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お屠蘇気分で(続きの2)

 元旦の朝帰りで玄関を入ると母が飛び出してきて
「どうしたのよ、あなただけ帰ってこないから皆んなで心配してたのよ」
「はぐれちゃったからしばらく捜してたんだよ」
「まあ無事に帰ってきたからよかったわよ」
家に入るとはぐれた三人が雑煮を食べながらにやにや笑っています、
「どこではぐれたんだ」
「わかっていればはぐれやしないよ」
「前にもこんな事があったよな、今度は電車賃を持ってたのか?」
「変なこと覚えてるね、今年はちゃんと持ってたよ」
「前の分はお返ししたのか?」
「なんの話なの」と母が割り込みます
「ちゃんとお返ししたよ、3倍でね」
「へえ~豪勢じゃないか」
「こんなことはきっちりとしとかなくちゃ」
「今年は受験だからな」
そうなんです、今年は受験だからこんな事をしてはいられないと思いつつ、雑煮の後で襲ってきた眠気に耐えられず、正月明けからのラストスパートを誓ってはいたのです。
 夕方まで眠り込んでいた四人は夕食時になるともそもそと起き出してきて卓袱台に向かいます
「あんたたちがちゃんとおせち料理を食べるのは今年初めてだね」
母の皮肉を聞き流しながら早速箸を伸ばすと卓袱台の上にはいつもながらのおせち料理が並んでいます。ちょっとだけ寂しいのは数の子の姿が見えないこと、戦時中でも食べられた数の子は敗戦後は姿を消しています。もちろん在るところには在るんでしょうが一般サラリーマンの家計では無理なのです。それでもその他の定番は何処で仕入れたのかしっかりと揃っています。
「お父さんのハゼの昆布巻きはおいしいねぇ」
「今年はいい具合に出来たな」父の顔がほころびます。我が家の定番のひとつにハゼを芯にした昆布巻きがあります、釣り好きの父が暮れになると現在のJR田町駅の傍から和船を借りてお台場まで艪を操ってハゼ釣りに行きます。釣ってきたハゼは串に刺し、逆さにした石油缶に吊るして七輪の炭で焼き上げます。そこまでが父の仕事、後は母が昆布巻きにするのですが、その甘辛の妙が絶品でしたね。それから我が家の定番はもうひとつありました。  …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [50]

お屠蘇気分で(続きの1)

 騒がしい音とともに頭の周りを何かが飛び交っているような気配を感じて眼を覚ますと頭の上で白いものがサッサッという音を発しながら右に左に流れています。はっとして飛び起きると布団の上に正座をして頭を下げました。
 頭の上を右から左へ飛び交ったのは大麻(おおぬさ)というお祓いの道具で榊の枝に細く切った紙をくくりつけたもの、右から左へ振られてこれで終わりです。頭をあげると近所の亀塚神社の神主さんが白髭に埋もれた顔をほころばせています、1月2日の朝のことでした。
「よく寝ているからそのままでお払いさせてもらいましたよ、おめでとうございます」
「ありがとうございます、今年は大学受験の年ですからよろしくお願いします」
寝たままでお払いを受けてご利益があるのかどうだかわからないけれど神主さんが請け負ったのだからお任せするしかないと観念してゆっくりと立ちあがります。神主さんはと見ればまだ隣で寝入っている大学生の従兄のお払いにとりかかっていました。
 亀塚稲荷神社は現在の東京都港区三田四丁目、当時でいえば功運町、明治中期までは月の岬と言われた月見の名所である聖坂の途中にあります。1266年に建立した阿弥陀信仰を記した供養石があることから小さいながらも歴史を感じさせる神社ではありますが、氏子も少なく三田の春日神社の末社にしか過ぎないことが悩ましいところで、それだけに我々にとってはかなり身近な神主さんでもあったのです。
 大晦日には大学生の従兄二人に弟の四人ずれで明治神宮へ初詣ででしたが、その混雑振りは大変なものでした。なにしろ娯楽の少ない時代で、しかも交通機関が今ほどではない時代です、東京の三田に住んでいた私などは初詣といえば明治神宮しか思い浮かびません。そんな連中が集まってくるのですから参道はのろのろ歩きがいつ果てるともなく続きます。そんななかで気がついたら連れの姿も見えず、何年か前にもはぐれたことがあってその時には手持ちのお金も無くて難渋したことを思い出します。あのときには帰りの電車賃も無くて、仕方が無いから足に触れたお賽銭を30円だけ拝借して、その時約束したのは2倍にしてお返しするんだった、今日も連れにはぐれたのはそれを思い出させるための神様のご配慮じゃないか、「おいおいいつまで借りっぱなしなんだ」とおっしゃってるに違いない、2倍とお約束したけど金利も付いてるから3倍にしてお返しいたします、なにとぞお許し願います、とお賽銭も含めての100円札を賽銭箱に差し入れたのでした。昭和30年代の正月噺は続きます
                             溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [49]

夜明け

 暗い時代に一条の光が射して希望の時代が始まる、長い歴史の中にはそんな事が何回となく繰り返されています。江戸の初期、元禄の時代もそんな時期でした。応仁の乱から戦国時代を経ての長い戦乱の世がようやく治まり、特に関が原の戦いで勝った江戸の町は新興都市としての公共事業バブルに沸いていました。戦乱の世からようやく安定した世の中になり、将来への希望も何となく見えてきた、そんな時代だったのです。
 1697年初代市川團十郎によって初演された「暫」はこの時代の人達を虜にして大当たりをとったのです。芝居の筋は単純で悪人達が善人の首をはねようとしているまさにその時に鎌倉権五郎というスーパーヒーローが現れて悪人達を懲らしめて颯爽と去ってゆく、それだけのものなのですがこれが大喝采を浴びるにはそれだけのわけがあったのです。
 毎年11月には顔見世興行が行われました、来年一年間のその芝居小屋の専属役者のお披露目です。旧暦の11月は冬至の季節、夜が一番長い時期です。したがってまだ暗いうちから芝居は始まります。まだ世間が暗い闇の中にある時、悪人達がはびこって善人が危なくなる、ちょうどその時太陽が昇り始める頃に「しばらく~、しばらく~」の声がかかって芝居小屋の間戸がいっせいに取り払われるとサーッと朝日が飛び込んでくる、その時正義の味方鎌倉権五郎が颯爽と登場するのです。
 余談ですが間戸についてお話します。日本の家屋は夏の蒸し暑さを第一に考えて作られています。従って壁をなるべく作らずに開けっ放しにして柱と柱の間には板戸を立てかけて外部との仕切りとしています。この柱と柱の間は一間、約1.8メートルが基本でこの仕切り板を間戸、まどといって、窓の語源になっています。従って英語のWindowは風穴の意味ですが日本の窓は風通しと共に湿気対策と同時にカビ対策、陽の光を多く取り入れる為のものでもあるのです。最近の窓は洋風の小さな窓が流行りのようですが、湿気対策が出来ていないとかびの温床になることに気をつけねばなりません。余計なことをいいました。
 朝日と共に登場する鎌倉権五郎に冬至の時期に厳しい冬の時代からこの日を境に春に向かう陽の光を見出した観客は、明日をも知れぬ戦乱の世から少しでも希望の見える時代への移り変わりを感じ取っていたのでしょう。
 暫は300年以上も生き延びた芝居です、現在でも度々上演されています。苦しい時代には明るい時代を待ち望んで、明るい時代には更なる希望に夢を膨らませてこの芝居は引き継がれてきました。人々に希望を与えるこの芝居は今年もまたこんなご時世の中で支持されることでしょう。
        2010年 元旦               溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [48]

あたま山(続きの6)

 頭ヶ池から人けが去り夫婦蛙の愛のささやきが時折聞こえるだけのあたま山はいつしか名所案内からもその姿を消してしまったのですが、日本シリーズの最終戦で稲羽のピッチャー返しに倒れた豊川は運良く後遺症らしいものも無く、頭ヶ池だけは残されていましたが豊川投手にしてみればようやく一年前の状態に戻れたような安堵感を感じていたのです。
 豊川が小さな異変を感じたのはそんなある日のことでした。つい先ごろまで花見客などで常に人の気配を感じていた頭の周りが寂しくてしかたがないのです、首筋が常に隙間風になでられているような不安げな気分から抜けられずに人恋しさの募る日々が続きます。
 この季節にしては風の穏やかなよく晴れた日のことでした、久しぶりの人の気配に嬉しさを抑えながら耳をそばだてていると確かに何人かがあたま山に登ってくるのです。今日来るんだったら掃除ぐらいしとけばよかったなどと悔いながらも何者が来たのだろうかと好奇心を研ぎ澄ましていると女性の合唱が始まります~小さな湖畔の森の影から~中高年女性のコーラスサークルがやってきたのです。その日から彼女達は毎日のようにやってくるようになりました。
彼女達はしょせん素人ですからけっして上手いとはいえませんがちょっとだけ我慢をすれば豊川の気持ちをつかの間でも癒すことはできます。豊川はこの時間を心待ちにするようになって心の病も快方に向かうかと思われたのです。
 今日も彼女達の輪唱が続いています、その輪唱に何か別の声が混じり始めたのに気付いたのは彼女達が初めて姿を現してから何日か後のことでした。ちょうどこの頃には今までおたまじゃくしとして泳ぎまわっていた夫婦蛙の子供達が蛙になって大人の仲間入りをしていたのです。子蛙たちにとって生まれて初めて聞く中高年おばさんのコーラスは母の声でした、そして子蛙たちは中高年おばさんに合わせて歌います~小さな湖畔の森の影から~を追いかけて~ゲゲ ゲゲ ゲゲ ゲゲ グアッ グアッ グアッ~、輪唱は終わることなく続きます、なにしろ定年で家にいる亭主の顔を見たくない女性の集団ですから少しでもここで過ごしたいのです。輪唱が最高潮に達した頃、豊川は経験したことの無い心の平穏を感じていました。彼の頭上にはあの桜の花びらが舞い始めます、輪唱は続いています、ゆっくりと立ち上がった豊川は「ありがとう」と低くつぶやくとわが身を頭ヶ池に投じたのでした。中高年女性と子蛙たちの輪唱はいつまでも続いていました。           おわり
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [47]

あたま山(続きの5)

小林一茶と別れた松尾芭蕉がその場を立ち去ろうとした時、暗闇から野太い声がかかります。
「ご老体、お待ちなせえ」
「待てとお止どめなされしは私のことでございますかな」  
「松尾芭蕉宗匠と知っての上のお止どめでございますよ」  
「そして又なんのご用ですかな」
「その句帳をお渡し願いたい」
「句帳とは思いついた俳句をただ書き留めただけのもの、決して怪しいものではございません」
「偽りを申すものではありませんぞ、かく言う私は幡随院に住む長兵衛と申す者、貴殿が幕府の忍びとして陸奥に赴き伊達藩の機密を探ってその句帳に書き記してあることは明々白々、さっさとお渡し願いたい」
「何を迷惑なことを言われる、何か証拠のあることですか」
幡随院長兵衛とは江戸の侠客として有名ですが、それは世を忍ぶ仮の姿で実は伊達藩の隠密なのです。彼の探知したところでは松尾芭蕉と言う人は俳人の姿をしながらも実は江戸の隠密で伊達藩の機密を探っていました。伊賀で生まれた芭蕉は当然忍者としての訓練を受けたプロだったのですが、偶然にも頭ヶ池のある場所が時空の歪みで伊達藩の要衝である瑞巌寺に通じていることを知り、度々伊達藩に忍び込んでいたのです。ところがあるとき時空の歪みが無くなり伊達藩に通じなくなってしまいました。芭蕉は瑞巌寺に通じる時空の歪みを探して池の周りを歩き回ったのですが見つかりません、そしてこの時詠んだ句が
~名月や池をめぐりて夜もすがら~だったのです。ルートを失った芭蕉はやむなく伊達藩への隠密の旅に出ます、これをカムフラージュするために奥の細道として俳諧の旅にしたのでした。
「そこまでお見通しじゃあ仕方ありませんな、それでもこの句帳は渡すわけにはいきませんよ」
「無理やりにでも渡してもらうと言ったらどうする」
「こうしましょう」と一声叫んだ芭蕉が、被っていた宗匠頭巾をサッと引っ張ると忍者頭巾に早替わり、あっという間もなく頭ヶ池に飛び込んだのでした。
 しばらくして芭蕉が姿を現したのは頭ヶ池と水中で繋がっているまなこ池の端、水面にわずかに頭を出しながら、まつげ葦というこの池にしか生えない葦の陰に身を隠してしばらく辺りをうかがっていましたが素早く這い出ると、池から流れる泪川沿いの小径を辿って姿を消していったのです。  …続く
                            溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [46]

あたま山(続きの4)

 大江戸サブウエイズと北海道アスパラガスとの対決は3勝3敗で第7戦にまでもつれ込んだ9回裏、1点リードで登板した豊川は相手の4番打者を迎えて得意のフォークを投げ込みます。ところがヘッド・シートの観客の興奮から集中力を乱されたのか落ちるべき球が落ちません。これを狙いすました4番バッター稲羽のピッチャー返しが豊川の頭上を襲います。反射的に頭を下げたのですが間に合いません、バキッという音と共に豊川はマウンド上に転倒しました。満開の桜の花びらは球場いっぱいに飛び散った後ドームの天井を突き破ると真っ暗な空の一点に吸い込まれていったのです。
何日かの昏睡状態から目覚めた豊川の頭からあれほど見事だった桜は消えていました。稲羽の打球は満開の桜を直撃、桜は根元から飛び散ってその跡には大きな穴が開いていたのです。穴があるだけなら人も来ないだろうからもうなにかと煩わされることもないだろうとホッと息をつく間もなく災難はやってきます。不用意にも雨中を歩いた時に雨水が溜まり、池になってしまったのです。
この池に蛙の夫婦が住みついたのはそれから間もなくのことでした。
「一茶さん、頭ヶ池を巡っていい句が出来ましたか」
頭ヶ池とは自分の頭の池のことかと迷惑に思いながらも久しぶりの人の声に耳をそばだてます。
「俳聖とまでいわれる芭蕉翁の前でご披露するほどのものではございませんが
こんなのはいかがでしょう~天文を考へ顔の蛙かな~」
「ほう、なるほど、さすがですなあ、私には詠めない句だ」
「せっかくですから宗匠に教えを請いたいのですが如何でしょうかね」
「昨日一人でここに来てたんですよ、~古池や蛙飛こむ水の音~」
「まさに俳諧の新しい道を示された句ですね、よく存じています」
「なんだ、知っていたのか」
「私は宗匠の119年も後に生まれたんですよ偉大な芭蕉翁のこの句は知らない者はいませんよ、宗匠にお会いできるなど考えてもおりませんでした、ありがとうございます」
小林一茶は静かに立ち去ってゆきます~蛙の子そこのけそこのけ一茶が通る~
一茶を見送った芭蕉は鋭く辺りを見回してからおもむろに句帳を取り出しました。蛇足ですが句帳とは俳句が浮かんだ時に書き留めておくメモ書きのようなもので後日これを基にして推敲を重ねるのです。芭蕉が句帳をちらりと見た後そのまま立ち去ろうとした時でした。突然暗闇から野太い声が行く手を妨げます。   …続く
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [45]

あたま山(続きの3)

「なんだあるんじゃないですか、でも酒みたいなものって何なんですか」
「この一升瓶をよく見てごらんよ」
「いい酒じゃありませんか」
「色だけはな、中身はお茶だ、番茶を煮出して薄めたんだがいい色になった」
「すごいねお酒じゃなくてお茶けですか」
「それから酒の肴ということで蒲鉾と玉子焼きを用意した」
「おっ、それはすごい、これは本物でしょうね」
「冗談言っちゃあいけない、酒が買えないものをなんで蒲鉾と玉子焼きがあるんだ、重箱を開けてみてごらん大根を山形に切ったのが蒲鉾で、たくあんを切ったのが黄色いから玉子焼きだ」
「もう行きたくなくなったなぁ」
「そんなこと言わないで行こうじゃないか、行けばなにかいいこともある」
「そうですね、ゆで卵のひとつぐらい拾えるかもしれない」
「ばかなことを言うんじゃない、それじゃ乞食だ、ほら見てみろもうあたま山だ、大変な人出じゃないか」
「桜の周りなんかもう座る場所はありませんねえ」
「狭いところでも皆で入り込んで、ごめんなさい、ごめんなさい、って言えば少しずつ広がって座れるようになるんだ」
「なるほどね、よく座れましたね、桜も見事だ」
こんな連中がひっきりなしに押し寄せるのですからたまりません。人が集まれば物売りが出る、ついには芝居小屋まで出来て義経千本桜が上演されるという屈指の歓楽地になってしまったのです。
 満開の桜を揺らせながらの豊川の快投に引きずられて大江戸サブウエイズはトップをひた走ります。そんな時に豊川の頭に異変が起こります。あたま山の花見は彼が家に帰ってからに限られていたのですが最近では試合中にも大勢が押しかけるようになったのです。もちろん野球見物が目当てです、ダイヤモンドの真ん中、マウンドの上から試合が見られるのですからこんな良い席はありません。これに気付いた球団はあたま山に桟敷を作り「ヘッド・シート・エキサイティング」として一人2万円で売り出したのです。これがまた大当たりしたのですが当然のことに豊川の集中力を乱します。難なくリーグを制して日本シリーズに進出、北海道アスパラガスとの決戦になったのですがここでプロ野球史上最大といわれる悲劇が起こったのです。  …続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [44]

