撰組の副長が情報をもらいに所司代屋敷に現れても不思議ではない。
「これはご丁寧な、それがし吉田弥兵衛と申す」
「吉田殿のお噂はご家老からもよくお聞きしております」
「どんな噂か知りませんがあまりご信じ下さいますな」
いやいや噂どおりのお仕事振りですと言ってから歳三は弥兵衛の設計の合理性を褒めた、無駄が無いというのである。褒められすぎるのもあまり嬉しいものではないがこの男の場合は嫌味が無いだけに話が弾む、この時を境に歳三は度々やってくるようになった。所司代からの情報収集のついでには違いないのだが建築には相当の興味を持っていて色々なことを聞いてくる、話は城造りの詳細にまで及んだ。弥兵衛も知る限りを丁寧に答えるようにして歳三との関係は色濃い物になっていった。こんな歳三との関係が弥兵衛を歴史的な事件に巻き込んでゆくのにたいした時間はかからない。         …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [118]

戊辰の風(続きの3)

 吉田弥兵衛は桑名藩の作事係である、本来なら家老職と対で話が出来ることなどはない。それがいまこうして親しげに語り合っている。弥兵衛の祖父は定信公に直々に召抱えられたほどの実力者であり父もまたそれに準じていたが当代の弥兵衛は後に宮内庁の建築課に所属して有栖川宮邸、伏見宮邸の建築を担当、ついには皇居門造営の設計図監督を務めたのち東京工業学校(後の東京工業大学)建築課で教鞭を執ったほどの知識と実行力を持っていたが、この時期でも弥兵衛の実力は藩内でも認められていた。
 服部半蔵は三年前の京都藩邸での弥兵衛の仕事振りを見ていた。この時に半蔵が見た大局を掴む設計と緻密な仕事振りは半蔵を虜にした。弥兵衛に心酔した半蔵は身分を越えて十四歳上の弥兵衛を兄とも慕っているのである。
「会津様の京都守護職ご就任に際してはご家中に大変な反対論が巻き起こり、就任が決まった時に会津藩江戸藩邸では、これで会津は滅びると肩を抱き合って慟哭した、と聞いておりますが、ご当家には反対論は無かったのでございますか」
「財政逼迫の折に多大な出費が判っているのに何故かと言うのであろう、しかしこればかりはいたし方なかったのだ」
「適任者が居ないと言うのですか」
「弥兵衛も知っての通り京都守護職の配下には京都所司代、京都町奉行、京都見廻役があるといっても京都所司代と京都町奉行所は全く役に立たない」
「六年前の安政の大獄の折には当時の京都所司代であった酒井忠義公が浪士達に襲撃されるという噂に怯えて二条城に逃げ込んだという事もありましたな」
「京都所司代というのは大変な権力を持っていて、特に情報収集力は他の追随を許さない、それほどの力を持ちながらだらしのない所司代が続いたものだから京都守護職は全く力を発揮できなかったのだ」
「それで弟君の我が殿のご出馬ですか」
「我が殿もご辞退など出来ぬ相談だとは思わぬか、乏しい資金の中でのやりくりは難儀なこととは思うが弥兵衛なら首尾は上々であろう」
そこまで言われれば弥兵衛も無い知恵を絞りつくさぬわけにはいかない、今回の上京にしても半蔵が特に指名して弥兵衛を呼び寄せたことは江戸家老吉村権左衛門より聞いている、弥兵衛に逃げ場は無かったのである。
 上屋敷の東半分が執務室であることはすでに述べた。この東半分の奥の方は所司代自身の居住区であり、西半分は今回の改増築をする家臣団の居住区である、建物を一通り見廻ってからそのかなりの荒れように弥兵衛はため息をついた。                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [117]

戊辰の風(続きの2)

弥兵衛の祖父吉田弥兵衛は寛政の改革で名高い松平定信に白河藩の作事係として仕えたが文政六年(1823)藩主貞永の白河藩は伊勢の国桑名への領地替えとなって弥兵衛も桑名藩の作事係となり以後吉田家は三代にわたって作事係を勤め弥兵衛を名乗ってきた、祖父と孫とが同名なのはこれが故である。
桑名への領地替えの頃定信は隠居していたのだが藩政の実権は握っており、桑名への領地替えは定信の要望で行われたと言われている。白河藩は山間の領地であるため実収入が少なく藩財政は苦しかったが定信が殖産に励み民政にも尽力したので藩財政は潤ってきた。ところが寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が実施に移されることになり、最初の警備は言いだしっぺの定信の白河藩に命じられ、これが白河藩の財政を圧迫した。そこで定信は松平家の旧領であり良港に恵まれた伊勢桑名への領地替えを策したのである。
「遠路ご苦労であった、まずはくつろがれい」
弥兵衛の前に現れたのは家老の服部半蔵、この年二十一歳にして家督を継ぎ京都守護職に任じられた藩主松平定敬(さだあき)を京都在住の家老として支えている。服部半蔵といえば家康に仕えた忍者頭で名高いがこの男もその半蔵の後裔である。二代目半蔵は初代の弟が継いだが初代の長男石見守正就は不祥事を起こして家康から暇を出された。正就の奥方は桑名藩主松平定勝の娘であったから奥方は実家に戻り、三人の子供たちは松平家に仕えた。一方二代目半蔵もこのとばっちりを受けて暇を出されたので松平家を頼り代々仕えてきた。いま弥兵衛の前にいるのは十二代目服部半蔵正義である。
「早速だが御用の向きは存じておろうな」
「江戸のご家老から大筋の事は」
「それでよい、あとは弥兵衛にまかせる」
江戸のご家老とは吉村権左衛門、二十五歳下の服部半蔵と親子のような年齢差
にありながら共に藩主定敬を助けて功があったが三年の後に凶刃に倒れる。
「おまかせいただけるのはありがたき事ながら、何故にこのような事になりましたことやら」
「ははは…殿が何故このようなお役目をお引き受けなされたかということか、それは一つにお兄上が京都守護職に任じられた事からなのだ」
松平定敬は兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主一橋茂栄、そして会津藩主松平容保らがいるのだが、この松平容保が京都所司代に任じられたことから定敬の運命は定まり、弥兵衛もまたこの大きな波に飲み込まれてゆく。
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [116]

