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明治の江戸っ子(続きの9)

明治の名工達
 実を云うと名工達の話はこの「東京雑感」には書いていない。ところが孫婿は東京市が大正天皇の御即位を祝って製作した東京名勝図衝立にいたくご執心でその中央を占める大東京市図を描いた私を誇りに思ってくれている。この衝立は横2.85メートル、縦2.16メートルと云う大きな物で、桐柾目地の中央に東京市の地図が占めていることは述べたが、その周囲には神田区や麻布区など当時の十五の区の名所を、日本橋区なら魚市場、芝区なら芝の浜などそれぞれの名所を当時の名工達が彫金、布目象嵌、螺鈿などそれぞれの技法を駆使して作り上げた扇面が散らされている。これが平成の御世でも宮内庁に収蔵されているというから名誉の限りだ。
 ところでこの名工達、それぞれが腕を競ったといっても別々の所で作り上げた物を持ち寄ってひとつの屏風に仕上げたわけだからそれぞれが直接関わりあったわけでもないのだが、私としてみれば全く付き合いの無かった人については話のし様もないが、程度の差はあってもそれなりの付き合いのあった人については思い出すままにご紹介しておこう、明治期の各地の名所はこんなものだったと知っていただくと共に、この時代にこんな高度な技術を駆使できる職人が数多くいたことがお分かりいただければそれでいい。
 先ず日本橋区だがここの名所はなんと云っても魚河岸、これを彫金で描いているのが香川勝広、この男は堅実な片切彫を基調としながらも柔らかみや渋さといった様々な味わいの幅広い彫技を兼ね備えている。明治工芸の特色のひとつに宮内省型とも称される高価な材料を使って熟達した彫技の格式ばった独特な作風があるが勝広の作品はこの典型を示していると云っていい。そんな事で日本橋の話をしていると突然孫娘が話しに飛び込んできた、魚河岸といえば築地に決まっているのに日本橋とは何だと云う。実を云うと本来日本橋にあった魚河岸が築地に移ったのは関東大震災後の改革だったのだよ。噛んで含めるような私の説明に孫娘も納得したのだが更なる質問は落語の芝浜では芝の浜に魚市場があるように演じられているけれどそれはどう云うことなのだと案外的を得た質問が続く。落語の芝浜では芝に魚市場があったように語られているけれど本当に芝に魚市場があったのだろうか、そんなことを引き続いて聞いてくるなんざあ我が孫ながら頼もしい。この芝の魚市場は雑魚場といって鰯や鯖などの青魚を中心に商われていた魚市場で、対象となる魚屋とは市中の民家などを廻る男だったのだろう。こんなところにもこの話は実によく出来ている。さすがに円朝の作だ、話の土台がしっかりしているから磨けば磨くほどいい話になってゆくんだろう。             …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [100]

明治の江戸っ子(続きの8)

 荒川は緩やかに秩父の諸水を集めた入間川の平台地と合作して、低湿の耕地が多く非衛生地が錯在している。志木の街を通ると埼玉県の風土病十二指腸蟲の妙薬とか、県下の亡国病十二指腸蟲の妙薬などの軒看板が何軒もあって、昼時なのに空腹を我慢した経験もある。この十二指腸蟲はもとよりサナダ蟲とか条蟲、特に回虫などは誰もが腹中に飼っているものと思っていたら孫の婿さんの時代にはほとんど存在しないと言うから驚いた。そういえば虫下しにアスキスなんていう薬が発売されたといういう話は聞いていたが、その後普及して痩せるためにサナダ蟲をわざわざ腹中に飼っている人もいるというから世の中も変わったものじゃないか。それでも回虫が居なくなったから衛生が改善されていい事はいいのだがそのお陰でアレルギー症なるものが蔓延しているらしい。
 この国は古代より人糞を作物の肥料としてきたから回虫との付き合いはあたりまえで、共存共栄してきたのが体の中に居たものが突然居なくなると回虫に対応していた免疫が仕事を失ってしまった。長年続けてきた仕事を失えば別の仕事を探すのが人情だけど余計なことをし始めるから迷惑な話なんだ。その新しい仕事というのが外から入ってくるいろんな物に反応して、今までは無視していた物にまで攻撃を仕掛けるようになったからアレルギー症なんて物に悩まされる人が増えてきた。杉の花粉に反応する杉花粉症なんか我々の時代はもとより神代の時代から聞いたことも無い、世の中が進んでもいい事ばかりじゃないね。
 話がとんだ横道に入ってしまったが荒川が都下に入ると縦横に枝分かれしてくるけれど、そこに本題の江戸っ子という名物がある。江戸っ子と云うのは左官職の楽屋語で、これが日本国中何処を尋ねても得られないからである。江戸を地学的に考察すると緩やかに流れる荒川の下流には普通の河川のごとくに押し流される礫砂が無いから、流れ寄るものは地上の軽量の凡てが揉まれ揉まれて潮汐の上げ下げ加減で沈殿する、これが漂泥、ヘドロである。これがあるのは大都会の証拠で大平野で都会となれば排泄する微片微粒が小石でも投げ込めば濁幕が一面に浮き上がる。こういう現象を江戸っ子左官が「他にねえから江戸っ子じゃねえか」という。このヘドロを壁の中塗りに使用する、江戸より他所では壁仕事に見られない図である。古来西洋の壁は乾燥を主とするが、東京で木摺、塗り壁の下地に打ち付ける3センチ程度の木、を用いない真壁造の壁は乾き抜いた荒壁の亀裂の間へ食い込むようにこの江戸っ子に砂を交ぜて塗る。それが今度は乾燥どころか湿度充分のうちに上塗りをする、江戸っ子、これは本来の江戸っ子、の取り扱う物の中でもなかなかの塩梅物といえよう。
                     …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [99]

明治の江戸っ子(続きの7)

江戸の三十六見附
 所謂江戸三十六見附は実は四十見附位は確かに存在したと記憶する。大阪城の大なりといえども二十見附以内と覚えた。江戸城の中で我々が謹んで参内するときに通る坂下御門と言うのは昔は無くて、あれは私の少年の頃今の代官町口に見える乾門の建物があって、代官町の現位置に移った跡に今の坂下門の場所へ厳しく潜る渡り櫓が出来て宮城の通用門となったのを覚えている。要するに坂下門と乾門との間は江戸絵図には本丸機構と西丸機構との境界の隘路で代官町から大名小路への公路であったそうだ。この大名小路とは譜代大名を中心に大きな大名屋敷が建ち並んでいた一帯で、現在で言えば有楽町マリオンからビッグカメラの横を通り、国際フォーラム、丸ビル、新丸ビルを通って東西線の大手町あたりまでの地域を言うとは当然ながら孫婿からの受け売りである。
 江戸都市は昔下総の国に属した本所深川が場違い的に碁盤目割の外、武蔵に属する南北豊島郡は共に江戸城郭の外圍に放射状に設定されてあった。俗に螺蠑城と言われ、サザエの蓋のところが新橋見附でこれを攻め込めば幅三町の狭い防禦隘路を銀座、日本橋へと押し込む。内神田から西神田で駿河台から監視されているのを横目に九段坂を登り、番町、麹町と内堀と外堀の間を霞ヶ関に進むと日比谷門か内桜田門に突き当たる。日比谷の内は丸の内で桜田門の内は西丸下である。丸の内を半里も北へ西へで本丸大手にかかる。ここで本丸の防禦帯は三重に厳しい。今二重隅櫓の聳えるのが本丸である。明治初年の写真には二重三重の櫓が林立してその間には多門渡り櫓が隙間無く建ち並んで物々しかった。

もうひとつの江戸っ子
 江戸っ子と云っても「もうひとつ」と云うからにはもちろん人ではない。
人ではないけれど江戸の役にはたいそうなもので、江戸を火事から救ったといえば何事かと思うだろうがこんな話は誰も書き残していないから、おそらくは初めて聞く話だろう、前段の説明が長くなるが貴重な話だから許していただきたい。
武蔵野は多摩渓谷の削磨作用で海底に沈殿し、更に隆起した第四期古層の平台地である。現に多摩川は右側に荒川は左側にあって、長さ約十五里、いちいち云うのも煩わしいが60キロだ、この間の幅は約十里、40キロ、だ。両川共ほぼ東南東に向かって、多摩川は急に、荒川は緩やかにだがここに埼玉県の風土病を生んでいる。                      …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [98]

明治の江戸っ子(続きの6)

 金の切れ目は縁の切れ目、花柳界からは見放された清兵衛だが、さすがに女に関しては目が肥えていたのかぽんたは清兵衛と結婚して生涯の面倒をみることになる。
 そんな清兵衛が意外なところで姿を現す。これは私の知らないことで孫婿が贔屓にしている白州正子さんの書いたものによると浅草の厩橋に能舞台があった時の話で、囃子方の調べが聞こえて片幕が開くと先ず笛方が現れたのだがこの笛の奏者こそ鹿島大尽と謳われた鹿島清兵衛の落ちぶれた姿だったという。鹿島清兵衛がお大尽の頃、梅若家は清兵衛のお抱え能役者であったものが、今では立場が逆転して梅若家の笛役者として身過ぎの為に舞台に上がるようになっていた。清兵衛の笛は余人を持って代え難いものがあったと白州さんは記していたそうだ。

河岸は白庫、通りは黒蔵
 唐制に模した平安城の街並みは碁盤目に行儀よいけれど、東入る西入る、上る下るの符丁を飲み込んだ京都人は整然として識別し易い事を誇るが、我々関東の弥次喜多が入洛するとなんだか締めくくりが無くて整然たる碁盤目はむしろ迷路の如しである。大阪の締めくくりは縦横の掘割である。八百八橋といわれる橋の大阪は要するに川の小区画で橋の多いのを証拠立てる。だから目当てが明らかでかつ防火線であり輸送路である。ここに京都に比べて大都市たり得る生命が保たれている。大阪は商業都市に生まれついていて周囲に発展の余地も充分あり、水運の便百パーセントであるから販路を遣り損じなければ、富力は東京を凌駕し得る可能性があろう。但し江戸の川々に河岸蔵の建ち並ぶ光景は享保寛政の為政者の注意深さが窺われる。新川、新堀、茅場町、日本橋、江戸橋、神田川など今でも残る江戸のおもかげ、さらに新橋から浅草橋までの大通りは表通りは見世蔵造り、大丸、越後屋、松坂屋、白木屋、西川伴傳など明治の末までは間口は種々でも一様に黒塗土蔵、他で見られぬ豪勢さであった。余計なことだが少しばかり野暮な説明をしておくと越後屋はご存知三越、白木屋は昭和33年に五島慶太に乗っ取られ42年には東急百貨店日本橋店となった。そして西川伴傳とは西川布団店、元々は幕府御用弓師の指定を受け、弓の西川として全国に名をとどろかしていた。
 蛇足だが白木屋の大火災は女性の服装史の上でも名高い出来事である。昭和7年の大火災のおりロープを伝って脱出する和服に長襦袢の女性従業員が手を離してまで裾の乱れを気にしたため多くの犠牲者を出した。この事件を契機に女性がパンティーをはくようになったという。    …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [97]

明治の江戸っ子(続きの5)

 おゑんの写真は羽の生えたように売れたけれど今のブロマイドではなくて鶏卵紙焼だから総て台紙貼りで本人を見たこともない連中、要するに私などは確かに何枚か所持に及んだものである。この鶏卵紙焼というのは江戸の末期から日露戦争の頃まで作られて流通した写真で、湿板ネガと密着させ太陽光(紫外線)で焼付け、現像しないで水洗と定着だけで製作された印画紙の種類である。バインダ(用紙と感光剤の接着の役目)にゼラチンではなく卵白を使ったので鶏卵紙といわれた。こんなふうに野暮な説明をいれなければならないのもしゃくの種だが孫婿の意見だから勘弁してほしい。
 閑話休題、そのぽんたは日陰町の古着屋の娘だけに古着仕立ての半玉でお座敷へ出たところが、間もなく新川の鹿島大尽に根引きされ、新橋はおろか他土地の芸者からも羨まれたが大尽の豪奢が祟って極端に零落した。ここで終われば何処にでもある紀伊国屋噺だが孫婿が言うには鹿島大尽については爺さん、つまり私のこと、も因縁があるのだからもっと話せという。そんな因縁を何処で嗅ぎつけたかは知らないけれど言われるままに余談を語ることにする。
 東京新川の鹿島家は本家が大阪にある酒問屋でこの当時では三井、三菱と並び称された程の多額納税者だった。新川の鹿島大尽とは鹿島清兵衛のことで彼は世継ぎの居ない鹿島家に家付き娘の乃婦と一緒になって養子に入ったのだが、金に不自由が無い為に清兵衛の道楽振りは漆芸や写真、笛に広がった。なかでも写真道楽はすさまじく日光の東照宮で開かれる時代絵巻の行列を撮影するためだけに、全紙四倍大の大きさを持つ乾板をロンドンのマリオン社の発注したりした。全紙サイズというのは457㎜×560㎜だからその四倍は計算するのも億劫になるから殊勝な心がけの人はやってみるといい。そんなことでマリオン社も何かの間違いじゃなかろうかとわざわざ問い合わせてきたそうだ。それに超大型カメラやレンズも特別注文して撮影と準備に総勢40人を使い上野から客車一台を借り切って臨んだ。それくらいだから写真への入れ込みはたいしたもので、私が日清戦争から帰る途中の京都祇園で京阪神写真師仲間から歓迎の盛宴を張られたが、その経費は全てこのお大尽の懐からだった。お大尽の懐で遊ぶなどということは知らずに誘われた宴会で、知った後は幇間でもないから嬉しくも無い、癪に障って満座の中で大啖呵を切ったことは自己宣伝になるからお預かりにしておく。
 話がそれたけれど清兵衛お大尽はやがてポートレートにも熱が上がり、新橋玉の屋のぽんたを大金で落籍して向島に妾宅を構えた。この頃になると清兵衛の浪費にさすがの親戚縁者も見過ごすことが出来ず追放という事になってしまった。     …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [96]

明治の江戸っ子(続きの4)

煉瓦通りの銀座
 ちょうど鉄道が開通することで当時は場末だった銀座を中心に煉瓦街の建設が始まった。先に述べたように定信公ゆかりの金品を使っての国営払い下げは一等煉瓦地が一坪63円、二等は50円、三等が42円で3分の1が即納、残りが150ヶ月の月賦だった。ところがこれが初めは不人気で最初に完成した銀座1丁目から2丁目の西側35戸のうち7戸が空家、続いて銀座3から4丁目と尾張町1から2丁目の西側で61戸のうち27戸が空家という有様だったが明治も20年になると大繁華街に成長した。この銀座街は煉瓦店舗が並列し、十四間道路、約25メートル道路の半ばを車道にし残りをまた半分にして各側を赤煉瓦敷三間半歩道としたから生まれながらにして銀ブラ式に出来たのである。
 瓦斯灯飾は銀座の日報社のイルミネーションが東京での元祖であったと思う。瓦斯照明は当時炎を被うマントルが無くて総てが裸火で街燈も室内灯も今の七輪の点火と同じく管口から炎々と焔えている。街燈は両側対立ではなく交互に柳桜の街路樹の間を縫って照らしていた。銀座の店舗中最も華麗な呼び物は京橋よりの松田料理店であろう、松田は楼上楼下色ガラスを張り巡らし夕映えに美しく点燈後また更に素晴らしく銀ブラ族の足も自然に止まらざるをえない。
 銀座の賑わいはひとつは夜店である、歩道が広く夜店も窮屈でなくブラ歩きしても肩の触れ合うこともない。銀座の夜店は他の夜店と違って東側ばかりである、西側には松田のように色ガラスで目を引いているのは無いが同じ小料理屋でも新橋よりの千登世も相当に受けがよく、正面の階段がすばらしいく光っていた。会席では新橋北の花月、南地の湖月や梢、西よりで売茶亭というのが役人連中の馬車が待ったりしていた。
新橋芸者
芸者屋は昔は何といっても柳橋が第一等で客に芸人が多くもあったであろうしその他でも腕達者など多かったが、新橋で面の好いのを多量に仕入れたので明治の通客はラツ専一だと見えて他土地の芸者は顔負けがしてしまった。ここで婿さんが「ラツ専一」とはツラだけよければいいって意味かと聞くから黙っていたら、言い換えれば明治の世で羽振りのよい田舎者は芸よりも顔さえよければいいのといいたいのですねと云う。まあそんなところだろう。
たしか明治18年頃が神田明神の祭りが最盛期、多町の鐘馗の山車に江戸名物の芸者の手古舞五人、いずれが菖蒲の揃う中に一際目立ったのが柳橋の小秀すなわち花井お梅であった。柳橋芸者にはお梅の様な鉄火もいたが新橋は顔で持つと言うとおり、その頃すこぶる付きの別嬪がおり、おゑんと言いぽんたと呼んだ。          …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [95]