あたま山(続きの2)

 豊川の快投は続きます、スポーツ紙の一面は連日豊川の笑顔で埋められています。ぼつぼつ引退も考えなければと覚悟していた豊川にとっては思ってもみなかった好調さなのです。しかしその笑顔には少しずつではありますが影が差してきたのにはしばらくは誰も気付きませんでした。
 頭のてっぺんに生えた若芽は成長を続けます、さすがに新聞記者も異変に気付きました。ある日のスポーツ紙に「豊川の頭に桜の木」という衝撃のスクープが掲載されました。もはや隠すことも出来なくなった豊川はこの事実を公表してマウンドに立ち、もはや若木に成長した桜を揺らせながら力投したのです。
 そんなある日のことでした、豊川は何かしら賑やかな気配に驚いていました。
周りには誰もいません、どうやら頭の上に何かの気配がするのです。全神経を頭上に集中した豊川はやがて明らかになった現実のものとは思われない光景にただ呆然自失するほかありません。頭上の桜はいつの間にか満開の花をつけ、その周りでは花見の宴が始まっていたのです。
「おい聞いたかい、あたま山の桜、見事なんだってね」
「そうだってね、なんでも国の天然記念物に指定されるんだってよ」
「それじゃ観に行かなきゃならねえな」
「花見に行くったって先立つものが無えじゃねえか、ただ行ってぐるっと回ってきたってしょうがあるめえ、大家さんに相談してみるか」
「相談するにはおよばないよ、お前達を連れて行ってやろうと思ってちゃんと準備をしていたんだ」
「おや、さすがは大家さん話が早えや、よろしくおねがいしますよ」
「だがなあ、あとからこんなはずじゃなかったなんて文句が出ても困るから今のうちに言っておくがな、先ず酒の話だ」
「ああわかってますよ、どうせ貧乏大家のことだ酒は少ないってことでしょ」
「貧乏大家はごあいさつだな、まあ貧乏だって事をわかっててくれりゃ話が早いんだ、酒なんていうものはなまじっか少しでもあるともっと飲みたくなるんだ。それが飲めないとなれば面白くない、だから初めっから無いんだ」
「酒が無けりゃ行ったってしょうがないですよ」
「それでもな、いつも貧乏長屋だなんて言われてるのを聞くと悔しいじゃないか、たまにはパッとやってみようよ」
「酒が無けりゃお通夜だって出来ませんよ」
「心配しなくていい、一応は酒みたいなものを三本用意したんだ」。..続く

                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [43]

あたま山(続きの1)

 大江戸サブウエイズの豊川投手は遠征先の宿で眠れぬ時間を持て余していました。
今日の山形での試合は散々な出来だったのですが、問題なのは結果ではなくその事を悔いる気持ちがいつまでも粘りついている事なのです。勝負事は時の運ですし、ましてや九回だけを締めるクローザーに繋ぐ役として連日のように登板するセットアッパーなどをやっていれば気持ちの切り替えが出来なければ明日の好成績は望めません。19年もの間プロ野球で生きて来てこんな経験は初めてのことでした。
「起きてるかい、入らせてもらうよ」
突然のノックと共に上原監督の声が聞こえました。
今頃なにごとかと訝りながらもドアを開けると上原監督がにこにこ笑いながら入ってきます。
「どうだい、ご当地特産のさくらんぼ、佐藤錦だよ、食べてみないか」
お言葉に甘えて宝石のように輝くひとつぶを口に入れると今まで苦しんでいた煩いが消えてゆくような感覚が広がります。
「明日からなぁ、クローザーをやってくれ」
思わず飲み込んだ唾と共に口に残っていた種が喉を滑り落ちてゆきました。
どうやらクローザーのクレーンが突然の発熱らしいのです、これはチャンスだという思いと共にこの日の無様な姿が浮かびます。
「頼むよ、期待してるからな、さくらんぼでも食べてゆっくり寝てくれよ」
再びにっこりと笑った上原監督はそれだけを伝えると部屋を出てゆきました。
 珍しく爽快な気分で目覚めた豊川が昨夜の出来事を辿ってみると思わず緊張感が走ります、長年やってきたクローザーなので今更とは思うのですが何故か今回は違うのです。不思議な思いにとらわれながらもそんな事にいちいち気を使ってもいられないので、そんなことも忘れて九回裏の出番に向けてのコンディション作りを始め、いつものペースに戻っていきました。
 上々の出来でこの日の試合を締めくくった豊川が上原監督をはじめナインのハイタッチを受けた後、満面の笑みを浮かべてシャワールームに消えました。豊川が心地よい汗を洗い流しながら頭を洗おうとした時でした、少し前までボールを握っていた右指が妙なものに触れたのです。頭のてっぺんが小さくふくらんでいます。こぶかな、とも思ったのですが頭を何かにぶつけた覚えもないし、腫れ物でもないらしい、なんとなく気にはなったのですがこの日の快投が全てを押し流して心地よい眠りについたのでした。翌朝になると豊川は更なる異変に気付きます、頭のてっぺんに双葉の若芽が生えていたのです。…続く 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [42]

幻の林檎(続きの9)

 歳三と別れた後の巳之助は釧路から根室に足を伸ばしたあと、天皇の行程の逆を辿り旭川、小樽を経て札幌に至り今回の作図行脚を終えたのです。
千駄ヶ谷の自宅に戻った巳之助は全五巻の天皇行幸図を完成させ天皇に献上しました。明治21年の陸軍陸地測量部創設と共に全国の地図作成に従事して朝鮮半島や台湾をも踏破した巳之助にとっては得意の分野であり、全ての駅名はもちろんのこと羊蹄山や樽前山など山の特徴をそのままに細密に描かれていることは見事というほかはありません。
「しかしねえ、どうにもわからないんですけど、坂本竜馬暗殺の真相について書き残す役目として、巳之助とは直接の血のつながりも無い私がなぜ選ばれたのですか」
しばらくの沈黙の後に私が口を開きました。
「去年大沼公園で初めて奥方にお会いしたときにこの方が今村巳之助老のお孫さんだということはすぐにわかりました。ただね、奥方に書き残してもらうには少し荷が重いだろうとは思っていました。それでね貴公というわけですよ」
歳三さんに好意を抱き始めた私にとって彼の申し出を断る理由はもはや無くなっていました。
「聞きたいことがあるんですがね」
「林檎箱の書付のことですか」
「そうです、あなたの辞世の一首を書いたあの書付はなぜあの箱の中に入れることが出来たのですか」
「その書付は今でも手元にありますか」
「えっ、そういえばその後みあたりませんね、それならあれは幻覚ですか、それに今朝の夢もあなたの魔術、いや霊力ですか」
「ちょっと無理をさせてもらいました、お許し下さい」
「もうひとつお聞きします、明治元年に函館五稜郭に立てこもったあなたがたは独立できたとしたらどんな国にしょうと思っていたのですか」
「日本は工業国への道を進もうとしていました、本来この国は農業国なのです、その本来の姿をせめてこの地に残したかったのです。そしてそのシンボルが林檎だったのです。ある国から取り寄せた新種の林檎が我々の希望でした」
「それでは去年の美味しい林檎はそれだったのですか」
「幻の林檎です」
歳三さんはかすかに微笑むと低くつぶやいたのでした。   おわり
                          溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [41]

幻の林檎(続きの8)

 室蘭に入港した天皇は日本製鋼所と日本製鉄に行幸された後お召し列車で旭川に向かわれました。途中岩見沢で小休止して旭川には14時19分着、旭川連兵場、第7師団司令部、旭川師範学校を回るというかなりな強行軍の後、午後4時45分にこの日の行在所である偕行社にお着きになられました。そして翌日は釧路へ向かわれたのです。
 一方今村巳之助は絵筆を執りながら室蘭から苫小牧、帯広を経て釧路へと線路を辿っておりましたが、少し離れてついてゆく土方歳三にしてみれば当ての外れた行動です。それでも準備期間があるほうがいいと思い直して作戦を練っていました。歳三の脳裏に描かれつつあった作戦は帯広での決行に絞られつつあります、帯広では2泊されて昭和7年に開通したばかりの広尾線で大樹村を訪ね、開拓村を視察されます。広い地域に点在する粗末な小屋などを利用すれば道は開けるかもしれない、歳三の前頭葉はフル回転を始めました。
 9月27日釧路は朝からの雨でした。小さな駅舎の中で歳三は巳之助から少し離れた場所に立っていました。お召し列車の到着までまだだいぶ時間があるというのに近隣の住民達が雨具もつけずに到着を待ちわびていて、晴れ着に身を飾っている人も大勢いました。なぜ雨具を着けていないのかといえば、天皇をお迎えするのに雨具などを着けてお迎えするのは不敬であると普通の感覚で持たれていたのです。その人たちが突然散り始めました。警備の兵隊や警察官が何事か告げまわっています。何事かと見ていると再び集まってきた人たちはしっかりと雨具を着けていました。彼らの日に焼けた顔はなぜか今までよりは一層輝いています。歳三の脇にそっと寄ってきた巳之助がささやきました
「列車の中から濡れたままで列車を待つ国民をご覧になった天皇がおつきの者に、早く雨具を、とささやかれたんだそうです、濡れたままでは風邪を引いてはいけないと注意されたんです。お言葉はすぐに電話で各駅に伝えられたので皆が雨具を着けることができたのです。これほど国民を思いやる君主が今までこの国にいましたか、代々の徳川将軍の中で一人でもこのような人がいましたか、民を治めるということが新しい時代にはいったのです。あなたが今なにを考えているか知りませんがこれほどの君主にはめったに出会えるものではありませんよ、お心を乱すような行動は慎むべきでしょうね」
歳三は一言も発せずに宿へ戻ってゆきました。そして彼の姿はその日を境にこの地から消えていたのです。
土方歳三は長い話を語り終えると少し疲れ気味の顔をほころばせながら優しい眼差しを向けた後、しばし眼を閉じていました。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [40]

幻の林檎(続きの7)

 明治2年5月11日函館の五稜郭に散った土方歳三は薩長への反発から独立国を建てる為に函館に立てこもったのであって、決して天皇に対して逆心があったわけではありません、その誤解をどうしても解いておきたいとの願いは死後も消えることは無かったのです。
 昭和11年9月24日に昭和天皇が横須賀を出航して北海道に渡り、各地を巡って10月12日に帰京するという行幸のニュースは歳三の願いを叶える最後のチャンスでした。そしてさるお方に直接の申し開きをさせてもらう為の計画を練ったのです。函館に行きさえすれば何とかなるということで、その時期の函館在住者を地獄サービスで検索してみたのですが知人に繋がる人は見出せません。これではパスポートも取れないので全道に範囲を広げてみるとこの時期に限って吉田弥平衛の息子が居るらしいということがわかったのです。
 吉田弥平衛の子孫を訪ねる名目でパスポートを取得した土方歳三が現れたのは室蘭でした。目的は函館での計画実行ですから弥平衛の子に会う必要も無くとにかく函館に行くつもりでいたのですが、行幸の予定をさぐってみると当然入港すると思っていた函館には寄ることも無く室蘭港への入港になっています。函館ならば自分の作った街も同然ですから時代が変わったとはいっても隅々まで知っています、ここならば一人で計画を実行出来るのですが他の土地では皆目見当もつきません。
「とりあえずは吉田弥平衛殿のご子息をと探したのですがこれがなかなかでね、見つけるのに苦労しました」
「そうでしょう、弥平衛は明治9年に今村姓を名乗ってますから」
「鉄道路線の絵地図を描きながら回っておられるご老体にめぐり合いましてね、なにか懐かしさを感じさせてくれるお方なのでそれとなくお聞きしてみると弥平衛殿のご子息だと言うじゃないですか、驚きましたね。助手に聞いてみると今村巳之助殿といわれて鉄道省の嘱託として天皇行幸の全線の絵図面を描かれているとかで、このお方の後を追って行けば活路が開けてくるのではないかと思ったんですよ」
「あなたもひどいことをするもんですね、巳之助に嫌疑がかかったらどうなったと思いますか」
「いやご心配なく、付かず離れずの距離を取りましたからね、しかしさすがは弥平衛殿のご子息だけあって私の不敬の計画に気付いておられたようですよ」
 天皇が乗船された戦艦比叡は昭和11年9月24日に横須賀を出航して26日の7時10分に室蘭に入港しました。北海道行幸の始まりです。..続く
                            溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [39]

幻の林檎(続きの6)

 今村巳之助は家内の祖父に間違いありません、明治2年に生まれて生涯を測量製図設計者として過ごしました。宮内庁に蔵されている東京名勝図衝立の中央に広がる東京市の地図は祖父の精緻な作図によるものでそんな方面にも活躍していたのです。そんな祖父を若死にした土方歳三がなぜ知っているのか、不思議に思って問いただすと
「生きてる時に会ったのは吉田弥平衛殿なんですが知ってますか」
「吉田弥平衛は曽祖父、つまり今村巳之助の父ですが」
「ご存知なら結構、苗字が変わっているのでご存知ないかと思ってました、弥平衛殿とは何度かお会いしているのですよ、これで私が土方歳三であることを信じてもらえますね」
「そうすると巳之助に会ったのは私と同じように幽霊としてですか」
「正確には幽霊ではないのですがまあいいでしょう、少しはわかってくれましたね」
「それにしてもなぜ吉田弥平衛と面識があるのです」
私もいつのまにか彼を土方歳三と信じてしまったようです。彼の話すところによると会津藩主松平容保が京都守護職に任じられると弟の桑名藩主松平定敬を下部組織である京都所司代に任じて治安の維持に当たらせました。桑名藩は新撰組には非常に好意的で京都所司代としての高度なネットワークから得た情報を新撰組にも流してくれていたのです。吉田弥平衛との出会いは歳三が密かに桑名藩邸を訪れた折のことでした。桑名藩は京都所司代となった為屋敷も手狭となり大幅な増築をしたのですが、この時総指揮をとったのが江戸から呼び寄せられた作事係の吉田弥平衛で、たまたま建築現場を通りかかった歳三が建築に興味を示したことから話をするようになり、その後も何度か邸内で教えを請うようになったんだそうです。その後世情騒然となるにつれて多忙となり、桑名藩の増築も完成して弥平衛も江戸に帰っていった為に会う機会も無くなったけれどその時の教えられる充実感は忘れられないことだったそうです。
「そこまで言われると信じるしかありませんね、それにしても解らないのはなぜ土方歳三がここに居るのかということなんですけどね」
「それを説明するには地獄の沙汰の話をしなければなりません」
「地獄ですか、やっぱりね、土方歳三は極楽へは行けませんよね」
「地獄もいいところですよ、英雄といわれる人はほとんどここに居ますよ、ところで地獄の沙汰、つまり地獄のルールですが閻魔庁発行のパスポートさえあればいつでも現世に行けるのです。    …続く
                          溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [38]

幻の林檎(続きの5)

 土方歳三らしき男の話は佳境に入ってきました。それにしても竜馬暗殺の誤解を新撰組から取り除けという彼の期待には任が重いと気鬱になりながら話の展開には興味津々です。
 風魔小太郎とは風魔一族代々の頭領の名前です。風魔一族は相模の足柄郡に根拠を持つ忍者軍団で小田原の北条早雲の時代から諜報や後方撹乱などで北条家を支えました。北条家が秀吉に滅ぼされると風魔一族は江戸近辺を荒らしまわる盗賊に成り下がり、1603年に盗賊高坂陣内の密告で徳川家に捕えられて処刑されました。
「風魔小太郎をご存知ですか、それなら話は早いですね」
「でも小太郎は処刑されたのでしょ」
「その時密かに助け出された小太郎の忘れ形見が成長して一族は細々と生きながらえていたのです。そして一族を支えたのは徳川家への怨念、徳川家を倒すことだけを頼りに生き続けてきたのです」
「しかしですよ、徳川幕府を倒そうとする竜馬をなぜ切ったのですか」
「竜馬は幕府勢力を温存して新政府を作ろうとした、風魔一族には許せない事です。そして幕府を完全に倒さなければならない一派がいた。この一派に使われたともいえます」
「大久保利通ですか」
その問いを無視して彼は続けます。
「河原町蛸薬師の醤油屋近江屋新助宅で母屋の二階にいた竜馬が中岡慎太郎と共に切られた。この時彼は刀を抜いてないんですよ、剣客としても高名だった二人がこんなに簡単に切られるはずがない、刀を抜いていないということは気配を感じていなかったのです。こんなことは新撰組の隊士では出来ません。もちろん十津川の郷士などに出来るはずがありません。これが出来るのは忍者だけですよ、おわかりいただけますか」
「まあ、わかったといえばわかったんですが私にどうしろと言うんです」
「書き物にして残してほしいのです」
「書き物にするんなら有名な作家なんかいくらでもいるじゃありませんか」
「だめなんです、あなた以外の人は私が土方歳三だと信じてくれません」
「私だって信じちゃいませんよ」
「私はご内儀の祖父今村巳之助老にお会いしているのです」
「まさか、巳之助は明治二年生まれで土方さんはその年に函館で亡くなっているんじゃないんですか、会えるわけがないですよ」  …続く
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [37]

