新しいコーナーができました。
その名も、「さんぽ道」。
自由にあなたの朗読にまつわる話をお送りください。
お送り頂くテーマは「朗読」また「話芸」など・・・自由です。
どなたでもご参加いただけます。
みんなで作る「寄せ書き風、フリースペース」です。
皆様のご参加、お待ち致しております
さんぽ道の投稿・お問い合わせなどは下記のメールまでお願いします。
さんぽ道 編集長
hirochii@ba3.so-net.ne.jp
それから一の橋にでて、左に曲がると麻布十番、十番から六本木方面に向かって商店街を抜けた所の高台へ、坂を登りきると南山小学校で、ほとんどの道程は一人旅だったが、想像の世界に浸りながら、案外これを楽しんでいて、今でも歩くのが好きなのはこの辺が源なのかもしれない。
学校での遊び
朝礼の前や休み時間には校庭を駆逐水雷で走り廻っていたが、校庭でも雨の日の教室でも出来たのが馬跳びだった。馬跳びといっても馬をつぶすのが勝負のかなり荒っぽい遊びで、今頃の学校ではやらせてくれないだろう。先ず七人位のチームを二つ作る。じゃんけんで負けたほうが馬の役だが、先ず一人が壁を背にして立つ。負は馬がつぶされたら負けだから、一番体力の無いのがこの役になる。次に一人が立ち役の腰を両手で抱え込んで腰を折ると、次の者が尻の間に頭を突っ込んで、あとは次々と同じようにして繋がって馬が出来る。ここに別の組が跳び乗って来るのだから弱い者を前のほうに配置して後尾は強い者が受け持つことになる。跳び乗って攻撃する側としては身軽な跳躍力のある者が馬の前のほうに居る弱い部分を狙って跳び乗り、あとは次々と跳び乗りながらより弱い所に集中して重力を掛けた上に、一番体力のあるものが弾みをつけて跳び乗る。ところが勢いが良すぎて馬から滑り落ちたりするから飛び乗る塩梅が大事で、ここでつぶれたら馬側の負けだが、持ちこたえたら馬側の立ち役と攻撃側の一番前の者がじゃんけん勝負になって、この間につぶれたり攻撃側が馬から滑り落ちたりしたら負けになる。じゃんけんの勝負が長引くと必死に耐え抜く馬側と馬にしがみつく攻撃側との我慢比べがなんとも言えず面白かった。
この遊びの興味深い所はチームプレイを養うゲームで、先ず二人のリーダーがメンバーを選ぶ。リーダーは互選で選ぶなどというまだるっこしいことではなくて、強い奴、要するにクラスのボスが「今日はお前がやれ」などといって指名で決まる。
それからメンバー選びのドラフトが始まるのだが、リーダーのじゃんけんで勝ったほうから一人ずつ指名してゆく、勿論ドラフト一位は儀礼上でも強い奴を選んだ。
選ぶのは必ずしも体力のある者順とは限らない、いくら大きくても鈍重な男は馬から滑り落ちたりするからなるべく避けられて最後に残ったりした。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [295] 投稿日 [2012/5/18]
歴史に「もしも・・」は禁句だが、もしもこれが実行されていたらと考えると今の繁栄した日本など考えることも出来ないだろう。そしてもうひとつの「もしも・・」、日本が戦争に勝っていたら、これはもっと恐ろしいことで軍の独裁国家になって今の北朝鮮のようになっていたかもしれない。昭和二十年に戦争に負けてアメリカ主体に統治されたことはこの国にとってはラッキーなことだった。
戦に負けてラッキーだった我々だが、その一方で苦難の道を強いられた朝鮮半島の人々の事を忘れてはならない。当時日本の植民地であった朝鮮は、日本の敗戦と共に開放され、主権を回復されるはずだった。ところが朝鮮半島はアメリカとソ連に、北緯三十八度線を境に南北に分割占領されることになってしまった。そして南の半分は三年後に大韓民国として独立することが出来たが、北朝鮮との間に民族分断の不幸はいまだに続いている。
学校への道々
麻布十番の南山小学校への道順は、先ずは高輪方面に向かって御田小学校の手前を右に折れ、有霊坂を下ると四国町の通り。この有霊坂には三遊亭円生や中日ドラゴンズで活躍した強打の一塁手、西沢道夫が住んでいて、西沢道夫の家にサインを貰いに行ったら、折りよく彼が居て快くサインしてくれた。有霊坂にはお化粧地蔵が祭られていて、備え付けの太い筆に水を含ませて、白く塗られた地蔵の顔をなぞると美人になると信じられていた。時々面白半分に筆を取ったりしたが、男の顔に効果は無いのだろう。
四国町には相撲の羽島山が住んでいて、亀塚公園に子ずれで遊びに来たことがあり、ノートの切れ端にサインを貰った、むっりしてて愛想なしだった。羽島山は岐阜県羽島市の出身で関脇まで勤めたが、当時は膝の故障で低迷している時で、にこにこしろと言っても無理だったのかもしれない。四国町の通りを左に出ると魚藍坂下で、このあたりでは三田商店街と並ぶ賑やかさだったが、ここの芝居小屋では女剣戟の霞ちゃんが人気を博していて、伯母や母などは妹たちを連れてよく観に行っていた。魚藍坂下を右に折れて商店街を行くと古川橋、ここからは広尾、天現寺方面から流れてきた古川に沿って三の橋、二の橋と来て、ここにある耳鼻咽喉科で蓄膿、肥厚性鼻炎、鼻中隔湾曲症の三重苦を手術したのは、それから十年後のことだった。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [294] 投稿日 [2012/5/15]
都市対抗では大分県代表の別府星野組に荒巻淳という凄い投手がいて、火の玉投手と言われて活躍していた。監督は西本幸雄、それに関口清冶など後にプロで活躍する連中がひしめいていた。後楽園にもプロ野球を観に連れて行ってくれたが、五年生になるといつもの仲間と弁当を持って巨人戦を観に行った。当時の内野席はバックネットの端から外野のポールまでと広い範囲で、朝早くから並べばベンチのすぐ上ぐらいには席がとれた。入場料は子供が六十円、それに田町から水道橋までが往復二十円で百円もらって来て残りの二十円でアイスキャンデーなんかをなめていた。この年の五月二十九日後楽園球場に駆けつけた僕らは、ベンチのすぐ上の席に陣取って、この日出場停止処分の解けた別所昭の登場を待っていた。前年南海からの引き抜き事件でこの処分となり、巨人も批判を浴びていたが、我々にしてみれば投手不足の巨人にこれ以上の朗報はなく、彼が二十九番の背番号でベンチから現れると声援を浴びせ続けた。翌年から背番号も十一となりその後水原さんの影響で毅彦と名も変えたが、終始巨人を支え続けて三百十勝の偉業をなしとげた。子供時代の僕は打撃の神様と云われ、初の二千本安打を達成した川上哲治の熱烈なファンで、もちろん巨人を応援していたが、川上が監督になってからは嫌いになって、水原さんにくっついて東映、中日と渡り歩くようになり、最後は水原さんとは関係ないが西鉄ライオンズが破たんした後にこれを買い取った西武ライオンズの創立と同時にファンとなって、今は松坂のいるレッドソックスに落ち着いている。
そうはいっても松坂も頼りないからぼつぼつ見切りをつけようか。
マッカーサー
二十六年四月十六日、第一京浜国道の沿道は、五日前にアメリカのトルーマン大統領に、連合軍最高司令官を解任されたマッカーサー元帥の帰国を見送る人の波で埋まった。マッカーサーといえば占領軍の最高司令官で、天皇を呼びつけたような人だが、当時の日本人には神様のような人だったから、伯母や弟と共に沿道の人波に加わったが、何台かの車が何の愛想もなく通り過ぎただけだった。それでも別れを惜しむ人の帯はしばらくのあいだ解かれずにいた。
敗戦時に連合軍が作っていた四カ国による分割統治計画があって、北海道と東北がソ連で、関東、中部、近畿をアメリカ、中国地方と九州がイギリス、四国は中国だった。この計画が実施されなかったのは何といっても幸せだったが理由ははっきりしていない。それでもマッカーサーの強い意志が影響していたことは確からしい。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [293] 投稿日 [2012/5/11]