明治の江戸っ子(続きの3)

 勤務している鉄道省での話しは昼飯まで続くのだがたいして面白くもないからここらへんでやめておく。それにしても家から職場まで35分とは戦中の事とはいっても恵まれた話だと孫婿が羨ましがるがそれほどのことでもない。そんなことで、何がそんなことだかわからないが、本題に入ることにする。
火事は江戸の華 
 ひとたび火事が起これば大損害には違いないが、江戸では火事があれば後は必ず繁盛する。市民が懸命に再起を目指して働くからそのつど街は盛んになり、また火事に対する備えの経験が積み重なる。論より証拠に江戸の初めは茅葺屋根が連なっていたが板屋根が混じるようになり、瓦屋根が本通りに並び、土蔵が散在する。本通りはほとんど塗り込みの見世蔵造りが並び河岸あたりは土蔵造りがひしめくようになっている。この見世蔵造とは店と住居が一体になったもので、もともとは倉庫として作られた土蔵造りとは区別して発達した。ここまでくればもう防災設備は万全と思われていたが、明治十四年神田松枝町からの出火で柳橋から当時のトップクラスの料亭だった両国の中村楼に飛び火し、本所回向院を焼き払い霊巌寺を坊さんぐるみ炎上させたうえに最後は木場まで延焼するという後の関東大震災に次ぐほどの惨禍を呈した。それでもこんなことは江戸ではよくあることで、すぐにそれまで以上の街に復してしまう。
 明治五年呉服橋内の軍馬局から出た火事が銀座一帯に禍を及ぼしたので、文明開化の今日画期的な都市美を出現すべきであると、春畝候、伊藤博文の発意で東京府知事由利公正が中心になって外国都市に負けない華麗さに建て並べようとした。それには官費で建てて売貸家にするのが手っ取り早いと合点したのだが問題は資金である。ところが思わぬところに金が転がっていた。
 深川霊巌寺に墓のある楽翁松平定信公が向柳原に籾蔵を建て備蓄米を蓄えて凶年に備え、また江戸町会所に命じて七分金という積立金をさせていたのが倒幕まで続いていた。これを明治政府が引き継いだのだが莫大な額の蓄積になっていたので東京府が渋沢栄一に頼んで養育院を創立したり、銀座に文明開化街を創設して東京の玄関を飾ることが出来た。松平定信公はまさに東京繁栄の恩人であると渋沢子爵も固く信じるところであったろう。こんな風に松平定信公を褒めるのは私の祖父が作事係として白河藩に雇われ、その後桑名藩に転封された後も父の代まで扶持をいただいた縁もあるけれど、定信公が東京の繁栄に多大な功績があったことなどほとんど知られていないことだからあえて書き記しておきたい。なおこの時創立された養育院は日本の社会福祉事業の中で先駆的、先導的な役割を担って日本の社会福祉事業の発祥の地といわれている。
                        …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [94]

明治の江戸っ子(続きの2)

 さて麦飯が炊けたあとは味噌汁を作り、前夜の残菜を暖めたりして飯支度は整うのだが孫婿の話では彼もまた同じように朝飯の支度をするとか、我が家の伝統は引き継がれているようで愉快である。この間老妻はといえば座敷を片付け、神棚、仏壇を清掃し朝礼の準備をする。孫娘はこのような伝統を受け継いでくれているのだろうか、気にはなるけれど改めて確認するのは恐ろしい気がするのでやめておく。さらに私は庭を掃き畑を見回ってあれこれと気付いたことを処理するがここの部分はさすがに婿さんもやってはいないらしい。
 五時三十分に湿布摩擦をして口を漱いで顔を洗ったあと、伊勢神宮、皇居、明治神宮、靖国神社の方角にそれぞれ遥拝する。この時大切なことは正確な方角に向かうことだが地図作りが専門の私にしてみれば磁石など使わずとも少しの狂いもなくそれぞれの方角に拝することが出来るから何ら憂うることもない。しかる後に仏壇に向かい老妻の般若心経とともに先祖と今は亡き友人を弔う。六時にはラジオ体操。それから二回目のトイレ訪問、この時新聞の要所を拾い読みする。実をいうとこの朝二回の厠通いが足腰の鍛錬になっているようだ。なにせ平成とかいう御世にはあたりまえの便座などあるわけもないのだから、昭和の三十年代に下手なスキーヤーが笑われたというウンチングスタイルで三十分もしゃがんでいれば強くもなる。もっともその代償として痔の病など背負わされるのは難儀なことだが、おかげでその方はたいしたこともなく日本山岳会々員としてこの年でも活躍出来ているのが嬉しいことではある。
 ここまでお付き合いいただいた読者の中には「こんな話をいつまで続けるのか、いいかげんにせいよ」とご機嫌ななめのかたも居られるでしょうがこの時代の年寄りとは案外こんな風に生活を楽しんでいて、この時代にはこんな人種もかなり居たことを知っていただいてもう少しお付き合い願いたい。
年齢的にはとっくに孫の世話係りになっていなければならないのだが、10年前から鉄道省の嘱託になっていて地図の作成に関わっていたから古希を過ぎても浮世との繋がりもあったわけで、七時の時報とともに天気予報を聞き、修養講座放送中に出勤準備、七時二十五分音楽放送に送られて家を出る。この修養講座が何だったのかは覚えていないけれど婿さんの調べでは昭和14年の新聞には確かに七時一分から教養講座と書かれている、そうすると七時の時報のあと一分で天気予報だったのかもしれない。七時三十五分に代々木駅を発車、七時五十五分東京駅着、八時に鉄道省に着いて出席簿に捺印して出局となる。八時半に給仕が茶を入れてくれるまで車中で読みかけの読売新聞を通読する。家では五十年来の報知だが読売には現職に転ずるに際して世話になった恩義に報いる為である。        …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [93]

明治の江戸っ子(続きの1)

 朝三時か三時半に厠、すなわちトイレに行って自然の出産を待つ。三十分経っても解決しないときにはまた出直しにする。四時四十五分に五時の目覚ましが鳴るまで暗中に瞑想する。この間に発明、発見のアイディアが続出するけれどもこれは夢でも幻でもない。但しその多くは雲散霧消して跡を止めず、少しばかりの残り物が雑誌の隅に掲載されたりしている。四時四十五分に乾布摩擦五分、直ちに屋外に出て外竈(かまど)で本日分の麦飯を炊く。この他には特にすることも無いから飯炊きに専念してすこぶる美味しい飯が炊ける。時々火が強すぎて狐の皮、おこげ、が出来ることもあるけれどこれもまた口当たりが良くて美味である。
 私は今村巳之助、この話を書いたのは昭和14年だから丁度七十歳、古希といえばこの時代にはまさに稀な長寿といえるかもしれない。この時に書き残した「東京雑感」は東京といっても江戸の面影を色濃く残していた明治二十年代の市井のあれこれをつれずれに書き留めたものなのだが、これが七十年以上の時空を飛び越えて、何の因縁かは判らないけれど平成とかいう時代に孫娘によって家の隅から見つけ出された。まあそれだけで済んでおけば何ということも無いのだがこれに興味を持った酔狂な男がいて、改めて世に出したいという。今更こんなものをと断るつもりでいたのだがなんとこの男は孫娘の亭主なんだそうで、どんな因縁で夫婦になったのかは知らないけれど孫娘が世話になっているのでは断るわけにはいかない。
 ところがこの男が書き始めた文章を見ると不満だらけ、まずはタイトル、「東京雑感」ではいつの時代のことか判らないから「明治の東京」がいいと思ったのだが彼によると「明治の東京」はすでに鏑木清方の名著があるという。鏑木清方は9歳年下だが面識もあるし、そう言われればとやむを得ず「明治の江戸っ子」で得心した。江戸っ子とは三代続いた江戸生まれ江戸育ちを言うけれど私もそんな規範にはとりあえず収まっているから文句を云われることも無い。
次に気に入らないのがこの話しの書き出しで、我ながら名文と自負する雑感を書き連ねた最後に「蛇尾」として私の日常を記したまさに蛇足の部分を一番初めに持ってくるという、なんでもこれが面白いんだとかで真っ先に紹介したいそうだ。それに文章自体も平成とかいう御世では難しすぎて読者に難儀をさせるから翻訳しながら、更には説明を入れながら書くんだそうで、名文を自負している私にしてみれば面白くもない。孫娘の婿のやることだからとあきらめてお任せにしたのが皆さんのお目に届くといった次第、明治初めの東京のあれこれをお楽しみくだされば幸いである。        …続く
                             溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [92]

•投稿者:Sadoco Morheus



パパー、きれいなお花のお家を曲がってもいい?

凌霄花が梅雨空に向けて緋色の萼を誇らしげに
解き放つころ、私の早朝のお努めは完全に決定
してしまう。
筆のようにひしゃげてしまった竹ぼうきを片手に
散乱した緋色の潔さをなんとなく掃いてしまって
いる。
今朝もやってしまった、と少し後悔をした途端、
補助輪付自転車が飛び込んできた。
書き出しは、その時の男児の一言。
胸踊る人差し指で、そーっと、玄関ドアを開け、
家人に、この事をしっかりと告げた。
夏を迎える緋色劇場は人の心を豊かにする。

Sadoco Morheus  
投稿者 [Sadoco Morheus]  記事番号 [91]

春爛漫(続きの15)

助六といえば紫の鉢巻ですが歌舞伎で鉢巻を締めていることは病人をあらわしています。その鉢巻を何故助六が?と思うのですが病人の鉢巻は左結び、助六は右結びでみなぎるパワーを示しているのです。そして紫の色は藤の花、たまりませんね。もうひとつの持ち物蛇の目傘、昔の人は陰暦の5月28日頃に降る雨を「曽我の雨」とよびました。また曽我十郎の恋人「大磯の虎」の悲しみの雨だということで「虎が雨」ともよんだそうです。これは曽我兄弟の仇討ちが建久4年(1193年)5月28日で、その日が雨だったといわれることからきているのです。虎が雨は俳句の夏の季語にもなっています。助六が傘をさすのはこの由来によるものですが、一年半前に信次郎が深川江戸資料館で踊った「雨の五郎」も同じ由来なのでしょう。
 もう少し助六の話を続けます、助六縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)は市川家の助六ですが、この狂言の助六の花道からの出では河東節が演奏されます。これは舞台下手の御簾の中に旦那衆が控えていて河東節を演奏するのですが、これが団十郎の助六の決まりになっています。ちなみに片岡仁左衛門の助六「助六曲初花桜」では今回の信次郎と同じ長唄で演じます。

 その長唄助六の舞台の幕が上がって花道への出を待つ信次郎は観客のどよめきを聞いています。舞台は吉原の三浦屋、~咲きにほふ桜と人に宵の口、やぼはもまれて粋(すい)となる~上手にずらりと並んだ地方(じかた)連中の演奏が始まると蛇の目傘を半開きに差し出して臨戦態勢にはいります。
~ここを浮世の中ノ町、恋に焦がれて助六が~で鐘が鳴って、三味線が入ってもう一度鐘が鳴り、大きく息を吸い込んでから止めた一瞬アラ古希の背中が若者の背中に変じて江戸一番の伊達男になりきった信次郎を、揚幕がさっとあがって「行ってらっしゃい」と一言添えた後見が軽く背を押してくれます。もはや滑る恐怖なんかすっかり消えてしまった川嶋信次郎は半開きの蛇の目傘で頭を隠しながら、花の吉原に続く吉原土手にカッカッカッと駒下駄の音を響かせて飛び出していったのです。
「信次郎!」「前原町!」押しかけてくれた友人達からの掛け声が信次郎の背を押して花道の中ほど、中七三でぴたりと止まった助六が半開きの傘をさっと開いて客席に顔を向けると満場の拍手とともに次々に掛け声が飛び交います。
「これだ、これがやりたかったんだ」
舞台の桜花は今、春爛漫と咲きにおっていました。      おわり
                            
溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [90]

春爛漫(続きの14)

 花の舞台を2日後に控えて河村孝夫にはちょっと気になることがあったのです。信次郎のことだからそれなりにやっているとは思うのですが、しょせんはこの道の素人、わからなくて当然ということもあるのです。迷った末に意を決した孝夫は携帯に手を伸ばしました。
「余計なことかもしれないんだけど、巻物は用意したの?」
「巻物って何だい」
「お客さんに扇子とか手拭とか配るだろ、あれだよ」
「弁当は用意してあるよ」
「弁当は添え物でね、普通は巻物を用意するんだよ」
「そうかい、それじゃあなんとかしなきゃ」
「今から扇子だ手拭だじゃ間に合わないから饅頭なんかどうだい」
「饅頭にするんなら何店のがいいの?なにせ甘いものはからっきしだからね、甘党のあなたにおまかせでいいかね」
「任せてくれるんならなんとかするよ、これから予約しといて当日は良子ちゃんと妙子さんに手伝ってもらえば取りに行けるから」
「悪いけどお願いしますよ、踊りの世界の常識が全くわかってないからね、助かったよ」
こんなこともあろうかと思ってはいたのですが念のために電話をしてよかった、せっかくの晴れ舞台だから恥をかかせたくないし、ほとんどの客は素人だからそんな事に無頓着かもしれないけど中には分かっている人もいるはずです。後で陰口をたたくような人もいないだろうけど、信次郎が後日そんな事に気付いたときに気に病むのもかわいそうだから、まあよかったと孝夫は安堵の胸をなでおろしたのです。

芭蕉の句~花の雲 鐘は上野か浅草か~長唄助六の元になっている歌舞伎の助六縁江戸桜、舞台は江戸一番の繁華街吉原。三浦屋の花魁揚巻の元に通う助六は腕っ節も強いが器量も江戸一番の男前、この男、実は曽我の五郎といい、父の仇に奪われた源氏の宝刀友切丸を捜す為、片っ端から遊客に喧嘩を売っては刀を抜かせて確かめていたのです。この助六の姿はと見れば、黒羽二重の小袖、真っ赤な襦袢、江戸紫縮緬の鉢巻、黄色い足袋。この鮮やかな色彩の衣装の背中には尺八、腰には印籠、駒下駄を履いて蛇の目傘をさしています。そして花道は吉原遊郭に通じる吉原土手をイメージしているのです。
                    …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [89]

春爛漫(続きの13)