戊辰の風(続きの1)

 蝦夷地の厳しい冬がようやく通り過ぎようとしている。見渡す限りの大地を覆いつくしていた雪もところどころに黒土の模様を描きはじめていた。ちょうど一年前に江戸を発ってからこの地への旅も慌しかったが、つい半年前には慶応から明治へと年号も変わり、時代そのものが慌しく駆け抜けていく。函館の五稜郭から大沼に向かって三里ほどの七飯(ななえ)村、この地に目を付けたプロシャの貿易商ガルトネルは、この年函館を占拠した蝦夷島政府との間で九十九年間の賃貸契約を結んでいた。
「想像もつかない広さですなあ、よくもここまで開墾したものだ」
後に西洋農業発祥の地といわれる三百万坪の広がりを見渡しながら吉田弥兵衛はガルトネルの弟子としてこの地の開拓を進めてきた菊池楯衛に声をかけた。
「いや、まだまだですよ、葡萄と林檎を作ろうとしているのですが思うようにはいきません」
「それでもあなたにはこんな素晴らしい生きがいがあるからいい、それに比べて私などは何もすることがない、いや、やることはいくらでもあるけれどやらせてもらえないのだ」
弥兵衛は雪原に広がる黒土の模様に芽生えた緑の点を眺めている。ここ蝦夷の地でも戊辰(ぼしん)の風はいま明治の風に変わろうとしていた。遠く離れた地に残してきた妻のもとに長男が誕生したことなど弥兵衛はまだ知らない。

江戸八丁堀越中橋畔の桑名藩邸を出た吉田弥兵衛が京都所司代屋敷に着いたのは慶応元年(1865)の秋、わずか三年の後に明治の御世が来ると予測した人が何人いたのかは想像の外にあるのだが、前年の八月二十日に起こった禁門の変がもとで幕府へ長州征討の勅命が下ったりして、世情はかなりざわついていた。京都所司代屋敷は上屋敷、中屋敷(堀川屋敷)、下屋敷(千本屋敷)からなっていて、この上屋敷は二条城に面して中央に表門、西寄りに公事門があり、東西猪熊通から日暮通と南北丸田町通から竹屋町通に至る八千八百坪の敷地に建坪千六百坪の建物があって、その東半分が執務室として使われていた。弥兵衛は今、その執務室の一隅に座っている。話は少し古くなるが清少納言は枕草子の中で~冬はいみじゅう寒き、夏は世に知らず暑さ~と京都の気候の厳しさとその良さを詠っている。今風に言えば「冬はとても寒いのが良くて、夏は途方も無く暑いのがいいのですよ」ということなのだが、域外の人間からみればこの土地の厳しい気候への諦めか負け惜しみに聞こえてくる。夏の暑さはとっくに消えて秋も深まったこの頃では江戸に比べての肌寒さを感じながら弥兵衛は改めて今回命じられる職務について考えていた。 …続く   溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [115]

江ノ電紀行(続きの6)

実朝の兄頼家は十八歳で父頼朝の後を継いで将軍になりながら北条氏のために伊豆の修善寺に追放され、結局は彼らの手にかかって命を落とすのですが、そんなことを見続けてきた実朝もまた名目だけの将軍として常に北条氏の監視下に置かれ、その身は常に暗殺の危険に曝され将来の見えない鬱々とした毎日を送っていました。そんな実朝が薄暗い箱根路を辿りながら十国峠の辺りまで来るとぱぁーっと視界が開けて伊豆の穏やかな海が眼下に広がる、ほんのつかの間のことですが憂さを忘れられる一瞬を詠ったのでしょうが、こんな気持ち、よく分かると言う人も多いのではないでしょうか、こんな閉塞感は今の時代にも通じるのでしょうね。   
実朝の鬱々とした心情を穏やかに表したこの和歌に比べて更にストレートに詠んだ和歌もあります。
~大海の 磯もとどろに寄する浪 割れて砕けて 裂けて散るかも~
積もり積もった心のわだかまりをどうすることも出来ずに一日一日だけが過ぎてゆく、この高価な茶碗を庭石に叩きつけて粉々に割ってしまうことが出来たらどんなに気が晴れることだろう。そんなことをしてもほんの一瞬の気晴らしにしかならず、その後に襲ってくる強い後悔の念のことがわかっていてもやってみたい、でも出来ない。そんな心情をせめて和歌という仮想空間の中で実現させようとした実朝の心の襞、そんなことがようやく分かるような年代に私もなってきたのでしょう。
 こんな心情に陥っている人はいくらでもいますよね、ところが高価な茶碗など家中の何処を探してもあるわけもないし仮にあったとしても百円ショップの茶碗でさえ割れない人がそんなもの割れるわけもなく、パソコンの仮想空間の中に逃げ込む現代の風潮は実朝に通じるのかもしれません。
 閑話休題、実朝の大銀杏の話です。倒れた根から芽が吹き出したというニュースから一ヶ月、どんな様子かと楽しみにしてやってきた眼に飛び込んできたのは青々とした無数の若葉、根から生え、そして移設した切り株からも沢山の芽が伸びてすくすくと育っています。さすが銀杏、よくやったと声を掛けて石段の上から下から中段から眺めると愛おしさがつのります。千年を越える月日を生き延びてきた銀杏の大樹が自らの寿命を悟り、大風の日に自らの身を投げ出して次の世代に命を繋ぐ、こんなことがあったとしたら生命の偉大さというものは計り知れないものだと思わずにはいられません。
 八幡太郎義家の父頼義が前九年の役での戦勝を祈願して京都の石清水八幡宮から若宮八幡宮としてこの地に勧請してから千年、鶴岡八幡宮の境内には新しい風が吹き始めているようでした。             おわり
                           溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [114]