巡回映画
はじめは大増寺境内、港中学が出来てからはその校庭での映写会は何よりの楽しみで、子供はもとより大人たちも大勢集まってきた。それはたいてい夏休みにやってきたが竿竹のフレームに大きなシーツを張って、風が吹けばスクリーンも前後にたわんで当然画面も変化するのだがそんなことは一切気にかけずに見入っていて、まさに納涼映画会そのものだった。嵐寛十郎の鞍馬天狗などの劇映画もあったが、何よりも熱狂したのは水泳の古橋広之進で、アメリカ遠征などで次々とだす新記録に興奮し、大相撲のダイジェストでは贔屓の羽黒山やゆる褌の照国、江戸っ子横綱東富士、美男の吉葉山、平幕で活躍してた栃錦、プロ野球の東西対抗戦での川上、藤村、大下や、別所の高々と足を上げるピッチングフォームに憧れて見入っていた。前座に漫才や腹話術などもあって、大人から子供まで娯楽に飢えていた人達が楽しみにしていた。 当時は浪曲の広沢虎造の全盛期で、ラジオの次郎長外伝にはかじりついて聴いていたが、映画会の芸能ニュースで虎造の石松代参の一部がスクリーンに映し出された時に興奮して、家に帰るとすぐに母にその様子を話して聞かせた。
この時代にテレビはまだ無い、テレビジョンという存在は知られてきたけれどどうやって映像が送られてくるのか原理など知っている人もほとんどいない。
映像といえば映画に限られていたからスクリーンが風ではためいて画面がいびつになろうが音声が割れていようが、そんなことを気にする人もいない時代だった。
コカコーラ
昭和二十四年にアメリカのマイナーチーム・サンフランシスコ・シールズがやってきた。初戦は後楽園で巨人が相手になったが、先発の川崎徳治が滅多打ちにあって初回に五点取られて負けた。その後は全日本などが相手で接戦もあったが、シールズの負けは無く、最後の神宮での六大学選抜軍との試合を教室内でのじゃんけんで勝って学校の課外授業で観に行った。 信濃町の駅での集合で外野席だったが法政の関根が好投して二対四で善戦するも勝てる相手ではなかった。この時初めてコカコーラに出会ったが、これがアメリカの味と思っても、ただ苦いだけの物で名前も知らなかったが、家に帰ってその話をしたら伯母が「コカコラだろ」と教えてくれた。この飲料には生涯なじむことはない。
この伯母は家族として生涯一緒だったが、私に野球を教えてくれたのは彼女で、早慶戦とか当時人気の都市対抗戦に、神宮や後楽園に連れて行ってくれた。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [292] 投稿日 [2012/5/8]
路上野球
亀塚の広場で野球が出来るようになったのは二十三年ごろからで、それまでは進駐軍の将校宿舎で後に富山県事務所になった洋館と三井の社宅の間、濟海寺の墓の入り口になっている、猫の額のような空き地がグラウンドだった。 小学校も三年生の頃でボールも飛ばないのでそれなりに楽しめたが、両サイドにある壁がキャッチャーと外野手の役をそれぞれ果たしてくれて、二人でも野球が出来るのがありがたかった。それぞれがプロ野球の特定チームになっての戦いで、まだ分裂前の八球団全部のメンバーを知っていたから巨人なら千葉・白石・青田・川上・平山・山川・小松原・内堀・別所。阪神なら呉・金田・別当・藤村・土井垣・櫟・本堂・若林・長谷川というような打順で、左バッターは左で打つ、千葉などは片足を上げて、というように選手になりきって楽しんでいた。
狭いから二人野球しか出来ないかといえばそんなこともなくて、9人は多すぎるけれど6人づつ位なら十分に試合になったから他地域の連中とも試合をした。ただし我々が使わないときに彼らが勝手に使うことはなくて、そんなところに暗黙の仁義みたいなものがあったのかもしれない。考えてみればそれぞれの町内で子供ながら暗黙の縄張りがあって、それでもめることも無かったのは良き時代の秩序だったのかもしれない。
八球団だった日本職業野球連盟は二十四年にセ・パ両リーグに分裂してチームも増えた。オールスター戦や日本シリーズが観られるというので期待したのだが、なにせチームが増えただけ選手層も薄くなってプロとは云えないような者もかなりいたので、試合そのものがおおざっぱになり興味をそがれるカードも出現したので、さすがに全チームのメンバーを覚えることは無かった。
一人のときはまた遊び方があるもので、これはまさに路上。道の反対側の濟海寺の塀にホームベースを描いて「藤本第一球投げました」、そこにボールが当たれば跳ね返ったボールを捕ってもう一度投げて「一塁投球」でアウト。塀には凹凸があったので横にそれたりフライになったり変化があって面白く、ホームベースに当たらなければボールで四球もあり、ダブルプレーもありで、NHKの名アナウンサー志村正順をまねた口調で、野球中継をしながら遊んでいた。 もちろん自動車などバス以外はほとんど通らない時代だから危険なことも無く、廻ってくるおまわりさんをみつけると屋根の上の雀を眺めたりしてやり過ごした。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [291] 投稿日 [2012/5/4]
寺の町
寺の多いのは功運町だけではなくて近接の町に南北の寺町があるくらいだからどこを歩いても寺にぶつかったりして、墓も寺の数以上にあったが戦火で焼けたらしい墓石もかなりあり、参拝する人もいなくなった墓もかなりあったようだ。我が家の裏もかなり大きな墓地で、特に暑い盛りには格好の遊び場で蝉を追い回したりしていた。この頃は蝉との駆け引きが面白く小便を掛けられたりしながら夢中になっていたが、最近の蝉は追われることもないのか実におっとりしていて、孫のお供で蝉取りをしても簡単に網に捕われてしまうのは何故だろう、こちらが人生の荒波にもまれてずる賢くなったばかりでもあるまい。春はニイニイ蝉から始まってあぶら蝉、それから真夏の主役はミンミン蝉でつくつく法師が加わってくるのだが、最近はあまり声を聞かなくなったのは淋しい。蜩が鳴き始めると涼風が立ってくるけれど、蜩の声も同様に聞かなくなつた。当時は西にしかいなかったくま蝉が近頃はこちらにも進出してきているらしいけれど、ミンミン蝉はどうなるんだろうと心配したりしている。 港中学校はこの墓を越えた所にあったから、朝礼の鐘がなってから出かければ、校長の訓示が済む頃には列の後ろにつくのが朝の習いだったが、学校で喧嘩をしたら、近所の下級生が即座に母にご注進に走ってこられたりするのは迷惑なことだった。
濟海寺の息子が同年だつたから本堂前の石畳で野球などやっていた、狭い空間だけにゴロベースがほとんどで試合の途中で突然「お父さんがお帰りの時間だからやめなさい」とおばさんの一言で中止になるのが常の事だった。 ゴムまりのボールも無い頃だったから二十二年ごろかと思うが、伯母に作ってもらった石ころを芯にして綿をかぶせ、端布で覆ったボールを使ってこの境内で野球をしていた折に、寺の離れの住人を訪ねてきた進駐軍のお兄さんが、仲間にいれてくれと入ってきた。ゲームが終わったところで、このボールじゃあかわいそうだと魚藍坂下の商店街でボールを買ってくれた。この時軟式ボールとゴムマリのどちらがいいかと聞かれて、思わずゴムマリをとった。子供ながらの遠慮心か、生まれながらの控えめか、この性格いまだに変わることは無い。この時大量に買い込んだ飴を走り出した都電から我々に撒いてよこしたが、四谷三丁目から品川に向かう七番の電車は旧式でドアの無い車両だったから、オープンデッキの様な運転台からの派手な飴撒きだった。大人達は「アメリカさんは気前がいいねぇ」と笑いながら眺めていた。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [290] 投稿日 [2012/5/1]
さて三年後の大晦日に全てが明らかになって夫婦の心も通い合い、おかみさんに酒を解禁されて三年ぶりのご対面、茶碗の酒にゆっくりと口を近づけてから一呼吸、ふた呼吸置いて