 浅草の芸者も世代交代は出来てないんだな、と残念がりながらの信次郎なのですがどうも様子が違うのです
「どうも芸者にしては素人っぽくて、何よりもご年配の方が多すぎる、だいいち芸者のご出勤には早すぎる時間だと思ってたらね、信次郎さん、おはようございます、って声を掛けられたんでようやく真実の姿に気付いたのよ、芸者と思ったのは晴れの舞台衣装に身を飾ったお仲間のご夫人たち、驚いたね」
「憧れの浅草芸者に会えなくておあいにくさまだけど、なまじいい女に出会って惚れた腫れたでトラブルよりはいいよ」孝夫の混ぜっ返しに信次郎は
「いまさらそんな年でもないよ」と言いながら惚れた腫れたに未練がありそうな口ぶりで応じます。
「まあ色恋に年は関係ないけどね」
「それはそうだけど、止めといたほうがいいよ、それで下浚はどうだったの」
「そうそう、やっぱり衣装を着けると違うね、それだけでもう何でも来いって言う気になるから不思議だよ」
「それじゃあ、もう心配ないね」
「まあね、でもねぇ花道の出のところでつるっときたんだよ、なんとか持ちこたえたけどね、捻挫なんかしなくてよかった」
やはり一番の心配は滑ること、そうは言っても滑り止めにフエルトなんかを貼ったんじゃ助六じゃないから、今更何をおっしゃいますかと腹を決めるほかはないのですがそれでも心配の薄霧は晴れようもありません。
余談ですが浅草花柳界の歴史について少し述べておきます。18世紀の後半から浅草寺門前広小路にあって菜飯田楽を売り物にした数軒の田楽茶屋が繁盛していましたが、この店の酒客の相手として生まれたのが田楽芸者と呼ばれた広小路芸者なのです。それから北のほうでは吉原の大門外の田町山谷堀の編笠茶屋。編笠茶屋は遊客が遊女の元に行くのに顔を隠すための編笠を貸した茶屋、客はここで一服して腹ごしらえなどをしましたが、そのうち編笠をかぶる風習が無くなると引き手茶屋になります。この編笠茶屋や船宿の客を相手にしたのが山谷堀の芸者、俗に言う堀の芸者が生まれました。もうひとつは天保の改革で江戸市中に散在していた歌舞伎3座、人形芝居の小屋2座を猿若町に移して芝居町が形成され、猿若町芸者が誕生します。彼女らは芝居櫓の下に居るので櫓芸者とよばれていました。この三派の芸者衆が江戸随一の隆盛を誇ったのですが明治18年の浅草寺内の改造を期に三派の芸者衆の一部が浅草公園周辺に集まって料理店を出し、現在の浅草芸者の元になる公園芸者が生まれて繁栄したのです。        …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [88]

春爛漫(続きの12)

 余談の続きはせっかくだから江戸資料館の周辺を散歩してみましょう。そこから清澄庭園の方に向かってすぐのところに霊巌寺があります。この寺は寛政の改革を断行したけれども志半ばで失脚した松平定信の立派な墓があることで知られていますが、実は庶民にとって江戸の守護神として崇められていた大変な寺なのです。
 江戸の城下町が開拓される頃の話です。徳川家康から三代の将軍に厚い信頼を受けていた霊巌和尚は葦の原を埋め立てて霊巌島を造り、そこに霊巌寺を建立しました。これが起点となって江戸の城造りや町造りの為の物資の搬入に欠くことのできない場所になり、江戸の町造りの開始点となったのです。こんなことで幕府も資金援助を惜しむことも無く、庶民も自分達を守ってくれるお寺として霊巌寺を崇拝したのです。
 このお寺が明暦の大火、いわゆる振袖火事で焼けてしまったので現在の深川の地に移されたというわけなんです。当時の霊巌寺は現在の深川資料館の場所も含む広大な敷地に正覚院などの塔中も立ち並ぶ壮大なものだったようです。
 五月の連休が過ぎると、健康管理も過剰気味になって腹をこわすといけないから冷たいビールなんかは我慢して焼酎のお湯割りに限定、もちろん夜の付き合いは不義理を続けます。それから一番大事な腰を悪くしても困るので買い物に行っても重いものは全て奥方まかせ、全ては五月二十七日までの事と非常事態宣言が続きます。
 晴れの舞台まで旬日を残すこの日は下浚、したざらえといって舞台衣装もそのままに最初で最後の本番さながらの稽古なのですが、
「その場所がさ浅草見番というからさすが我が師匠、公民館みたいな野暮なところなんざあ使わないで江戸資料館とか浅草見番とか、やることがいちいち粋だよね」
信次郎の嬉しそうな報告に河村孝夫は、良い師匠に出会えたものだとこの男の運のよさを改めて感じていたのです。
見番というのはご存知のように料亭と芸者が所属している置屋の間を取り持ってお客の希望する人数を揃えたりするのですが幇間を呼ぶのも見番の役割になっています。芝居や落語には頻繁に登場するこの幇間なんですが今では全国に四人しか居なくって、その全員が浅草見番に所属しているのです。
「浅草見番なんて行ったことも無いからね、それに見番なんて男の憧れの地だよ、嬉しさ120%で出かけていったのよ。なにか入っちゃあいけない所に入るような気持ちで忍び込んだら驚いたね、婆さん芸者ばっかりがうろうろしてんのよ」                  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [87]

春爛漫(続きの11)

 かつら屋のおじさんに声を掛けられた信次郎はかしこまっておじさんの前に座りました。何か神聖な祭事をしてもらうような気持ちで頭を差し出すと頭を手拭できっちりと巻き上げた後、おじさんが妙なものを頭に乗せてくれます。ちょうど小玉スイカを三等分して果肉の部分を食べちゃって、なおも皮の部分もすくいとって薄くしたような物を想像してもらえればいいのですが、これが銅で出来ているのです。この小玉スイカの皮二枚を頭に重ね合わせて止めると信次郎の頭にピタリとあった半球形の帽子のようなものが出来てこれがかつらの原型になるのですが、驚くのはこの後の作業でなのです。この銅版作りの半円球には無数の穴が開いていて、ここに一本一本人毛を植え付けてそれを髷に結い上げると聞かされたときには「これじゃあ本気にならざるを得ない」と感心したりお金の心配がよぎったりの信次郎だったのです。
 二十日程たつと次の事前イベントは「つぼ合わせ」。素人の発表会はテープの音に合わせて踊るのが普通なのですが今回は全て生演奏ですから事前の打ち合わせが必要なのです。深川江戸資料館のホールに当日演奏してくれる地方連中が集まってくれて生の演奏を背に踊るのですが、ここで醜態を演じるとバカにされて本番に影響するから間違えないようにと不安の雲、それでも考えてみれば敵はこちらがズブの素人なのは先刻ご承知で、今更力んでみても何の意味もないと悟りの境地で舞台へ。「よろしくお願いします」と礼だけでも尽くしておけば意地悪はしないだろうと思う心のいじらしさ、内心では「本舞台で勝負だぞ」と意気だけは軒昂なのです。演奏が始まるとちょっと緊張するのは花道へ飛び出すきっかけ、テープで覚えている演奏と同じならいいんだけどそうでなかったらとまどうことになりかねません。曲が同じなのは当然ですが演奏は違ってあたりまえで「あれ、こんなところで鐘が鳴るの?」という場面もあったりして聞き始めは奇異の念なのですが、こちらのほうが華やかといえばその通りなので「こっちのほうがいいや」と満足なのです。
 余談ですがこの深川江戸資料館、両国の江戸博物館に比べてあまり知られていませんがなかなかに面白い施設なのです。おすすめは実物大に再現された江戸時代の深川の町、地下1階から地上2階まで3層の吹き抜けの大空間に展開する江戸時代の深川の町。江戸の末期、天保年間頃の深川佐賀町の町並みを想定復元した情景再現、生活再現展示があります。町並みには表通りの大店と白壁の土蔵、船宿のたたずまい、そして猪牙舟の浮かぶ掘割には火の見櫓が影を落としています。一歩路地を入れば長屋が並び、そこには庶民の暮らしがあります。そしてそこに住む人達の家族構成や職業、年齢も設定し、それぞれの暮らしぶりにあった生活用品を展示してあるのです。   …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [86]

春爛漫(続きの10)

 「團十郎の歌舞伎案内」のなかで市川團十郎が言っています「わたくしが助六をつとめるときに履く下駄は、魚河岸からいただいたものです。これがね、ときどきコワいことがあるんですよ。木と木がすれ合うと、思いがけなく滑るんです。勢いよく花道に出ていくと、ツルンといきそうになることがある。時々下駄が危ない状態になっていることがあるんですね。底にフェルトをつけたり、下駄を水に浸してからでていくと大丈夫といわれますが、そうすると下駄特有の、あのカッカッカッカッという乾いた音にならないんですね。ですからわたしどもは絶対に下駄に細工はいたしません。それくらいのことでなんだい、という意気で出ていかないと助六という役は、そんなにビクビクしてつとめられないですから」
その通りだと信次郎も思うのです。揚幕がさっと上がって花道にカッカッカッと下駄を踏み鳴らしながら飛び出していって、見得を切るときにまたカッと乾いた音を響かせる、これがやりたくて助六なんだから怖いなんていっちゃあいられないんですよ。お師匠さんが教えてくれたことは「下駄の歯の角をたてないこと」そうですね下駄を斜めに踏み出すとツルンといきますよ、何事も角をたてちゃあいけません。
 五月二十七日と日取りも決まって稽古は厳しくなり、お師匠さんの細部にわたる指摘が飛び交います。何と言われてもその日が待ち遠しくてしかたのない信次郎ですから、ハイハイ、と素直に従っています。日頃は理屈と言い訳が先に立つ信次郎にしては珍しいことなのですが、全てはお師匠さんまかせですからこれも仕方の無いことなのでしょう。そのかいもあったのかわが身のことながら何とかなりそうだと自信がわいてきたのはご同慶のいたりなのですが、変な自信を持ちすぎて勝手なことをやりがちなのが少しばかり心配で河村孝夫が「欲を出さないで素直にやればいいんだからね」と釘をさしてくれたのは信次郎をよく知る男ならではの助言だったのでしょう。
 四月に入ると信次郎の生活は完全な助六モードに切り替わりました。怪我が心配ですから旅行はもちろんのこと夜の集まりは全て不義理をして「悪しからず」付き合いのいい彼にしては珍しい、どこか悪いんじゃないか、と心配されたりもしたのです。気分が五月二十七日に向けて盛り上がり始めると事前のイベントが始まります。まずは「かつら合わせ」から、かつら合わせというから出来合いのかつらから自分の頭に合うものを探すんだろうと勝手に決め込んで深川の稽古場に出かけた信次郎が見たものは想像もしていなかった光景だったのです。                …続く
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [85]

春爛漫(続きの9)

 こんな話の続く信次郎のメモは8月13日になると「踊りの稽古前に立ったままめまい、稽古の最中にもあったがなんとか踊れた」と悪戦苦闘が続いています。そして9月4日「すっかりコツを飲み込んでしまった、治ってはいないんだけどなんとかなってる、完治はいつなんだろうね」となり9月9日の「どうも治ってしまったらしい、頭を上げてうがいをしてもOK,下を覗き込んでもOK」の一文でめでたしとなったのです、70日を越える長い道のりでした。  
 
「豚や狸じゃ助六は無理だ、狐ぐらいにはしなきゃ」狸や豚の体では助六は踊れません、踊りを始めた頃の信次郎は狸でした。「雨の五郎」の曽我五郎は十代の少年ですから少しでもイメージを近づけるには体重落しと腹減らし、70キロを65キロ目標に先ずは生活習慣の改善から。今から思えばたいした苦労は無かったですね。ひとつは寝る前2時間は水以外は口にしない、飲んで帰る途中でラーメンを我慢するだけでも効果絶大、それからこれは信次郎だからこそ出来たのでしょうが二十年以上続けている朝晩のストレッチにウエスト減らしのプログラムを組み込んだのです。そうそう、それにめまい予防のプログラムも加えたので27種のストレッチを続けているのですが、これも効果があったのでしょう。余談ですがめまい予防の運動を始めてからめまいの起こる事もなく助六の舞台には何の影響も無かったことを思えば霊験あらたかなのでしょうね。

 年も改まった頃になると長唄助六の15分の振りは信次郎の頭の中には入ってきました。とはいっても単に体が動くだけで踊りになんかなっちゃあいません。この頃になると観られるものにするための稽古が始まっていて、先ずは本番同様に下駄を履いての稽古です。ところが下駄なんてものは日常生活では何十年も履いていません。それに履きつけない下駄はある意味で危険な物でもあるんです。何年か前の正月に和服に下駄で出かけた折、敷石の端を踏んだお陰で足を捻ってしまいました。ちょっとした捻挫ぐらいに思っていたのですが翌日には腫れ上がったので医者にいくと骨折の診断、下駄骨折といって下駄を履きなれない昨今ではよくあるんだそうです。一週間のギブス、リハビリに半年かかりましたよ。そんな経験もあるのでおっかなびっくりの下駄なのですが、その気持ちがかえって危険なのです。
 下駄を履いての稽古からすぐに、危なく転ぶところでした。床は木だから木と木が触れ合えば滑るのはあたりまえ、それを心配していると滑るのもまたあたりまえの事なのです。         …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [84]

春爛漫(続きの8)

 この良性突発性頭位めまいを初めて経験したのは信次郎が65歳で仕事から身を引いた22日後のことでした。朝起き上がったときに突然のめまい、立ち上がる時、寝る時に景色が横向きに廻るのです。翌日には主治医の小沼先生を訪ねたのですが頭のMRIは先日とったばかりで脳に問題があるわけではないと、めまいの権威で有名な都立青山病院の大和田先生を紹介されたのです。大和田先生が信次郎にいくつかの体位を取らせた後に下した病名が「良性突発性頭位眩暈症」高齢者や女性に多いのですが、三半規管の中に耳石の欠けたものなどが浮遊して位置確認を迷わせる為に起こる症状で、加齢やホルモンの影響が原因だと言われているそうですが確固たる定説はありません。大和田先生のお話によれば三ヶ月位で耳石のかけらなどは流れ出してしまうので心配は無いという事なので深刻な状態ではないのですが、いざという時の為にめまいを抑える薬だけはもらってきました。それでこの薬なんですが常に携帯はしていても使用したことは一度もありません、よかった事なんでしょうね。
 このめまいのその後なんですが実を言うと別の要素も重なってかなり深刻な状態になってきたのです、それが夢なんです。めまいの始まった5日後からしきりに夢を見るようになった信次郎はすぐに原因に気付きました。夢の内容は多岐に渡っているのですがテーマはひとつ「脅迫」です。「脅迫」というと大げさかもしれませんが「強迫感」、例えばレポートを出さなければならないのにまだ出来ていないとか、そんなことで焦りまくっているうちに「ああそうだ、もう仕事はしなくていいんだ」と気付いてホッとしたとたんに目覚めるのです。
 四十数年間に渡って毎日決まった時間に家を出て夜になったら帰ってくる、そんなリズムが退職によって完全に壊れてしまった、これが夢の原因なのでしょう。これがしばらく続きます、信次郎が書き残した記録の最後は49日後、49日とはいやな数字ですがこの日の記録が最後ということはこの日を境に快方に向かったのでしょう。耳石のかけらが三半規管から流れ落ちるとともに体のリズムも落ち着いたのかもしれません。そして再び耳石のかけらが三半規管に落ち込んだのが今回のめまいの始まりなのです。
 話を今回のめまいに戻します、かなり深刻になってきました。
7月23日ちょっと下を向くだけでめまい、かなりひどい状態、。頭を上下に動かさなければ起きないが気分は良くない、肩がこる。
7月24日踊りの稽古、多少の心配はあったがほぼ問題なく踊れた。これだけで気分が楽になった。夜は良好、風呂に入ってもほとんどめまい無し。
 筆者もめまいがしてきた、読者のみなさんの「いいかげんにしろ」という声が聞こえてきますよ。         …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [83]

春爛漫(続きの7)