幻の林檎(続きの4)

 ここでは人目につくからと連れていかれたのは公園の近くの民家らしいのですが何処をどう歩いたのか皆目見当がつきません。爺さん、いや土方歳三らしき男は玄関の引き戸を開けると急に声を改めて
「ささ、どうぞ、お入り召されい」と屋敷内へ導きます。
「かたじけのうござる、しからばごめん、って言いたくなるじゃないですか、あなたは武士でも私は代々の町人ですから肩肘張った言い方はできませんよ。それにあなただって元はといえば武蔵の国多摩郡石田村、現在で言えば日野市の豪農とはいっても百姓の出じゃありませんか、そのうえに現在の松坂屋上野店に奉公に出されたり、実家の秘薬と称する石田散薬を売り歩いたり、武士とはとても思えませんね、平民言葉にしましょうよ」
「これはこれは、そこまで見透かされちゃあしかたがねぇ」
「おやおや、がらっと口調が変わりましたね、それでいきましょうよ」
「それはかまわないんだけど、これから話す内容が少しばかり重いんでね、江戸っ子風というわけにはいきませんからね」
「なんでもいいからさっさと話してみねえな」
「あなたは口調を変えなくてもいいんですよ」
「いちいちうるさいんだな、まあ聞かしてもらいましょう」
「坂本竜馬をご存知ですよね、この男を殺したのは誰だか知ってますか」
「新撰組じゃないんですか」
「そんな風に思い込んでる人が多いんですよ、坂本竜馬は新撰組が切った、この誤解を取り除かないと私は成仏出来ないんです。それをあなたにお願いしたくてわざわざ来てもらったんです。新撰組の竜馬殺し説は池田屋と寺田屋、それから近江屋の三つの事件が混同された誤解話なんです。新撰組が襲ったのは池田屋だけでここには竜馬はいません。寺田屋では竜馬が襲われて傷を負ったのですが、この時は伏見の奉行所配下の捕り方が暗殺しようとしたもので新撰組は関与してないんです。それなら竜馬が殺された近江屋は誰かといえば誰も知らないのです。切られ方があまりにも鮮やかなので新撰組だと決め付けられただけなんです」
「十津川の郷士が犯人という説もありますよね」
「郷士ふぜいが竜馬を切れると思いますか」
「そんなら誰が切ったんです」
「風魔小太郎です」
「あの北条一族に仕えた忍者軍団ですか」   …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [36]

幻の林檎(続きの3)

 林檎箱に忍ばされていた一枚の紙片に記された一首
  よしや身は 蝦夷の島根に朽ちぬとも 魂は吾妻の君や守らむ  林檎爺 
奇妙としか言いようの無いこの紙片は誰が入れたのか、この一首の意味するものは、そして何よりも林檎爺とは誰なのか、謎の霧に迷い込みながらの謎解きが始まりました。蝦夷の島根に朽ちる、蝦夷の島根とは北海道の半島の根っこ、函館の事か、吾妻の君や守らむ、吾妻の君とは関東の君主、徳川家のことか、少しわかってきました。自分は函館で死んでも魂は徳川家をお守りします、だとすればこれは五稜郭で死んだ誰かの辞世の一首に違いない、それは誰、うっすらと輪郭が現れてきました、意外にも新撰組の副長土方歳三の姿だったのです。
 林檎の箱から出てきた一枚の書付をめぐってあれやこれやと思索をめぐらしているうちにも月日は流れてゆきます。なんとなく気にはしていてもこれといった行動も取れないままに過ごしていたある朝のことでした。夢枕に立った老人が手に持った林檎を齧りながらにっこりと笑ったのです。前頭葉の活性化を待ってむっくりと起き上がってからの私の行動はいつもに似合わぬ迅速さでした。何かにせかされるように、朝食もとらずに飛び出して搭乗した10時35分発のANA853便が11時15分函館に着陸すると見えない糸に操られるように大沼公園にたどり着いたのです。一年前と同じように紅葉に彩られた湖沼を辿ってゆくと予期したとおりの光景が待っていました。
「遠いところをよく来てくれましたね」
去年と同じ場所に林檎を広げていたあの爺さんの一声が年来の疑念のベールを一枚だけ剥がしてくれます。
「やはりあなたでしたか」
「まわりくどいやり方でしたが他に方法が無くてね」
「それであなたは土方歳三のお孫さんですか」
「いや、歳三本人ですよ」
「まさか、本人なら174歳ですよ」
「いえ、死んだときのままですから34歳です」
「それじゃあ今の姿は誰かの借り物ですか」
「実態の無いものとでも言っておきましょうか」
どうやら土方歳三の亡霊らしいのですがよくはわかりません、そして何よりもわからないことは何故私がここに引き寄せられたのかということなのですが、そんなことも彼との話が進むにつれて明らかになっていくのです。 …続く
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [35]

幻の林檎(続きの2)

我々にとって夫婦での北海道は久しぶりのことです。小学生二人と幼稚園児、合わせて五人の家族が知床や摩周湖、洞爺湖など、それぞれの四季を訪ねる北の大地での生活を楽しんでいました。そんな生活に終止符を打っての転勤で帰京の折には、札幌から小樽、函館、長万部の温泉を回っての北海道さよならの旅、そんな思い出が今回の旅の行く先々で重なってあれやこれやの思いを巡らせていたのです。ところがこの旅行はそんな感傷に浸っているような場合ではなく、想像も出来ないような出来事への導入の旅だったのです。そしてこの時には少しも気付いていなかったのですが三十年前に家族で楽しんだ道程はその五十年以上も前に祖父が辿った道でもあったのです。
 函館朝市は毎朝近海で獲れた魚や烏賊、蟹、うになどの新鮮な魚介類や野菜などが並ぶ巨大な北の市場です。北海道最後の時間を楽しみながら土産の海産物を選んでいると脇から同行の仲間が声をかけてきました。
「これは昨日の林檎じゃないかしら」
りんご売りのおばさんに聞くと函館産だそうで見たところは昨日の林檎らしい。昨日の味が忘れられない6人がそれぞれ何箱かを自宅はもとより子供の家や友人宅に発注して楽しみいっぱいの帰宅だったのです。
余談ですが日本で最初に林檎を栽培したのは青森だと思っている人が多いのですが、実は函館の隣町の七飯町なんです。明治元年にプロシャ(現在のドイツ)の商人ガルトネルが榎本武揚と契約を交わして、七飯町付近に300万坪の土地を借り受けて林檎やブドウなどの苗木を取り寄せて本格的な西洋農業に取り組んだのが初めです。この農園は後に七飯官園となって北海道の農業を支えました。青森の林檎もこの農園で学んだ菊池楯衛が七飯町と気候の似ている青森で林檎を広めたのです。
三日後に届いた林檎は美味しいものでしたが、あの大沼公園の林檎とは何かが違うのです。もしかしたら種類が違うのかもしれないからそれも仕方ないかとあきらめたのですが、我が家に届いた林檎のダンボールには奇妙な書付が入っていました。
 よしや身は 蝦夷の島根に朽ちぬとも 魂は吾妻の君や守らむ   林檎爺
なんだこれは、林檎爺とは誰なんだ、送ってきたのは林檎婆じゃないか、念の為りんごおばさんに問いただそうと思ったけれど、友人達に聞いてもそんな物は入ってないと言うし、うっかり聞いたはいいけれどこちらが変人に思われるのもいやだと自問自答しながら「蝦夷の島根」を頼りに記憶を辿ると意外な人物が浮かび上がってきたのです。   …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [34]

幻の林檎(続きの1)

 昭和11年9月26日昭和天皇が乗船された戦艦比叡が室蘭港に入港したのが午前7時10分、日本製鋼所と日本製鉄に行幸された後お召し列車で旭川に向かいました。途中岩見沢で小休止して旭川には14時19分に到着し、休む間もなく第7師団司令部、旭川師範学校などを回られたのですが、これは釧路、帯広、札幌など2週間にわたる北海道一周行幸の始まりでした。そしてこの行幸にはある願望を胸に秘めて密かにその時を狙う男の影が、ある時は濃くある時は淡く付きまとっていたのです。
平成20年この年の函館は11月も中旬だというのに紅葉が盛りでした。お目当ての旭川動物園から登別を経て大沼公園にたどり着いた一行は五十年以上前の高校仲間に何故か無関係の私の連れ合いも加わっての男女六人旅です。
 駒ケ岳の裾野に広がる園内には大沼湖、小沼湖などの湖沼に大小126の島があって、その小島を結ぶ18の橋と散策路を辿りながらの紅葉狩りがこの時期の観光客を楽しませているのですが、ツアー客ともなれば時間の制限もあって未練を残しながらの戻り道でした。リアカーに林檎を並べた爺さんを目ざとく見つけて近づくと八つ切りにした林檎を差し出した爺さんが
「食べてみませんか、農薬を使ってないから皮ごと食べられるよ」
「青森から来たのかな」
「この近所で私が作ってるんだよ」
「函館で林檎が出来るなんて知らなかったよ」
さっそく口にいれて半分に噛み割るとサクッとした食感と共に果肉いっぱいに濃縮された蜜が溶け出して口中に広がります。
「買いたいけど荷物になるわね」
「ここでみんなで食べればいいじゃないか」
ちょうど6個の林檎をそれぞれが手にとって久しぶりのかぶりつきです。
こんな美味しい林檎は食べたことが無いと口々に絶賛しながら大振りのまるごとをぺろりと平らげてから爺さんに由来を問いただすと、この辺りでしか採れない種類で生産量も少ないから市場には出てないんだそうで爺さんがここで店を出していると聞き伝えた人たちがやってくる、売り切れればその日は店仕舞いで今日は少し残ったけどぼつぼつ店を閉めようかと思ってたところに我々が通りかかったという次第、運が良かったと言い合いながら爺さんに別れを告げたのでした。
 それから1年の後、この爺さんとの再会が奇妙な物語へと展開してゆこうとは思ってもみないことでした。   …続く
                           溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [33]

南の島巡り(続きの7)

 沖縄や奄美からの帰りに鹿児島を間近にした地域にさしかかると全天晴れ渡った海上にひとつだけ綿帽子をかぶった島があります。九州一の高さを誇る宮之浦岳が雲を呼んで「月のうち35日は雨」という気候帯を作り、沖縄や奄美と同じ亜熱帯地域にありながら亜熱帯から亜寒帯に及ぶ広範囲の植物に恵まれた島、これが屋久島です。そしてこの島はこの国のどこにでも生えている杉の木の南限で、この杉こそが屋久杉といわれてこの島の観光の目玉として珍重されている事はご存知の通りです。一般的には樹齢が300年といわれている杉がこの島に限って2000年、3000年、縄文杉にいたっては推定樹齢7200年という長寿の杉になるのは平地で年間4000㍉、山地で8000~10000㍉もの多雨に恵まれている屋久島の特殊な自然環境と屋久杉の特殊な樹脂が原因になっています。この島は花崗岩で栄養分が少なく、杉の成長が遅くなり年輪が緻密になって材は固くなります。そのおかげで通常の6倍の樹脂がたまり防腐、防虫、抗菌効果によって長生きしたのが屋久杉なのです。
 昭和59年の8月に家族5人で屋久島を訪ねました。この島へは飛行機と船が鹿児島から出ていましたが、世界遺産の話など噂にも出てこない時代ですからお盆といっても全国から人が押し寄せるような事もなく、島の中ものんびりとした空気が漂っていました。  
屋久島には山の遊び、海の遊びの他に川の遊びがあります。当時の屋久島にホテルがどのくらいあったのか定かではありませんが民宿が主体だったことは確かでしょう。到着した日の夕方、子供達を楽しませた海から宿へ戻ると民宿のおばさんが声をかけてきました。「明日の夜に宮之浦川の舟遊びが出来るんですけど如何ですか、ただし十人集まらないと船が出せないので他のお客さん次第なんですけど」もちろん即答しましたね。翌日白谷雲水峡の山歩きから戻ってくるとおばさんがにこにこしながら「船が出せますよ」にこちらもニコリで答えます。
十一人の客と宿の夕食を折りに詰めた弁当や飲み物を積み込んだ小さな船が水量豊富な宮之浦川を遡りはじめると、日没過ぎの森林が重い影となって迫ってきます。更に上流に向かうと川幅が開けて夜の帳を下ろした大宇宙には想像を絶する星達が満点を埋めています。涼風に吹かれながらのビールの後は周りの深い漆黒の奥から聞こえる虫の音に心を洗い、いつしか星に詳しい長女の星座講座が始まりました。世界の全てが止まってしまったような空間にゆっくりと流れて行くのは隣の種子島から打ち上げられた気象衛星ひまわり3号でしょうか。虫の音はいつまでも途絶えることはありませんでした。   おわり       
溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [32]

南の島巡り(続きの6)

 喜界島を訪ねたのは昭和60年のことでした。得意先との食事の後、連れて行かれたのはこの島いちばんといわれるクラブです。店内は薄暗いというよりは足元も定かでないというくらいの闇に近い状態です。この島では電力が不足しているのかしらと余計な心配をしながら、案内されるままにボックスに座を占めようとした瞬間、向かいの席に生き物の気配を感じたのですが具体的な像が浮かんできません。目が慣れてくるとともにその実態が明らかになってはきたのですが、その時の私の眼はまさに、不思議なものでも見るような眼だったのでしょう。ようやく私の後頭葉に現れた輪郭は三人の丸っこい女性でしたが三人が示し合わせたように大きな眼の周りを黒々と塗りこんでいるのです。
狸とむじなと、それから何だろう、不思議の世界に迷い込んだ気持ちのまま好奇心を高めていると予期せぬ出来事が起こりました。もそもそと立ち上がったむじなが、あろうことか私の隣席に座ろうというのです。「来ちゃだめ」という気力も無く、せめてむき出しの太い腕に直接触れないようにと腰をずらして身をすくめるほかありません。招待主はにこにこしながら「東京のお客さんだから大事に扱えよ」などと言ってるけど大事にしてくれなくて結構、後はもう逃げる算段で前頭葉をフル回転させていたのです。出された水割りを二杯ほど飲んだところで「ぼつぼつこのへんで」とさぐりをいれてみると、さすがに招待主も気配を察知したのかお開きにして満点の星空の下へ、虜囚が解き放たれた様な開放感で夜風を胸いっぱいに吸い込んだのです。
 少し歩いたところで「もう一軒いきましょう」、こんどは和風の造りで店の名は津軽、南の島で津軽とは何事かと思いながら店に入ると思いもよらず小粋な造り、一人だけでやっているママさんは失礼ながら予想外の垢抜けた美形です。こうなればもう狸やむじなの事はすっかり忘れて話が佳境に入ってくるとお定まりの身の上話、ところがこの話が意外な展開となるのです。
 店の名の通り津軽から上京した彼女は昭和38~9年ごろ両国から千葉方面に一駅の錦糸町でキャバレー勤めをしていました。そこへ通いつめたのが喜界島の色男、彼の真摯な情にほだされて一緒になりこの地に渡ったのですが奇縁というのはこのキャバレー、実はこの時期に私も工場の帰りに何度か遊ばせてもらったことがあるのです。幸か不幸か彼女との触れあいは無かったようですがもしも縁が強すぎて多少の触れあいでもあったとしましょうか、そんな事情がポロリとこぼれてでもしてしまえば嫉妬に狂った亭主が包丁逆手に飛び出してきてとんだ刃傷話になるところでした。切れたと思った過去もいつまた繋がりをみせるかわかりません、ご用心。   …続く
                        溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [31]

南の島巡り(続きの5)