「む よそ また夢んなるといけねえ」と茶碗を置く。引き込まれ続けていた呼吸がここですーっと引いて、しばしの陶酔に身を任せていた。
三木助は新作落語家が多い日本芸術協会に所属していたので、志ん生や文楽など古典の名人たちが集っていた落語協会の会員が出演する寄席だけしか行くことの無かった私には、その後三木助を寄席で聴いた記憶がない。いや聴いたことはあったのかも知れないが「芝浜」は聴いてない、要するに印象が薄いのだ。それだけ29年に聴いた「芝浜」がショックだったのだろう。そして三木助はそれから7年後、胃がんの為に鬼籍に入ってしまった。今から思えばもっと三木助を聴いておけばよかったと思う。しかし志ん生を聴いた、文楽を聴いた、円生を聴いたという人はまだまだたくさん居るけれども、三木助の「芝浜」を聴いた人は数少ないのではないのではなかろうか、そんな事を考えるとそのわずかな人たちの中に私が居られるという事のありがたさは計り知れないものがある。
ダンスパーティー
濟海寺の隣の洋館は進駐軍の将校宿舎に接収されていて、毎週金曜日にはダンスパーティーが賑やかで、この日だけは唇や爪を毒々しく塗りたくった日本人の女が何人かやってきてダンスに興じていたが、将校相手だけにそれなりの節度は保っていた。この頃はアメリカさんのすること為すことが新鮮で、憧れの目を持って眺めていたというのが一般だから窓の外には近所の住人が鈴なりになっていた。私はかぶりつきで観ていたから踊り方はすぐに覚えて、よせばいいのにこれを学校でやってみせたものだから、一部に反感をかっていじめの対象になりいじめは半年以上続いた。これも五年生のクラス換えでようやくいじめから開放された事を思えば、二十三年の出来事だったのだろう。ここには猿を飼っている将校がいて休日などに遊びに行くと気軽に猿と会わせてくれたが、時には「モンキーハウス!」と叫んで我々の中の体の小さい子をつかまえて猿小屋に入れようとする将校と、そうはさせじと抗う仲間の必死の形相に笑い転げた。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [289] 投稿日 [2012/4/27]
ここから本格的な私の落語との付き合いが始まって、寄席通いをしたり、初ボーナスで無理したテープレコーダーで、ラジオの志ん生、文楽、小さん、円生などを録りまくったのはかなり後の話。
ところでこの本格的初ライブは今から思えば貴重な経験で、文楽、三木助はもちろん、この二人の前に高座に上がったのが林家三平もまた今から思えば貴重な経験だった。三平が真打になったのは昭和33年だから彼はまだ二つ目、後に昭和の爆笑王といわれた芸風とは違ってまともな噺をしていた。その噺はその後一度も聞いたことは無いけれど不思議に覚えている。今回は名人でもない三平の話をするつもりはないけれども、ある会合で立ち話した落語作者と称する人でも知らないという話なのでご参考に書いておく。さて噺の筋は、花魁が客を惚れさせる為に遊郭で着る羽織を特別にあつらえる、ようするに馴染客のマイ羽織ですな。客が部屋に通ると「あなたの為に私が縫ったのよ」と言いながら仕付け糸を糸切り歯で切って抜き取ると客に着せ掛ける、この仕付け糸というところがみそで客は自分の為の仕立て上がりということが嬉しくて、もう鼻の下を長くしてメロメロ状態。ひとしきりやりとりがあって客は満足げに帰ってゆく。お客が帰ると次の客の為に「仕付け糸をつけるおばさんが出てきて……」仕付け糸をつけるしぐさで笑わせて、これがオチ。この仕付け糸をつけるおばさんという発想が面白い。
とりはもちろん文楽で「明烏」、これはもう当時最高といわれた名人芸を堪能したけれど、この話の後の中入りでは甘納豆が売り切れるという伝説があるがこの時はトリだし、学内だから甘納豆なんか売ってない。さて本題の三木助の話。
~あたくしがひところ人形町のほうに住んでおりまして、ちょうどお湯に入っておりますとご年配の方が入っておいでになりまして、いろんな話の末に「昔はこの近所はこはだの鮨を売りに来たもんですよ」なんて言われまして~ゆったりと三木助が語り始めると彼の体験談としての錯覚からかそのまま明治の初めから江戸の終わり頃、「芝浜」の世界へと入り込んでゆく。この噺は酒で身を持ち崩した魚屋が芝の浜で財布を拾い、賢いおかみさんの機転で夢と思わせられて改心、三年間酒を絶って商売に励んで店を持てるようになる。そしてその大晦日に全てが明らかとなるの。余談だが当時の魚市場は大正12年に築地へ引っ越すまで日本橋にあったはずなのになぜ芝なんだろうと思って調べてみると、実は芝にも魚市場があってここは小魚を扱っていたようである。そうするとこの魚屋の客筋もおのずと想像できる。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [288] 投稿日 [2012/4/24]
転居した頃は表通りにも焼け跡の空き地が点在していて、我が家の周りも広々としていたが、すぐに家が建ち始めて友達も出来てきた。我が家は煙草屋の横を入ったところで、家の右側は崖で見晴らしが良く、冬の晴れた日には富士山がくっきりと見えた。左は空き地、左向かいは矢作さんという静かな家で子供も無く、ほとんど付き合いはなかったし、向かいの正面は畑だった。右向かいはジャズシンガーの想われ人の住まいで、色の白い綺麗な人と、生まれて間もない赤ちゃんがいて、本人はときたま紫のスーツなど着て現れていた。その後彼が歌手と結婚したときにはこっちの人のほうがよっぽどいいのにと思ったが、いつか転居していった。その後に来た人は船長さんで、弟と共に招かれて横浜港で彼の船に乗せてもらい、港内を巡ったあと、船の麦飯をご馳走してもらった。左隣の空き地は父が畑にしたが、焼け跡だけに小石や焼け瓦などが多く、手製の金網でふるいに掛けながら畑用の土を作って、トマト、きゅうり、かぼちゃなどを栽培していた。
三羽飼っていた鶏の世話は僕の仕事で、庭のはこべを採っては糠と混ぜて与えていたし、貝殻を砕いたり水をやったりもした。この土地には後に潮田さんが越してきて畑は消えたが借りてた土地は後日買い取った。
お祭りと名人たち
このあたりは亀塚神社の氏子だが亀塚神社は三田通りの春日神社の配下で、縁日といえば春日神社のお祭り。娯楽の無い時代だから櫓の上の演芸には大勢がつめかけて今では考えられない賑わいだったが、運のいいことに三遊亭円生が近所に住んでいて毎年噺を聴かせてくれた。大群衆を前にしての高座だから人情話をみっちりとはいかなくて、相撲の桟敷で尿意をもようして、隣席の空徳利に放尿したはいいけれど、抜けなくなって大騒ぎをするという相撲風景などで沸かせていた。 もう一人の名人は、友人の親父の釣り仲間の縁から、春日神社境内の高座に上ってくれたのが柳家三亀松で~人の噂も七十四日、明日は浮名の立つ仕舞い~人の噂は七十五日というところを七十四日で留めて、明日には噂も消えて後ろ指をさされることなく、あなたとの恋に浸れるのが嬉しいという意味で、これが粋なんだと教えてくれた。 小学生の頃からこんな名人の芸に生でふれられた影響は計りしれない。 こんな環境の中で高校三年生のときに早稲田の大隈講堂で聴いた三木助の芝浜に、こんな名人がいたのかと感動したが、この時のとりが文楽の明烏で前座に三平が出て仕付け糸をつけるおばさんの話しで笑わせていた。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [287] 投稿日 [2012/4/20]