「信次郎さん、それじゃあ五十歳の助六ですよ」
お師匠さんに言われて、慌てて背筋を伸ばして二十歳らしくするのですがすぐに又五十歳に戻ります。それでも以前は七十歳と言われていたのですから少しはいいかとも思うのですがそんなことではありません。助六は二十代の若々しさが必要ですから姿形だけでもスキッとしていなければなりません、そんな事も含めての稽古が一年半後を目指して始まったのでした。
 
 年も改まって新緑の候となり、稽古もまずまず順調に進んでいます。そんなある日のこと信次郎に異変が起こったのです。
6月28日 朝、寝床から立ち上がるとめまいがする、よせばいいのに花道の出のところの見得を切ってみたらグラッと来た。
これが2ヶ月以上にわたって信次郎を苦しめた良性突発性頭位めまいの始まりでした。
6月30日 起きたときはめまいがある。階段を降りるときもめまいがあるけれど、落ち着けばあとは特に問題は無い。
7月2日 普段は何ともないが、起き上がったときだけは多少のめまいがある。
7月7日 完治の様子  
信次郎が書き残した記録を辿ってゆくと、この時点では完治したとホッと一息ついたようなのですが、めまいの方としてはちょっと安心させといてじわじわと攻め掛かる魂胆だったのです。
7月18日 一昨日からめまい、日常生活には何ら影響は無いが朝起きた時にめまいがある。
7月20日 今朝からかなりひどくなっている。横になったり、頭を下げるとぐるぐる廻る。まさに良性突発性頭位めまいだ。
7月22日 頭の上下動でめまいが来る、頭を洗ってかなりのめまい、目をつぶって頭を洗ったらほとんどめまいは無い。横になるときも目をつぶって横になるとめまいは起きない。河村孝夫とサントリーホールへ。
「ちょっと待って、今めまいが来てるから」
「大丈夫なの?一人で歩けるの?」
サントリーホールの階段の途中でちょっと上を見ただけでぐらりときた信次郎が手すりにつかまりながら治まるのを待って再び歩き出します。
「うっかり上を見ちゃったからね、まっすぐ前を見てれば大丈夫なんだよ」
「なんだかめまいと付き合うコツを飲み込んじゃったみたいだね」
「何でも味方にしなきゃね」    …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [82]

春爛漫(続きの6)

 六十五歳を過ぎてから、初めて踊りに手を染めた信次郎にとって、振りを覚えることは苦手の部類に入らざるをえません。若い頃から親しんでいるのならともかく、一昔前なら孫のお守りでもしながらのんびりと余生をという年代にさしかかり、時代が変わって見掛けだけは若くなったといっても記憶力などというものはどんどん落ちてゆくばかりなのです。その上に基礎を全く知らないのですから、ただ一つ一つを積み重ねて覚えるしかないのです。こんな風に言うと悲観的な話ばかりになりますが、ただひとつ信次郎の強みと言えば六十有余年の風雪に耐えながら積み重ねた経験です、いえいえそれ程のもんじゃありませんが、まあそれらしいものを頼りに一年半後の助六の舞台を目指しての精進、と言うほどのことでもない稽古が始まりました。
 浅草公会堂という大舞台で踊れることは嬉しいのですが、一年半後に本当に踊れるのか、とにかく300人からの人の前で600の眼が自分一人に浴びせられているなかで、間違えずに踊れるということは至難の技ぐらいなことはいかにお調子者の信次郎でも分かっています。舞台の中央で立ち往生する自分の姿が時には浮かんだりして不安の雲は日を追って密度を増してきます、間違えるより先に全部を覚えられるのか、それさえも不安の種で、覚えきれないからと途中をカットするわけにもいかないだろうと危惧の念を感じ始めると際限がありません。そんな状態がしばらく続いたある日を境に信次郎の中ではもう一人の自分が「そうは言ってもなんとかなるんじゃないの」と押し戻」を始めます。こうなると妙なものでプラス思考が幕を開けてマイナス思考を舞台の片隅に追いやり始めるのは信次郎の得意技なのかもしれません。
 長唄助六は約15分の踊りです。これを1分半ぐらいずつに区切って教えてくれるのですが、それ以前の経験である程度の法則と言っては大げさですがそんなものが分かっていました。新しい振りに入ってからの初回は何も覚えていない、二回目も終わってみれば何も記憶にございません。三回目になるとポイントぐらいは覚えています。そして四回目にはポイントが繋がって一分半が踊れるようになるのです。これがどんな踊りでも必ずそうなんだから不思議なものです。週に一度の稽古ですから月に四回、一分半の振りを一ヶ月で覚えられるのは経験が教えてくれる。そうすれば15分の踊りは10ヶ月で覚えられるはずです。余裕をみて1年、そして後の半年で仕上げする、こんな自分なりのスケジュールが出来上がったのです。このお陰でまずは焦ることが無くなりました。  現在の状況がスケジュールに乗っていれば何の心配も無いのです。何よりの心強さはお師匠さんが「出来る」と言ってるんだから出来るのでしょうし、出来なければお師匠さんの責任だと勝手な理屈をつけたのでした。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [81]

春爛漫(続きの5)

 あれはもう二年前の事なのですが孝夫は信次郎から意外な話を聞きました。
「驚いちゃいけないよ、踊りを始めたんだよ」
「別に驚きゃしないけど、あなたらしいと言えばあなたらしいね」
「元々好きなことはあなたもご存知の通りだけどね」
「まさか本当に始めるとは思わなかった、それでお師匠さんはどんな人」
「それがあなたの前だけど大笑いでね、大変だったんだよ」
もっともらしく話し始めた信次郎の話は今時ありうる話で案外運が良かったのかもしれないのです。
「先ずは近所のお師匠さんを捜したんだけどね、やっぱり田舎はいけませんね、試しに見学したお師匠さんはそう言っちゃあ失礼だけど体操の先生じゃないかと思うくらい流れの無い人でね、とてもじゃないけど教わる気にはならない。仕方が無いからもう少し範囲を広げて捜したんだよ。そしたらさあ、見つかったんだよ、実に小粋な歯切れのいい踊りを見せてくれて教え方もきびきびしてる、嬉しくなっちゃってね、即入門だよ」
実にいいお師匠さんに出会えたものです、信次郎の人徳とは言いません、運だけは良かった。それにその後の信次郎の心がけも良かったのかもしれない。
初めての稽古日の会話です
「信次郎さん、とりあえず軽いものからいきますか」
「お師匠さん、この年でなんですけど基本から教えていただけませんか」
「それは私も嬉しいです、それじゃあ“槍奴”をやりましょう」
槍奴などという踊りは歌舞伎を観続けて五十数年の孝夫も聞いたことが無いのですが、どうやら踊りの振りを全て取り込んであって師範の試験には必ず踊るという松緑の藤間流では基本の踊りなのだそうです。信次郎の話では面白くもなんとも無い踊りだと言ってましたが基本がこんなものだということが少しはわかったのでしょう。そのあとで「雨の五郎」に挑戦したのでした。その五郎がお師匠さんの予想外に巧くいったのでちょいとばかり欲が出て「助六」になったのです。なにしろこの「助六」という踊りはやりたい人が沢山いるのですが、このお師匠さんの言うところでは「女は絶対だめ」なのです。だから自分もやってないこの踊りを始めての男の弟子にやらしたくて仕方が無いのです。
そうなんです、最近では素人で男が踊りを習おうなんていうのはめったに無い事で、信次郎などは稀有な存在だったのです。
こんな導入部を通過しながら信次郎の助六への道は始まったのですが、これは又新しい世界への誘いでもあったのです。     …続く
                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [80]

春爛漫(続きの4)

 窮地の信次郎を救ったお師匠さんの一言、それは
「信次郎さん、分からなくなっても踊りを止めちゃあだめですよ、とにかく傘を肩にしてゆっくりと歩き回って下さいね、落ち着いたら舞台の袖にいる私を見るんですよ、ちゃんと教えますからね、間違えたって誰もわかりゃしないんですからね」だったのです。
「お師匠さんの教え通り傘を担いで一回りしたらお師匠さんを見るまでも無くちょうど~浮気な酒に~に続く~宵の口~にかかったので待ってましたと元に戻ったわけ、ちょうど気に入った振りで数少ない得意の部分だったから幸いだったね、お師匠さんも後で笑ってたよ」
「いやあ、初舞台であれだけ出来るんなら上出来だよ、もっとひどいかと思ってた」
「それでさあ、今度の浅草公会堂なんだけどね」
「同じものをやるんだろ」
「それがさあ、風向きが変わったんだよ、元々の話は今回の雨の五郎は度胸試しで一年半後の浅草公会堂で本格的にやるはずだったんだけどね」
「へぇ~、それで何をやるの」
「お師匠さんがさあ、信次郎さん浅草では助六をやってみない、って言うんだよ、もう即答だよ、やります、ってね」
「やんなよ、いいと思うよ、助六は顔だからね、あなたは顔がいいから」
「そうだよな、顔だけで何とかなるよな」
「いやだね、おだてりゃすぐその気になるんだからな」
「豚もおだてりゃ木に登るだ」
「自分を豚だと気がついてりゃ心配ないよ」
「豚や狸じゃ助六は無理だな、狐ぐらいにはしなきゃ」
「それに見得だよな、見得だけきっちりと切っとけばなんとかなるよ、あなたは見得を切るのが巧いから」
「見得を切り続けた人生だからな」
与太話は際限がありません。
 それにしても、と孝夫は思うのです。信次郎は単純に喜んでその気になっていますが浅草公会堂で踊るとなればかなり大変なことなのです。彼は踊の事しか考えていないようなのですが、かなりの人も呼ばなければならないし、こちらの方も同じように大変なことなのです。そんな事には少しも気付いていないようですが、しょうがない、私が面倒をみるか、と腹をくくらざるを得なかったのです。             …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [79]

春爛漫(続きの3)

 ~さる程に、曽我の五郎時到は、不倶戴天の父の仇、……..春雨に濡れて郭の化粧坂(けわいざか)名うとて聞きし少将の~
長唄雨の五郎は曽我兄弟の仇討ちでその名を知られている曽我の五郎が父の仇を捜しながらも、その心の隙に忍び込んだ化粧坂の少将という花魁を慕って遊郭に通う姿を描いた踊りなのですよ、という前口上の部分が語られて、それから三味線が高らかに語り始めると舞台中央から傘を差して颯爽とせり上がってくるのですが、この劇場はせり上がりなどあるわけもなく、仕方が無いので信次郎の場合はただじっと立って幕の開くのを待つという次第、それが少しばかり間が持てなくて、幕の上げるのをもう少し遅くしたほうがいいんじゃないかなどと考えているうちに~雨の降る夜も雪の日も~でちょっと見得を切った後に踊りだすと案外スムースに運びだします。~誰に一筆雁の伝て~で懐から出した巻き手紙をさらりと広げて一通り目を通した後、後ろ手に回すと後見が受け取ってくれてちょっとだけ自信がついてきたのですがここに大きな落とし穴があったのです。
客席の河村孝夫はこの椿事に気付いていました。流れにちょっとした変化があったのです。一瞬おやっと思ったのですがその後は何事も無かった様に踊る信次郎に「前原町!」と声を掛けると、信次郎はこれに勢いを得たように一気に踊り終えたのでした。
「さすがに決めるとこだけはしっかり決める、長年歌舞伎を観てきたお陰だな」ほっと一息ついた孝夫は仲間の女性4人を促して楽屋へと向かったのでした。
翌月の歌舞伎座で吉衛門の「雨の五郎」を楽しんだ孝夫と信次郎は付近の喫茶店で話しこんでいました。
「変なこと聞くけどさあ、~浮気の酒~のあたりで間違えたんじゃないの」
「気がついてたの?さすがだね、巻き手紙を後見に渡した後に、あれっと思ったのよ、少したっぷりとやりすぎて遅れてるんじゃないかていう、悪魔の囁きだね、別にたっぷりやりすぎたわけじゃなくて順調にいってるのにね」
「それでひとつ飛ばしたのか」
「そうなんだよ、変なところで思いっきりがいいのが私の悪い癖でね、~浮気の酒~で酒を飲む仕草があるんだけど、これをその前の~粋な手管につい乗せられて~でやっちゃったんだよ」
「それで肝心なときに酒が飲めなくなったんだ」
「そう、盃のお代わりをするわけにもいかないんで頭が真っ白になったんだよ」
「それでも巧くごまかしたじゃない」
「その時だよ、お師匠さんの言葉がひらめいたのは」   …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [78]

春爛漫(続きの2)

 この日から遡ること1年半、信次郎は深川江戸資料館にある小劇場の舞台に立っていました。
幕の上がる前の舞台は異様な興奮に包まれています。直前の舞台が終わって拍手と共に袖に下がってきた仲間に声をかけると、ホッとした風情の笑顔で答える彼女を見送ったあとは性根を据えているつもりでも実態は雲の上を歩いているのです。今日の舞台は素踊りの会ですから大道具が活躍する背景などは無いのですが、それでも屏風の取替えなどでばたばたしていて、指揮を執っているお師匠さんの凛々しい姿を眺めながら立位置の確認をしていました。
「長唄 雨の五郎、立ち方川嶋信次郎、初舞台でございます」
場内アナウンスとともにパラパラと聞こえる拍手を聞きながら、ゆっくりと傘を開いてポーズをとると静かに幕が上がり始めます。
あれっ、前奏が始まってから幕が上がるんじゃないの、と約束破りの出来事に混乱した頭を立て直そうとした時お師匠さんの鋭い声が飛びます
「下げて、下げて、幕はまだですよ」
上がりかけた幕は一瞬止まった後、再び元の位置へ戻ってゆきました。
せっかくその気になったのに気をそがれたようになりながら、娘が撮影中のビデオをどうやって巧く編集したらいいのか、などと余計なことを考えて、早い話が幕が上がったり下がったりするところをカットして巧く繋げればいいんだと自分に納得させると、急いで再びの踊りモードを構築したのです。
 幕を挟んで向こう側、座席数300の小劇場の後方に陣取った河村孝夫は友の初舞台に不安の気持ちを抑えながら幕の開くのを待っていました。河村が信次郎から今日の話を聞いたのは3ヶ月前、2年前に踊りを始めたとは聞いていたのだが、こんなに早く舞台に立つとは度胸があるとしかいいようがないのです。
 信次郎が彼の趣味である歌舞伎見物の師匠として河村に私淑を始めたのは高校を卒業した年、幼少の頃銀座に住まっていた河村が芝居好きの母に連れられて、近所の芝居小屋に通うように歌舞伎座を訪れ、その後も歌舞伎大好きの人生を送ってきたからその知識の豊富なことは当然のことなのです。そんな彼にして思えば今日の演目である「雨の五郎」は本来初心者の演じるもので歌舞伎ではほとんど演じません。ところが来月の歌舞伎座で吉衛門がやるというのですからちょっと驚きなのですが、せめて今月にでもやってくれていれば信次郎の舞台に多少でも参考になったと思うと残念でならないのです。そうは言っても叶わないものは仕方がないし、長年歌舞伎を観てきて芝居心だけはあるからなんとか形だけは作れるだろうと不安を押さえ込んでいたのです。
                            …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [77]

春爛漫(続きの1)