江ノ電紀行(続きの5)

 検閲の車掌は前後どちらから廻ってくるかわかりません、席は中ほどに取って常に監視の目を光らせながら入ってきた反対側の車両に退避する。次の駅で降りて車掌が通り過ぎた車両に乗り込んでしまえばもう安心でした。ところがさすが天下の国鉄だけあって自らの放漫経営は棚に上げて弱い物いじめの強攻策に出てきたのです。行楽地から到着する列車のホームには階段付近に机でバリケードを張り、蟻一匹逃さない必勝体制、これには参りましたね、さすがにこれに抵抗するだけの勇気も無く、長い物には巻かれてしまったのです。
 さて鶴岡八幡宮の話、拝殿への急な石段の右手には見慣れた大銀杏の姿が無く、二箇所に注連縄が四角に張り巡らされています。今日のもうひとつのお目当てはこの倒れた銀杏なのです。樹齢千年を越えるといわれた大銀杏が強風の為に大音響とともに倒れたのは三月十日の午前四時四十分頃のことでした。早速修復が試みられたのですが不可能とわかり、倒れた幹の部分を切り取って移植したのです。それが四月の初めには元の根の部分と移植した幹に若芽が萌えてきたというニュースがあってその後の様子を楽しみにしてきたのです。
 この大銀杏は鎌倉三代将軍源実朝の暗殺事件と深く関わっています。実朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の子で兄の頼家が追放されると十二歳で将軍になりました。ところが将軍とは名ばかりで実権は北条氏が握り結局は北条氏に踊らされた頼家の子公曉に父の仇として暗殺されたのです。この時実朝は鶴岡八幡に参詣の途中でしたが大銀杏の陰から飛び出してきた公曉に刺されたのでした。そして公曉も捕らえられて殺されたので頼朝の血筋は絶え、その後は名目だけの将軍を皇室や九条家から迎え執権北条氏の権力は万全のものになったのです。
 政治的には何の業績も残せなかった実朝ですが正岡子規をして「あと十年も生かしておいたらどんなに名歌を沢山残したかしれない」と言わしめた程の歌詠みでした。実朝は満二十六歳でその生涯を終えたのですが実朝の死んだ日である一月二十七日は実朝忌として俳句の春の季語になっています。

~箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ~
この和歌は高校の古文の時間に教えられ、その深い意味が五十年以上の時空を経て私の中では更に醸成されている歌なのです。箱根の十国峠、ここからは伊豆、駿河、遠江、甲斐、信濃、武蔵、上総、下総、安房、相模の十カ国が見えると言う絶景なのですが、箱根路をここまで登ってくると伊豆の海に初島が穏やかに横たわっている、のどかだなぁという歌の解釈で終わってしまえばそれまでの事、詠んだ実朝にしてみればとてもそんな心境ではなかったのでしょう。                      
…続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [113]

江ノ電紀行(続きの4)

 長谷から五分で終点鎌倉駅、若宮大路を鶴岡八幡宮に向かうとソフトクリームを舐めながらの女の子が目につきます。
「ソフトクリームが食べたいけど一人じゃいやだな」
「ソフトクリームなんて十何年ぶりだけど付き合おうか」
甘い物には縁が無いのですが何となく気分が動いたのです。ここが旨そうだという店に入って聞いてみると、もともとこの店は卵屋で卵をふんだんに使っているらしい、それは旨いだろうとがぜん食欲がわいたのですが周りは女性ばかり、ちょっと恥ずかしくなって目を逸らし気味に壁を見ると張り紙があって「学生さん四十円引き」、老人学校の学生証ではだめだろうかと聞いてみたけどだめらしい。それはそうでしょうね、そんなことしたら老人どもが怪しげな学生証を振りかざしながら殺到して大変なことになるんでしょうから。そんな与太を言いながらさすがに美味しいソフトクリームを手に、若宮大路を「ローマの休日」で懐かしいスペイン広場を歩く気分で恥ずかしげも無く食べ歩きの老人に関心を向ける人もいなかったのはありがたいことでした。
 鎌倉には若いころは毎年来ていました。特に高校の夏休みには友人の兄さんが横浜国立大の学生寮に居た関係で、人影まばらな夏休みの学生寮を我々が占拠して勝手なことをしていたのです。もちろん我々が滞在することの認可は受けていましたよ、公式か非公式かは知りませんけど。この時代はちょうど石原慎太郎の「太陽の季節」がベストセラーになって太陽族が流行語になっていたのですが、我々はサラリーマンのどら息子たちですからヨットなどには縁も無く、ただ材木座の海岸あたりでうろうろするだけなんですけど遊びはいろいろとあみだして楽しんでいたから仲間内ではいまだに話の種になるのが嬉しいですね。そんな事をしながらお金がなくなると「ぼつぼつ帰ろうか」ということになるんですが十円だけは残しておくんです、何に使うかと言うと国鉄の入場券なんですよ、これで改札を通れば東京では通学の定期券を持ってますからね。
そうです薩摩守、キセルです、薩摩守とは薩摩守忠度、ただ乗りをもじっているのです。キセルとは何だといわれるんですか、これはもうご自由に想像してください。我々にとってキセルは当然のこととして行われていたのですが敵もただ手をこまねいているわけではありません。休みの日、特に夏休みなどは車掌が廻ってきて一人一人チエックしてゆきます、みつかったら最後こちらはお金を持ってないんですからちょっとしたトラブルに巻き込まれるわけで、悪質だと判断されると運賃の二倍を取られた上に定期券を没収されたりするかもしれません、ここに両者の虚々実々の駆け引きが展開するのです。
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [112]