高輪映画への途中、伊皿子の角に政治家の松野鶴平の屋敷があって、時々黒塗りの車が群れていることがあった。この人は松野ズル平と云われる寝業師で、政局が動く時にはこの人の周りがうるさくなると父が教えてくれた。 政治にはこの頃から興味を持っていて、池田勇人や佐藤栄作のような官僚出よりも、河野一郎や石橋湛山が好きで、特に三木武吉の和服のかっこよさに憧れていた。 選挙区は東京一区で鳩山一郎、浅沼稲次郎、安藤正純が指定席だった。総選挙の翌日には聖坂の上り口に設営された選挙速報板の前に立ち尽くして、当落を楽しんでいたが、さすがに小学生の姿は稀だった。 伊皿子の都電の通りを横切るとすぐに高松宮邸で、ある時散策中の高松宮様に出会い、頭を下げたら軽く会釈をされた。高輪映画館はそれからしばらく行った和菓子の虎屋の前を通ってすぐのところにあった。この虎屋は赤坂の虎屋とは別だけれどここのどら焼きは美味しくて伯母が手土産に使っていた。
この煙草屋に公衆電話が設いたのはかなり後のことだったが、今まで伊皿子の電話ボックスまで行っていたのがずいぶん便利になって、何よりも我が家への電話を取り次いでくれたのがありがたくて、遠慮も無く友達に番号を教えていたが、我が家への設置は、35年のローマオリンピック頃に我が家にお目見えしたテレビより少し遅れて、45-9844の番号とともにやってきたと思うのだがこれが煙草屋の番号だったか、我が家の番号だったか定かではない。
向こう三軒
父は昭和二十二年に功運町三番地に百坪の土地を借りて家を建てた。当時の庶民は土地を買うことなどあまり考えず、借りるのが普通だったのは確かだが、資金が足りなかったのかもしれない。戦後間もないから資材も不足していて、家を建てるのも大変なことだったが、ほとんど出来上がってから大きな仕様変更が起こった。 出来上がっていた内壁は、壁材が無かったのか、予算不足かは知らないが板張りで、父はこれが不満なのか、突然工事を中止して塗壁に変更したが、塗り壁にする為に本来ならば、細竹をしゅろ紐で結んで下地を作るところを、板壁を剥がして3㌢幅ぐらいに切り揃えて、2㌢ぐらいの隙間を空けながら打ちつけ始めた。要するに壁土がしっかりと取り付く工夫で、職人にやらせることなく、日曜ごとに仮住まいの麻布十番に近い北新門前町三番地から、中の橋を右に折れて屋敷町の中の道を辿って通っていたが、僕は父の傍で板切れを集めては軍艦などを作っていた。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [286] 投稿日 [2012/4/17]
煙草は貴重品の時代でいつでも買える物ではなく、決められた日の七時頃からの売り出しで、数にも限りがあったので、一人一個と決められていた。小学生の我々も父のために並ばされたが、皆が朝早くから並び始めてこれがエスカレートしてきたので、何時の頃からか発売の時間になると、最前列の人と最後列の人がじゃんけんをして、最前列が勝てばそのままだが、最後列が勝つと全員が回れ右で、最後列が最前列になるという大逆転が起こり、早朝から並んだ人が「もうおしまいです」と云われて、苦笑しながら帰ることもあったが、「早い者順にしろ」などと騒ぐ者など一人もいなかった。 物の無い貧しい時代だったが、みんな心に余裕をもっていてじつに良い時代だった。
それにしてもである、いくら煙草を吸うのが当たり前の時代だったとはいえ、小学生を父親の為とはいっても煙草買に並ばせるのに誰も疑問をもたなかったというのも今から思えば考えられないようなことだったが、煙草の害など知る人もなく、赤子の傍でもうもうと煙をたなびかせていたような時代だから無理もないのかもしれない。
煙草屋の壁には高輪映画館のポスターが貼ってあって、何を上映しているかがいやでもわかっていたから、ターザンなどは子供達だけで観に行った。ターザンはもちろんジョニー・ワイズミューラーで、ジェーンはモーリン・オサリバン、「ターザンの黄金」での水中ラブシーンなど見事なものだった。当時は学校もうるさくなくて月に二回は行っていたが、親も細かいことは言わなくても、見てはならない映画だけはチエックしていて、我々もその辺は心得ていた。 そのてん高輪映画館は洋画専門で、その後新東宝専門館になって、左幸子の「半処女」なんかが話題になるずっと前だから健全で、エロル・フリンの「海賊ブラッド」「シーホーク」で海賊に憧れたり、ローレル・ハーディの凸凹コンビやマルクス兄弟の喜劇に腹をかかえていた。左幸子の「半処女」なんかは知ってる人もほとんどいないだろうが、この手の映画のはしりは若尾文子、南田洋子の「十代の性典」で、岡田茉莉子、青山京子の「思春期」などが話題になったがさすがに観たことはない。クローデット・コルベールの「ママの新婚旅行」を母と観て、その話を担任の吉川久美子先生にしたら、「溝口君はそんな映画を観るの~」とあきれたという顔をしていた。
この頃から映画は最盛期を迎える。映画館も都区内だけで255軒に達したから町内に1軒ぐらいはあった勘定になる。我々小学生が歩いて行ける映画館だけでも高輪映画の他に 東映系の三田映画座、東宝系の芝園館。そして小学校への行く道には麻布日活があった。映画は日常生活の中に自然にあったと言っていい。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [285] 投稿日 [2012/4/13]
そんな時代に、他人と差をつけるとすれば知識の差でクラスでも四番を打つ技量に加えて、「野球少年」から吸収した知識はおおいに役立った。この少年誌の野球以外の読み物で記憶に深いのは時事解説、おりしも朝鮮戦争たけなわの時代で、怒涛のごとく押し寄せる北朝鮮軍に追い詰められた国連軍が、仁川逆上陸で起死回生の大逆転をした話などはこれで知った。
亀塚古墳の真下は御田八幡宮で急な崖になっていたけれど、その途中の潅木の茂みに小屋を作って、隠れ家の趣でゲームをしたり遊びの打ち合わせなどをしていた。遊びのメインはターザンごっこで、ターザン、ボーイ、チータ、探検隊役はいてもジェーン役がいないのが何といっても悔しくて、仲間の妹を入れたいけれど恥ずかしくて云えないのがもどかしく、この性格は生涯変わることはない。その頃の事だが彼女に「ヒロシちゃんのお嫁さんになろうかな」と言われて、しばらくは顔を見ることも出来なくなった。
古墳の上からは東京湾の出船入船が一望の下で、そのおかげで海好き人間にはなったので、後に島とか半島の先っぽなどは好んで訪れることになる。先に連載した「南の島めぐり」などの基になったのはこの時代の環境なのかもしれない。
東京湾には、釣り好きの父に連れられて、田町と浜松町の間にある金杉橋の船宿で艪船を借り、父が艪を操りながら第三台場付近まででかけたが、途中航路を横切る時には、大きな船がやってくると、父は急に真剣な顔になって艪をこぐピッチが速くなった。 漁師でもなかった父が釣り好きがこうじたとはいえ、これほど艪が漕げるとはさすがだと思った。
煙草屋
濟海寺の筋向いの煙草屋は、おばあさんと夫婦養子の若い嫁さんが店番をしていて、いつの頃からか駄菓子も扱うようになり、紅梅キャラメルはここで買っていた。紅梅キャラメルはジャイアンツの選手カードが入っていて、九人のメンバーと監督を集めると商品がもらえたが、水原監督がめったに入ってなくて、まさにお宝物だったが、その上をゆくのがラッキーカードなるもので、これでメンバーを集めると普通のカードがブロマイド程度なのに対して、ラッキーカードでメンバーと水原さんが揃ったときには、芝公園にあった景品交換所でバットをもらった。ところがそのバットは小学生が使うにしても粗末な代物でがっかりした。楽しみに浮き浮きしながらの往路と粗末なバットを抱えての帰り道との間にはおおきな段差が横たわっていた。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [284] 投稿日 [2012/4/10]
亀塚古墳