 奄美の島はエアコミューターという軽飛行機で繋がれています。最近では新型機が投入されたようですが、当時は11人乗りの玩具のような飛行機でもちろん客室乗務員などは乗っていません。救命具の説明などを待合室で受けてから小さな梯子の様なタラップで乗り込みます。11人の客とパイロットというよりは運転手のイメージが強い一人とが狭い空間に詰め込まれると、それだけで死なばもろとも、運命共同体の一体感が広がるから不思議です。そんなフライト中に観る眼下の景色は絶景というほかありません、なにしろ低空を飛ぶのでサンゴ礁に囲まれた島々が色鮮やかに輝いているのです。そのかわりに厚い雲の下でのフライトは何か大きな損をしたような気分に陥ります。
 奄美大島のすぐそばにある喜界島への飛行は奄美空港からの直線距離で40キロ程度の道のりを更に小人数での飛行です。パイロットは短パンにゴムぞうり履きのお兄ちゃんが、あらよっ、という感じで乗り込んできて、何の前触れも無く飛び立ちます。このフライトの面白いところは、飛行距離が短いためにチョッとだけ飛んだと思ったらすぐに喜界空港についてしまい、その間は高波が来れば飛行機もろとも飲み込まれてしまうんじゃないかと思われるくらいの低空飛行で、手を伸ばせば届きそうな海面を少しばかりの不安を感じながら飽きずに眺めていられる事でした。
 この島は俊寛が流された島ということで有名なのですが、俊寛の墓というのがあって、荒れ果てた感じがかえってもっともらしく感じられます。
俊寛と言っても知らない人も多いでしょうが平家物語の中でも涙をさそう名場面の主人公なのです。俊寛僧都というからお坊さんなのですが、平家の横暴を憎んだ人たちが鹿ヶ谷(ししがたに)にある彼の山荘で平家を打倒する謀議をはかっていました。もっとも内実は単に冷や飯を食っている連中が愚痴を言い合っている程度のことなのですが、後白河法皇もご出席された座で不用意に盛り上がり、平清盛の知るところとなったあげくの一網打尽、俊寛は仲間の二人と共に鬼界島へ流されたのです。一年後に清盛の娘中宮徳子が皇子を身ごもり、安産祈願の特赦で鬼界島に流された他の二人には許し状がもたらされたのですが俊寛の名だけは無く、連れて帰ってくれと船にすがる俊寛を残して船は波間の彼方に消えていったのでした。その後召使の有王が娘の手紙を持って訪ねてくる話などが平家物語にはありますが一年後の1179年に自ら命を絶ったと伝えられています。この鬼界島が現在の喜界島だと言われているのです。
 さて、この島を訪ねた夜のことです。得意先に連れていかれたクラブの薄暗いボックスの向こうには異様な物体が潜んでいるようでした。  …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [30]

南の島巡り(続きの4)

 沖縄では海蛇をエラブウナギと言います、沖永良部島近辺で獲れる鰻ということでこの名が付けられたのでしょう。このエラブウナギを私も食する機会がありました。琉球王朝料理として珍重されているこの料理は普通の店では食べられないのですが沖縄一の料亭「那覇」の王朝料理を中心としたメニューの中に出てきたのです。料亭那覇は今でこそすっかり一般化してしまって5年前に団体で訪ねた時には35年前に圧倒された伝統も格式も色あせて見る影も無い寂しさでしたが昭和49年の頃には沖縄一の風格が満ち溢れていました。
 戦前の映画スターで舞台女優の岡田嘉子と言っても知る人もまばらでしょうが、この人は昭和13年に恋人の脚本家杉本良吉と一緒に雪の樺太国境を越えてソ連に亡命したのです。国境を日本からソ連に歩いて越えるなどということは今の人たちには想像もつかないでしょうが、当時は北海道の北にあるサハリンの南半分が日本領で南樺太と言っていましたから北のソ連領へは歩いて越えられたのです。その後彼女はモスクワの演劇界で活躍したりしていたのですが、昭和47年に初の里帰りを果たし大騒ぎになったのです。この年昭和49年に再来日した時に沖縄へ行きたいということになったのですが彼の地に全くの不案内、そこで少しばかり縁のあった私に「お守りしてくれませんか」と言う話になったのです。私といえば沖縄海洋博を一年後に控えて毎月二週間ぐらいは沖縄に滞在していましたので特段の支障も無く、お金の心配が無いようにと今までは沖縄に同行したことも無い上司も巻き込んでご案内役を務めたのです。
岡田嘉子さんはさすがにかっての大女優、そばにいるだけで虜にされてしまいそうなきれいなお婆さまと思っていましたが当時の彼女は72歳、今の私とほとんど同じと気がつけばわが身の程が知れてきます。その彼女を沖縄タイムスの上地社長が料亭那覇に招待してくれたのですが、その時のご相伴に預かったという次第、これこそ私がエラブウナギを食したいきさつなのでした。この時の料亭那覇は琉球王朝の料理ですがその中で気になった料理がありました、豚の角煮なんですが油っけが全く無いのです、味もあっさりしていてそれでいてとろりとした美味さ、興味津々でそれとなく聞いてみました。豚は茹でて油を落とす、それから改めて鰹節のだしで煮込む。それ以上のことは教えてくれませんでしたがそれだけ聞けば後はなんとかですね。料亭那覇は料理の数々はもとよりそのもてなしが見事でした。普段はめったに客前で舞うことも無いと言われた当時60歳ぐらいかと思われる女将さんが突然舞台に立って見事な踊りをみせてくれたり、とにかくひとつひとつが絵になっていたのです。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [29]

南の島巡り(続きの3)

背中全体に手が届かないままオイルの塗り残し部分はそのままに、気持ちよく泳いで予定の便で家に帰ったまでは良かったのですが、なにせ世論島の日射しを浴びたオイル塗り残しの背中は真っ赤に焼けて苦しみの始まりです。運の悪いことに翌日は得意先数十人を北陸の山中温泉へご招待。私一人が先行して午後の二時頃に旅館に着きました。先ずは温泉にと大浴場に来てみると手持ち無沙汰にしていた五人ほどの若い湯女達がお出迎え、早速背中を流してくれるのですが熱い湯をかけられたとたんに飛び上がりましたね。そして湯女からその変な形に焼けた真っ赤な背中を見て「どうしたんですか?」と聞かれれば「与論島でかくかくしかじか」と答えます。
「あら、与論島ですかぁ、素敵、私行きたかったんです、触らせてもらっていいですか?」いやだとも言えずにいいよといえば遠慮なく触りまくられて痛さと共に妙な感覚に苛まれていると「このお客さん与論島で焼いたんだって」の一声に残る湯女達全員が「触らせてください」と飛んで来ました。どうなることかと身をすくめていると真っ赤になった背中をぱちぱちとたたかれて、とにかく大変なもてよう、歌舞伎の助六でいえば「煙管の雨が降るようだ」の心境です。余談ですが昔の吉原では花魁(おいらん)達が煙管(きせる)の煙草に火をつけて、それを好きな男に吸わせる、同じ煙管に二人で交互に口をつける、要するに間接的なキッスです。助六はこれを何人もの花魁からせがまれるので「煙管の雨が…」になるのです。話を戻しますが彼女達にもてたと言っても与論島がもてただけで私がもてたわけじゃない、ただ痛かっただけの事でした。
奄美の島々は猛毒の蛇、ハブで有名ですが与論島にはハブはいません、そのほか沖永良部島、喜界島を含めた三島には生息していないのです。なぜこの三島だけにいないのか諸説ありますが、もっともらしいのは高低差説。ハブは大昔の氷河期に沖縄や奄美諸島と地続きであった大陸から渡ってきたけれど、氷河期が終わって海面が上昇すると海面に没する島にいたハブは死に絶えてしまった。それがハブのいない島だと言うのですが人や物の交通の頻繁な現在では荷物に紛れていくらでも移動できると思うので土壌の違いとか何か別の理由があると思うのですがね。
ハブのいない沖永良部島にはハブがいない代わりに猛毒の海蛇がいます。海面上昇で海に沈んだハブが進化して海蛇になったという説はまだ無いようですが少し研究してみましょうか。この海蛇が沖縄では琉球王朝の料理として珍重されていました。私も食したことがあるのです。   …続く

                         溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [28]

南の島巡り(続きの2)

 台湾とは指呼の間にあるこの島はマラリアの発生地でもあった為に定住が困難で開発が遅れて大自然が残されました、もちろん今ではマラリアも根絶されています。何が幸いするかわかりませんね。この自然は残しておきたいものですが近年のように観光客が入りすぎるとちょっと気がかりです。毎年風速60メートル級の台風に襲われるこの島は高い樹がありません。それでも鬱蒼としたマングローブの林を両岸に観ながら、川幅は100メートル、河口では200メートルにもなるという水量豊富な浦内川を船で遡ってゆくと、鰐でも出てきそうで、ここは日本ではない、アマゾンじゃないのか、の想いが込み上げてきます。時には西表山猫が水面を渡る姿も観られるという案内人の話にわくわくしながら舟遊びを楽しんだ後はこの川の河口で獲れたマングローブ蟹でビール。これだけでもう何の不満も無く、憧れの西表島への旅は終わったのでした。
 沖縄と奄美の島々はサンゴ礁に囲まれたコバルトブルーの海が最大の魅力ですが、その中でも与論島は一番のご贔屓で昭和59年から5年間、夏には必ず訪ねていました。この島でのお定まりのコースは熱帯魚とのお遊び、百合ヶ浜近くの砂浜から漁船に乗せてもらってスポットに行きます。シュノーケルをつけて静かに波間に浮かぶとそこには色とりどりのサンゴと熱帯魚の群れ、人差し指を突き出すとチョンチョンと親愛の情を寄せるようにつついてきます。なんとも可愛いい情景なのですが、実はこの熱帯魚達、体が小さい割には気が強くて縄張り意識が強烈なのです。だから人差し指をつついてくるのは親愛の情ではなくて縄張りへの侵入者を追い払う行動なのですが、そんな理屈はわかっていてもこの可愛いいお友達とのお付き合いの為に毎年この島を訪れたのでした。
 昭和60年の夏のことです、それるはずの台風がまともにこの島に上陸しました。そのおかげで得意先とのゴルフは中止、早めに島を離れようとしても飛行機は飛ばずにキャンセル待ちの大混雑。台風は予定より早く通り過ぎてカンカン照りになっているのですが飛行機の出発地が台風に襲われていて飛べない状態。予約済みの三時のフライトは間に合いそうだということでそれまでの時間つぶしを探しました。空港の近所には何も無い所でしかも私一人、そういえば途中に海水浴場があったと思い直してタクシーでひと走り、シャワーの設備だけはある浜辺に出て、背中にオイルを塗りたいのですが自分の背中にまんべんなく塗れるほど器用ではない自分にいらいらしながら売店のおばちゃんでもいれば頼もうかと思っても売店も無し。若い女性が何人かはいても彼女達に「背中にオイルを」などと言ったらエロ中年と思われるのがおちだからあきらめて塗り残しのまま泳いだのです。…続く
溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [27]

南の島巡り(続きの1)

 10月3日のNHK番組「美のメロディー」は久しぶりに楽しめるテレビでした。ご覧にならなかった方に簡単にお話しますと川井郁子、村治佳織、平原綾香など、腕自慢のきれいどころが一堂に会してコラボレーションを楽しむという、民放の真似ばかりしている最近のNHKにしては貴重な企画でした。
 この番組に出演したジャズピアニストの上原ひろみが清水ミチコとのトークの中で、お奨めの島として挙げたのがポルトガルの何とかいう島で、その島は飛行場が唯一の観光スポットなんだそうです。飛行機が着くと島中の人がお出迎え、飛び立つときにはまた全島民がお見送り、飛行場の隣の牧場では柵に頭をのせた牛達が見送ってくれる、それだけの島なんだそうで、それがなんとも浮世離れしていて嬉しいと言ってました。実際には迎えられたり見送られてると言うよりは観光に来た人たちのほうが島民や牛達に楽しまれているのかもしれません。そしてもうひとつ、この島には信号機がひとつだけあって、何の役にもたっていないけれど、信号機があるということが島民達の自慢の種なんだそうです。島などというものは何も無くてもいいのですが、何かひとつ独特な自然があればそれが一番だと思いますね。
 信号機が島にひとつだけということで思い出した島があります、平成2年のことですから19年前の西表島なんですが、私は半島とか島とか、とにかく海に囲まれている感じのするところが好きなのでいくつかの島を訪ねています。もっともずいぶん昔の話で20年から30年前の話ですから今とはずいぶん違うでしょうが、今では見ることも出来ないような島のあれこれをお話すれば島の変わりようが多少なりとも明らかになるのではないかと思います。
 仕事で沖縄へ行ったついでに西表島への手配は沖縄駐在の友人にお任せして、那覇から石垣島へ行きそこから船で西表島なのですが、その日一番の飛行機で石垣島に着いてみると一日一本の西表島への定期便は出たばかり、那覇からその日のうちに西表島には着けないようにしてあるのです。もちろん石垣島に泊まらせてお金を落としてもらうためにです。そう言われてもこっちはそんなにのんびりしてもいられません。そこは友人がしっかりと快速船をチャーターしてくれていて片道1万円、30分ほどで憧れの島に着きました。桟橋で友人の得意先の製糖会社の工場長の出迎えを受けると島のスポットを案内してくれるという思いもよらぬ申し出にわくわくしながら全てはお任せの道中の始まりです。真っ先に出会ったのが“島にひとつの信号機”必要ないのだけれど島民がよそに行った時に信号機を知らないと困るからその為に設置してあるんだそうで、なるほどと合点の心持がこの島への期待を高めました。    …続く
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [26]

席の譲り(後編)

 席を譲りたくなる人と譲りたくない人、こちらも人間ですからそんな事はどうしてもあるわけなんです。私に関して言えば女性については好き嫌いはほとんど無いですね。ただしあんまり太ってる人だと両脇に座ってる人が迷惑だと思うから躊躇したりするのが悩ましいことなのですが。それよりもお腹に赤ちゃんのいる人と老婦人、どちらに譲るかといえば迷うことなく妊婦です、子供は国の宝ですからね。老人も宝だと言われてきましたが宝もこれだけ増えてくると希少価値が無くなってね、例えてみればダイヤモンドの大鉱脈が見つかってシンジケートの価格調整も出来ずに大暴落したようなもんですよ。減ってゆく宝の価値と増えてゆく宝の価値の差は歴然ですね、仕方の無いことです。
それで男の方なんですがこちらはどうしても好き嫌いが顕著でね、特に威張った感じの男や席を譲るのがあたりまえだという雰囲気を漂わせながら人の顔をじろじろ見たりする奴だと意地でも譲りたくない。清潔感の無いのもいやですね、枯れた感じの人だと素直に席を立てますよ。私が席を譲られることが多いのも黙ってつり革につかまり、車内広告などをさりげなく見ていて物ほしそうにしていないからかもしれません。多少は計算した行為でもありますが。
先日には小学生に「どうぞ…」と言われました、これは嬉しかったですね、残念ながら降りる駅の前駅だったもんだから感謝の言葉を並べながら丁重に辞退しました。その子にしてみれば勇気を奮っての行為だったのかもしれないからがっかりさせるわけにはいきません。そういえばせっかくの好意を素直に受けられない人もいますね、「私は年寄りじゃない」とか「私は立っていたいんです」なんていきなり言われると、そうかい勝手にしろよって言いたくなる。たとえそうでもありがとうの一言ぐらい言ってからにしてもらいたいですね、浮かした腰の落ち着かせ場所に困ります。それから譲った席の隣が空いた時には譲られた人に席を返すのが当然だと思うのですが「ここ空いたわよ」なんて言って連れの若いのを座らせたりする、そんなことでいやな思いをすると席の譲りも難儀なものなんですよ。
忘れられない思い出があります。三十年も前の話なんですが会社の帰りの車中で老婦人に席を譲ろうとしたんですよ、そしたら何と言ったと思います?
「お仕事でお疲れなんでしょ、私は遊んできたんですから、どうぞお座りになってて下さいな」
恐れ入りましたね、この言葉、いつか使いたいと思っているんですが言えないんですね、ちょっと照れくさいのと、本当を言えば座りたい気持ちが強すぎて、今更ながらこのご婦人の凄さにわが身の未熟を感じます。  
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [25]

席の譲り(前編)

 幼稚園の祖父母参観に引っ張り出された帰りの地下鉄、大手町から乗り込んできた八十歳をちょい越しとおぼしきご婦人に席を譲ったら「ありがとうございます、あなただってお年なのに」と言われたのには参りました。確かに私も“お年”には違いないのですが、十歳以上も年上とみられる人に言われたんじゃあ立つ瀬がありません。それでも快く受けてくれたんだから心の傷にはなりませんが、席を譲るって事はむつかしいんですよ。
 最近はおかげさまでよく席を譲られます、その一方で席を譲ろうかどうしょうかとタイミングを失って困っている人を見ると、ひと時代前の自分を思い出したりして面白いんですよ。席を譲るということは敬老精神があれば出来るということでもないんですね、もちろん妊婦さんや体の弱い人には何を置いても譲るのですが年寄りに席を譲るのは簡単ではないのです。
 古今亭志ん生が三軒長屋のまくらで好きな人と嫌いな人の機微をこんな風に語っています。
電車の中なんぞで腰掛けてる人と立ってる人の気が合ったりするとなにかその人を座れせたくなるんですな
「どうぞ、狭いけどどうぞ」
「すいませんな、どうも」
「いいんですよ、どうぞお掛けなさい。あなたお住まいはどちら」
なんて心安くなったりするんですな。
そうかと思うといやに座らせたくねえ奴がいる、そうするってえと立ってる方もいやな奴だと思うから
「ちょっとそこんとこ空けてくださいな、ね、空けて下さいよ」
「だめだよ、いっぱいなんで」
「もっと寄りゃいいじゃねえか、お前の電車か、これは」
なんてね、気が合わないということはどうしょうもないもんで。
 よく分かりますねこの話、若い頃に気品のある老婦人に席を譲ったら「あなた、お席を譲っていただきましたよ」の一声で現れいでたるは元気そうな爺さん、俺はこのご夫人に席を譲ったのでお前なんかに譲ったんじゃないぞ、と言いたいけれどすでにこの席の占有権は老婦人に移っているのでいまさらの話、その爺さんが「ありがとう」の一言も無く席を占めるのをみれば、余計な事をしてしまったと後悔の海原に漂ったりして、善意も必ずしも思い通りには通じないものですが席譲りをやめるわけにもゆかない、そんな事を繰り返しの何十年だったですね    …続く
                          溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [24]