江ノ電紀行(続きの3)

 腰越駅から海岸方面に向かって二分ほど歩くと何人もの人が並んでいる店が見えてきました。昼少し前でちょうどお腹の虫も鳴り出していいタイミングです。
「すごいね、ずいぶん並んでるよ」
「これじゃあずいぶん待たなきゃならないよ」
「ご心配召さるな、そこに手抜かりはありませんよ」
「予約してあるのか、さすがだね」
「伊達に古希の坂を越えてなんかいませんからね」
お三人様こちらにどうぞと通されたテーブルに座ると注文はメニューを一瞥しただけで「しらすづくし定食」、生ものに弱い一人だけが「しらす釜揚げどん」これも確かに旨いのですがやっぱり生しらすが食べたいので残る二人は「しらすづくし」なのです。この店は以前に江の島の店から年寄り呼ばわりされたあげくに断られ、尋ね尋ねて尋ね当てた店なんです。しらす漁の網元が経営するというだけあってネタの良さは抜群で値段もほどほどなのが嬉しいのです。
目の前に現れた「しらすづくし定食」は生しらす、釜揚げしらす、掻き揚げ、たたみいわしなどが並んだ懐かしい姿、生ビールを一口飲んでから先ずは生しらすに箸をつけると「久しぶりですね」と尻尾を振っているようです。続いて釜揚げ、それからご贔屓の掻き揚げと箸が進んでビールを空にしたあとはご飯に釜揚げしらすを乗っけて食べればもう満足々々なのでした。
 腹ごなしに海岸まで出ると陽光を跳ねる波間にサーファーの姿、波が穏やかなのを残念がっているようなのですがそんな光景をぼんやりと眺めていると汐の香が鼻腔をくすぐります、海岸とはいえなくても海の見えるところで育った身にしてみれば波の音と汐の香は我が故郷、時には帰りたいところなのです。
 再び江ノ電の車中に身を置くと十六分で長谷駅、最も観光客の多いところで席を立ちます。
~鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな~
与謝野晶子が詠んだ日もまさに今日のような日だったのでしょう、御仏の背後の山には濃く薄く緑が息づいています。鎌倉の大仏を最初に訪れたのは六年生の時の写真が残っているのでこの時の遠足が記録に残る最初なのですが、その後も何度も行っているから親しみがあって美男とは思ったことも無いけれど、最初が中学の修学旅行だった奈良の大仏に比べると何故か親しさを感じるのですね、仏殿の中に居ない露座の大仏だからでしょうか、それとも体内に入れるからでしょうか、夏の日差しは強くなって寒がりの私もジャケットを脱ぎ捨てる陽気になっていました。                 …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [111]

江ノ電紀行(続きの2)

~しらざあいって聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が 歌に残した盗人の 種は尽きねえ七里が浜 その白浪の世働き 以前をいやあ江ノ島で 年季勤めの稚児が淵~江ノ島の弁天信仰は源頼朝が文覚上人に命じて弁財天を勧請したことに始まるのですがやがて弁天信仰と風景の美しさから多くの参拝人で賑わうようになりました。初めは僧侶の信仰が中心でしたが中世には北条氏を中心に武家の信仰が厚く、弁天小僧がそこに居たと名乗っている岩本院はそのころから存在して岩本坊とも言われていました。江戸も元禄の頃となって太平の世が続くと自然が美しく、また財宝、技芸、音曲の守り本尊で現世利益の弁財天が祭られているこの地への参拝が庶民の間で広まり大変な賑わいをみせたのです。そんな環境の中1862年に江戸中村座で初演された「白浪五人男」は今に続く人気狂言です。岩本院は女人禁制でしたから近隣の少年が稚児として雇われて宿泊客の世話をしていましたがこれが河竹黙阿弥の「白浪五人男」の舞台として採り上げられ弁天小僧のモデルとなったのです。
 江ノ島からひとつ先の駅が腰越です。腰越と聞くとすぐに思い浮かぶのが源義経の「腰越状」、壇ノ浦に平家を滅亡させた義経がしばらく京に滞在した後鎌倉に戻ってきます。義経としては平家を叩きのめした功績は自分にあると思っていますから兄の頼朝から褒められて大歓迎されると思っていたのに兄の怒りをかって鎌倉に入れてくれません。許されないものを無理に押し入るわけにもいかず腰越で指図を待っていましたがいつまでも待たされるので痺れを切らして身の潔白を延々と書き連ねた頼朝宛の手紙を書きます、これが「腰越状」なのです。この腰越状が平家物語や吾妻鏡に載せられると義経の心情が涙を誘って庶民の間に義経人気が湧き上がり、その後二百年と言う熟成期を経て「義経記」という究極の薄幸物語を生み出し、ついには「判官贔屓」という日本人に特有の心情まで生み出してきたのです。そのようにみてくるとこの「腰越状」は「ああ、そんなものか」で済まされるものではなくて我々日本人の基本の心情を形作ったものとしてもっと知られなければならない物ではないでしょうか。
 電車は腰越商店街の真ん中を悠々と走ります、電車が近づくと「電車接近」の電光掲示が点滅し、車が端に避けて電車の通過待ちをするのなどは慣れきった車中心の社会から人が中心の本来の社会に立ち戻ったような、それよりも将来の社会の姿を垣間見るような嬉しい気持ちにさせてくれます。腰越駅で下車してから改めて車両を見ると江ノ電九十五周年記念に登場したというオリエント急行風の配色、連結されているもう一輌は百周年に登場したグリーンとクリーム色に塗られたレトロ調、これもまた江ノ電の嬉しいところなのです。
                           …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [110]

江ノ電紀行(続きの1)