濟海寺の隣には亀塚古墳を中心とした広場があって、幕末までは上野沼田の土岐家の下屋敷だったそうだが子供にとっては格好の遊び場だった。後に自衛隊の官舎が立ち並んだ広場はまだ草っ原だったし、除草剤もない時代、とんぼやばったが我が物顔に占拠していた。ここの一部の草が刈り取られてグランド風になり、休日に野球をするお兄さん達を、スイングがどうだ走塁のしかたがどうだと評論家の眼で観ていたが、ある時バックネット裏から観ていて、チップしたボールに鳩尾を直撃されて息が詰まった。 お兄さんたちが「こりゃぁいてえや」などと言いながら笑っているのがうらめしかった。小学生の我々の専用野球場は古墳の脇の小さい広場で、古墳がレフト側、ここにぶつけるとホームランと決められていた。今では古墳を含めたこの部分だけが亀塚公園になっていて、ブランコなどの遊具もあるが、当時は何も無くて、古墳も頂上には木などほとんどなく、ここに土俵を作って月に一度の本場所興行をしていた。もちろん観客などいるわけもないけれど、星取表はしっかりつけていた。
野球や相撲のメンバーは私を中に上一人、下二人の四人でこの仲間で「少年クラブ」「少年」「太陽少年」そして私の「野球少年」を回し読みしていたが、一人だけ読むのが遅いのがいて時々逆回転に変えたりして、不満の調整をしたのもその後の調整型人間への芽生えだったろうか。 この当時の「野球少年」は真面目に野球の楽しさを教えてくれる、読み物中心の野球情報満載の少年誌だった。僕の野球との出会いは、昭和二十一年、以前に住んでいた麻布一の橋から少しだけ中の橋方面に向かったあたりの路上。お兄さんたちの球投げを興味深げに観ていると、「ぼうやもやってみるかい?」でボックスに立った。一振りめは空振り、二振りめはバットにかすって、三振りめに右横に飛んだ。四球めを振りぬくとゆるいゴロになって内野手の前に、一塁でアウトになった。この瞬間から僕は野球の虜になって、学校から帰れば野球の毎日になった。この頃の話だが禁じられている路上で野球をしていると、たまたま通りかかったお巡りさんにバットやグローブを取り上げられて、親に貰い下げにいってもらったこともある。敗戦後間もなくで娯楽の無い時代だから、大人も子供も野球だった。プロ野球、当時は職業野球と言った、は東京六大学野球や都市対抗野球に比べて、人気面で遅れをとっていたが、赤バットの川上や青バットの大下などの人気が高まって、野球の中心の地位を固めてきた。そして二リーグへの分裂は日本シリーズ、オールスター戦を誕生させて、ますますの人気スポーツとなっていった。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [283] 投稿日 [2012/4/6]
このあたりは三田功運町と言うのだが、功運町とは江戸時代にあった功運寺の境内なんだそうで、義弟が教えてくれた。東京江戸博物館の、ロビー床いっぱいに広がる東京の古地図をみると、確かに功運寺がある。当時は修行の寮もある大きな寺だったようだが、大正十一年に中野に移転したそうだ。敗戦後何年かして、芝浜中学から分かれる港中学の建設中には、掘り出された人骨がいくつものドラム缶に詰まっていたから、功運寺の墓だったところかもしれない。
功運寺は1598年徳川家康の家臣永井尚政が黙室禅師を招いて桜田門外に開いたお寺だが、二代目住職天存慶存が家康の甥であったことから三田の地に幕府の朱印地として二万坪を与えられこの地に移転した。江戸幕府の庇護もあって名実ともに大寺としての風格を備えていたようで、東海道を下ってきた曹洞宗の僧は江戸に入る前に必ずこの寺に立ち寄ったことなどでその実力が推測できる。それだけの大寺が何故郊外の中野くんだりへ移転せねばならなかったのだろうか。住職に聞いた話ではこの寺の二万坪の土地が幕府の朱印地だったことが仇になったという。江戸開城とともに誕生した明治新政府は「徳川幕府の物は新政府の物」と言う理屈から2万坪の土地のうち1万9千坪を没収した。わずか千坪の土地に押し込まれた功運寺は再三の陳情を繰り返したのだけれど叶えられることはなく、大正11年に現在の地に牛車で仏像や資材を運びながら4年の歳月をかけて移転したという。名門大寺の受難の歴史である。
この土地が明治政府の手に落ちたあとは、お定まりの筋書きとなって三井や浅野財閥に払い下げらた。この話の舞台である時代には浅野の屋敷跡として鉄筋コンクリートの残骸が残り、映画の舞台になったり我々の遊び場でもあったがその後高級マンションのはしりとなった東急三田アパートとして生まれ変わり、芝公園の日活アパートとともに多くの有名人の店子を抱えて名を馳せていた。その後日活アパートは姿を消したが東急アパートは五十年の歳月を経て今なお健在である
聖坂から伊皿子を通って高輪に向かうこの道は、海岸の低地帯を行く東海道に平行して高台を行く道で、中世にはこの道が東海道と言われていたらしいが、そんなことを漠然とは思い描いていても、勝手な解釈の範囲にとどまっていて、濟海寺には幕末にフランス公使館が置かれていたなど知りもしないことだった。昭和も二十四年頃ともなれば、そこかしこに点在した焼け跡空き地も、表通りからは姿を消して、豆腐売りや納豆屋の売り声も張りをまし、特に学生アルバイトの納豆売りが頻繁にやってきた。その中には遊び半分としか思えないのもいて、そんな輩にはこちらも遊び半分にからかいの合いの手をいれたりした。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [282] 投稿日 [2012/4/3]
一番高い所
第一京浜国道を田町から品川に向かって、札の辻を右に折れ、正面に東京タワーを見ながら、赤羽橋を通って芝公園に抜ける三田通りの途中。安田銀行の向かい側を左に折れて聖坂を登りきり、濟海寺の門前から道を隔てて大増寺に下る道のあたり。腹ばいになって頭を路面に擦り付けるような不思議な格好で、北と思しき方向を眺めていた見知らないおじさんが、「やっぱりここのほうが高いな、坊やこうやって見てごらん、向こうの新宿の高台よりこっちのほうが高いだろう」。なんだかわからないけどそんな気がしてうなずくと、やっぱりそうだったと得心して伊皿子の方に消えていった。 なんでも東京で一番高い場所を捜し歩いていて、最後に残ったのが新宿とここなんだそうで、そう云われてみるとなんとなく自慢したくなる一方で、ほんとうかなあ~と持ち前の探究心が頭をもたげたと云えば体裁はいいけれど、単に猜疑心が強いだけで、それを確かめようと思う気などさらさら無く、最近まで疑問のままだった。この当時の東京といえば勿論旧東京市、もう少し膨らまして23区内のことだから八王子のような内陸部は含まれていない。こんなどうでもいいようなことは疑問のままでいたほうが楽しいのだが、長い疑問のままの歳月を経てつい先日に真相を知ってしまった。それは愛宕山だという、言われてみれば確かに愛宕神社のある愛宕山は高い、なにせ初期のNHKがあってそこから全国に電波を発信していたくらいだから高いところでなくては困るのだが、灯台もと暗しで気づかなかった。そしてさらにしゃくなことは、懐古趣味で話題の映画「三丁目の夕日」の舞台設定が愛宕下だという。ところがそんなことはないと言うのが私を含めた周りの連中の解釈で「三田通りに違いない」が大勢を占めている。
ここまで書き進んで筆が止まった。本当にそうかい、何か間違ってないかい。
東京タワーである、この時代に東京タワーは無い。だから三田通の先の空には晴れた空の下に一片の雲がある他は何もないのである。
東京タワーは昭和33年に出来た。話題にはなったが歩いてもたいしてかからないところだから灯台元暗しで行ってみる気にもならない。それから十年近くは近寄りもしなかったが何を血迷ったか結婚間近の妻を誘って展望台に上った。高いところから二人の未来を見ようとしたのか、何かのはずみでそうなったのかは記憶の外にあるのだが、これが生涯ただ一度の東京タワーになるのだから面白い。ちなみにスカイツリーには上ることもないだろうと夫婦で思い込んでいる。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [281] 投稿日 [2012/3/30]
映像で高まる迫力 豊田泰子