実録・振込め詐欺(続きの5)

 ちょっと待て、と言う間もなく詐欺師からの電話は切れました。すぐに偽メールで伝えられた番号に電話すると「….ただいま使われておりません」元の番号に電話すると息子に通じて「番号変更のメールなんてしてないよ」、やっぱり偽メールかと得心していたら改めて息子から電話で「おれおれ詐欺じゃないの、被害は無かったの、気をつけなきゃだめだよ」。と言われて苦笑するほかはありません。それにしても残念でした、もう少し引っ張りたかったのに演技が下手で気付かれたのかもしれない、惜しいことをしました。そんな話をしながら一座の話題は再び旅行の話、それも次回の話に移ってゆきました。
 間仕切りを挟んだ隣の小部屋からのひそひそ話しは酒の勢いに乗って声高になったのでしょうか、かすかに聞こえるほどになっていました。とぎれとぎれの話がちょっと気になる話に繋がって、焼酎の酔いの勢いも重なって壁に耳ありの状態を楽しみだしたのです。
「…それでさあ、メールを仕込んだんだよ」
なんだか聞いたような話に壁の耳へ全神経は集まってゆきます。
「息子の名前から何処に勤めてるとか、話し振りまでしらべて、その上に偽のメールまで打っといたんだから準備は完璧だと思ってね、これはもう自信満々で電話したのよ。出てきた相手は何の疑いもなく話しに乗ってね、これは巧くいったなと思ったんだけど何か変なんだよね、僕を息子と思い込んでるのはわかるんだけどぶっきらぼうな調子が僕の親父そっくりなんだ、なんだか親父と話してるような気分になってきてね、調子が乗らないんだよ、親父にはしばらく会ってないし迷惑ばっかりかけてるからね。女の子に怪我をさせて百五十万かかると言えばすぐに俺が出してやろうって言うかと思ったら「そんなお金がお前に出せるのか」だもんね、意地でも出せないとは言えないよ。そんな言い方が親父にそっくりなんだ。そんなことを思ったらもう何も言えなくなって退散しちゃったよ、不覚だね。」
おやおや何ですかこれは、まさに僕の相手の詐欺師じゃないの、それが隣にいるなんて事が本当にあるのかと迷いの耳をそばだてたけれど間違いはないらしい。これはひとつどんな男か確かめて見なければと思っていると「溝口さん、どうしたの」の声、焼酎の残りを飲み干して立ち上がりトイレに立つふりをしてちらりと隣席に目をやるとテーブルをきれいに取り片付けられた無人の空間が人待ち顔で微笑んでいました。     おわり

                         溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [23]

実録・振込め詐欺(続きの4)

 その頃の私は当時「おれおれ詐欺」と言われていた振り込め詐欺の電話を待ち構えていました。身近の人の何人かに電話があったのに何故私には無いのだろうか、お金の無いことが世間一般に知れ渡っているからなのだろうか、といろんなことを考えながらもいつかは来ると心待ちしていたのです。
「雅夫です…」と息子の名で電話があったのはある日の午後もだいぶ過ぎてからですがいつものぶっきらぼうな調子に「おう、どうした」と応酬しながら、ちょっと不自然なものを感じました。来たっ!、待ってたものが来た。
「お父さんだけには知らせとこうと思って電話したんだけど」
「ふ~ん、何かあったのか」
「この話は誰にも話してないんでお母さんにも話さないでもらいたいんだけど、一ヶ月ほど前に居酒屋で仲間が相客と口論になってね、仲裁しようとしたら女の子に触れて彼女は倒れてしまってちょっとした怪我をしちゃったんだよ。
あ、そうだ、ちょっと風邪ひいてて声が変わってるけどごめんね」    
いよいよ来たぞとにんまりしながら
「女の子に怪我させたらいけないよ、それでどうしたんだ」
「それでお金で解決しようという事になったんだよ、百五十万でね」
ほら来たぞ、その金を貸せって言うんだろう、筋書きは陳腐だなと思いながら
「大金じゃないか、そんな金お前に出せるのか」
「うんちょっと苦しいけど、それよりも10日ほど前に携帯の番号が変わったの連絡したよねえ」
あっ、背中に冷たいものがすーっと流れました。確かに息子の名で携帯の番号が変わったというメールが入っていて、何の疑問も抱かずに新番号に訂正していたのです。それではあれは偽メール?そんなことがあるの?もしかしたら今話してる相手は息子本人?いやそんなことはない、絶対に息子ではない。
見事にやられたな、それにしても恐ろしい相手だ、いや感心してる場合じゃない、ここは体勢を立て直して冷静に
「ああ、メールは受け取ったよ、番号も変えといた」
「ありがとう」
「それでどうするんだ」
「うん、金はなんとかするよ、また何かあったら電話する、お父さんにだけは話しておきたかったんだ」      …続く

                         溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [22]

実録・振込め詐欺(続きの3)

 ビールから焼酎のお湯割りに変わって、最近の薩摩は黒焼酎が美味いなどと言いながら振り込め詐欺の体験話は佳境に入って近郊の旧家出身の元お嬢さんが話しに割ってはいります。
「私の時も泣いてるのよ、しくしく泣いてるのを聞いたとたん私言っちゃったんです、靖男なの?どうしたのって、靖男は息子なんですけどね。そしたら相手がそうだよって言うので、それでもうなんの疑いも無く息子だと思い込んでしまったのね。それで車の事故を起こしたんだけど免停になると困るからお金で解決したいと言われて、いくらいるの?二百五十万?どうすればいいの?と自分でも何を言ってるのか分からないくらいに気が動転してしまってたんですよ。そしたら銀行へ行ってから電話してくれっていうからお母さん携帯なんか持ってないじゃないって言ったら、あれっそうだったっけ、じゃあこれから言う口座番号へ振り込んでと言われて急いで支度して出かけようとしたんです。ところがさっき口座番号を書いたばかりのメモがみつからないんですよ。仕方が無いから息子に電話しようと思ったけど息子の携帯の番号がわからなくて、私もう気が狂いそうになって座り込んじゃったんです。それでもなんとかしなきゃと焦ってるうちに息子の友達を思い出して電話したんです。そしたら何かあったんですかって言うので、こんな話は言いたくなかったんだけどつい話したんですよ。おばさんそれはちょっとおかしいんじゃないですか、僕が靖男君に確かめてみますと言われたので、いいえ靖男に間違いないから早く携帯の番号を教えてって言ったんですけどちょっと待って下さいと言われて切られたんですよね。もう私はどうしていいか分からなくなってたんですけどすぐに息子から電話があって私がだまされてた事がわかったんです、口座のメモはテーブルの下に落ちてましたけどね。私が慌て者だから助かったんだって息子は笑ってたけどもうショックよ、簡単にだまされたんだから」
「それで口座番号はどうしたの」
「もちろん警察に電話したわよ、でもねそれっきりよ、口座が見つかったのかそれでどうしたのかぐらいは連絡してくれてもいいでしょ、それが何も言ってこないの、せっかく協力してるのにね」
「そうするとね、振り込め詐欺はみんな泣きながら電話してくるのかね」
「僕のところには落ち着いた声で電話してきたよ」
私の出番が来たようです、三年前のことですが受話器を取り上げた時、見事に仕組まれた末の電話がかかってきたと言う事に私は全く気付いていませんでした。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [21]

実録・振込め詐欺(続きの2)

 想定外の展開に体制を立て直そうとする電話の男と疑問を持ちながらの城山さんとのやりとりは続きます。
「それで振り込むお金はいくらなの」
「えっ?あの~二百万です」
「葬式の費用なら後払いでもいいんだろ」
「そうですね、じゃあまた電話します」
一方的に切られた電話にしばしの間真っ白状態になった城山さんも思い直してお父さんに電話したそうです、お父さんはすぐに電話口に出てきました。
「なんだおまえか、今頃なんだ、何かあったのか」
「いや別に、ちょっと親父の声を聞きたくて」
「おまえ何かおかしいぞ、声も違うし、振り込め詐欺と違うのか」
城山さんのほうから振り込め詐欺に気をつけろと繰り返し言ってるだけに、振り込め詐欺の電話だと思い込んだらもう何を言っても聞くもんじゃない、間違いなくあなたの息子だと納得させるのに苦労したようです。
それにしても思い込みというのは恐ろしいものですが、その思い込みのおかげで詐欺男のマニュアルからは想定外の展開となって被害にあわずに済んだのはなによりのことでした。
 そういえば私のところにも去年あったんですよ、これは還付金詐欺ですがね。市役所の健康保険課の者だと名乗った後、あなたは過去7年間に渡って診料費を払い過ぎていました、そのお金をお返ししますと言うんです。貰えるものなら何でも嬉しいですから、いくら返ってくるんですか、と聞くと7万2千円の払いすぎがありましたのでお返しすることになりましたので手続きして下さい、手続きの方法は先ずこれから私の申し上げる番号に電話してください、よろしいですかと一方的な口調でいかにもつい先ごろまでのお役所風。何番か忘れたけどとにかく電話番号を言い終わると、すぐに電話してくださいね、と念を押してから電話は切れました。こんな風にとんとんと話を運ばれるとちょっと待てよ、そう簡単に7万2千円に釣られるわけにはいかないわけで早速市役所の健康保険課に電話してみると「市役所から電話でお伝えすることは絶対にありません」の一言、でこの話は面白くも無く落着なんですが引っかかった人もいるんでしょうね。言われた番号に電話して、誘導されるままにいつの間にかお金を払わされていた、そんな人もいるのかもしれませんよ、ご用心。
 閑話休題、居酒屋での話はぼつぼつ佳境にはいってきました   …続く

                          溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [20]

実録・振込め詐欺(続きの1)

 夏の終わりというよりも秋の入り口、夏にしてみれば今年の夏は短かかっただけに「もう夏は終わりかよ」と言われるのがくやしくて、せめてもう一日と必死にがんばったような、季節外れの暑さがビールへの恋心を呼び起こされる日のことでした。市民大学といえば聞こえはいいけれどつい最近までは老人大学と言われていた暇人の集いなのですが、ここで一年も付き合っていると妙に同士感情も芽生えて、卒業した後もなにかと理屈をつけての集いの後、「暑かったねぇ~軽くやっていかない?」の一言がすかさずの同調を呼んで居酒屋の一角へと座が運ばれてきたのです。
 座が決まれば先ずはビールですね、家では第三のビールでもここでは久しぶりの本当のビール、つまみはお好みでそれぞれが注文しながら話は先日の旅の話になります。旅の話がひと段落ついたところで鹿児島出身の城山さんが話し始めました。
「受話器を取ったら電話の向こうで誰かが泣いてるんですよ、その瞬間ですよ、山川さんだッと気付いたのは、正確には気付いたんじゃなくて私が勝手にそう思い込んだんですがね。実を言うと田舎には親父が一人で住んでいて隣の山川さんという人に世話をしてもらっているんです。その山川さんが泣いてると思っただけで親父に何かあったんだと、もうそうなったら頭の中が勝手に回りだして、誰と誰に知らせようかとか、カレンダーを見ながらこの日は友引だから葬式は出来ないとか、思い込みの迷路に迷い込んでるんですが迷い込みながらも山川さんどうしたの、親父に何かあったのと聞いてるんだけど相手は泣くばかりなんですよ」
「でもなんかおかしいよねぇ」
「私も少し冷静になってきたんで、あなた山川さんでしょ、何があったのって訊いたんです、そしたらお金がいるから振り込んでくれって言うんですよ。だから私が明日一番の飛行機でそちらに行くから必要なお金はその時に渡すって言うと、今すぐ振り込んでくれなきゃ困るって言うんでさすがに私も何かおかしいなと感づいたんです。あなた山川さんじゃないのって言ったら、そうですよと言いながらとにかくお金を振り込んで欲しいと繰返すんです。何に使うお金なの?お葬式の費用なの?と訊くとちょっと沈黙があってから、そうお葬式のお金なんですと調子をあわせてくる。どうも振り込め詐欺の気配なんですね。
「その男もびっくりしたでしょうね、いきなり山川さんでしょなんていわれるのは想定外だっただろうからね」
「私も勝手に親父を殺してしまって、親不孝な息子ですよ」   …続く
                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [19]

空白の2秒(続きの5)

 キッス問題で敗退した中高年もショックを乗り越えて復活しました。手をさし伸べたのはテレビ局でスローガンは原点回帰、テレビジョン発祥の時代に戻って別れの時を静かに楽しむことにしたのです。
 1953年に本放送を開始したテレビは民放局が各地に設置した街頭テレビの成功でラジオの時代からテレビの時代に移行してゆきました。まだ一般家庭のテレビが珍しい時代でしたから電気店の店先や喫茶店、特に街頭テレビの前には黒山の人だかりがしていたのです。人気番組は野球の日本シリーズ、大相撲は栃錦、若乃花の時代で沸いていたのですがなんといってもプロレス中継が一番でした。木村や遠藤などの日本人レスラーがシャープ兄弟などの外国人レスラーに痛めつけられてまさにギブアップというその時、颯爽と登場する力道山が空手チョップを振るって巨漢レスラーを打ち倒す。まだまだ敗戦後の西洋人コンプレックスを残していた人々はうっぷん晴らしの喝采をおくったのでした。
 民放局が用意した各地のドーム球場には巨大なスクリーンが設置されてテレビジョン草創期の映像を流します。スタンドに座席はあるのですが街頭テレビの昔に帰って全員がグランドに立ち尽くして画像を楽しみながらお別れの時を待つのです。この企画が発表されると応募が殺到して収集がつかず、別の会場も増設するという騒ぎになったのでした。
 2011年7月24日、日曜日で大安のこの日、それぞれの年代でそれぞれの楽しみ方をしながらアナログテレビに別れを告げたこの国の人々は、翌日には何の抵抗も無く地デジの世界に取り込まれていったのです。
 世の中は地デジの天下になりました、BSがあるといってもあくまでも添え物で地デジの天下は揺るぎません。怖いものが無くなると気になるのはあの空白の2秒の存在です。アナログはきっちりと24時に消えたのですから何の落ち度もありません、そうすると空白の2秒は地デジが遅れたから発生した2秒だということになるのですが、天下を取った地デジにとってこんな汚名は我慢出来ない事だったのです。歴史は常に勝者によって作られます、記録の改ざんなどはいつの時代にも行われているのです。ある日のある時間に国立図書館をはじめとした全国の図書館からある記録が消えました。翌日戻された記録にはこんな風に記されていました。「2011年7月24日アナログテレビは2秒を残してその日の放送を終えました」。こうして空白の2秒はアナログが早く終わりすぎたために出来たもので地デジには何の落ち度も無いことになったのです。
 地デジの天下は万全なものになったのでした。 

                          溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [18]

空白の2秒(続きの4)

 キッス騒動は一部の教育関係者、道徳的な人たちからの異論はあったもののそんなものはあっと言う間に押し流されて世論は確定的になってきました。こんな風潮の中で妙に高ぶっている中高年を横目に見ながら若い人たちは冷静です。「この日を若者達だけの日にしようプロジェクト」を立ち上げた彼らはこの特権を未婚の18歳から29歳までの男女に限るという年齢制限を主張し始めたのです。当然のことに30歳代の女性から異議が出て29歳の根拠を問われたプロジェクト委員の公式見解は「本来ならば娘盛りに限るところだが中年増(ちゅうどしま)も加えた。中年増の解釈は三省堂の大辞林に書かれている~29歳位までの女性~を参考にした」というものでした。あきらめきれない30歳代女性群は同じ三省堂の広辞林には30歳までと書いてある事実を根拠に「せめて30歳までと懇願した結果これが認められて18歳から30歳までに確定したのです。この議論の間に男性についての話は皆無で、女性の添え物としてしか扱われなかったのは若い男性の地位の低さを象徴していたのかもしれません。もちろん中高年からの不満も無かったわけではありませんが「エロ爺」と言われるのが怖くてすごすごと引き下がった男性たちをみて中高年女性も沈黙を守ったのは賢明なことだったのしょう。
 この時まで事が民間主導に流れ始めるのを片目で様子見していた政府がようやく動き始めました。少子化問題担当大臣の提案でこのイベントを婚活決定版にしようというのです。会場は武道館をはじめとして各地域に設定し、ここで結ばれたカップルには結婚費用のうち50万円を補助、子供が生まれた場合には出産費の全額補助に加えて100万円の祝い金と保育費の全額補助という大盤振る舞いを提案したのですが若い人たちは意外に冷めていて「その時はその時の話」と政府の話をまともに捉えないのは彼女達も政治の本質をわかってきたからなのかもしれません。
 いつの世でも楽しげにはしゃいでいる人をみると邪魔したくなる人がいるものですが、少子化問題担当大臣のライバルがひきいる健康省もまたその例にもれず、キッスは新型インフルエンザの蔓延を招きかねないといちゃもんをつけたのです。たしかにこれは避けて通れない大問題であることは誰もが認識していたことなのですが、若い女性のパワーに圧倒されて誰も声を上げられなかっただけに、健康大臣の勇気を称える声もちらりとあがったほどでしたがもはやこの勢いを止めることは出来ず「愛は万病の薬」だと、わけのわからない理屈を唱えながら、「プツ…シャー」の興奮とキッス、そして願わくば婚活の成就の時へと照準が定まったのです。  …続く           
                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [17]