 足元のかすかな灯りだけが頼りの暗闇が続いています。慣れた足取りの若い衆の後にただ付いてゆくだけで、何処をどう歩いているのか見当もつきません。
とんでもない長さの時間が流れているようだが、そうでもないような気持ちの中に漂っていると
「階段を上りますよ」
先を行く若い衆の声に川嶋信次郎は「いよいよだな」と腹を据えて階段の上りにとりかかりました。若い衆は信次郎がこれから飛び込もうとしている舞台の後見を任されている男で、出番前のぞくぞくする緊張感を楽しみながら舞台の袖から「長唄菖蒲浴衣」の踊りに見入っていた信次郎を幕が降りるとすぐに奈落を通って鳥屋(とや、花道の出口)へ案内してきたのです。
 階段を上りきると真っ暗な空間に突然電気が点いて、目眩ましにあったように白い光芒が走り、目が慣れてきたとみるまに怪しの姿が目の前に浮かびます。
一瞬立ちすくんだ信次郎の顔に微苦笑が広がります
「俺だ、助六姿の俺じゃないか、鏡に映っている自分だよ、己が姿に驚くがまの油じゃないんだから、それにしても我ながらいい形をしている」
自分の姿に満足しながらなんだか緊張の糸が解けたような気がしたけれど、すぐに気を入れなおして揚幕の前に立つと、後見が下駄を履かせてくれます。
「下駄が無きゃ気が楽なんだけど、とにかく滑るのが怖いよね」
「下駄を履かない助六なんて様になりませんよ」
「それに見得を切ったときのカッという下駄の音が無きゃ助六をやる価値が無いからね、これが楽しみでやるんだからな」
「はい、傘ですよ、がんばってください」
 蛇の目の傘を受け取りながら信次郎が場内の様子を耳で追っていると、浅草公会堂の場内には五十人を越す彼の仲間達を含めて一階557席の三分の二程度は埋まるという盛況で、注目の「長唄助六」の開演を待つ期待感がひしひしと感じられます。
「男の人の踊るのは久しぶりよね」
「そうなのよ、素人で踊りをやってる男の人って少なくなっちゃったのよね」
「珍しいからって案外評判になってるのよ」
「しかも助六だからね、楽しみだわ」
場内の案内放送が始まります「長唄助六、立ち方 川嶋信次郎」
拍子木の冴えた音が響くとゆっくりと幕が上がって舞台は桜が満開の吉原、 「お~っ」というどよめきが広い場内に潮のように広がってゆきました。
      …続く                    溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [76]

迷い路(続きの15)

「そんなのがよく残ってたね」
「日記だけじゃなくて生い立ちから経歴を簡単に書いたものとかあってね、それを読んでみたら、昔お爺ちゃんに聞いた話ばかりなのよ」
「それはおかしいんじゃない、お爺ちゃんは君が物心付く前に亡くなったんだろ」
「それはそうだけど、確かに知っている話が多いのよ、間違いなくお爺ちゃんに聞いたことがあるのよね」
「誰か他の人に聞いたんじゃないの」
「そんなことはないわよ、確かにお爺ちゃんよ、でも変ねえ、その時のお爺ちゃんには髭が無かったみたい」
「髭の無い巳之助さんなんて想像できないな」
なおも不思議がる妻を笑いで包み込むと集落の最奥部に誘います。
「この上の景色がいいんだ」
右手の石段を登ると子安観音堂に着きます、そこからは茅葺の44軒の集落が一望の下に見渡せるのです。
「素晴らしいわね、もう少し早く来ればよかった、あらライトアップが始まるのかしら」
突然のことでした、450メートルに渡って連なる茅葺屋根の稜線に赤、黄、青、三色の光が点滅を始めたのです。光は渦となって集落を被います、慌てて妻の手を取ると一気に石段を走り降りました。そして光の渦が駐車場めがけて息を弾ませる二人を飲み込んだとみえた時、二人の姿は消えていたのです。

三日後の東京です。宮内庁三の丸の尚蔵館での特別展示「大正期皇室御慶事の品々」、たまたま通りかかったのが縁で引き込まれるように入館した夫婦は、展示されている「東京名勝図衝立」の前に立ち尽くしていました。
この衝立は大正天皇の即位を祝って、東京市の依頼で東京美術学校が製作したもので、中央に当時の東京市の地図が描かれているのですが、これを描いたのが祖父だったのです。そしてその周囲には江戸橋区や芝区など当時の15の区の名所を江戸橋区なら魚河岸、芝区なら芝の浜などを描いた後に当時の名工達が布目象嵌、彫金、螺鈿などそれぞれの技法を駆使して作り上げた扇面が散らされていて、いつの間にか百年前の東京に吸い込まれてゆくようです。
「よく来てくれたな」地図の右隅に書かれた「作図今村巳之助」の小さな文字が控えめにほほえんでいました。    終わり
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [75]

迷い路(続きの14)

「2009年が昭和84年って何の話なの」
「いやいや、昭和の御世が続いていれば今年は昭和84年だってこと、別に意味はないんだ」
「なんだか変なことばっかり言ってるわよね」
 この時間になると大内宿は人影もまばらです。冬にはライトアップされて雪景色の中に幻想的な光景が浮かび上がるのだそうですがこの時期にはライトアップは無いのでしょう
「紅葉の季節にもライトアップするそうよ、残念だわね」
「明かりで照らせばいいってもんじゃないからね、これは又これでいいんじゃないの」
「それもそうだわね、省エネにもなるし、自然のままがいいわよ」
人影もまばらになった大内宿は江戸時代の宿場の雰囲気をそのままに静かな佇まいをみせています。
「なんだか江戸時代に来てしまったみたいね」
「変なこというなよ、もうたくさんだ」
この人は何を言ってるんだろうと言いたそうな妻の視線を無視して宿場の往還を進みます。左右のみやげ物の店をひやかしながら金太郎蕎麦の山本屋の店先まで来るとお腹の虫が少し動きます
「お腹が空いたわね」
「蕎麦を食べちゃうとせっかくの宿の食事がなあ」
「お饅頭なんかどう」
「名物のじゅうねんあんぱんはどうだい」
「十年あんぱんってどんなあんぱんなの」
「十年じゃなくて十念、この辺の言葉で荏胡麻、えごまの事だよ」
「荏胡麻入りのあんぱんなの、おいしそうね」
縁台に腰をかけると二人でじゅうねんあんぱんを味わい始めました。暮色は増してきます。
「代々木の家を整理していたらお爺ちゃんの日記が出てきたのよ」
彼女の空腹に多少でもストップがかかると口のほうが忙しくなってきます、母が亡くなってかなり経ったのですがようやく家の中を整理する気になって、昨日は確か実家で作業をしていたはずです。そこで爺さんの関連書類を見つけたのでしょう。かなり興味のあるもらしいのです。
                       …続く
                             溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [74]

迷い路(続きの13)

 今日の出来事を振り返りながら何気なくポケットの財布を探ります。先ずは落ち着いて「今」を確認しなければ、と車を路肩に停めて財布の中身を確かめると一万円札と千円札がはいっています。千円札はと見れば野口英世なので現在が2004年以降であることには間違いありません。それでもまだ2009年が確認できていません。さあどうしようと頭を整理しているうちに急におかしくなってきて笑ってしまいます。携帯があるじゃないですか、すっかり忘れていました、万能の利器携帯です。カレンダーの示した2009年を見詰めながら安堵のため息をひとつ、ゆっくりとサイドブレーキをオフにしたのです。
 なんとも不思議な一日でした、何故ともなく大内宿へのルートから離れて会津の狸穴に導かれ昭和28年、31年、23年と幼い頃の女房を連れたまま時空の歪みを抜けてさ迷い歩いたのです。
「よくぞここまで戻って来れた、これも未来の奥方がスピードメーターの針が止まったことに気付いてくれたからなんだ」
時空のトンネルの中で、ある時代への分岐点はスピードメーターの針が昭和の年号で示してくれました。これに気付かなかったら羅針盤を持たずに航海をしているようなもので、行き着く先は運任せになってしまいます。事実昭和23年のつもりで飛び込んだ先が31年だったのもわずかな記憶に頼った勘だけの無茶な行動が原因だったのです。もっともその時点では他に方法はありませんでしたがね。それからもうひとつの賭けは今の時代への突入でした、来るときは真っ直ぐだったから帰りも真っ直ぐでいいだろうと思っていたのですが、それまでの経験からみればそうもいかないらしい、その年号で針が止まることを確認しないとどの時代にいってしまうか分かりません。昭和はその年号で止まることが分かっていたのですが、平成21年はどうなるのか、かなり迷いましたね、でも基本に帰って考えてみれば単純な話だったのです。
「それにしてもおかしな事ってあるもんだな」
何気なくつぶやいたその時でした
「おかしな事って、何がおかしいの」
助手席から聞こえてきたのは40年以上聞き慣れた奥方の声なのです
「あれ、いつからそこに居るの」
「朝から乗ってるじゃないの、あなたどうしたのよ」
「そうかい、ますます分からなくなってきたよ」
「あなたおかしいんじゃない、さっきも山の中の曲がり道でスピードを出したりして、怖かったわよ」
「ああ84キロか、2009年は昭和84年だからな」   …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [73]

迷い路(続きの12)

 助手席に散らばった白紙の札に薄っすらと現れた聖徳太子は薄れたり現れたりを繰り返します。時空の歪みが元に戻り始めたのかもしれないのです。これを最後のチャンスとして走り出したダットサンDBは最後の飯倉交差点に向かってアクセルを踏み込みます。赤の信号が三色の一斉点滅に変わりました。
「さよなら昭和23年、楽しかったよ」多少の未練を残しながら2009年へ繋がるトンネルへ飛び込んだ車は薄暗闇を走ります、エンジン音が急に変わりました、ダットサンDBからシルフイーに変わったのかもしれません。
 車は快調に走り続けます、車内空間が広がってダッシュボードの景色も一変したのを見ればシルフイーに変わったのでしょう。あとは真っ直ぐ突っ走るしかアイディアがありません、来たときの感覚を信じるしかないのです。スピードメーターは振れては止まり振れては止まりを繰り返しています。
「案外どんな時代にも行けるのかもしれない、ちょっと寄ってみようか」
喉元過ぎればで頭をもたげてきた好奇心を押さえつけているうちにスピードメーターの針が今までになく激しく振れると84キロの目盛りでピタリと止まったのです。
「よし、ここだ、間違いない」計算どおりのスピード目盛りに自信をもってアクセルを踏み込むとシルフイーは一気に2009年6月4日の会津の狸穴に飛び出したのです。
 あたりはすでに薄暮の影が色濃くなっています。緊張の糸が切れてどっと押し寄せてくる疲れを感じながらも大内宿に向かう道を走ります。
「みんなでワイワイ言いながら下谷の山崎町を出まして、上野の山下にやってまいりまして、三枚橋を渡って上野広小路へ出てまいりました。あれから御成街道をまっすぐに参りまして、そのころ堀様と鳥居様のお屋敷の前をまっすぐに….」はっと気がついてあたりを見回します、落語「黄金餅」の道中付けを無意識のうちに、語り始めていたのです。
「危ない、危ない、このまま日本橋から新橋へと続けたら麻布絶口釜無村の木蓮寺に連れ込まれてしまう」
 それにしても不思議な経験でした、満タンのガソリンもかなり減っているところを見れば走り続けていた事に違いありません。まさかこんな長時間の夢を見ながら走っていたとは考えられないからやっぱり現実の事なのでしょう。
車は「右 大内宿」の標識のある三叉路を標識どおりに進みます。
「ここで道を間違えたのか、間違えるような所じゃないんだけど、何か得体の知れないものに引きずり込まれたとしか考えようが無いな」
車は大内宿に向かいます。              …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [72]

迷い路(続きの11)

 改めて財布の中を確かめると間違いなく白紙の紙片しか入っていません。念のために小銭入れを見るとコインが全て消えていました。
何かが起こっているのだ、早く2009年に帰れというメッセージかもしれない、意を決すると飯倉の交差点を目指してアクセルを踏み込んだのです。
 上野広小路を出て神田須田町、日本橋から京橋、尾張町、現在の銀座四丁目、から新橋に出て土橋を右に曲がって愛宕下から神谷町に出るとすぐに飯倉の交差点、ここから逆に走らなければならないからUターンするために飯倉片町を左に折れて麻布十番、ここまで来てハッと気がついたのです。
「黄金餅だ」
古今亭志ん生の十八番「黄金餅」は病で死んだ坊主の西念を棺桶にいれて貧乏長屋の連中がワイワイ言いながら寺まで運ぶのですが、この道筋が上野広小路から先は今走ってきたルートと全く同じなのです。一本松まで来た時でした、背筋に寒いものが走ります。
「このまま走ったら麻布絶口釜無村の木蓮寺に行ってしまう、お寺に入ってしまったらその後は焼き場しかない」
引き寄せられる恐ろしい力を振り払ってハンドルを切ると飯倉片町から飯倉の交差点に向かったのです。
 これが最後になるはずの交差点突入を前に突然の恐怖から逃れた私はようやく落ち着いていました。突入も何回目かになると手馴れた感じで何の不安も無いのです。ところが事態は一変します。車は一気に飯倉の交差点に突入して薄暗いトンネルに入り、後は真っ直ぐに走るだけ、と気楽な運転をしていたのですがそうは問屋が卸さなかったのです。車は交差点を通過したままトンネルに入らず街中を走っています。そういえば信号の光の渦も起きなかったし、今までに感じていた緊張感も全くありません。時空の歪みへの突入に失敗した車は赤羽橋に向っています、この道は桜田通りですから飯倉の交差点で無意識のうちに右に曲がったのでしょう。頭の中が空白になったまま走り続けていると車は私の意志に関係なく赤羽橋を右に曲がります。
「時空の歪みが変わったのかもしれない、帰れなくなる」引き続いての新たな恐怖感が突き上げてきました。とにかく落ち着かなければいけないと赤羽橋から古川沿いに少し走った中の橋で車を停めて、頭を整理しようとしばし目頭を押さえた後でした、何気なく助手席に散らばった白紙の札に薄っすらとではありますが聖徳太子らしき姿が現れたのです。   …続く
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [71]

迷い路(続きの10)

 熱心に聞き入る彼女に引きずられるように彼女の祖父巳之助の生い立ちや足跡など私の知る限りを語り続けました。気がつくと日は西に傾き始めています。
「いよいよお別れだね、元気でね」
彼女はゆっくりと車を降りてからちょっとだけ微笑むとはじかれたように走り出しました、そして路地の前まで来ると突然立ち止まり、ぺこりと頭を下げたと見る間に路地の奥に消えていったのでした。
「今度こそ18年後に会いましょうだね、元気でいてくれないと困るからね」
先ほど買い求めた新聞の日付をもう一度確かめると、ひとつ息をついた後エンジンボタンを押してからゆっくりとサイドブレーキをオフにしたのです。
 懸案の一件が片付いたことで後は私が元の時代に帰り着けばいいのですから気掛かりはありません。これからいったん昭和28年に戻ってからトンネルを真っ直ぐに走り続ければ2009年の会津にたどり着くはずです。
「28年に戻るんならせっかくだから寄席を覗いて見るか、懐かしい名人達に会えるかもしれない」
何回目かのトンネル入りですから気楽なもので、すいすいと昭和28年の狸穴に飛び込みます。とりあえず飯倉片町から麻布十番に向かうと公衆電話を探しました。
「ああ、末広ですか、今日の出演者は誰です」
「主任が柳橋で今輔、円馬、圓遊、…」
「わかりました、ありがとう」そうか人形町末広は芸術協会の方か、落語には古典落語の落語協会と主として新作落語を演じる芸術協会とがあって交互に寄席を回っているのです。
「鈴本さんですか、今日の出演者は誰です」
「主任が文楽であとは柳枝、小さん、圓生…」
「ありがとう、あとで行きます」
寄席文字で書かれた文楽、柳枝などを眼で追いながらチケット売り場に千円札を差し出すと心はすでに寄席の中に座っています。
「お客さん、冗談はよしてくださいな」
突き返された千円札を見て驚きました、ただの紙切れに変わっているのです。
あわてて財布の中を覗くとそこにあるのは白紙だけ、聖徳太子の千円札も板垣退助の百円札もただの白い紙切れになって納まっています。逃げるように鈴本を離れるとチケット売りのおばさんの疑惑の眼を背中に感じながら足元をふらつかせて車に戻ったのです。     …続く
                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [70]

迷い路(続きの9)