親子朗読会に初めて参加しましたが、お父さんと子供たちの朗読というのも新鮮でした。お母さんと違って甘える相手ではなく、ちょっとライバルのような同志のような微妙な空気感があって、不思議な緊張感がありましたね。
そんな緊張感の中、リハーサルが始まりました。私は映像を物語の進行に合わせて出す担当でした。今まで朗読というと、無機質な空間でスポットライトを浴びた人物が読み語るというイメージしかなかったので、どんな感じになるかちょっと心配でした。お父さんと子供たちも最初は不安そうでしたが、効果音が入るとのってきて、そこに照明や映像が加わるとさらに集中力が高まっていくようでした。リズムに乗ってくると、そばで聞いていて鳥肌が立つような迫力の朗読シーンもありました。本番では、聞いている側の人たちも音や映像と臨場感のある話とでぐっと気持ちが惹きつけられているようでした。そんな観客の気持ちが伝わって、読んでいる側も益々やる気になる、そんな一体感を感じました。音や映像の演出も大切なんですね。でももっと大切で心に残ったことがあります。それは大きな声で力いっぱい朗読をする子供たちやお父さん、それに作品に聞き入ってニッコリ笑顔の観客の方々、そんな皆さんの明るい表情です。話す人も元気になり、聞いている人も元気になる、それが朗読のいいところだと思います朗読が終わった後の暖かい雰囲気に、お手伝いさせていただいた私も幸せな気持ちになりました。「楽しかった!」と誰かが思わず口に出されたのがとても印象に残っています。
キリン福祉財団についてご案内します
キリン福祉財団は、「家族介護者」「障害当事者」など地域の中で福祉の谷間に 置かれがちな方々や、「ボランティア」として地域社会をささえる人々の活動を支援しています。
事業内容は、家族介護者支援事業、障害当事者への支援事業、支援先 と共催する青少年の健全育成事業、公募による地域福祉活動支援事業等、 いずれも財団が支援先や当事者と深くかかわる事業を行っています。
国際障害者年の1981年7月に、キリンビール株式会社創立75周年(1982年2月)を記念し、福祉目的専門の財団として設立されました。
福祉行政の手の届きにくい、いわゆる福祉の谷間への援助を行い、民間助成財団として わが国の地域における社会福祉の発展に寄与することを目的としています。
キリン福祉財団のホームページより
おわり
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [280] 投稿日 [2012/3/27]
お父さんと子どもがいっしょに朗読する「三年とうげ」、練習時間はわずかだったのに、声がよく響き合っていていいなと思いました。身体の動きはないのですがとても生き生きとした躍動が感じられたのです。
適当な広さの会場は、ステージと聞き手の距離も近くアットホームで、そこはとても温かい空気につつまれていました。
親子でひとつの作品を読んでそれを声にして発表する、このような場面は、朗読のおもしろさにふれるよい機会になったのではないでしょうか。もし時間が許すなら、私たちスタッフの朗読も聞いてもらうコーナーができたらいいと思いました。
お父さんと子どもたちの発表が終わった後、「ああ、楽しかった~」と言って席を立ったお母さんの声が、とてもうれしく印象に残っています。
ポスター作り 寺西やよい
私はポスター作りやことばあそびの教材集め・当日の進行補助を担当しました。どんなポスターなら子供が参加したいと思うか、どんな言葉遊びなら子供が挑戦したいと思うか、など考えながら取り組め新しい発見もありとても勉強になりました。当日は朗読についてのアドバイスも行いましたが、指導することの難しさと自分の未熟さを感じる場面もありました。これからに向けてのよい勉強になりました。全体的には子供達と大人が一緒になって、みんなで言葉遊びや朗読を楽しくできてよかったと思います。参加してくださった方にも子供と一緒に声を出す楽しさや朗読の楽しさを感じてもらえたのではないかと思います。これからも朗読の楽しさを伝えていけるような活動を続けていきたいと思いました。このたびは参加させていただきありがとうございました。
*写真は音楽活動中の寺西やよいさん
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [279] 投稿日 [2012/3/23]
2011年12月4日、広島市みどり坂小学校において「キリン福祉財団 親子読み聞かせ隊」のイベントが開かれ、NPO法人国際朗読ことば協会の広島支部のメンバーが企画運営に携わりました。このイベント運営の要であるプロデューサー役を務めた中村晴重会員は元小学校長時代に培われた人脈で、保護者の会である「おやじの会」と学校関係の調整役までやっていただき、お蔭で大成功のうちに終了しました。参加した広島会員の皆さんの感想文をご紹介します。
早口ことば 長藤謙三
三回連続の親子の朗読会でしたが、私は二回目から参加しました。
幼稚園と一年生の子供たちに早口ことばを教えることが私の担当です。早口ことばは初めてという子、いきなり与えられた課題なのでなかなか集中できない子、それでも、なんとなく意味がイメージできて、独特のリズムにのってくるとしだいに興味を持って練習することが出来ました。地域の行事と重なったせいか、参加者は期待していたより少なかったのですが、そのぶん、一人一人とゆっくり話し合いながら練習することができました。
あっという間に予定の時間が過ぎてしまいました。その日の練習が終わった後、一人の子が、もう一度私の方にかけよってくると、「ぼくがんばる!」と言い残して帰って行きました。
三回目の朗読教室は発表会です。その準備では、ステージの後ろに掲示する看板作りを手伝ってくれた子供やお父さんもいます。みんなで手分けして書いた看板は、ちょっぴり不揃いなその手作り感がなかなか味わいのあるものでした。発表の前にことば遊びをするコーナーを担当させてもらいました。早口ことばは、読んで感動するようなものではないし、そもそもたいした意味もない。それでも、みんなといっしょに声を出してみると、いろんな声が入り混じって、なんかおかしくて楽しい。朗読のためのトレーニングとしか考えていなかったことば遊びですが、こうして声を合わせたり、かけ合いにしてみると、生き生きとした響きや活気が感じられ、身体まで自然に動いてくるような気がします。
いよいよ発表会です。お父さんと一緒に早口ことばを発表した子どもたちも、初めて練習したときにくらべると、ずいぶんしっかりと声にすることができました。やはり発表の場となると姿勢や表情にも緊張感があり、声にも勢いが出てきます。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [278] 投稿日 [2012/3/20]
多彩なゲストをお招きして 岩岡さち子
飛翔の会発表会は、身内の発表会と思い「出る」ことに決めました。
後日、多彩なお客様、ゲストのお招きがあると伺い「私、大丈夫かしら?」と不安になりながらも「背伸びせず、今の自分の実力で読めばいいと」思い、気が楽に。迎えた当日、緊張もしましたが、会場の雰囲気を味わいながら楽しく読みました。そして、自分が終わればほっとし、後はじっくり聴かせていただくのみ。松先生と佐野ディレクターのトークを交えながらの「詩の朗読」。蔭山先生「忠臣蔵」は生の尺八の演奏と映像が一体となって「さすがプロ」。人の心を感動させる朗読力の素晴らしさを、改めて実感しました。人の心に届けられる朗読、「私には何時できるのやら・・・・・」
非日常の空間に漂って 来島留美
「朗読セラピー」を学び、初めてのステージ発表会。BGMと画像効果も手伝い、まるで非日常の空間に自分自身が入り込んでしまったように感じられました。まだまだ、自己満足の世界ですが、これから諸先輩方のパワーに見習い、
「本当のセラピストとして頑張りたいな」と思わせてくれた経験でした。
これからも、皆様とご一緒に楽しみたいと思います!