空白の2秒(続きの3)

 この医師の一言に慌てたのが事務省の役人でした。自分たちが仕掛けたこの日に大量の死者でも出れば世の批判を浴びることは間違いありません、すぐに「後期高齢者は24時以前に就寝することが望ましい」との大臣談話を発表して責任の回避をはかったのです。最近は一日が24時で終わるということは誰でも知っているとは言えない時代になっています。かっては24時になると国旗がはためき国歌が流され「今日もこれで終わり、さあ寝ましょうか」と言う時代があったのですが、もうずいぶん前からテレビがとりとめもなく続いて毎日の切れ目が無くなっていました。そんな時代に24時にテレビが「プツ…」と消えてその日が終わる感触を久しぶりに味わえると期待したのが古い時代を懐かしむ高齢者に多いのは当然のことなのでしょう。その久しぶりの楽しみを奪われた後期高齢者達が冥土への土産話にしようかと一斉に発言し始めたのです。
 去年の総選挙の時だってそうですよ、テレビ系の調査会社から電話があったんです。世論調査をしているんですが20歳から50歳代の方はいらっしゃいますか?と聞かれたんでうちには居ませんよと答えたら、それだけでさようならでは心象を害されると思ったのか「何歳代ですか」「投票に行きますか」と当たり障りの無い質問を二つだけしてさよならですからね、年寄りを馬鹿にしてますよ、60歳以上は調べても意味が無いと言ってるのも同じじゃないですか。だいたい後期高齢者なんていう言葉自体が「もう先が無いよ」と姥捨て山の指定席を薦めるようなもので人間扱いしてないんですよ、後期の後には死期しか残ってないんですから。定額給付金で手なずけたと思ったら大間違いだよ、もっと別の使い道があるだろに無駄なばらまきをしただけじゃないか。とにかく後期高齢者の医療制度を廃止させなきゃだめだよ。そうだ年寄りいじめの医療制度は廃止させよう。風向きが変わって話は事務省の管轄から健康省の管轄に飛び火しました。慌てた健康大臣が後期高齢者の名称を「高貴高礼者」と改めたいと発言してももはや誰もだまされはしません。やむなくこの制度を廃止して元の健保に戻すことでなんとか老人たちの反乱をくいとめることが出来たのはとりあえずの目出度し目出度しでした。
 老人たちがお上に楯突いている頃、若者たちの間に嬉しい噂が広がり始めていました。20011年7月24日アナログ時間の24時ちょうど、その時間に限って誰とでもキッスが出来るというのです。欧米では大晦日にそんな風習があるとは聞いていましたがまさか礼節と道徳を重んじるこの国でそんなことが許されるわけがないと聞き流しているうちにどうやら真実味をおびてくると老若を問わずどきどき感を禁じ得なくなってきたのでした。   続く…
                              溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [16]

空白の2秒(続きの2)

 24日派と25日派の対立が抜き差しならない状態となって話し合いはもはや決裂、答申は見送られるかという瀬戸際になると、頃合を見計らっていた委員の一人が「しばらく、しばらく」と割って入ったのです。人は皆平等、全ては公平にを金科玉条にして生きているこの人の主張は「全ては平等にしましょう、 1秒ずつ2日に分け与えればいいじゃないですか」結局は大山鳴動して鼠一匹、足して2で割るというこの国の伝統的美徳で解決されたのでした。
その一方でがぜん色めいたのが広告業界です、これだけの話題を集めている2秒を広告料に換算すると莫大なものになります。降って湧いたような特需に各広告会社はプロジェクトチームを立ち上げて空白の2秒間の囲い込みを策したのです。7月23日が大暑、年間で一番暑い日ですから24日だって熱帯夜になることは当然予想されて、寝苦しいこの夜にアナログの最後ともなれば空前の視聴率となることは間違いなく、ここはスポンサーとしても乗り処で空白の2秒間のCM枠はプラチナの2秒となって難なく売り切れました。ところがこの2秒はさて実際にとなるとはめ込み処が無いのです、考えてみれば「空白の」といっても実は架空の2秒間だということにようやく気づいたのですがすでにこの2秒は売り切った後、さてどうするのかと見ているとさすがは譲り合いの心を持った国だけにすでに指定席にいる60の秒が少しずつ席を詰めてこの2秒は難なく収まってしまったのです。
こうして出現したプラチナの2秒に更なるブームが起こったのもマスコミと広告業界あげての作戦結果なのですが、当初はそんなことには誰も気付いてはいませんでした。7月24日まで残すところ半年になった頃、若い女の子たちの間ではアナログの臨終の場が話題になり始めていました。「7月24日の24時にアナログはどんな風に消えるんだろう」「プツ…って消えて画面に横の線がシャーッと走るんだって「かっこいいね、興奮しちゃうかも」そんな風説が徐々に広がりをみせはじめて「プツ…、シャー」の興奮への期待は世代の垣根を越えて一気に広がっていったのでした。
こうして国中が沸き立つような期待感に溢れ、全てが順調にその日に向かって進み始めていました。そんな時に高名な医者が発した「高齢者は興奮すると危険だから家で寝ていたほうがいい」という一言が近年なにかと邪魔者扱いされていると神経過敏になっている後期高齢者と言われる人達を刺激して大きな社会問題になろうとは誰も思いおよばない事でした。  …続く
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [15]

空白の2秒(続きの1)

 人々が平和に暮らすある国のお話です。2011年7月24日が過ぎるとアナログテレビが見られなくなると云う話は、事務省が裸で活躍したタレントなどを動員して宣伝に努めたおかげで、その日をあと一年後に控えた頃になるとようやく浸透し始めました。各地に「あと何日」の電光掲示板が設置されるようになると、今まではアナログ死守を叫んでいた人達もお上の力には抗し難く、右肩に「アナログ」と江戸時代の罪人のように烙印を押されても、ひたすら耐え続けるという無理やりの納得状態に押し込まれてしまったのですが、人間は追い詰められると頭が回ってくるもので妙なことに気付いたのです。
台所に立って朝ドラを片目で見ながら食事の後片付けなどをしていると、隣家の居間から流れてくる朝ドラの台詞が自分の家のテレビの台詞を後追いしてエコーがかかったように聞こえるのです。改めて注意深く聞くと2秒くらいこちらのほうが速い、もしかしたらアナログと地デジで違うのかとも考えたのですが隣家の人に「お宅のテレビが我が家のテレビよりも遅れて聞こえるのですがおたくは地デジですか」などと聞こうものなら「お宅のテレビがうるさい」と言っているようにとられるかもしれないと、ここは波風を立てないように我慢のしどころ、実地調査をあきらめて文献調査に切り替えた結果、デジタルテレビは電波を受信してから映し出されるまでの処理に時間がかかるため、デジタル放送は2秒程度遅くなるという事実がわかったのです。それに対してアナログは正確な時間だとわかればアナログ派は勢いを得て、時間に不正確なデジタルの欠点を補うためにアナログを残すべきだと変な理屈をつけて存続を主張し、会議に遅れてきた部下にアナログ派の上司が「君はデジタル時間かい」と嫌味を言ったりするのが流行ったりしたのです。
 騒ぎもこの程度のうちはまだよかつたのですが笑っては済まされない問題が起こってきました。アナログと地デジで時間差があるとすれば2011年7月24日の深夜、アナログテレビが24時かっきりに放送を止めてから2秒後に地デジが0時を告げるとするとここに空白の2秒間が出現するのです。この2秒は7月24日なのか7月25日なのか、予期せぬ問題に困惑した事務省は有識者を集めて解決を図ったのですが当然のこととして24日派と25日派にわかれます。24日派の言い分は「この2秒は24日が置いていったものである、置いていったものは遺失物であるから当然24日に所有権がある」と言うのです。これに反対する25日派は「アナログは24日をもってこの世から消えたのである、消えたものの残したものは遺産であるから相続人として地デジが引き継ぐので2秒は25日のものである」と主張するのでした。  …続く
                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [14]

箱根古道 続きの5

清少納言の生きた平安時代には女性は漢詩や中国の故事などには手を染めぬものとされていたようです。ところが清少納言はそんなことには満足せずに勉強して、男以上の知識を持っていました。枕草子にある香炉峰の雪の話とは、

雪がたいそう降り積もった日のことでした、彼女が仕える中宮定子が清少納言にむかって「香炉峰の雪はどうでしょう」とお訊ねになったので彼女がサッと御簾を上げたところ中宮にたいへん褒められたという自慢話です。これは「香炉峰の雪は御簾をかかげて見る」という白居易の詩にならって御簾を上げさせるために清少納言を指名したのであって、他の女房たちはこんな知識も無いことを中宮定子はご存知なのだ、といっているのですから女性仲間には評判が悪いのも当然でしょう。

 同時代の人で源氏物語を書いた紫式部もまた嫌われ者でした。源氏物語の第一帖である桐壺に「羽をならべ、枝を交わさむと契らせ給ひしに」と帝が桐壺の死を悲しむ一節があります、これは白居易(あざなは白楽天)の詩である長恨歌の一節「天に在りては願わくば比翼の鳥となり、地に在りては願わくば連理の枝とならん」からとられたもので、これもまた玄宗皇帝と楊貴妃の愛の一節であり、「あなたがた偉そうな顔してるけど、この意味が解かるのですか」と挑戦しているのですから不評も当然で、同時代の女性たちには読まれない源氏物語だったようです。

 余談が長くなったところで七曲りもぼつぼつ終わり、両側に人家のある路に出るとまもなくちょっとした広場に出ました。路の両側に直径9メートルの石積み塚があります、珍しく原型を残している畑宿の一里塚です。一里塚は室町時代末期に一里毎に塚を築かせ榎と松を植えさせたのが初めですが、江戸幕府は1604年から10年をかけて大きな街道の全てに一里塚を作りました。畑宿の一里塚は江戸の日本橋から23番目、23里(92キロ)の地点にあります。

 この一里塚を見ていると旅人たちが時には榎や松の木陰に憩いながら「何番目、あといくつと」指折り数えて旅をした様子がしのばれます。そして旅を人生とか日々の生活に振り替えてみれば、盆とか正月とか秋祭りなどは働き続けねば生きられなかった時代につかの間の安らぎと明日への希望を与えてくれた一里塚だったのでしょう。一休禅師に一首があります~門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし~中期高齢者には納得の一首とうなずきながら元箱根から畑宿まで、甘酒休憩を挟んで二時間の歴史旅を終えたのでした。



                           溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [13]

箱根古道 続きの4

 甘酒茶屋の胡麻きなこ餅に少しだけ未練を残して猿滑坂にさしかかると、猿も滑ると云うくらいですからさすがに急坂で石畳の上は滑りそう、中期高齢者には危険とみて路肩を伝い歩きしていると同じ思いの先人も多いのか路肩はしっかりと踏み固められていて、それほどの苦も無く下れるのはありがたいことでした。猿滑坂を過ぎると小さな甘酒橋、畑宿まで1.8キロと案内が出ています。箱根古道最大の難所である七曲を登ってきた人たちは甘酒の名に茶屋の近いことを知って、もうひとふんばりの力をもらったのでしょう。

 箱根の石畳はいつ頃造られたのでしょうか、箱根の山道は雨や雪などが降ると脛まで泥につかる有様で旅人は難渋していました。そこで自生する箱根竹を敷き詰めて快適な道にしたのです。ところが竹ではすぐに腐ってしまうので毎年敷き替えなければなりません、その為に莫大な竹と人手、お金を必要としました。そこで幕府は1680年に1400両の公金を使って約10キロの距離を石畳にしたのです。それが330年を経た今でも残されているのは水はけなどを充分に考慮した設計と工事力のお陰なのでしょう

七曲の急坂にかかるとほとんどがコンクリートの階段に変えられていますがわずかに残った小径はまさに昼なお闇き杉の並木をゆく羊腸で名曲「箱根八里」で鳥居 忱(まこと)が詠った~箱根の山は天下の険 函谷関もものならず~を実感できるのです。

余談ですが函谷関は約三千年前に建てられた中国で最も古い関所です。戦国時代に斉の孟嘗君が秦の昭王の追っ手から逃れて函谷関までたどり着いたけれど夜中で門は固く閉ざされていました。そこで孟嘗君の食客の一人が鶏の鳴き声を真似ると近くの鶏たちがその声に誘われて時を告げ始めたので、関の番人は夜が明けたと勘違いして門を開け孟嘗君一行は虎口を脱しました。これは「鶏鳴狗盗」の故事として有名ですがこの故事を引用した和歌が清少納言によって詠まれています。

~夜をこめて鳥の空音は謀るともよに逢坂の関は許さじ~百人一首にも納められている清少納言の有名な和歌ですが同じように中国の古典を題材にした話が「香炉峰の雪」として枕草子にも書かれています。清少納言という人は当時の女性としては珍しい知識人で同じ時代を生きた紫式部とともに現代でももてはやされているのですが、当時の女性たちからは評判が悪く「いやみな女」として有名だったようです。  …続く



                            溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [12]

箱根古道 続きの3

 歌舞伎の助六には助六の兄として白酒売りが出てきます。白酒売りが出てくることから甘酒屋を連想し、股くぐりが重なってくるとどうしても神埼与五郎の逸話がヒントになったように思えてしかたがありません。それでは何故甘酒でなくて白酒にしたのかといえば、甘酒は夏の物、助六は春の芝居ですから春の酒である白酒にしたのでは、と勝手に解釈をしているのです。もっとも白酒は三月の桃の節句につき物ですが助六は桜がテーマで四月ですから厳密に言えば無理があるのかもしれません。助六の初演は1713年の二代目團十郎です。赤穂義士の討ち入りは1702年ですからこの頃には義士達の逸話もずいぶんと出回っていたのではないでしょうか。もう少し思いを巡らせてみると助六を今の形にしたのが7代目の團十郎だということが気になります。1748年に人形浄瑠璃の仮名手本忠臣蔵が初演され翌年には歌舞伎でも上演されて定番となり、広く庶民に知られるようになりました。そんななかでいろいろな外伝も創作され、仮名手本忠臣蔵と神埼与五郎の股くぐりは直接の関係はないとしても、その中には箱根山中での股くぐりも話題になっていたことでしょう、これを巧く取り込んだのではないかと思うのです。

 ところで助六とはいったい何者でしょうか、舞台は江戸一番の歓楽街吉原、遊女三浦屋の揚巻の元へ通う花川戸助六は腕っ節も強いが器量も江戸一番の男前、この男、実は曽我の五郎といって父の仇に奪われた源氏の宝刀「友切丸」を捜すため、片っ端から遊客に喧嘩を売っては刀を抜かせて確かめていたのです。刀を抜かせるためには相手を怒らせなければなりません、その為の最良の挑発が自分の足を大きく開いて「股ぁくぐれ」なのです。ここで股くぐりをする武士はよほど出来た人か腰抜けで、普通の武士ならば刀を抜くでしょう、理にかなった設定になっています。ところで白酒売りですがこれは助六の兄の曽我の十郎、優しげな男として登場します。この優しげな男もまた弟の威を借りて 「股ぁくぐれ」とやるのですから観客には大うけするのです。

 鐘は上野か浅草にその名も伊達な花川戸、芭蕉の句~花の雲 鐘は上野か浅草か~からとられた名調子に乗って演じられる華麗な舞台、何度見ても見飽きるものではありませんね。

 甘酒茶屋を後にすると路は急に細くなります。道路の表現は道、路、径の順に細くなるのだそうですが路から径、猿滑り坂を過ぎて最大の難所である七曲にさしかかると滝廉太郎の「箱根八里」にうたわれている羊腸の小径は苔なめらかの世界に迷い込んでゆきました。  続く…
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [11]

箱根古道 続きの2

 神埼与五郎が馬子の丑五郎にからまれて「大事の前の小事」とじっと我慢、堪忍袋の緒をしっかりと締めた話は甘酒茶屋の由来書きに記してあるのですがここには更に新説として馬子に絡まれたのは与五郎ではなくて大高源吾であり、場所も箱根ではなくて三島だととんでもないことが書かれています。 仮にこの話が正しいとしても与五郎噺を売り物にしてきたこの店が何の因果でこんな事を書かねばならないのか理解に苦しみます。ここは誰がなんと云おうと神埼与五郎でなければならないのです。

当時一流の文化人だった大高源吾が馬子を相手に「俺は馬が嫌いだ」などと無駄口をたたくはずがないではないですか。討ち入りの前日のこと、笹売りに身をやつした大高源吾が両国橋の上で宝井箕角とばったり出会い、箕角が~年の瀬や水の流れと人の身は~と発句したのに対して~あしたまたるるその宝船~と返した、こんなシーンに居てこそ大高源吾なので、馬子と堪忍袋などどうみても与五郎の話なのです。与五郎といえば切腹の時のエピソードがあります。切腹は身分の高い順にしてゆくのですが与五郎は下から二番目、それが間違えられて一番最後に呼ばれたそうで、不満たらたらの表情で腹を切ったといいます、義士の中にもいろんな人がいるものですね。そして三島もだめです、三島は三島女郎衆で名高い艶っぽい所で馬子などが出てきてはいけない所なのです。馬子が出てくるのは箱根山中で正解なんですよ、人がせっかく信じ続けてきた話を無遠慮に壊してしまう、こんな無粋なことは許せませんね。