 昭和23年に行き着くためにはひとまず28年に戻って、改めて23年に向かうことが確実な方法でしょう、他にも近道はあるのかもしれないけれど危険は避けねばなりません、迷路に迷い込むわけにはゆかないのです。再び飯倉交差点の光の渦に飛び込んだダットサン110は薄暗いトンネルを進みます。ここまでは二回目の経験なので手馴れた感じで進んできたのですがこれからが正念場なのです。スピードメーターの針が28キロの表示で止まった瞬間に左折すれば昭和28年に突入できる、そんな仮説が正しいのか、もしもそれが正しくなければ手の打ちようがありません。そうなれば私の子孫達は存在さえしなくなるのです。そんな恐ろしいことを現実のものにさせてたまるものか、何が何でも仮説を実証しなければ、時速50キロの地点でピタリと止まっていたスピードメーターの針が揺れ動き始めました。全神経がスピードメーターの28キロ表示に集中されます、一際大きく揺れ動いた針が28キロでぴたりと止まったその一瞬、大きく左に切ったハンドルに導かれた車は滑るようにトンネルを抜けるとソ連大使館前を走り抜けます。今度は飯倉片町を左に折れて一の橋から麻布十番の商店街に入って新聞を買うと日付は昭和28年6月4日、車は再び飯倉に戻ります。
「よかった、仮説は間違ってなかった、もう大丈夫だよ、もうすぐだからね」
これはもう三回目ですから手馴れた感じで飯倉交差点に突入するとあとはスピードメーターが23キロを示した瞬間にハンドルを右に切り、飛び出した外苑東通りを真っ直ぐに、先ほどと同じルートを辿って代々木駅に着いたのです。
今度こそ間違いなく昭和23年なんだろうけど確認のために駅の売店で新聞を買います。「NHKテレビジョン公開実験開始」の記事を素通りして一番上の細かい字をさがすとそこには昭和23年6月4日木曜日の活字が輝いています。
「やっとたどり着いた、よかった、もう大丈夫だ」
彼女がこのまま家に帰ればもう何も問題はありません。その後の家族に影響する何の心配も無くなりました。家に帰す前に何か一言いいたいんだけど余計なことは言えないので、思いついたのは爺さんの事なのです。
「あそこの路地を入ったところに今村巳之助さんという人がいたんだけど知らないかな」
「おじいちゃん、髭が生えてる」
「おや、君のお爺ちゃんなのか、僕は測量や地図の事を教えてもらったんだよ、立派な人だったよ、地図を書くのが上手くてね、朝鮮や台湾にも行ったんだよ」
彼女の祖父巳之助の話に彼女は眼を輝かして聞き入っていました。
           …続く             溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [69]

迷い路(続きの8)

 事の成り行きをみると今までは少し楽天的に考えすぎていたきらいがあります。ここはひとつ基本から組み立てなおさないと元に戻れないかもしれない、その為には幼い彼女にも参加してもらわなければならないと初めて気付いたのです。
「お嬢ちゃんにはよくわからないだろうけれど、僕たちは今お嬢ちゃんの未来の時代にいるんだよ、だから元の時代に戻らなきゃならないんだ。大事なことだから教えてもらいたいんだけど何歳なの?」
「5歳」
「5歳か、それなら今年は昭和23年だな」
「そう、今年は昭和23年よ」
「えらいね、よく知っているね」
それがわかればその年を狙ってどう行くかなんですがそれが問題なんです。
「スピードメーターの針が振動した時が昭和23年の入り口かと思ったんだけど31年に来ちゃった、どこで間違ったんだろう、何か別の動きがあるのかもしれないなぁ」
「針が…」
「針がどうしたの」
「針が止まったの」
「何処で止まったの」
「下のほうで」
50キロを指していた針が下のほうで止まったとすれば、もしかして年号で止まった、昭和31年だから31の目盛りで止まったのかもしれない。
「よく見ていてくれた、ありがとう、23の目盛りの場所では23年に繋がるかもしれない」
飯倉の交差点から光の渦に飛び込んだとき、彼女は運転席の背にしがみついていました。この時代にはむち打ち症などまだ問題になっていない時代ですから背もたれも低いのです。そのお陰で小さい子でもしがみついた背越しにスピードメーターが見えたのでしょう、それにしてもよく観察してくれました。
「どうなるかわからないけれどこれしか思いつかないからやってみよう、運を天に任せるしかしょうがないね」
ダットサン110は明治神宮から抜け出してもと来た道を戻ります。六本木に出るとあとは真っ直ぐに飯倉の交差点に飛び込めば、今度こそはの願いを込めてアクセルを踏み込んだのでした。              …続く
                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [68]

迷い路(続きの7)

 その男の顔を見た瞬間でした、首から上が真っ白になったままその男をすり抜けて走り出しました。我を忘れていました、とにかく走りました、彼女が消えた路地に一気に飛び込みました。
「待ってくれ、ちょっと待って」思わず出そうになった彼女の名前を飲み込んで叫んでいました。
自宅の裏木戸を開けようとしていた彼女が私のただならぬ気配に立ちすくんでいます。
「ごめんね、車に戻ってくれる、お願いだから」
呼吸を荒げながらの懇請に何かを感じたのでしょうか、彼女は自宅の裏木戸に未練を残しながらも私に従ってくれたのでした。
こうなるとゆっくり歩いてなどいられません、彼女を抱きかかえるようにして車に戻ります。裏木戸を開けて飛び出してきた彼女の妹達の視線を背中に浴びながら、妹達は小学校も高学年になっていました。
「あれ、この車はダットサン110型じゃあないか、昭和23年にあるわけないじゃないか、なんで気付かなかったんだ」
そうなんです、ダットサン110型は昭和31年に発売された車で私が免許を取る時に三田自動車教習所で乗った車だからよく知っています。34年にブルーバードが出るまでは主流の車だったのです。
それにしてもよくも出会ったものです、あの男、彼女を見送った後に出会ったあの男、私を恐怖のどん底に叩き落したあの男は53年前の私なのです。
若い頃の私が代々木駅周辺に姿を見せるとすれば正月の明治神宮参拝を別にすれば昭和31年の4月から9月まで代々木ゼミナールの澤田先生の日本史講義の時しかないのです。だから今は昭和31年、彼女は中学生でなければならないのです。よくぞこの時に現れてくれたと感謝するしかありません、無意識のうちに自己保存の装置が起動したのにちがいありません。
 とりあえずダットサン110型に戻った二人は、明治神宮の木立の中に場所を移します。今までの行動を振り返ってみるとかなりアバウトに行動していたようです。改めて正確なデータを集めてからもう一度出直しをしなければなりません、肝心なことを忘れていました、彼女自身の事です。今まではしゃべらない子だからと言うことであえて質問もしなかったけれど彼女は理を尽くして話をすればわかってくれる人だから、事情を説明すれば幼なくても話に乗ってくれるはずです、ここから解決の糸を紡ぎ出すことが出来そうな気がしたのです。
                           …続く
                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [67]

迷い路(続きの6)

光の渦を通り過ぎると薄暗いトンネルの中、来た時と同じように前方はかなりの見通しなのですがそんな事を感じている余裕など全くありません。しっかりとハンドルを握り締めた両手が張り付いたようにはがれない、上半身は石膏のように固まっています、無理やりに左手をはがすとギアをトップに入れてようやく一息です。しかしこんな事で安心してはいられません、次の操作が問題なのです。前方を見るなどという余裕はありません、全神経はスピードメーターの動きに集中しています。  
スピードメーターの針は時速50キロの目盛りを指したままピクリとも動きません、トンネルの白い壁が迫っては左右に分かれ、後ろへと飛んでゆきます。とてつもなく長い時間が過ぎてゆきます、実際には何分、いや何十秒だったのかもしれません、突然スピードメーターの針が激しく揺れ動きはじめました。
ためらうことなく右に切ったハンドルに乗って別のルートに入り込んだ車は少しの間トンネルの中を走った後、出口が見えたと思った瞬間一気に飛び出すと飯倉の交差点を横切りソ連大使館の前を通過します。
よし、うまくいった、後は送り届けるだけだ
「もう少しでおうちに帰れるからね、もうすぐだよ」
なんとなく軽快になったエンジン音を響かせて車は外苑東通りを真っ直ぐに、六本木から青山一丁目に出て外苑前から代々木方面に向かいます。
 代々木駅から少しだけ離れた路上に停めた車から降りると彼女の顔が明るく輝き始めます。
「ここからなら帰れるだろ」
「うん」
「みんなが心配してるから早く帰りなさいね」
「ありがとう」
「おや、初めてしゃべってくれたね、ありがとう、また会おうね」
女の子、いや未来の女房殿はぺこりと頭を下げると彼女の家の方角に向かってゆっくりと歩きだしました。
安堵の気持ちから肩の力がスーッと消えてゆくのを感じながら彼女を見送っていると、ゆっくりと歩いていた彼女が突然振り返ってにっこりと笑うと路地に消えてゆきました。
「元気でね、18年後にまた会おうね」そっとつぶやきながら車に戻ろうとして踵を返したその時でした、すれ違った若い男の顔が私を恐怖のどん底に突き落としてくれたのです。       …続く
                             溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [66]

迷い路(続きの5)

 脊髄に発した衝撃は脳天を貫いて私の全身に広がります。こんな事があっていいのでしょうか、この子が我が女房だとすれば昭和28年には彼女は10歳のはず、目の前に居る女の子はどう見ても未就学児、たぶん5歳くらい。このまま家に帰ると年上の妹が姉になって自然に納まってしまうかもしれないけれど私と出会う13年後にはまだ18歳です。29歳の私と結ばれることは絶対に無い、そうするとどうなる、三人の子供たちは存在しない、もちろん孫達もこの世に生まれ出ることは無い。そんな事は絶対に阻止しなければならない、すぐに元の時代に連れ戻さなければ。それにしても何故彼女はこの時代に居るのだろうか、どうやってこの時代にやってきたのか、前頭葉がフル回転を始めました。女の子、いや未来の我が女房殿は心細げに見詰めています。
 彼女はこの車の中に居ました、そして彼女もまた何故この車の中に居るのか理解できない風情でした。たぶん彼女は何処かでこの車に飛び込んできた、何処で飛び込んできたのか、そういえばトンネルの中で軽い衝撃を受けたけれどあの時かもしれない。そういえばあの時スピードメーターの針が異常な動きをしていた、そこが時空の繋がっているところかもしれない、なんとなく道筋が見えてきました。しかし道筋が見えたと言っても単なる思いつきです、もう少し慎重に考えて見たほうがいいとは思うのですが、そこからは一歩も進めません。誰かに事情を話して相談したいのですが幼児では話にならないでしょう。
「60年後の君なら相談出来るんだけどな」ため息とともにこの道筋に沿っての決行しかありません。それじゃあその針が異常になる地点でどうすればいい、衝撃は左から受けたようだ、それならこちらから行けばその地点で右に曲がればいいのか。
確証は全く無いのですがこれ以外に方法はありません、とにかく今日の日暮れ前に家に帰さないと母たちはすでに心配して捜しているだろうし、捜査願いなど出されても面倒なことになるから急がなければなりません。
 ダットサンDBは再び逆の道を走り出しました。麻布十番を左に見て一の橋から外苑東通りに出て飯倉片町を右に曲がるとすぐに飯倉の交差点です。何が起こるかわからないけれどとにかくびびらないで突っ切るより仕方が無いと言い聞かせながらアクセルを踏み続けます。交差点が目の前に近づきながら信号が赤に変わるのを確認してゆっくりとブレーキをかけようとした瞬間でした、全ての信号の青、黄、赤が一斉に点滅し始めたのです。導かれるようにギアをサードに落としてアクセルを踏み込むとダットサンDBは点滅する光の渦に飛び込んでゆきました。         …続く
                            溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [65]

迷い路(続きの4)

 ダットサンの後部座席に座っているのは小さな女の子でした。
「君は誰なの?おじさんは出かけなきゃならないから降りてちょうだいね」
女の子はちょっと困ったような顔をしながら動く気配をみせません。
「降りてくれないとおじさんも困るんだけどな」と言いながらドアを開けようとしたのですが開かないのです。
「そうかロックされてたんだ、でもどうやって入ったんだ」
女の子は「私もわからない」と言うような顔をして座ったまま降りようともせずに私を見詰めています。
「こんな女の子はこの近所には居なかった、それに彼女は何故ここに居るのか自分でもわからないらしい」
 考えてみればおかしな事ばかりです。今の状況が夢でないとすれば会津の狸穴と麻布の狸穴、同じマミアナ同士が時空の歪みかなんかで繋がっていて2009年の会津狸穴から1953年の麻布狸穴に飛び込んでしまったらしいのです。
「問題はどうしたら元に戻れるかだけれど、来れたんだから帰るルートは必ずあるはずだし、どうせ旅の途中だからしばらく過去の世界で遊んでみるのもいいかもしれない。ただ過去を変えてはいけないそうだから恋が出来ないのが残念だけど」
そんなのんきな事を言ってていいのかと思うのですが、この時はまだ私も重大な危機に陥っている事に気付いてはいなかったのです。
 車を残したまま女の子を連れて三田通りに出ると少し早めの昼食を食べての帰り道、聖坂の下にある村上電気の向かい側にアイスキャンデー屋があります。
「時期的にまだやってないのかな、6月も半ばを過ぎないとアイスキャンデーは作らないのかもしれない。ここには同年の可愛い子がいて休みの日には店番もしていたけれど、今日はまだ学校だな」ちょっと覗いてみながらの苦笑いです。女の子は一言もしゃべらずについてきます。
 一言もしゃべらない女の子の手を引きながら妙なことに気付き始めていました、この子とは何処かで会ったような気がしてならないのです。ダットサンに戻って後部座席に座った彼女を改めて眺めながら何処かで見た写真を必死に思い出そうとしていると何ともいえぬ懐かしさが沸いてきます。
「この子の小さい頃にはしゃべれないんじゃないかと思いましたよ、とにかく無口な子でした」親戚のおばさんの言葉が飛び込んできます。
前頭葉が暴走を始めました「我が女房? まさかそんなことが」   …続く                  
                             溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [64]

迷い路(続きの3)

 何がなんだかわけもわからず、興奮状態のまま伊皿子の交差点を左に折れて御田小学校の前をゆっくりと走りながら亀塚古墳の隣にある斎海寺、幕末にはフランス公使館が置かれたという古刹ですが、この寺の向かいに車を止めるとすこしづつ落ち着きを取り戻したのです。
 周りを見るとかなり昔の雰囲気が漂っていて車の中から眺めていると小津安二郎の映画にこんなシーンがあったような気になってきます。夢ならいいんだけど、それにしてははっきりしすぎている、どうも現実におこっている事らしい。とにかく現状を知らなくてはならないからと車から出て目の前の煙草屋に向かいながら、ハッと気がついてポケットから取り出した財布を確かめました。
キャッシュカードはもとより何枚もあったポイントカードは全て姿を消しています。お金はと覗いてみると5枚あつた1万円札は千円に、千円札は百円札に変わっているのです。小銭入れの百円硬貨は十円に、五百円硬貨はご丁寧にも5枚の十円に変身です。
「小説や話には聞いたこともあるけれど、本当にこんな事もあるんだ」
山口煙草店の店先には記憶通りのおばさんが座っています、おばさんの様子から見ると昭和も30年頃でしょうか。水が飲みたいと思ったのですが店先にはありません、水をお金を出して買うようになったのはいつ頃からだったのかな、などと思いをめぐらせながらラムネを開けてもらいます。
「すみませんが今日の新聞をちょっとだけみせてもらえませんか、一面に見たい記事があるんで」
おばさんの差し出す新聞に恐る恐る眼を通すと飛び込んできたのは「大相撲のテレビジョン放送いよいよ放送開始」の記事、そしてこの日の日付はと緊張の度を高めながら眼鏡をはずして細かい字を追いました。細い字ははっきりとその日を伝えてくれます。昭和28年6月4日木曜日、この時私は中学生のはずなのです。私の置かれた状況がなんとなくわかったような気がします。
「ちょっと覗いてみようかな」
煙草屋の横を入った所にある私の家のほうへ一歩踏み出して立ち止まりました。
「36歳の母を見たいけどな、往来に面した家じゃないから通り過ぎるわけにもいかない、怪しまれるのがオチだからやめとこう」
未練を残しながら車に戻るとシルフィーはダットサンのDB型に変わっています。「変わらないのは私だけか、少しだけでも若くなってくれればありがたいのに」と勝手なことを独語しながら車に乗り込もうとした瞬間、後部座席に座り込んだ小さな人影に気付いたのです。  …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [63]