松先生、もっと甘えて 中村世津子
最高に楽しい「飛翔の会」でした
松みき先生が、一人で何から何まで心をつくされ、「もっとお手伝いできたらよかったのに」と今感じております。
「次回は松先生、もっと私たちに甘えてくださいね」
今回初の「会員の・会員による・会員の為の朗読発表会」は懇親会も兼ねた楽しい時間でした。初のスポットライト、音楽付き、映像付きの初づくしで皆様は心地よい緊張感を味わったことでしょう。そして本番の出来は『花丸』大成功!皆様はまるでプロの様なステージでした。第2回飛翔の会、今年も開催予定です。更なる会員の皆様のご参加を期待しております。
おわり
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [277] 投稿日 [2012/3/16]
お客様も感激 加藤尚子
飛翔の会当日は、自分のことはともかく楽しませていただこうと参加しました。お陰様で盛り沢山の内容で、客として楽しい時間が過ごせました。
何より、聞きに来てくれた長女の友達に「楽しかった」ととても喜んでもらえたのが何よりでした。
お食事も堪能 北山秀子
「飛翔の会」では先生の朗読を楽しめたり佐野剛平さんの声が聞けたり、尺八演奏があったり、充実していました。とっても楽しかったです。お食事も良かったと思います。有難うございました。
総合芸術の楽しみ 田中幸子
今までの発表会では自分で作品だけ用意すれば良かったのですが、今回は作品と映像と挿入音楽を自分で考え用意しなければならなくて、楽しみと苦しみを味わいました。映像は友人の協力で整い、音楽は自分のCD以外に楽器屋でも聞き漁って、ピッタリの曲を見つけた時は声を上げるほどの喜びでした。これからもっともっとやってみたくなりました。貴重な経験をさせていただき心から感謝しております。
華やいだ集いでした 下村良子
スポットライト、音楽の入る朗読はいつもと違う舞台。その日に向けての練習から当日の華やいだ会と、とても楽しいひとときでした。
私の画が大写しで 森下安子
蔭山武人先生に司会をしていただき感激しました。また、つたない私の絵画作品を大きくスクリーンに映し出していただき有難うございました。友人知人の応援で、また先生の御指導で無事にステージを終えることができ、感謝の一言です。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [276] 投稿日 [2012/3/13]
まさに飛翔の刻 杉山千明
人前に立つと手が震え声が震える私が、ドレスアップしてスポットライトを浴び、音楽をバックにプロヴァンスのクリスマスの話を読んでいる。
60歳を過ぎて始めた朗読の世界が広がり、舞台にまで立つとは不思議なことです。まさに私にとっての飛翔の時間、出来栄えはともかく、多いに楽しんだのです。
ブルーキャットのように 山本笑巳理(小学校1年生)
ブルーキャットは、いろいろな言葉で、みんなを優しい世界に連れて行きました。私もそのお手伝いができますように・・・と言う思いで読みました。
朗読文化を世界へ 藤原政恵
青山での発会式では意気込んで参加したものの、私としてはまだ確たる方向性も掴めないまま、何がなし果てしない大海原の前に立ったような不安な気持ちがあったのも正直なところです。けれど一年の歩みのあと飛翔の会が持たれ会が進むうち、しっかり足固めが出来ている事が今更ながら、ひしひしと伝わって参りました。
溝口氏の日舞、尺八の音を背景にした蔭山先生の朗読に至ると日本の朗読文化を世界へ伝えて行くという私達NPO活動の更なるステップをはっきりと確認いたしました。私達の限りない夢を乗せて!
外郎売の舌好調(ぜっこうちょう) 山田文子
せっかくの機会なので、かねてから取り組みたいと思っていた「外郎売口上」に思い切って挑戦しました。練習を始めた当初は、つかえてばかり。果たして途中で立ち往生せずに読みきることができるだろうかと不安でした。
繰り返し練習するうちに何とか舌も回るようになり、発表会当日を迎えました。華やかなスポットライトを浴び、すっかりその気になり、気持ちよく楽しく読みきることができました。ご指導下さった先生方、お聞きくださった皆様、雰囲気を盛り上げてくださったスタッフの皆様ありがとうございました。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [275] 投稿日 [2012/3/9]
平成23年12月11日、都内の杉並会館末広の間では内閣府認証NPO法人国際朗読ことば協会主催の「飛翔の会」が沢山のお客様と豪華なゲスト、それに晴れがましい会員たちが集うなかで賑やかに開催されました。
挨拶に立った蔭山武人理事長は自らマイクのセッティングをするなど手作りの会を象徴するようなパフォーマンスで会場は早くもアットホームな雰囲気に包まれ、登場する会員たちはリラックスして日頃の研鑽の成果を見せました。
先ずは飛翔の会の第一回を祝って不肖溝口の祝い舞「松の緑」これはもうご愛嬌だけのものですが次々と登場する会員の朗読はお客様を堪能させたことでしょう。その後はNHK「ラジオ深夜便」ディレクターの佐野剛平さんに松みき事務局長が加わっての朗読は柴田トヨ原作の「くじけないで」それからいよいよ蔭山理事長の朗読「忠臣蔵より」理事長の独壇場です。この朗読を更に盛り上げたのが入江要介さんの尺八生演奏、やはり違いますね。そして尺八のミニライブで会はクライマックスに達します。
一休みした後は直木賞作家志茂田景樹先生の軽妙な挨拶から始まった懇親会、盛り沢山の珍味に舌鼓を打ちながら楽しい時間は流れてゆきました。
最後は「ちょっと早めのクリスマス」、ミニ抽選会でプレゼントが当たります。品物の内容にかかわらず何か貰えるというのは嬉しいもので、皆さん童心に帰ったのか中高年の欲心なのか、それぞれの思惑に胸をときめかせながら発表される番号に歓声が上がったりため息が流れたり。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [274] 投稿日 [2012/3/6]
初めは怒りを抑えかねながら女房の告白を聞いていた亭主も話が半ばにさしかかるともう溢れる涙を抑えることが出来ません。女房が謝るどころじゃあない自分のほうから頭を下げなければならないのです。女房の言うとおり三年前の暮れにあのまま拾った金を使い込んでしまったら今頃は刑務所の中でしょう、よくぞ騙してくれた、何度礼を言っても済まないくらいだ、と女房の手を取ったのでした。
「そうですか、分かってくれましたか、それで私もホッとしましたよ」
「そうとなったら早速だけど温泉にでも行くか、おまえにもずいぶん苦労させたからな」
ずいぶん気の早い話なのですが今の稼ぎなら温泉に行っても不思議に思う人は一人も居ないでしょうし、何よりも女房としても嬉しくて仕方が無いのです。
「温泉なんか何十年ぶりかなあ、ゆっくり湯に浸かって旨い酒なんか飲んだらたまんないだろうなあ」
「あなた、やっぱりお酒が恋しいんでしょうねえ」
「いや、そうじゃねえよ、別に飲みたいわけじゃあねえんだ」