 新緑の萌える五月も終わり近く、連日の夏日の間に挟まって関東一円は雨模様という予報のこの日なのですが、雨予報を見るとここ三浦半島だけには雨雲も見えず、それを頼りにやってきた中期高齢、いや約一人は後期高齢かも、の三人が乗り込んだ江ノ電は民家の軒先や裏庭をかき分けるようにトコトコと走り出します。藤沢から江の島を経由して鎌倉との間ちょうど十キロを走る小さな車両と次々に変わってゆく風景が珍しく、その上沿線の観光地も多彩となれば、平日でも多数の客が乗り込んでくるのも納得の光景です。この江ノ電、初めの計画では国道沿いを走る計画だったのですが車夫、懐かしい響きですね、そう人力車の車夫達の猛反対で今のように民家の間などをくねくねと曲がりながら走らなければならないようになったのだそうです。それでもこれが幸いして人気の路面電車として立派に生き残っているのですから何が幸せかわかりませんね。
 江ノ島のしらす漁は例年より少し遅れ気味でようやく本格的になったという情報から「これは行かなきゃ」と藤沢駅に集ったのは四人姉妹の婿さん達、末娘の亭主だけはよんどころない用事だとかで参加できないのですが残念がってましたね。この四人組、何十年前からか「かみさんを称える会」なるものを立ち上げて、年に何回かは居酒屋や時には旅先でかみさん達を称え続けてきたのですが、最近ではさすがに称える種も尽きたのか女房の噂など出ることも無く己が身の回りの話に限られてきたのは夫婦円満状態の証なのでしょう。
 藤沢を出た小さな電車は十一分後に江ノ島に着きますがここでは降りずにもうひと駅先まで行きます。しらす料理で有名な店が江ノ島にあるのですがこの店にはいやな思い出があるのでパスなんですね。何年か前に同じメンバーで江ノ島に泊まった折りの事、この店を電話で予約しようとした姉の婿さんが年齢を聞かれたんで七十五歳だと言ったら、坂がきついですから店のあるところまで登ってこれないんじゃないですかと言われて気分を害しましたね、お土産通りから江島神社へ登り、展望灯台から海岸に出て島の裏側にある岩屋洞窟にだってそんなに苦労することも無く行けるのに、ほんのとば口にしかすぎないこの店まで行けないなんてことがあろうはずもない。予約されてもこの店まで登ってこれなければせっかく用意したしらす料理も食べてもらえないと親切心なのか老婆心なのかから出た言葉なんでしょうが余計なお世話と言いたいことなんですよ。実際の姿を見ることも無く、単純に年をとっていれば足が弱くなるなんて勝手に決めやがって、失礼な野郎だというわけでこの店には縁切りしたという次第なのです。              …続く
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [109]

•投稿者  orika

はじめまして、さんぽみち初投稿のorika(おりか)と申します。
まずは、自己紹介させていただきます。
a.. ニックネーム orika(オリカ)
a.. 性別:女性
a.. 誕生日:お釈迦様のお誕生日と一緒
a.. 血液型:A型
a.. 出身地:北海道
a.. 好きなもの:天使 イルカ 青い海 暖かい気候 パワーストーン
a.. お勧めリゾート地:ハワイ バハマ マイアミビーチ ペナン キーウエスト 
a.. 好きなスポーツ:テニス フィギュアスケート ラグビー

読書が何より好きな私は、ジャンル関係なく様々な本をよんでいます。
最近、友人にすすめた本を「さんぽみち」の読者の方にもご紹介させていただきます。


『幸福を生きる」~人生の意義を問う 40の贈り物~作者  葉 祥明

作者の葉さんは『地雷でなく花をください」で日本絵本読者賞を受賞したかたです。
イラストをご覧になればお分かりになると思います。

パステル調のイラストは心がなごみます。

ーあなたは、どんな人生をおくりますか?の問いかけで始まる40のメッセージには生きるヒントが沢山詰まっています。

「何のために生きているんだろう」と迷ったときにお勧めの1冊です。
追伸  国際朗読ことば協会のマスコットの天使かわいいですね。次回の投稿は天使について        投稿します。
 
投稿者 [orika]  記事番号 [108]

•投稿者  60歳の青春、聖美より

 以前、東京吉祥寺の住友信託銀行にて開かれた「60才のラブレター」朗読会拝見いたしました。蔭山武人先生指導の「言遊会の朗読会」でした。
 友人に誘われてお付きあいで行ったのですが、最後まで涙・涙の素敵な時間でした。

 それに触発されて今年60歳になりましたので夫へのラブレターを書いてみました。


恥ずかしながら、投稿いたします。

60歳のラブレター

東京都  山本聖美

 「おーい、めし。おーいビール。おーい新聞」
いつのまに、私の名前は「おーい」になったのでしょう。

結婚して35年、「うちも同じよ」と友は慰めてくれるけど「うちは違う」と思いたい。


別の男性と結納まで交わす直前だった私に、モーレツなラブコールを送ってきたあなた。

『聖美さんをしあわせに出来るのは僕しかいません」

目を真っ赤ににし、父に土下座までしたあの頃のあなたはどこにいったのかしら。
月日は人の愛情までも変えてしまうのでしょうか。

「おーい」は今日もそんなことをさみしく一人で考えています。

『愛してる」のことばなんて贅沢云わないけれど、せめて「きよみ」と呼んでください。


変えてくれないなら「山本おーい」に改名させていただきます。

ね、あなた、小さなわたしのお願いです。


つたない文章で失礼いたしました。
他の方のラブレターも読ませていただければ嬉しいです。
「さんぽみち」の60歳ラブレター楽しみにしています。 
投稿者 [60歳の青春、聖美]  記事番号 [107]

明治の江戸っ子(続きの15)