迷い路(続きの2)

 トンネルの中は薄暗いのですが、その割にはかなり先まで見通せます。とにかくトンネルを出ないことには引き返すことも出来ません。ガタンと何かがぶつかったような軽い衝撃を車の後部に感じながらトンネルを走り続けていると突然目の前が開けました。
「うむ、なんだこれは」
トンネルの向こうに突然現れたのは会津の山中では考えられないような大都会なのです。
「なに?ソ連大使館?」
たった今通り過ぎた大きな建物の入り口には確かに「ソ連大使館」と書かれていました。
「ソ連大使館と言えば麻布の狸穴にしか無いじゃないか、東京にしか無いものがどうしてこんなところにあるんだ、それにソ連なんて国は19年前に無くなったはずだぞ」
何がなんだかわからないうちに信号が赤に変わって、慌ててブレーキをかけるとガタガタという音を残してエンジンが止まりました。
「エンストか? なんでだ、 確かにオートマ車だったのに、いつからマニュアル車に変わったんだ、それにこのチェンジレバーはなんだ、昔の車みたいじゃじゃないか」
会津日産レンタカーで借りたシルフィーは確かにマニュアル車でした、それが私の記憶でもかなり古い時代のマニュアル車に変わっているのです。赤信号で止まったまま周りを見渡すと何故か古い世界に引き込まれてゆくような気分になるのですが、それがまた心地よいのが不思議です。
ここは何処だ、信号の脇の表示は飯倉片町、信号が変わりました、瞬きの時間に鋭く回転した前頭葉が指令を出します、左へ曲がれば見慣れた場所に出るかもしれない、指令に素直にしたがってハンドルを左に切ります、そのまま走ればすぐに一の橋、麻布十番です。
「ここだ、一の橋だ、でも首都高速道が無い」
古川がのんびりと流れている川筋に沿って二の橋、三の橋と続きます。古川橋まで来た時にはなんとなく事情がわかったような気持ちになりかかっていて、右へ行けば広尾への二股道を左にとって魚藍坂下から坂を登り、まっすぐ進むと泉岳寺に向かう道なのですが坂を登りきった所の伊皿子交差点を左へ折れて角の風呂屋を確認すると何故か胸が高鳴ってきたのです。
「子供の頃のままだ、いったい何が起こったのだ」   …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [62]

迷い路(続きの1)

 会津若松から芦ノ牧温泉に向かう118号線を会津日産レンタカーで借り受けたシルフィーは快適に走っています。最近はめったにすることも無くなった一人旅は昨日の会津若松泊りから今日は大内宿をのんびりと見て、その後は大内宿から10分程の所にある湯野上温泉に草鞋を脱いで阿野川上流の渓谷美を堪能しようという魂胆なのです。これからこの118号線をもう少し行くと右手に折れてそこから間もなく大内宿、若葉が萌えて抜けるような青空が広がっていました。
大内宿は日光今市から会津若松に通じる旧会津街道南山通りに沿った山間の平地にあって、全長約450メートルの往還に沿って道の両側に妻を向けた寄棟造で茅葺の民家群が並んでいます。江戸時代の宿場の雰囲気を良く残していることから人気のスポットになっていて、私も二年前に訪れてからお気に入りの場所になっているのでした。
118号線から大内宿方面に折れた道はこの時期にしては混雑も無く、気持ちの良い走行を続けながら何気なく昔のある出来事を思い出していました。 
「もう六十年近く前の話になるけれど小学校の卒業遠足で井の頭公園にいったよなあ、あの時一緒にボートに乗ったのは誰だっけ、朝倉 そう朝倉明くんだ、中学の話を始めると彼は家族と共に会津若松へ行くという、そんな話は初めて聞いたから驚いたよな、それから話が弾んでボートの制限時間が恨めしかった。
それが彼との最後で、いつか又会おうと約束してしばらくは手紙のやりとりも続いたけれど、いつの頃からか音信不通になったままなんだな、今でも会津若松にいるのかしら。手紙の内容も全く覚えてないから手がかりも無い、昨日気付いていれば調べようもあったかもしれないのに、それにしても何故こんな事を思い出したんだろう」
「あれ、道を間違えたか? そんなことは無いな、それにしてももう着いてもいい頃だけど」
初めての道なのですがなんとなく「違うな」という気がするのです。どうやらどこかで道を間違えたらしい、引き返したほうがいいのかなと思いながら道端の標識を注視します。
「狸穴?何だこれはタヌキアナ?それともマミアナ?そういえば大内宿の山ひとつ向こうに狸穴があったなあ、たしか会津美里町東尾岐狸穴、ここはマミアナと呼ばれる村だけど、こんな方まで来ちゃったのか」
まさかとは思いながら、なおも様子を見ながらゆっくり走るうちに日産シルフィーは突然現れたトンネルに吸い込まれてゆきました。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [61]

隠岐の島(続きの7)

 俊寛僧都の話は思いもかけず色っぽい方向に進みます。
「それじゃあ都から召使の有王がわざわざ訪ねてきた時には驚いたでしょう、迷惑だったんじゃないですか」
「そうじゃな、せっかくの愛の巣への闖入者だと思ったよ、しかし有王は忠実な召使じゃから我々のことを真剣に考えてくれた」
「一人だけ置き去りにされたんだから何も気にすることはないでしょう」
「いやいや、そんなに甘いもんじゃないぞ、平家の奴らは遠い海の果ての島にも眼を光らせているんじゃからな。有王はそれを気にかけていたんじゃがある日のこと拙僧に問うてきたんじゃ、本当に都への未練はないのかとな」
「本当に未練は無かったのですか」
「無いと言えば嘘になるが千鳥とこのまま過ごせればそれでよいと思いはじめていたのじゃよ」
「それで大芝居を打ったということですね」
「おお、なかなか飲み込みが速いな」
「飲み込みだけは速くてね、速すぎて肺のほうに飛び込んでむせたりするのが困りますがね」
「君は余計な話が多すぎる、男の多弁は自分の価値を下げるからな」
「これはどうも、ご忠告ありがたくいただきます」
「どこまで話したかな、ああ大芝居の話じゃな」
この島に一人残されたとはいってもいつまた呼び戻されるかわかりません、今更京の都に舞い戻ったとしても奥方や娘がどうなっているかも知れず、ましてや愛する千鳥を連れてゆくわけにもゆきません。そこで有王が考えたのが俊寛の存在自体をこの世から消し去ることでした。
「そこで断食じゃよ、妻や娘にこれ以上の悲哀を感じさせたくないからという理由は説得力があるとは思わなかったんじゃが、とにかく死んでしまえば哀れを誘って事実として認められると思ってその通りに事がはこんだな」
「有王に京まで遺骨を持って行かしたとはずいぶん手が込んでますね」
「誰とも知れぬ遺骨を持たせて、有王には苦労をかけたが、死んだという事実が公に認められればいいんじゃからな」
「そして千鳥さんと仲良く人生を全うしたというわけですね」
「今でも千鳥と一緒じゃよ、永遠にじゃな」
「あなたは何を言いたくて現れたんですか、のろけ話の為に現れたんですか」
俊寛は少しだけ顔を赤らめると黙ったまま霧の向こう側に消えてゆきました。
神主さんの祝詞もぼつぼつ終わりに近づいているようです。 終わり 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [60]

隠岐の島(続きの6)

密告を受けた清盛はただちに捕手を差し向けて一網打尽にし、首謀者はそれぞれに処分されました。この時俊寛は少将成経、平康頼と共に鬼界島に流されました、そして成経と康頼の二人が許された後にも俊寛一人が残されて悲惨な最期をとげたのです。その辺りの話は拙著「南の島巡り」でお話してありますので詳述は控えますが、隠岐の島の葬儀の最中に突然現れた俊寛僧都は歴史をくつがえす真相を自ら語り始めたのです
「拙僧が一人だけ島に取り残された事はご存知の通りじゃが日々の暮らし自体は案外気楽なものじゃった」
「そうですかねぇ、平家物語では、都でずいぶん乞食を見たがこんな乞食は見たことも無い、という程のひどい姿だったと書いてありますが」
「そうでも書かないと平家琵琶の音には乗りはせんからのう、島の人たちは純朴での、都から来た貴人として大事に扱われたのよ、島自体が温暖な気候で夏は暑いといっても冬の寒さが無いから辛いことなど何も無い。米が採れないといっても何も無いわけでもないし、周りは海じゃから新鮮な魚介類は豊富で贅沢を言わねば極楽みたいなところなんじゃよ」
「それじゃあ都で召し使っていた有王が訪ねてきて妻や娘の話を聞いた後に断食に入り23日目に死んだというのは何故なんです」
「死んだことにしとかないといつまでも平家の眼がうるさいからな、その上にじゃな…..ちょっと恥ずかしいことなんじゃが」
俊寛は少しばかり顔を赤らめながら話を続けます
「歌舞伎の「平家女護島」には千鳥という海女がでてくるじゃろう、あの女は成経の女房で拙僧の養女ということになっておるが実は我が女房なのじゃ」
「これはまた意外な展開ですな、まあよくありそうなことですがね」
「黙って聞きなさい、恥ずかしいじゃないか。千鳥は鄙には稀な美しい気立ての良い娘じゃったが拙僧に恋心を抱いたのじゃ。ところが仮にも僧籍にある流人が妻を娶るというわけにもゆかず、成経に頼んで彼の女房ということにして家に入れたのよ、成経はいやがっていたけどちょっとばかり貸しがあったからね、それに養女にしておけば親の面倒を見るということで世間体も保てる」
「女性の事ばかりには知恵が回るんですね、鹿谷の謀議の時にこのくらい知恵が回っていればクーデターも案外成功したかもしれませんよ」
「余計なことを言わなくてもいいんじゃ、それからいくらもたたないうちにご赦免船が来て二人が帰ってしまったから誰に遠慮も無く千鳥との愛を育んだのじゃよ」               …続く
                         溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [59]

隠岐の島(続きの5)

会社だってそうですよ、32年間同じ会社に居たと言っても合併を繰り返していた会社ですから名前などは覚えきれないぐらいに変わった上に独立して新会社を立ち上げたりしたからそれだけでも大変ですね、神主さんもしゃべり疲れるんじゃないでしょうか。神主さん泣かせといえば私が生い立ちを綴った本なども書いてますから、誰かが見つけ出して「こんなものもありますよ」などと神主さんに差し出せば、神主さんも無視するわけにもゆかないで一日がかりの祝詞になるかもしれませんね。それに反して善行となるとこちらは逆に大変でしょうね、とにかく何も無いんですから。
祝詞は続いています、半ばぼやけた前頭葉の片隅がうっすらと霧がかかったようになり、その奥に何かの影が現れたとみている間もなく霧の中から何者かの姿が現れてきました。何者だろうかと睡魔を押しのけるようにして眼をこらすと、粗末な衣ながら高貴な雰囲気を残す僧が座っています。
「拙僧は俊寛と申す者じゃが少しばかり話をさせてもらってもよろしいかな」
言われてみれば歌舞伎の「平家女護島」に出てくる俊寛僧都に似ていないことも無いのですが、何でまたここに出なきゃならないのか腑に落ちません。
「俊寛といえば鬼界島でしょう、なんでまた隠岐島に出てくるんです、隠岐島に流されたといえば後鳥羽上皇や後醍醐天皇、それに小野篁じゃないですか」
「ご不審はもっともじゃが、出雲歌舞伎のむらくも座が「俊寛」を出し物に据えてこの島に来とるんじゃよ、それでまあ昔の苦労を偲ぼうと思ってふらふらとやって来たというわけじゃ」
「それにしてもずいぶん老けてますね、確か38歳で亡くなったはずですからね、
いくら島での暮らしが大変だったといっても老けすぎじゃないですか」
「そう言われると面目ないのじゃが、本当の事をお話しましょうかのう」
「本当の事っていうと平家物語に書いてあるのは嘘なんですか」
「今日は芝居の始まるまでの暇つぶしに吾妻からやってきたというあなたに会ってみようと思って来ただけなんじゃが、拙僧のことも案外ご存知のようじゃから話してみようという気になったんじゃよ」
「そうですか、鬼界島の後日談とは面白そうですね」
「別に面白くはないけれど、真相は伝えておいたほうがいいじゃろう」
平清盛が全盛の頃、不満を持つ貴族達が鹿谷にある俊寛の山荘に集まって愚痴を言い合っていることが密告されました。後白河法皇も御幸されて平家討伐の密議が交わされたといわれますが、それほどのことではなくて単に不満分子の愚痴のいい合いが多少エスカレートしただけだったのです。 …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [58]

隠岐の島(続きの4)

会社だってそうですよ、32年間同じ会社に居たと言っても合併を繰り返していた会社ですから名前などは覚えきれないぐらいに変わった上に独立して新会社を立ち上げたりしたからそれだけでも大変ですね、神主さんもしゃべり疲れるんじゃないでしょうか。神主さん泣かせといえば私が生い立ちを綴った本なども書いてますから、誰かが見つけ出して「こんなものもありますよ」などと神主さんに差し出せば、神主さんも無視するわけにもゆかないで一日がかりの祝詞になるかもしれませんね。それに反して善行となるとこちらは逆に大変でしょうね、とにかく何も無いんですから。
祝詞は続いています、半ばぼやけた前頭葉の片隅がうっすらと霧がかかったようになり、その奥に何かの影が現れたとみている間もなく霧の中から何者かの姿が現れてきました。何者だろうかと睡魔を押しのけるようにして眼をこらすと、粗末な衣ながら高貴な雰囲気を残す僧が座っています。
「拙僧は俊寛と申す者じゃが少しばかり話をさせてもらってもよろしいかな」
言われてみれば歌舞伎の「平家女護島」に出てくる俊寛僧都に似ていないことも無いのですが、何でまたここに出なきゃならないのか腑に落ちません。
「俊寛といえば鬼界島でしょう、なんでまた隠岐島に出てくるんです、隠岐島に流されたといえば後鳥羽上皇や後醍醐天皇、それに小野篁じゃないですか」
「ご不審はもっともじゃが、出雲歌舞伎のむらくも座が「俊寛」を出し物に据えてこの島に来とるんじゃよ、それでまあ昔の苦労を偲ぼうと思ってふらふらとやって来たというわけじゃ」
「それにしてもずいぶん老けてますね、確か38歳で亡くなったはずですからね、
いくら島での暮らしが大変だったといっても老けすぎじゃないですか」
「そう言われると面目ないのじゃが、本当の事をお話しましょうかのう」
「本当の事っていうと平家物語に書いてあるのは嘘なんですか」
「今日は芝居の始まるまでの暇つぶしに吾妻からやってきたというあなたに会ってみようと思って来ただけなんじゃが、拙僧のことも案外ご存知のようじゃから話してみようという気になったんじゃよ」
「そうですか、鬼界島の後日談とは面白そうですね」
「別に面白くはないけれど、真相は伝えておいたほうがいいじゃろう」
平清盛が全盛の頃、不満を持つ貴族達が鹿谷にある俊寛の山荘に集まって愚痴を言い合っていることが密告されました。後白河法皇も御幸されて平家討伐の密議が交わされたといわれますが、それほどのことではなくて単に不満分子の愚痴のいい合いが多少エスカレートしただけだったのです。 …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [57]