 余談ですが甘酒茶屋の天井には山駕篭がぶらさがっています、三島から小田原までの難所を越えるには屈強な人足が必要で、彼らが人を駕篭に乗せたり荷物を運んだりしたのですがこの人足たちを雲助とよびました。雲助といえば道中で嫌われ者の代名詞のようですが箱根ではまっとうな人足を指し、雲助になれる条件がありました。条件とは力が強いこと、荷造りがうまいこと、最後に唄が上手いこと、これが箱根の雲助だったのです。

話を元に戻します、与五郎の話にはその時丑五郎の股下をくぐらされたという話まであります。さすがにこれは後からつけ加えられた話で、韓信の股くぐりからの創作でしょう。韓信は漢の劉邦の下で覇権を助けた名将、雌伏して貧乏のどん底にあった頃に町の少年から「お前は臆病だ、お前の刀で俺を刺してみろ、刺せないならば股をくぐれ」と挑発されたのですが「恥は一時、志は一生」と黙って少年の股をくぐったといいます。こんな名将の故事で飾られるとは神崎与五郎も幸せな男ですが、これも義士の末席に連なったおかげかもしれません。話は助六の「股ぁくぐれ」に続きます。    

                         溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [10]

箱根古道 続きの1

 強羅の宿で湯に身をゆだねているとひぐらしが遠く近くに競い合い、緑の風も爽やかに雑木を吹き抜けてゆきます。規則正しい湯音が少しばかり狂ってしまった体のリズムを整えてくれながら、湯上りのビールが旨いですよと囁いているようです。鄙びた旅館での新人歓迎会で上司が「箱根は東京の奥座敷と言うけれどここはまさに奥座敷だね」と冗談まじりに挨拶した五十年近く前の話を思い出したりするのも箱根の心安さなのかもしれません。当時は忘年会なども箱根か熱海と相場が決まっていてよくも飽きずにというところですが、すっかり寂れてしまった熱海と違って何度来ても新しい発見をするのが箱根なんですね。しかもたぶん初めての箱根夫婦旅となるとこれは又別の趣です。

 翌日は箱根古道の石畳を元箱根から畑宿までの約3キロに軽い気持ちで足を踏み出しました。ところが畑宿からの登り道ならともかく元箱根からなら下り道、楽なもんだろうと思っていたら大違いで、県道を跨ぐ石造りの歩道橋を渡るとすぐに登り道、これがいつまで?と思うほどにだらだらと続いて汗が噴出してきました。それでもしょせんは下り道ですからいつまでも登りが続くわけもなく、ようやく平坦な路に戻れば杉並木の石畳に風がわたって汗もスーッと消えてゆきます。夏の日差しを遮り冬の風雪から守ってくれる杉並木が旅人たちにとってどんなにありがたい存在だったのか、そんなことに思いをはせる余裕を取り戻しながら馬子唄の碑などを左手に見て忠臣蔵外伝で名高い甘酒茶屋に着きました。

 このあたりは箱根関所越えの中間地点で古くは十軒ほどの茶屋があって旅人達の憩いの場所だったようですが、現在では江戸初期創業の甘酒茶屋だけが藁葺き屋根に囲炉裏、たたきの土間など当時の面影を残しながら昔に変わらぬ憩いの場を提供しているのです。この茶屋での楽しみはやはり甘酒、この日は冷たい甘酒を試したのですが麹だけのさっぱりした甘みが心地よくて石畳沿いに運んできた疲れも、たたきの土間に置き土産となったのでした。 

 時は元禄15年大石内蔵助良雄の命を受けた神崎与五郎がこの茶屋で休んでいたところ、馬子の丑五郎から馬に乗れとせがまれたあげく、普通に断ればいいものを「俺は馬は嫌いだ」などと余計なことを言ったばかりに「武士のくせに馬が嫌いとは何事だ」とからまれて、もともと短気な与五郎が刀の鯉口を切ろうとしたその一瞬ハッと気づいたのは己の使命、大事の前の小事と手をついてあやまり、詫び状文まで書いたという話ですが、この話は歌舞伎十八番助六の股くぐりにまで繋がっているのかもしれません。    続く…



                          溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [9]

吉良の墓(後編)

地下鉄東西線の落合駅から早稲田通りを右に入り、落合斎場を過ぎてまもなく右手に山門が見えてきます、萬昌院功運寺です。お~立派な山門じゃないか、なぜか嬉しくなりながら入山すると左手に十数体の地蔵さん、小高い台地に鐘楼が聳えています。右手の幼稚園には夏休みの故か園児の姿も無く、庫裏に案内を請うと、幸せなことにご住職にお会い出来てお話を聞かせていただきました。

 功運寺がこの地に三田から移ってきたことは前編でお話しましたが、大正3年からこの地には萬昌院という一寺があって昭和23年に二つの寺は一緒になったのでした。そして吉良の墓は萬昌院にあった墓だったのです。

 萬昌院は今川義元の三男今川長得が1574年に仏照円鑑禅師を招いて、江戸桜田門近辺に開いた寺なのですが、こちらは明治政府の都市計画のあおりで追い出され、現在の地に移ったのでした。そんなことで萬昌院は今川家の菩提寺として今川長得などが葬られているのですが、今川氏真の娘が吉良家14代義定に嫁いでいることから吉良家の菩提寺となり、17代上野介義央までの4人の墓が並んでいます。今川家と云えば桶狭間で義元が織田信長に負けた後、氏真が武田と徳川に攻められて滅亡したことはよく知られていますが、その後の今川家は徳川の庇護を受けて高家として幕府の儀礼典礼を司る職務を務めました。ちなみに吉良家は高家筆頭として君臨していましたから両家の繋がりはこの面でも濃密だったのでしょう。

 墓地に足を踏み入れると、すぐ目につくのが林芙美子の墓、放浪記と1920年生まれの元気な女優を思い出します。奥へ入ると浮世絵師歌川豊国の墓、徳川家の縁で武田家の墓も散見されます。さらに奥に入ったところで浅野家累代の古い墓を見つけて嬉しくなりました、まさか播州赤穂のわけはないでしょうが。水野重郎左衛門もここに眠っています。歌舞伎では水野十郎左衛門、旗本「白柄組」の頭領として、町奴の頭領である幡随院長兵衛と張り合い、仲直りと称して食事に誘ったうえで風呂場で刺し殺してしまいます。こんな男ですから幕府への出仕もほとんどせず、評定所で取調べを受けた後、市中を騒がせたなどの罪で死刑に処せられました。ところが歌舞伎ではかっこいいのです。五十年程前の歌舞伎座、松本幸四郎演じる幡随院長兵衛が芝居小屋での喧嘩沙汰を鮮やかに収めると、桟敷の御簾がさらりと上がって守田勘弥の水野十郎左衛門が姿を現します。その姿のきれいなこと、直参旗本を鼻にかけた見下すような態度が実に様になっていました。この守田勘弥は坂東玉三郎の養父、そして新派の水谷八重子の実父でもあるのです。

 ひととおり見廻った後はゆっくりと吉良の墓、吉良家14代義定からの墓が4基並んで一番右が17代義央の墓、右手前に吉良家忠臣供養塔があり左手には吉良邸討死忠臣墓誌があります。忠臣といえば浅野のイメージですが吉良側からみれば本所松坂町で死んだ38人はこの上ない忠臣に違いありません。そんな雰囲気の中で俄か吉良贔屓になって、墓誌を目で追ってゆきますとよく知られている家老の小林平八郎が53歳、もっと若いのかと思ってましたが意外ですね。

さらに視線の先を辿ってゆくと若い人が多いのに気がつきます、小姓、近習に二十代が7人、料理番22歳、茶坊主17歳、15歳と辿り進んでくると、もう身内のことの様に思えてうるうるしてくるのはしかたのないことでした。

 吉良義央の養子である義周は討ち入りの際「おめおめと生き残った」事を咎められて信州諏訪藩にお預けの身になり当地で没、諏訪の法華寺に埋葬されました。そんなことで吉良家は絶えたのですが吉良家の墓は萬昌院功運寺が永代供養することで存続しているのです。

 吉良の墓には4基の墓石を中にして二本の松が植えられています。住職の話では特に意味は無くてそれほど遠くない過去に植えられたようです。ただ少しだけ気になることがあるんですよ。もし私が吉良上野介義央だとしたら、毎日松を見るたびに「松の廊下」を思い出さされて「いやなことを思い出させるなよ」と云いたくなるかもしれません。そんなことを思いながら改めて墓石を見ると、忠臣蔵では悪役でも三河の吉良郡では名君と謂われた義央のこと、そんなことは気にすることも無く、忠臣たちに守られて安らかな眠りについているようでした。                      溝口 浩
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [8]

第五話 吉良の墓(前編)

 今は東京都港区芝三田四丁目などという味も素っ気も無い地名になっていますが、かってここには芝三田功運町と呼ばれた二万坪の地域がありました。

実はこの地は私が多感な時代の二十年を過ごした場所でもあるのですが、功運町とは江戸時代にこの地にあった功運寺という大寺院に由来するものだと知ったのは数年前のことでした。その後少しばかり興味を持ってこの寺を調べたところ、大正11年に中野区へ移転したこと、更に移転先の寺には吉良上野介義央の墓があることを知ったのです。忠臣蔵好きの私にとって吉良は大石内蔵助以上に興味ある人物なのですが、ここでちょっとした疑問の雲が広がりはじめました。

この疑問についてお話しする前に、功運町の位置関係をちょっとだけ説明させてもらいます。第一京浜国道をJR田町駅から品川に向かって札の辻で右に折れ、東京タワーを正面に見ながらの三田通りを進んで、慶応義塾の少し手前を左に折れると高野聖が開いたと伝えられる聖坂があります。この聖坂の上り口にある普連土女学園から坂を上って港中学(現在は芝浜中学)、クエート大使館を経て坂を上りきって大増寺の手前まで、聖坂の右手一帯の高台二万坪が江戸時代の功運寺でした。聖坂から伊皿子を通って高輪に抜けるこの道は、海岸の低地帯を行く東海道に並行して高台を行く道で、中世にはこの道が東海道と云われていたようです。功運寺の向かいにある濟海寺には幕末にフランス公使館が置かれていたり、功運寺にも一時的にはイタリア公使館が設置されていたようで、江戸城から近過ぎず遠過ぎずのかなり重要な地域だったのかもしれません。

細かい話になってしまったので、歩くのが億劫な方には電車に乗っていただきます。JR田町駅を過ぎてすぐの右側を見てもらいますと、鉄道唱歌の二番、~右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消え残る 名は千載の後までも~と歌われた少し手前ですね、小高い丘の上に濟海寺の屋根がちらりと見えたらその向こう側と思ってください~そんなことわかりませんよね。

説明が長くなりましたが疑問の雲はここにあるのです。泉岳寺といえば吉良にとっては恨みの連中が眠っている墓所、その目と鼻の先の功運寺になぜ吉良の墓があったんだろうか、いやそれとも別の寺から中野に移ってきたのかもしれない。これはちょっと確かめてみなければならないと蝉時雨の中、中野の功運寺を訪ねてみました。

功運寺は1598年徳川家康の家臣永井尚政が黙室禅師を招いて桜田門外に開いたお寺ですが、二代目住職天存慶存が家康の甥であったことから三田の地に幕府の朱印地として二万坪を与えられこの地に移転しました。江戸幕府の庇護もあって名実ともに大寺としての風格を備えていたようですが、東海道を下ってきた曹洞宗の僧は江戸に入る前に必ずこの寺に立ち寄ったことなどでその実力が推測できます。

それだけの大寺が何故郊外の中野くんだりへ移転せねばならなかったのでしょうか。それはこの寺の二万坪の土地が幕府の朱印地だったことが仇になったのでした。江戸開城とともに誕生した明治新政府は「徳川幕府の物は新政府の物」と言う理屈から2万坪の土地のうち1万9千坪を没収したのです。わずか千坪の土地に押し込まれた功運寺は再三の陳情を繰り返したのですが叶えられることはなく、大正11年に現在の地に牛車で仏像や資材を運びながら4年の歳月をかけて移転したのでした。

余談ですが昭和24年頃児童の増加によって芝浜中学から分かれる港中学の建築工事現場に数個のドラム缶が並べられ、その中には人骨が満杯になっていたことがなんとなく気になっていました。それが今回の功運寺訪問で、この地のすぐ隣に残っていた末寺の明円寺が引き取り、焼き直した後改めて供養したと聞いて、なにか胸のつかえがストンと腑に落ちたような気がしたのは嬉しいことでした。  後編に続く…
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [7]

溝口 浩の思いだし噺

第四話 怪談(後編)

 四谷怪談に続いてはこれも夏の定番「牡丹灯篭」です。

大川(隅田川)に漂って舟遊びをしているのはお露と乳母のお米、そして幇間医者の山本志丈。お露は旗本飯島平左衛門の娘ですが義母と折り合いが悪く別居しています。幇間医者(たいこいしゃ)とは医者の風体はしていても病人を診るよりは博打のほうが好きで、お座敷で踊りやなんか踊ってご機嫌をとるのが商売といういい加減な男なんですが、お露とお米には巧く取り入っているから案外頼りにされたりしていて、今日もお露が恋焦がれている萩原新三郎に逢わせてくれろとせがんでいるのです。そこへやってきたもう一艘の船、そこにはお露の義母のお国と隣家の次男坊で深い仲になっている宮野辺源治郎がいて飯島平左衛門を亡き者にしようと企んでいる。そんな舞台から淡いスポットライトの中で着替えを始めた船頭がす~っと三遊亭圓朝に早代わりして狂言回しを勤めます。こんな演出が嬉しい歌舞伎の牡丹灯篭です。

 この噺の作者である三遊亭圓朝は二代目圓生の弟子なのですが、牡丹灯篭は30年前に死んだ6代目圓生がしっかりと継承していますので、こちらの話から筋を追ってゆきます。

そもそも二人の馴れ初めは。根津清水谷に住む浪人萩原新三郎を山本志丈が梅観に誘ったことが発端になります。当時評判の亀戸の臥龍梅、がりゅうばい、龍が大地に横たわっているように見えることから水戸光圀が命名したと云われます、を観た後に幇間医者の志丈が新三郎を柳島のお露の家に案内したところ、二人は一目で相思相愛の仲になってしまったのです。余談ですが亀戸の清香庵、俗称梅屋敷には多数の梅が植えられて臥龍梅といった銘木もあって賑わっていましたが、明治43年の大洪水で梅の木は全て枯れてしまい廃園になりました。現在は亀戸の香取神社の裏のほうに梅屋敷跡としてわずかにその名を残しています。さてその後の二人ですがちょっとした手違いがあって二人はなかなか逢えない、そのうちお露は恋に焦がれて死んでしまう。そんな事とは露ほども知らない新三郎は逢いたくてしょうがないお露がお米と一緒にカランコロンと下駄を鳴らしながら訪ねてきたから大喜びで、幽霊と交わってしまったのです。お露の幽霊に取り付かれて死相が現れた新三郎は家中に魔除けのお札を貼って、金無垢の観音様を持つようになったのでお露は新三郎に近づけなくなりました。ここでお米が新三郎の下男夫婦である伴蔵とお峰にお札をはがして観音様を取り上げてくれるように頼みます。伴蔵夫婦は初めは断るけれどお峰の発案で100両の金を無心します。どうしてもお札を剥がしたい幽霊の足元を見ての強談判ですが、幽霊には足元は無いはずなのに幽霊も必死だったのでしょう。幽霊に金を無心したり交渉ごとをするのもおかしなことですが主人の命と引き換えに金を望む亡者の姿が浮き出てきます。そして新三郎はお露にとり殺されてしまうのです。

 ここまでの話は牡丹灯篭として誰でも知っているのでしょうが、実はここまでの話は全体の半分にすぎません。あとは新三郎を見殺しにした伴蔵とお峰、お露の父飯島平左衛門を惨殺して逃亡した義母のお国と宮野辺源次郎などが入り乱れて因果応報のどろどろ劇が展開されるのです。この辺りの話は又の機会にゆずることにさせてもらいますが、ご愛嬌に大詰めを少しだけご紹介させてもらいます。………伴蔵は篠突く雨の中、油断するお峰を隠し持った刀で突き刺して川に沈めます。伴蔵がその場を立ち去ろうとすると見えない手の引き戻し、川の中からお峰の手が現れて伴蔵を水中へ引きずり込んで…いつか雨がやんで月の輝く川原には蛍が群れ飛んでいました。
 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [6]