講談は太平記読から出発し軍談師又は軍記読と云ったがお家騒動、侠客伝、仇討物に発展して講釈師と呼ぶようになった。講釈場は客の入らぬ前から前講が出て修羅場を張扇で釈台叩き立て、軍書を前に節付きの棒読み、次が中座で弟子か中級処が長講一席。最後が真打の番で都合三人一座、真打は三席だが第一席の次が中入りで菓子、茶、鮨が大いに売れる。昼席の如きは棚に並ぶ木枕を取って始めから横臥して聴く客も無作法なら先生も無作法、大型の浴衣に三尺で出場するなりくるりと尻をまくる、これで大前田の英五郎や小金井の小次郎とくるから主客もざっくばらんである。平成の御世の人はこれらの名前さえ知らないだろうが上野の国大前田村、現在の前橋市宮城地区、の英五郎はキップのよさと腕っ節の強さから関東一の大親分として名を馳せた。また小金井の小次郎は千二百人の子分を持って武蔵小金井に勢力を張った大親分であった。     
両国にあった福本の客の如きは講釈を聞きに来るのだか鮨を食いに来るのだか分からない。中入りを待てなくて早々と食物を持ち込ませるのが当たり前で中入りともなれば鮨職人が数人二階の茶番に出張となる。普通は海苔と玉子と烏賊とこはだと鮨で一箱2銭が売れているが、私の子供の頃までは釈場には菓子の道徳販売もあった。小箱に菓子を数多並べ、銭函を入れて客席に置くと手の届く距離に居る客は欲するだけ食して過不足無く料金を銭函に投入する。ところが最近の日本アルプスの小屋には道徳販売が試みられてもほとんど丸損だとは変な闇取引の世の中、実際無理からぬ世相である。

蛇足
 北隆館という出版社がある。1891年に創立されて牧野富太郎の「日本植物図鑑」などでスタートして魚類図鑑、昆虫図鑑など様々な図鑑類を発行しているのだが、これが昭和15年に創立50周年記念の分厚い一冊を発行した。この中に私の「東京雑感」が載せられている。今まで長々と書き記してきた事はその中から孫婿が勝手に選び出したあげく勝手なことを書き足しながらの駄文である。いや自分の書いた「東京雑感」は名文だが書き直されたものは駄文なのがなんと言っても口惜しい。
 私は生涯のほとんどを地図の制作で過ごした。その為に朝鮮、台湾を含めて当時の日本全国を訪れ、日清戦争の折には中国の馬関や旅順に赴き地図作成に従事した。そんな私の生涯を小説にしようという酔狂な奴がいて資料を読み解いているらしいがそれも面白いかもしれない。何年の後になるかもしれないが期待しないで待っていてください、またお会いできるかもしれない。 終わり
                             溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [106]

明治の江戸っ子(続きの14)

 團十郎が芝居の神様なら三遊亭圓朝は寄席芸人全体の神様であった。噺の材料を近世の巷説、中国西洋の小説に探り人情話を新作して名人と称せられ明治33年61歳で没した。牡丹灯篭、塩原多助、真景累ヶ淵などがある。圓朝の人情話には当時流行りの三題噺から作られた名作がかなり残されている。三題噺とはお客が三つの題をだして演者は即興で一席を語るというもので特に圓朝作の「芝浜」「鰍沢」は名作である。「芝浜」のお題は酔漢、財布、芝浜で「鰍沢」のお題は鉄砲、毒消しの護符、玉子酒。即興でこれほどの名作が出来たというのも圓朝が受けた理由であろう。
圓朝が寄席芸人全体の神様と云われる所以は圓朝が落語界の大名人であることは勿論だが寄席以外の世界にも大きな功績を残していることからであり、それは我が国の文学の世界における言文一致小説に多大な影響を与え、速記の確立にも貢献したからである。圓朝の人情話は広く話題になっていたがCDやDVDは勿論レコードに吹き込むなどという考えも技術も未だ我が国には無かった時代であるから、評判は聞いていてもその話がどのように語られているのかは寄席に通える人たちに限られていた。圓朝の偉大なるところは寄席に来れない人達の為に当時はその存在ですら知られていなかった速記を採用して速記本を出したことである。明治17年に若林玵蔵と酒井昇造を起用した牡丹灯篭の速記本は予想以上に好評でその後も圓朝を中心とした演芸物の速記本は大衆に好まれ速記の存在がようやく一般に認められた。そうなると速記者を目指す者も現れて明治23年の国会開設に際して両院に速記課が設けられ若林玵蔵は衆議院速記主任として大正2年に退職するまで議会速記に大きな功績を残した。また後進の指導に努めその門下若門会からは多数の有能な速記者が輩出した。
もうひとつの功績は言文一致小説への影響である。当時は文章と云えば文語文で書かれており公的にも私的にも口語による文章は使われていなかった。 この頃口語体小説「浮雲」の執筆に行き詰っていた二葉亭四迷が坪内逍遥に相談すると逍遥は牡丹灯篭の速記本を渡し、その文章を参考にするようにアドバイスした。こうして言文一致体で書かれた「浮雲」は明治以降の日本語の文体を決定付けたのである。このように圓朝の速記本は近代日本文学の展開に大きく寄与したのであるが、更には現代中国の文体も決定づけた。中国の小説家、翻訳家、思想家である魯迅は日本留学中に言文一致体に触れ、自らの小説も中国語の言文一致体で綴った。これを白話運動と云いここで中国語は漢文と切り離されて口語で記されるという大改革がなされた。
                            …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [105]

明治の江戸っ子(続きの13)