隠岐の島(続きの3)

 隠岐を訪れる何年か前の暮れでした、北陸の蟹を食べたいという私のわがままを聞いてくれた友に指示されるまま小松空港に降り立つと、出迎えてくれた友の案内で空港から近い港を訪ねました。 
案内されたのは歴史を感じさせる料理屋、朝からのどんよりとした空から小雪が舞い始めています。通された離れに腰を落ち着けると若布を干したものが出てきます。なんでこんなものがと思いながら口の中でぱりぱりと折りたたんでいくと、これがまたなんともビールに合うのです。これだけでもう嬉しくなってきたところに刺身が出て、それから鰤の照り焼きとなればもう北陸の雰囲気にどっぷりです。頃を見計らってのご登場は香箱蟹、めすのズワイガニです。冬の赤い宝石箱といわれる初見参のこの蟹は小ぶりですが蓋を開けるとみそを押しのけるように子が詰まり、きらきらと輝いています。11月から始まった漁も年が明けると7日から禁漁だというからいい時期に招いてくれたことを感謝です。
ズワイガニの雌の甲羅は雄の半分ぐらいしかありません。雌は短期間に産卵、抱卵、幼生放出を繰り返すので脱皮が出来ないからだといわれていますが小さいからこそ香箱の名にふさわしいのでしょうね。ズワイガニは福井では越前蟹、山陰地方では松葉蟹といわれますが、雌のほうもそれぞれセイコ、オカガニといわれています。
こんな能書きを聞きながら雪見障子の向こうを覗いてみると風花が舞っています、舞台装置は整ってきました。廊下伝いにすり足の音が聞こえてきます。今日のお目当てが花道へ出てきました。障子が静かに開くと大皿いっぱいに大手、いや大足を広げた湯上りの蟹が眼をひんむいて見得を切っています。おもわず歓声をあげると卓に置かれた蟹も「そうかそうか、気に入ってくれたか、ゆっくりと食べてくれよ」と緊張の糸をほどいてくれました。
なにげなく眼をやった床の間には一幅の掛け軸が掛かっています。今まで全く気に留めることも無かった一句が強烈な刺激となって目に飛び込んできます、
風花や 公達めきし 蟹の色
おお、風花が舞っている、公達めきしとは高貴な若武者が色鮮やかな具足に身を固めていること、そんな華やかな輝くような蟹がここにあるというような意味なんだな、まさにぴったりじゃないか、そうかそうか、と両手はさっそく湯上りの蟹に伸びるのでした。
                  …続く
                            溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [56]

隠岐の島(続きの2)

 実を言うと隠岐の島という島はありません、4つの大きな島を中心に約180の島を総称して隠岐諸島といい、空港は後島という島にあります。古代から隠岐国として認められ、流人の島として有名ですが、それも高貴な方々が流されているのは海産物に恵まれた島でそれなりの生活が出来るからなのかもしれません。俊寛僧都が流された鬼界ヶ島みたいなところに天皇をお流しするなど出来ることではありませんからね。かってこの島が大変な活況を呈した時期がありました、江戸の中期から俵物の時代といわれる貿易時代が始まったのです。中国は清の時代になると中国料理が確立してなまこやあわびの需要が急増したのです。なまこやあわびは松前や隠岐でふんだんに獲れました、これを干して俵に詰めたものを俵物といいます。これを北前船が長崎に運び巨船を仕立ててやってきた清の商人に売るのです、特に漁業人口の多い隠岐では巨額の現金が舞い込んで潤いました。この時の人口が1万5千人程度と言いますから現在とほとんど変わりません、そんな栄光の時代も明治の御代とともに過去のものになって現在ではほとんど知られていない島になっているのです。
 タクシーに案内された家の前に立つとその間口の狭さに首をひねります、私の家などは小さなものなのですが拙宅の間口にも及びません、ところが案内を請うて招き入れられた家の中は拙宅の奥行きの何倍もありました。廊下に挟まれた中庭を見ながら奥へ通されると、そこで遠路をねぎらわれます
「葬儀は明日ですから今日は宿でゆっくりとお休み下さい」
「入り口でちらっと祭壇を見たんだけど、神式の葬儀なの?」
「この島は後醍醐天皇が流されていたことから神道なんですよ」
「変なことを聞くけど香典は“ご霊前”でもいいのかなぁ」
「ご霊前ならいいんですよ、ほかには御玉串料とか御神前とかにしますけど」
後から調べてみるとキリスト教でも“ご霊前”でいいんだそうで、要するに
“ご霊前”で包んでいけばたいがいは間に合うらしいですね、安心しました。
 それにしてもお通夜には列席しなくてもいいのだろうかと思うのですが、それなりの風習があるのだろうと斟酌して、通夜に出ろとも言われないので素直に宿へと案内されたのです。宿は古いけれど気持ちの良い宿で、一人では寂しいけれどゆっくりと地元の酒、隠岐の誉が飲めるし海の幸も期待できます。
「蟹をお願いしたいんですけどね、ありますか」
「蟹ですか、もう少し早く言ってもらえればなんとかなったんですけどぉ」
あらら、湯上りの蟹は幻ですか、何事も思い通りにはゆかないものです。それでも鮑などの地元の幸には堪能させてもらいました   …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [55]

隠岐の島(続きの1)

 隠岐空港からのタクシーはそそり立つ岩の海岸を右に左に辿りながら目的地を目指しているのですが、何処をどう走っているのか皆目見当も付かずに、本当に目指す場所に着けるのか不安がよぎります。小さな島だから空港からなら歩いても行けるようなつもりで、タクシーなら15分も走ればと思っていたのにとんでもない話です。
 部下の祖母が亡くなって葬儀に列席することになったのですが場所を聞いて驚きましたね、隠岐の島なんて想像もしてませんでしたから。だいたい部下が隠岐の島の出身なんてことも全然知らなかったんですよね。まず気になったのは交通手段、松江あたりから船で行くんだったら大変だけど小さな飛行機ぐらいは飛んでいるのではと思ってもすぐにはイメージがわきません。
「隠岐の島って山陰の島かい」
「そうですよ、島根県です」
「どう行ったらいいのかね」
「羽田から出雲まで行ってそれから隠岐空港ですよ」
そこまで聞けば何の問題も無く、逆に隠岐へ行ける興味がわいてきます。   
葬式には度々出席の役が回ってきますが祖父や祖母の場合は気が楽なんです。
親とか特に子供の葬式などといったらずいぶんと気を使わなければなりませんが、ご高齢の方の場合はどちらかといえばお目出度いともいわれているくらいですから気楽に列席出来ます。そうなればすぐに食べ物の事、すぐに浮かんできたのが湯上りの蟹、ぼつぼつ蟹の季節だから食べられるかもしれない、そんな事を頼りの隠岐訪問だったのです。
 隠岐空港から乗ったタクシーの運ちゃんに行く先の町を告げたまま、かなりの時間が過ぎた頃に運ちゃんから訪ねる先の名前を聞かれて部下の苗字を言ったのですがちょっと驚きましたね
「この町はみんな同じ苗字ですよ」
「じゃあどうやって区別がつけられるの?」
「屋号はなんというんですか」
「屋号?」
屋号なんて聞いてないぞ、こりゃ大変だ、と改めて昨日の部下からの電話を振り返ってみると確かに何か言っていました。上の空で聞いていたのがかなり重要な情報だったとは、必死で過去を辿った末に、まだ若かったのでしょうね屋号らしきものを思い出しました。納得した運ちゃんは未知の習慣を持ち続ける集落に車を運び入れます。     …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [54]

お屠蘇気分で(続きの5)

 それから間もなくの敗戦を経て激動の年は明けました。年末に帰ってきた東京には物資が不足していても正月はやってきたのです。この時に撮った母と子供三人の写真があります、隣家の居候に撮ってもらったのですが進駐軍に絡んでいた彼は貴重なフイルムも調達できたのでしょう。この頃は何でも進駐軍、アメリカを主とした連合軍、が日本を支配していたのです。
 敗戦後初めてのクリスマスは私にとっての初めてのクリスマスでもありました。戦時中はサンタクロースなどやってきません、敵国の風習は禁じられていました。そして初めてのサンタクロースが持ってきたものは進駐軍から横流しされたチョコレートとチューインガムでした、嬉しかったですね。
 敗戦と同時に考え方も価値観もすっかり変わって、それにとまどう大人たちも沢山居たようですが、そこへゆくと小さな子供たちは簡単に時代の変化に順応していました。昨日までは~肩を並べて兄さんと今日も学校へ行けるのは兵隊さんのおかげです、兵隊さんよありがとう~などと歌っていたものが、今日には~町をジープが走ってる、運転台には兵隊さん帽子をチョッと横にして口笛吹いて楽しそう~などと同じ兵隊さんでも自国の兵隊さんと昨日までは敵国の兵隊さんを何の違和感も無く歌っているのですからその順応性はたいしたものです。このジープの歌はほんの短い間だけ学校で歌ったのですが今でも歌えますよ。
 最後に物が無いという時代の話をもうひとつだけさせてもらいます。敗戦から四年程もたつと東京の三田のあたりもそこかしこに点在した焼け跡空き地も表通りからは姿を消していたのですが物の不足は相変わらずでした。タバコも貴重品の時代でいつでも買えるものではなく、決まった日の七時ごろからの売り出しで、数にも限りがあったので一人一箱と決められていました。小学生の私も父のために近所の山口タバコ店に並ばされたのですが、皆が朝早くから並び始めてこれがエスカレートしてきたので、いつの頃からか発売の時間になると最前列の人と最後尾の人がじゃんけんをして、最前列が勝てばそのままですが、最後尾が勝つと全員が回れ右で最後尾が最前列になるという大逆転が起こり、早朝から並んだ人が「もうおしまいです」と言われて苦笑しながら帰ることもあったのですが「早いもの順にしろ」などと騒ぐ者などは一人もいませんでした。物の無い貧しい時代でしたが、みんな心に余裕をもっていてじつに良い時代でした。           
おわり
                            溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [53]

お屠蘇気分で(続きの4)

 昭和21年の正月は食べるものもろくに無い正月ですが空襲も無い、灯火管制も無い、そして大本営発表も無い久しぶりの平和な正月でした。灯火管制とは空襲の敵機の目標にならないように家の電灯を暗くして黒いカーテンを引き、灯りが家の外に漏れないようにすること、大本営発表とはラジオから流れる嘘を並べた戦勝のニュースです。
 一年前の正月は勿論戦争中ですが私は大分県に疎開していました。疎開と言うのは昭和19年の7月にサイパン島が陥落するとアメリカの飛行機が直接空襲に飛来するようになり、危険な都会から空襲の無い田舎に一時避難させることで、親類知人が田舎に居ればそこを頼りに身を寄せる縁故疎開があり、地方に身寄りの無い子供たちは学校単位で田舎のお寺などに寄宿する集団疎開がありました。初めは三年生以上の小学生が対象でしたが、20年になると1年生と2年生もほぼ強制的に親から引き離されました。もちろんこんな時代ですから食べ物も満足に無い悲惨な生活を送らされたのです。
 幸いに私は父母の故郷大分市内に母と一緒に疎開できたので苦労らしい苦労も無かったのですが空襲にはあいました。四国の愛媛と九州の大分の間の海峡である豊後水道に侵入した空母から飛来した艦載機が本格的な爆撃の前哨戦のような感じで来たのでしょう、庭の防空壕に駆け込むとカタカタカタカタとすさまじい機銃掃射を頭上に浴びせられて生きた心地もしませんでした。その二ヶ月後に爆弾の雨が降り大分市は壊滅したのです。
 大分市郊外へ疎開していた我々を東京に残っていた父が迎えに来ました、山梨に行くというのです。父と母に生まれたばかりでまだ首も座っていない妹、4歳寸前の弟と7歳の私は7月4日に別府港から船出しました。いくら瀬戸内海といっても敵機に襲われる危険いっぱいの船旅でしたがとにかく神戸に着いたのです、広島に原爆が投下される32日前のことでした。何時間も待ってやっとやってきた汽車は超満員で、私と弟は窓から投げ込まれたのですが中に居る人たちも慣れたもので、ちゃんと受け取ってくれて立錐の余地も無い所に立錐くらいの場所を空けてくれたのですが、父と母とが乗れたのかが不安で入口付近を眼で追っても人の塊りで見えるわけもありません。その時弟が「ぶうぶちょうだい」と叫ぶと彼方から父の声で「今ぶうぶちょうだいと言った子をこちらにお願いします」。すぐに周りの人たちが反応して「坊やいくぞ」と弟と私を担ぎ上げて頭上の手渡しリレーが始まりました。されるがままに足を縮めて空中を送られていったのですが、弟はともかく私はそれなりの体重もあっておじさんたちにも手軽に扱えるわけもなく、落ちそうになったり弁当に足を突っ込みそうになったりしながらも無事に父母の元に舞い降りたのでした。  …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [52]

お屠蘇気分で(続きの3)

もうひとつの定番は「鯵の卯の花漬け」実はこの品だけが母から子、すなわち私に引き継がれた一品なのです。鯵も父が館山の手前の竹岡の船宿から出て釣ってきました。念のために父の名誉をおもんばかって言っておきますとこんな小魚ばかりでなく鯛やひらまさなども釣ってくることも度々とは言えないまでもありました。余談ですが父の釣ったひらまさを一本下げて新婚の友人宅を訪ね、刺身にしたのが私の料理のスタートでした。
鯵の話しに戻ります、私の場合は十年くらい前までは仕事の終わった30日に地元の魚市場に早朝から長靴をはいて出かけていました。最近ではスーパーも新しいものが安くはいるのでこちらを利用していますが、早いところでは27日ごろからおせちモードになって鮮魚は姿を消します。正月の3日間を保たすには少し早いので、29日まで鮮魚を扱っているスーパーを目指すことにしています、この辺が気を使うところですね。この鯵を三枚におろして塩をたっぷりまぶして1時間ほど寝かせます。その間に卯の花を作ります。おからは30年ぐらい前までは豆腐屋さんに行けばただでくれましたよ、ただし朝早く行かないと家畜の餌に持ってゆかれるので魚市場に行く途中で寄っていました。それがいつのまにかお金を取るようになって、最近は豆腐屋もなくなったのでスーパーで買ってます。おからは乾煎りするのですが一度にすると焦げやすいので半分に分けて調理します。弱火で鍋のおからを杓文字でかき回しながら水気が飛んでパラパラになった頃、酢を入れてかき回し、更に卵の黄身を入れてパラパラになるまでかき回します。すぐに粗熱をとって風呂場などの寒い部屋で冷やしておきます。塩でしめた鯵を酢洗いして皮をむき、腹骨は切り取り中骨も一本一本抜いて一口大に削ぎ切りします。深めの器に酒を振りかけた昆布を敷き、おからを薄く敷いて鯵を一面に並べ、鷹の爪の輪切りを散らし、おからをかぶせます。その上に同じ事を繰り返して全ての鯵を詰め込み、一番上はおからの状態にしておきます。その上に器より小さめの皿をかぶせて重石になるものを載せて一度だけ力を加えてから冷暗所に貯蔵します。鯵の塩気がおからに滲みだして渾然一体となり、再び鯵に戻って酒にもご飯にも合う一品です。
その他のおせち料理は古典的な庶民料理ですが全て自家製なのは当然のことです。それでも子供や孫達が食べてくれるから続いているだけのことで、誰かが引き継いでくれるかどうかは全くわかりませんね。
話がそれました、敗戦時の正月の話に続きます

                          溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [51]