溝口 浩の思いだし噺

第四話 怪談(前編)
 夏ともなれば怪談噺、今回は四谷怪談です。

東海道四谷怪談は鶴屋南北の作、七代目市川團十郎の民谷伊右衛門、三代目尾上菊五郎のお岩で1825年に初演されました。怪談物では知名度ナンバーワンのこの話、初演時には仮名手本忠臣蔵の外伝として、忠臣蔵と合わせて上演されていたことをご存知でない方も案外おられるかもしれません。当時の観客にしてみれば四谷怪談だというから新作かと思って観に来たのはいいけれど、芝居が始まったら見慣れた忠臣蔵ではありませんか、それが六段目(勘平の切腹)まで続いてやっと本題の四谷怪談になって、三段目(怨亡堀の戸板返し)まで来ると第一日目は終わり。二日目はまた忠臣蔵の七段目から始まって、四谷怪談と交互に展開して最後は討ち入りで二日間にわたる芝居見物が終わるという、当時は芝居見物も命がけでしたね。さすがに再演時からは単独で上演されたようです。余談ですが江戸時代の時間の数え方は公的には現在と同じように午前0時、子の正刻、が一日の始まりでした。ところが庶民の一日は日の出と日没の時間を基準に一日を12刻に分けた不定法で、日の出から日の入りまでを6等分するのが昼の一刻、日の入りから夜明けまでを6等分するのが夜の一刻となっていました、当然季節によって一刻の長さは違ってきます。そして日の出を明け六つとして、この明け六つが一日の始まりと考えられていました。そうすると妙なことに気がつきます。芝居は夜明け前に始まります、明け六つ前です、前の日から芝居小屋に入っていたことになります。なんと足掛け3日の芝居見物だったのです。

あらすじはご存知のように貞女岩が亭主伊右衛門に惨殺され、幽霊になって復讐するのですが、田宮伊右衛門は元塩冶判官の藩士でありながら高師直の家臣に婿入りしようとする恩知らず、それを岩の妹袖の亭主佐藤与茂七が討ち取って四十七士の討ち入りに参加するという忠義話、この芝居は忠臣蔵の忠義に対して不忠義をテーマとした今までになかった芝居だったのです。これが空前の大ヒットになりました。歌舞伎のヒーローは初代團十郎が演じた「暫」の鎌倉権五郎のように鬼神を退治するスーパーマンから始まって、弱きを助け強きを挫くかっこいい男と相場が決まっていたのですが、この時初めて救いようの無い悪人のヒーローが生まれました。この芝居が初演された1825年の頃は11代家斉の治世で貨幣の悪鋳による幕府の放漫経営と自給自足経済から商品経済に巻き込まれた農村が土地を担保に金を借りて、結局その金が返せずに小作農と云うよりは農奴とも云える地位にまで落ちたことによって貧富の差が拡大し、一揆が頻発して江戸市中にも得体の知れない人たちが流れ込み治安が悪くなってきました。そんな不穏な時代を背景として未来への望みを失いかけた庶民がつかの間の楽しみとしてこんな悪のヒーローに拍手を送ったのかもしれません。

後編に続く…….  
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [5]

溝口 浩の思いだし噺

第3話 リズムと話芸(後編)

聴人が我を忘れて語り手の芸に聴き入る、こんなご馳走なんてそんなにあるものじゃありませんが、こんな時の語り手と聴人とは同じリズムの中で呼吸をしていると思うんです。最近はもうそんなことはほとんどありませんが噺家が枕を振りながら今日の客はどんな噺を聴きたがっているのかを探ったのは客のリズムを探ったので、この時の客もまた今日はこんな噺が聴きたいよとシグナルを送りながら噺家のリズムに近づいていったのではないでしょうか。落語に限らず語り手はそれぞれのリズムを持っています、それがまた売り物でそれにファンがつく、ファンは自分の好きなリズムだから自然に語りの中に入っていけるんですね。だけどそれだけじゃ単に独善の話し手とファンだけの世界で終わってしまって、その周りにいる人たちは入り込めません。そんなときに場のリズムを少しだけ取り込んでくれると幅広いリズムになるのではないでしょうか、名人と言われる人たちは独特の世界を作りながらも常に幅広く聴人を意識していたようです。ところが「どうだ巧いだろ」とこれみよがしな芸を見せる人もいて、これが又喝采を浴びたりしていますが名人とは思えませんね。まあそんなことを言ってもそれが又いいんだと言う人も大勢いるようですからそれはそれでいいんでしょうけど。

芝居の役者でもそうですね、人間国宝なんていわれてももうひとつぴんと来ない役者がいます。巧いことは確かなんだけどもうひとつワ~ッと拍手が出来ない人なんです、自分のリズムだけでやっているんでしょうね。芝居はやっぱりぐんぐん引っ張りこまれてト~ンと決まったところで声も掛けられる、拍手もできるわけで、リズムが合わないとこちらも乗ってきませんよ。故人の役者を映像で観るとわくわくする度合いが違うのはそんなことなのかもしれません。

たとえば私の好きな松本幸四郎なんですが今の幸四郎と先代の幸四郎、勧進帳の弁慶で二人を並べて飛び六法の引っ込みなんかを観ると背中のゾクゾク度が違います。まだまだ先代にはかないません。確かに勘三郎は別としても今の團十郎、菊五郎、幸四郎はいまひとつ物足らないところがあります。華、芝居心などと言いますがやっぱりリズムがひとつ合わないんでしょうね。ところが嬉しいことに彼らの次世代、海老蔵、菊之助、染五郎はいいですね、わくわく度が違います、リズムが合うんですね、楽しみですよ。それにもう一人、松緑がよくなりました。踊りはもともといいのですが最近は声音がよくなって彼も楽しみな役者です。私も彼らが大きな役者になるまで生きていれれば嬉しいですね。

                          溝口 浩  
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [4]

溝口 浩の思いだし噺

第三話 リズムと話芸(前編)

 手元のノートには2003年6月22日、「朝起きると“めまい”」で始まる散らし書きがあります。めまいの進行に続いて明け方に夢をみるようになりました。夢ですから支離滅裂な内容なのですが多少でもまともなものを紹介して、心の病への入り口に立った日々の話を少しだけ聞いていただきます。6月27日の夢、何か追いかけられるような気分で宿題をやろうと教科書を開くと鉛筆で冬期休暇の課題と書いてある、「なんだ今日やらなくてもいいんだ」で目が覚めた。こんな夢の話がほぼ毎日書き続けられています。

 この年の5月31日に65歳でセカンドステージに立ちました。その5年前から自分だけで決めていたことなので、趣味だけは多彩な私はセカンドステージには心の乱れが無いように万全の準備をしたつもりだったのですが、そうは思い通りにはいかなかったのです。この夢はいつも明け方に見るんですが、夢の内容には共通のオチがついています。8月10日の夢、本社へ輸出実績低下のレポートを出さねばならない、どんな言い訳をしようかと考えながらレポート用紙をさがしているうちに、ふと気がついて「アッ今輸出の仕事なんかやってない、これは夢なんだ、レポートは出さなくてもいいんだ」と思ってもなんとなく不安…で目が覚めた。そうです、何かの義務感に追われた末にもう何もしなくてもいいんだ、と気がついてほっとする。40年を超える仕事人生で染み付いてしまった生活リズムが、こんな楽な生活をしていていいのかよ、と異議をとなえていたのです。ストレスの無いのがストレスになっていたのでしょう。

それでも足掛け3ヶ月にわたる夢とめまいの話は蝉しぐれが盛んになった頃にはようやくおさまりましたが、生活のリズムが変わることは恐ろしいことだとよくわかりましたね。そういえば仕事以外に何も出来ない人が仕事をやめてから体調を崩して、酒に助けを求めたりして早死にする人が皆さんの周りにも何人もいるんじゃないですか。

 私は話芸には素人ですから勝手なことは言えないのですが、古希の坂を越えてくると、今までに名人上手と言われる人たちの芸に触れた経験から語り手の巧いか下手かぐらいはわかってきます。それに何か言われたら「それじゃあなにかい、おまえさん名人と言われたあの人の噺を聴いたことがあるのかい」などと開き直ったりも出来るわけで、これが強みですね。そんなことで話芸とリズムの話に少しばかりお付き合いください。

   続く…
                              溝口 浩  
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [3]

溝口 浩の思いだし噺

名人と共有した空間
 夏目漱石は小説「三四郎」の中で落語の三代目柳家小さんを激賞しています。

「彼と時を同じうして生きている我々は大変なしあわせである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ」

 最近は落語ブームと言われているようで落語ファンも増えてきました。そんな人達の中から、人生のセカンドステージに立ってじっくり落語を聴いてみょうかという中高年、そして若い人達からも落語を勉強したいから教えて欲しいという人が何人かいて、手持ちのDVDやCDで今では鬼籍に入っている名人上手といわれる人たちを鑑賞してもらっていると、どうも今の落語家と違うようだということがだんだん判ってくるようです。これは根本的に話術の差というものではないかと思うのですが、そんなことで今回は落語の話です。落語に興味の無い方にはお退屈さまですが話術の名人達の話ですから少しばかりお付き合いください。

 昭和29年の暮れだと思うのですが早稲田の落ち研が凄い企画でした。その年の芸術祭賞の大賞は「素人うなぎ」での桂文楽、奨励賞は「芝浜」での桂三木助、その二人が大隈小講堂の高座に上がったのでした。なぜこんな企画が出来たのかといえば江戸文学の権威で落語に詳しい暉峻康隆先生が落ち研の顧問をしていてこんな大家を呼べたのでしょう。ちょうど高校と大学の狭間で灰色の毎日をおくっていた私を早大生の従兄が誘ってくれたのですが、このとき桂三木助の「芝浜」と同じ空間に漂うことが出来たのです。ところで今から思えば貴重な経験なのですが、この二人の前に高座に上がったのが林家三平なのでした。三平が真打になったのは昭和33年ですから彼はまだ二つ目、後に昭和の爆笑王といわれた芸風とは違ってまともな噺をしてました。その噺はその後一度も聞いたことは無いのですが不思議に覚えています。今回は名人でもない三平の話をするつもりはないのですが、ある会合で立ち話した落語作者と称する人でも知らないという話なのでご参考に書いておきます。さて噺の筋は、花魁が客を惚れさせる為に遊郭で着る羽織を特別にあつらえる、ようするに馴染客のマイ羽織ですな。客が部屋に通ると「あなたの為に私が縫ったのよ」と言いながら仕付け糸を糸切り歯で切って抜き取ると客に着せ掛ける、この仕付け糸というところがみそで客は自分の為の仕立て上がりということが嬉しくて、もう鼻の下を長くしてメロメロ状態、ひとしきりやりとりがあって客は満足げに帰ってゆく。お客が帰ると次の客の為に「仕付け糸をつけるおばさんが出てきて……」仕付け糸をつけるしぐさで笑わせて、これがオチ。この仕付け糸をつけるおばさんという発想が面白いですね。

 とりはもちろん文楽で「明烏」、これはもう当時最高といわれた名人芸を堪能したのですが、今回は三木助の話です。

~あたくしがひところ人形町のほうに住んでおりまして、ちょうどお湯に入っておりますとご年配の方が入っておいでになりまして、いろんな話の末に「昔はこの近所はこはだの鮨を売りに来たもんですよ」なんて言われまして~ゆったりと三木助が語り始めると彼の体験談としての錯覚からかそのまま明治の初めから江戸の終わり頃、「芝浜」の世界へと入り込んでゆきます。この噺は酒で身を持ち崩した魚屋が芝の浜で財布を拾い、賢いおかみさんの機転で夢と思わせられて改心、三年間酒を絶って商売に励んで店を持てるようになる。そしてその大晦日に全てが明らかとなるのです。余談ですが当時の魚市場は大正12年に築地へ引っ越すまで日本橋にあったはずなのになぜ芝なんだろうと思ったのですが、実は芝にも魚市場があってここは小魚を扱っていたようです。そうするとこの魚屋の客筋もおのずと想像できそうです。さて三年後の大晦日に全てが明らかになって夫婦の心も通い合い、おかみさんに酒を解禁されて三年ぶりのご対面、茶碗の酒にゆっくりと口を近づけてから一呼吸、ふた呼吸置いて

「む よそ また夢んなるといけねえ」と茶碗を置く。引き込まれ続けていた呼吸がここですーっと引いて、しばしの陶酔に身を任せていました。

 三木助は新作落語家が多い日本芸術協会に所属していたので、志ん生や文楽など古典の名人たちが集っていた落語協会の会員が出演する寄席だけしか行くことの無かった私には、その後三木助を寄席で聴いた記憶がありません。いや聴いたことはあったのかも知れませんが「芝浜」は聴いてません、要するに印象が薄いのです。それだけ29年に聴いた「芝浜」がショックだったのでしょう。そして三木助はそれから7年後、胃がんの為に鬼籍に入ってしまいました。今から思えばもっと三木助を聴いておけばよかったと思います。しかし志ん生を聴いた、文楽を聴いた、円生を聴いたという人はまだまだたくさん居ますが、三木助の「芝浜」を聴いた人は数少ないのではないでしょうか、そんな事を考えるとそのわずかな人たちの中に私が居られるという事のありがたさは計り知れないものがあるようです。

 もう一度漱石の「三四郎」から抜書きします。「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして甚だ気の毒だ。」   お後がよろしいようで。

                             溝口 浩 
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [2]

つららの坊や

~溝口 浩の 思いつき噺~

「エレベーターにその男が乗ってきた時、誰も注意を向けなかった…」傍らで揺らめくローソクの炎に見守られながらの語りが静かに始まると、この日を楽しみに集った聴衆は、瞬く間に「蔭山武人の世界」に誘いこまれてゆきました。3月14日の夜、越中八尾でのお座敷遊びは「春風のぼん」。八尾の「風の盆」のおどり、唄、それに胡弓と三味線のお囃子を楽しんだ後はお目当ての蔭山武人、そして地酒と地の物の食事会が夜更けまで続きました。 

   蔭山武人さんの朗読といえば忠臣蔵と相場が決まっているのに、今回は森村誠一の「人間の証明」、主人公が当地の人で作者が執筆したのも当地の宮田旅館とまさにご当地の作品なのです。地元の方々のリクエストとはいいながらこの複雑な話を短時間にどのように語るのか、もしかしたら抜き読みか、と思いを巡らせていたのですが、要所を押さえて纏めた見事な語りに息を詰めて聴き入り、語り終えた後の静寂がここちよい心の広がりを醸成してくれていました。

蔭山夫人の美貴子さんに誘われて千葉県から夫婦で参加したこの集いは、期待をはるかに超えた嬉しさを与えてくれたのですが、この旅の不思議さはその後に予想もしない出来事と青木新門さんの童話「つららの坊や」との出会いが待っていたのです。

 この日の集いに参加するため越中八尾駅に降り立った老夫婦を迎えてくれたのは富山のボタン雪でした。「あっちゃんもこんな雪を見たんでしょうね」妻のつぶやきと共に二人の間には早世した妻の弟への思いが広がってゆきました。 義弟は文芸春秋で編集員をしていたのですが、地方の出版社から500部だけ出版された「納棺夫日記」を週刊文春の書評でとりあげ、その後文春文庫として出版したのです。その彼が病に倒れ、多方面の方々が寄稿してくれた「今村淳追悼集」の中で青木新門さんが語る雪中での彼との出会い、その時彼が見た富山の雪もこんな雪だったのだろうか、そんな思いが夫婦の胸を熱くしていたのです。そしてこの熱い思いが「つららの坊や」との出会いに導いてくれたのかもしれません。

 翌日は世界遺産五箇山で合掌作りの民宿「勇助」の囲炉裏端、ちろちろと燃える赤い炎と大きな鉄瓶にたぎる美味しいお茶を中にして、同宿の若い女性達も交えての食事は山の物、里の物、そして地の酒。赤い炎が初対面の衝立を取り払ってくれての語らいは夜が更けるまで続きました。

 朝も早くから用意された赤い炎と鉄瓶のお茶を喫しながら、至福の刻を楽しんでいた妻が何気なく見回した部屋の一隅、書架に見つけた青木新門さんの童話、2 日前の出来事からの思わぬ出会いに高ぶる気持ちを抑えて手に取ったのが「つららの坊や」、だったのです。そしてこの絵本に挿入されている雪やつららの写真は、この家の亭主、池端 滋さんの作品でした。こんなことから池端さんと新門さんとが古い友人であること、義弟と新門さんとの縁などがお互いの知るところとなるうちに話はいつか「つららの坊や」に込められた新門さんの死生観に繋がっていったのです。

それはそれは寒い朝、谷あいの小さな村の合掌造りの軒先でピカっと光って生まれたつららの坊やは、少しずつ大きくなりながら雀やねずみ、とちの木のおじいちゃん達との交流を通じて、生きていることと居なくなることの意味を教えられてゆきます。そしてよく晴れたある日、つららの坊やは光の中に消えました。

映画「おくりびと」の原作者となることを脚本の死生観が違うことを理由に拒否した青木新門さんの死生観がこの童話の中で暖かく語られています。人との繋がり、出会い、廻りゆく命、読み返すたびに新たな発見が私の老脳を刺激して童脳へと誘ってくれるようです。

                            溝口 浩  
投稿者 [溝口 浩]  記事番号 [1]