 その頃小さな芝居小屋は警視庁令で花道や引き幕は許されず引揚幕であったから、俗に緞帳芝居と云えば木戸銭は34銭位の気楽に観れる小屋だったが、新富座で国王から贈られたのが美しい緞帳だからにわかに緞帳芝居小屋も鼻息が荒くなったりした。オッペケペーの川上音次郎は大阪壮士俳優だが東京登りでの初お目見得は4銭の盛元小劇場で陣羽織に軍扇で余興に馬鹿々々しがられた。
 同じ頃大芝居での福助(中村歌右衛門)は二十五六の娘?盛り、満都の町娘は浮き身をやつして大騒ぎである。新富座の最盛時中幕に勧進帳があり弁慶の團十郎、富樫の左團次、義経の福助で四天王はことごとく大名代が付き合い、雛壇は一流総出の豪華版で私も生涯に最も見応えのする狂言だった。当時の私は二十二三歳の頃であり料金は次のようであった。平土間(今の一等席)5人詰め2円50銭、一人割りで50銭、小物色々で10銭、カベス(菓子、弁当、鮨)が30銭、祝儀10銭で合計一円であるから勘彌座主の興行振りは我々劇狂随喜の涙に他ならなかった。ちなみに昭和十四年の一等席観覧料は特別興行の諒解済みで十円ものである。
 小劇場の一例をお話しする、それは俗に二長町と云った向柳原の柳盛座で木戸銭は2銭、團十郎が出るというがそれは偽の團十郎で坂東和光という月給25円の代物、万事成田屋張りだから凄い。布団が5厘、茶が二人で1銭で腰弁携行だから3銭で終日10時間余り観られる。伝統の引き幕が無くても花道が無くても我慢の出来るお客様だから上客でも界隈にある馬肉屋に散財に立ち寄る。馬肉一鍋が2銭、酒一合が1銭5厘5分、細かいねぇ、飯が1銭で新香付きという相場だから5銭で芝居帰りにほろ酔いの満腹、暢気なものだ。
                                                                                                      
寄席の話
 寄席は何と云っても色物、すなわち落語音曲の席が中心を占め、次が講談席で次が義太夫席。浪花節は場違い扱いされていたから明治前期には稀有の存在だった。昔の落語は扇一本で端然と小さん(三代目柳家小さん、夏目漱石が小説「三四郎」の中で名人だと褒めている)式に演じたが後に落語家も年配になるとおかし味が落ち着くので何れも人情話をしんみりと演じるようになり、面白おかしく笑わせるのは概して若いうちに限る。特に明治二十三四年を中心とする十年間位はくすぐり時代で圓太郎が懐中からラッパを握り出してプープー吹きながら「さあ行きやすか行きやすか、あぶないあぶないお婆さんあぶない」とわめくのなどは罪が無いが圓遊の高座振りは野卑で失礼である。田吾作股引をじんじん端折(着物の裾の少し上をつまんで帯の結び目の下に挟み込む)から露出して毛脛を叩いて変な姿勢で引っ込む、見ちゃいられない。 …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [104]

明治の江戸っ子(続きの12)

こんな話で今までに紹介した名工は12人、残るは3人だがここに巨人がいる。
わが国の陶芸は瀬戸、美濃、伊賀などの茶器や朝鮮戦役によって連れてこられた職人達によって始められた伊万里、鍋島の磁器のように、芸術品として高い評価を得ている作品でさえもほとんどが無名の陶工の手によって作られていて、芸術家としての陶芸家が登場するのは近代になってからである。そんななかで板谷破山は正規の美術教育を受けた芸術家としての陶芸家としては日本における最も初期の人である。破山は陶芸家の社会的地位を高め、日本の近代陶芸の発達を促した先駆者として高く評価されるべき人である。この男が浅草区の名所として浅草観音堂を陶磁で見せてくれた。余計な話かもしれないが孫婿の話では昭和28年に陶芸家として初めての文化勲章を受章したが、昭和35年には人間国宝の指定を辞退したそうだ。波山は単なる伝統文化の継承者ではなく、芸術家であるという自負が辞退の理由であったと云う、波山らしい生き方だと思う。彼は2歳年下だが91歳の作品、椿文茶碗が絶品となったが最後まで破山の技巧は衰えていないそうだ。下谷区の上野公園は大島如雲が彫金で表現し、平田宗幸は深川区の名所として木場を金、銀、銅、錫などの素材を鎚で打ち起こす鎚起で魅せてくれた。
 敗戦前には帝室技芸員なるものがあった。これは宮内大臣に任命された選択委員が美術工芸家や刀工、写真家の中から技術、人格の両面において優れた物を推薦し帝国博物館館長が召集する会議で決められた。この技術、人格の両面と云うのが曲者で私に云わせれば技術が優秀であればそれでいいと思うのだがそうはいかないところが不思議な事である。この十五人の中には帝室技芸員や後の東京芸大教授も数多く、人間国宝やそれに勝るとも劣らない人達も何人かを数えることが出来る。

芝居のあれこれ
 ちよっと気を変えて演劇界の噂話をしてみよう。明治24年を中心に芝居はなんと言っても團菊左(市川團十郎、尾上菊五郎、市川左團次)全盛時代で日本芝居の最全盛時代と云えよう。麻布の井上馨邸で明治天皇の叡覧に供し奉った守田勘彌の新富座総出と高砂浦五郎の梅ヶ谷(58連勝した大横綱)の相撲組とは空前の光栄と云える。新富座々主の勘彌は歌舞伎界の傑物で前米大統領のグラント将軍やハワイ国王カラカワを招待し国王から贈られた猩猩緋に金刺繍の幕は天下一品のものであった。この頃大芝居では引幕のみで緞帳は新富座の皇帝幕のみであった。当時はカラカワ国王を皇帝と呼んでいたらしく皇帝幕と称していたらしい、孫婿の注。          …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [103]

明治の江戸っ子(続きの11)

 麻布区は東京天文台である。1888年に東京大学理科大学付属東京天文台として麻布の飯倉に建てられ、1926年に三鷹に移設されるまで存在した。木彫彩色の腕を振るったのは竹内久一、彼は始めは象牙彫刻を学んだが明治13年に奈良の古像を見て感銘を受け古彫刻を研究して古仏の優れた模彫像を数多く制作した。生粋の江戸っ子で伝統的な主題を古典的な様式と近代的写実の融合した作風で表現した。現東京芸大の彫刻科の初代教授となった。
 神楽坂には横丁が多い、神楽小路、仲通り、本多横町が平行して神楽坂通りから東に延びている。仲通りから更に細い路地を左に曲がると石畳の芸者新道やかくれんぼう横丁があり、そこには芸者置屋や料亭が点在している。石畳の路地を辿ると本多横町に通じていて、神楽坂最大の横丁であるこの小路は狭い道の両側に料亭や飲み屋が軒を連ねている。牛込区の代表は当然牛込神楽坂、この神楽坂を見事な遠近法で蒔絵に仕上げたのが白山松哉、蒔絵、塗り、螺鈿ともに長じていたがなかでも伝統的な技法に優れて精巧繊細な研ぎ出し蒔絵は他の追随を許さない近代漆工界の第一人者であった。
 小石川区は人間国宝の海野清が東京砲兵工廠、伝統的な彫金技術にヨーロッパ留学の成果を取り入れてこの世界に新風を吹き込んだ男が見事な彫金で表現している。東京砲兵工廠というのは陸軍の兵器工廠として明治4年から昭和10年まで操業し、小銃を主体とする兵器の製造を行ったがそのほか官公庁や民間の為に様々な金属製品も製造した。場所は旧水戸藩邸の跡地で後の人は後楽園遊園地で知っているらしい。ただしこれが出来たのは昭和30年だから私は全く知らない話だ。
 隅田川の春の風物詩といえば早慶レガッタ、ところがこの早慶レガッタを知らない人がほとんどだと聞いて驚いた。我々の時代には少なくとも男なら誰でも知っていたものだが60年も経った時代のことは想像もつかない。早慶レガッタと云うのは早稲田と慶応のボートレースで隅田川の土手に薄紅を刷いたように続く桜の下に陣取って眺めるボートレースは楽しみの一つだった。
 本所区の向島はこの桜とボートレースを涛川惣助が七宝焼で表現した。七宝焼とは金属の上に色とりどりの袖薬を使って美しい絵を描くものだが、惣助は無線七宝という技術を確立して世界に示したが更に無線七宝と濃淡の発色という二つの高い技術を融合させた作品で魅せてくれた。
 そのほか麹町区は宮城二重橋を堆朱楊成の彫漆、神田区は須田町を豊川楊渓の螺鈿で仕上げた。京橋区は佃島を宮智一男の布目象嵌、赤坂区の赤坂錬兵場は牙彫の三浦光風、四谷区の四谷見附は塚田日秀鏡の彫金、本郷区の東京帝国大学は由井長が木象嵌という具合であった。     …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [102]

明治の江戸っ子(続きの10)

芝区は芝浦、加藤陶寿が磁器で見事に見せてくれるがこの男とは面識が無い。芝浦と云えばいま話したばかりの「芝浜」だがこれは三遊亭圓朝の作、客からお題を三つもらって即席で話を作る三題噺からできたものでこの時のお題は酔漢、財布、芝浜だったという。なかなか良く出来た噺だがそれほどのものとは思わなかった。ところがである、婿の云うには桂三木助の「芝浜」が絶品なんだだそうだ。それで三木助って誰だと聞いたら三代目三木助だという、そんな奴は知らないねと云ったらなんと橘ノ円(たちばなのまどか)だそうだ。私の知ってる橘ノ円は博打好きのどうしようもない男で賭場では隼の七といえば誰でも知っているほどだった。そんな男が芝浜を聴かせるなんぞ考えられもしないが、婿の話によると惚れた女と一緒になりたい一心で落語に専念して「芝浜」で化けたんだというから驚くよね。その三木助の「芝浜」をCDとかいう便利な機械で聴かせてもらって驚いた。 今はもう居ない男の声が居ながらにして聴けるというのはレコードがあったから別に驚くもんじゃないけれど、CDなるもので聴くと臨場感が違う。なんでも左右のスピーカーから出る音が微妙に違っていて左右の耳で聴いた音が脳の中で調整されるから目の前の演者を聴いているように聞こえるんだそうだ。
そしてその三木助だが、見事だ。「あたくしがひところ人形町のほうに住んでおりまして、ちょうどお風呂に入っておりますとご年配の方が入っておいでになりまして、いろんな話の末に『昔はこの近所は一月になりますとこはだの鮨を売りにきたもんですよ』なんていわれまして…」と語り始める、これがいい。
私でさえも明治の初めの風景にすーっと引き込まれてしまう。そのうえに芭蕉の句「あけぼのや 白魚しろきこと一寸」をさらりと流し込んで芭蕉の句と云わないで翁の句などと芸人らしくないことを云うのが憎いね。この男とは34歳違いだというからこの噺に出てくるご年配の方というのは私くらいの年配だったのかもしれない、こんな話を聞けるなんて思ってもみなかった、まさに懐かしい明治の初めに誘い込んでくれる。噺は最後まで聴いたが立派な物だ、何よりこの男は江戸っ子でイナセなのがいい、婿が誉めそやす訳がよくわかる。この噺が見事に引き継がれていることが分かっただけでも嬉しいことだ。そんな話をしたら婿は「ところが後がいけません」と云う、なんでも志ん生の子までは良かったがその後はこれという噺家は出てこないと残念がっている。まあそんなこともあるだろうけれど我々の時代でも同じようなことがあって、古典落語ももう終わりかと思った時期もあったけど、文楽や志ん生などが出てきたときにはホッとしたものだ。あきらめるのは早いと云っておく。
                    …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [101]