そうは言っても亭主の酒に対する恋慕の情は消えたわけではないことは女房にはよく分かります。三年の禁酒でお酒の毒も消えたようだし大晦日でもあることだから、女房としては少しぐらいは飲ませてあげてもばちは当たらないだろうとすすめてみたのです。
「へぇ、めずらしいこともあるもんだ、いいのかい」
丁度ね、芝のおじさんから頂いたお酒があるんですよ」
「そうか、それじゃあ頂くとするか、ああ冷がいいなあ、おっ、お酌してくれるのか、嬉しいねえ、へえ~、いい酒じゃねえか、芝のおじさんは口がおごってるからさすがにいい酒だ。この匂いなんてもんはどうだい、たまんねえなあ、
ご無沙汰しておりました、またお目にかかろうなんて思ってもいませんでしたよ、相変わらずお健やかで・・・」
茶碗に注がれた酒を目の前に亭主は三年待ち焦がれた恋人へのくちづけまでの時間をたっぷりと楽しんでいます。
「見ろよ盛り上がってるぜ、口のほうからお迎えお迎えだな」
と酒に口をつけようとして一呼吸
「む、よそ、また夢んなるといけねえ・・・」
おわり
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [273] 投稿日 [2012/3/2]
いきなりそんなことを言われても亭主にわかるわけはありません、とにかく全てが夢だといわれて生まれ変わって、仕事一筋の三年間だったのです。ところが三年前の暮れに新宿ゴールデン街で飲みつぶれてた話をされるとうっすらと記憶が戻ってきます。
「三年前の暮れだぁ?ゴールデン街?あっ、思い出した、それでもおまえあれは夢だって言ったじゃねえか、なんだぁ亭主をだましたのか、いくらおまえでも許せねえことがあるぞ」
「だから最後まで聞いて下さいって言ったんじゃないの、お願い、もう少しだから我慢して聞いてくださいよ。三年前の暮れにあなたが三千万円の札束を持って帰ってきたときには私もこれで少しは楽が出来ると思って嬉しかったわよ。でもねえあなたが温泉だ旅行だって言うのを聞いてたらね、怖くなっちゃったのよ、だってそうでしょ、急にそんなにお金使い出したら誰だっておかしいと思うじゃない、それにいくら三千万円だって使ってしまったらいつまでもあるわけないでしょう、そのうち警察に調べられて窃盗だか横領だか知らないけれど刑務所に入らなければならなくなったらどうなっちゃうのかと思ってね、そんなことで芝のおじさんに相談したんですよ。そしたらさあ、そりゃすぐに警
察に届けなきゃだめだ。本当なら本人が届け出なければならないんだけどおじさんがなんとかしてやるって言うから、おじさんに任せてあなたには夢だ夢だってだまし通したのよ。そしたら三ヶ月後に、落とし主が現れないからあなたに所有権が発生しましたっていう警察からのはがきが来たの。だから三千万円はあなたが貰えることになったんだけど、ここでお金が入ってきたらせっかく仕事に精を出しているあなたがまた昔の酒飲みに戻ってしまうんじゃないかって心配で、警察のほうにもそんな事情を話したら私が代理で受け取ることを認めてくれたのよ。そんなことで去年の暮れにもよっぽど話そうかと思ったんだけど、まだまだと心を鬼にして我慢していたの。それがさっきもうお酒は飲みたくないって言うのを聞いて、もう大丈夫だと思ったから本当の事を話したんだけど今日まで苦しかったのよ、だってね、あなたを騙してるんですもの、騙されてるあなたが好きなお酒には見向きもしないで仕事に打ち込んでるの見ていると申し訳なくてね、でもこれですっきりしたわ、私の話はこれだけ、本当に悪かった、ごめんなさい、あとは私を離婚でもなんでも好きなようにしてください、いや、そうじゃないわ、離婚はいやね、離婚以外だったらなんでも我慢するから。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [272] 投稿日 [2012/2/28]
稼ぐに追いつく貧乏無し、と申しますが、酒を一切断って靴作りに専念すると元々は腕のいい職人ですから中高年のジョキングブームや旅行のブームに乗ってお客さんも増えてきました。そのうちとても一人じゃあ捌ききれなくなったので下職の若いもんを二人ほど雇って、そうなると家の中じゃあ手狭だからというんで表通りに小さな店を出すまでになって、周りの信用も取り戻してまいりました。
月日の経つのは早いもんでございまして、あれからちょうど三年目の大晦日でございます。働きづめだった店も今日はお休み、昨日は若い連中にわずかでもボーナスを出すことが出来てご機嫌の亭主なのです。
「あ~いい気持ちだ、自分の家の風呂に入っていい香のお茶を飲むなんざあ極楽じゃねえか、三年前のことを思やあ夢のようだ」
「そうですねえ、酒飲みの亭主と借金を抱えてどうしょうかと思ってましたよ」
「面目ねえがその通りだ、これだけ立ち直ったのもみんなおまえのおかげだ、ありがとうって感謝しなきゃならねえよ」
それにしてもよくがんばったと思うのです。女房にしてみれば亭主が酒を絶つと宣言したとはいっても、あれだけ溺れていた酒ですからそう簡単に止められるとは思ってもいませんでした。それがなんと一滴の酒も飲まずにこの三年間を仕事一筋でやってきたのです。
「それにしてもあなたはよく頑張ったわね、ぼつぼつお酒も飲みたくない?」
「いや飲みたくなんかない、酒はもうまっぴらだ」
「そうですか、三年でお酒の毒も消えてくれたのかしら、そんならあなたにちょっと聞いてもらいたいことがあるんですよ」
珍しく態度を改めた女房が一通りの話が済むまでは黙って聞いてくださいという断りをいれてから、おもむろに汚い鞄を差し出しました。
「それじゃあ話をするけど、あなたこの鞄に見覚えはない?」
「いやに汚い鞄じゃねえか、なに、開けてみろだと、何だこりゃ大層な金だ、どうしたんだこんな金、へそくりにしちゃあ多すぎるぜ。あっ、最近店の伝票を作るとかいってパソコンを入れたけど、インターネットの株で儲けたんじゃねえのか、いったいいくらあるんだ」
「私にそんなことが出来るわけがないじゃないの、その鞄にはね三千万円入ってるのよ、あなたその鞄と三千万円に心当たりはないですか」
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [271] 投稿日 [2012/2/24]
そこまで言われるとさすがに確信が持てなくなって、もしかしたら夢だったのかもしれないと疑念の雲が広がってくるのです。もし夢だとしたらお金なんかは全く無くて、友達を大勢連れてきて飲み食いした借金だけが現実のことになってしまうという恐ろしい事実が突きつけられているのです。
「それでどうなっちゃうんだ」
「お金が払えなきゃ利子がどんどん増えて払いきれなくなって、借金取りが毎日来るようになるわよ」
「そうか、しょうがねえ、破産宣告しちまおう」
「またそんな暢気なこと言って、破産宣告するって事は大変なことなのよ、そんな事したって借金取りと縁が切れるわけじゃなし、世の中そんなに甘くはないのよ」
思いつきで破産宣告なんて言ったのですが、だいたいが破産宣告がどんなものかも分かってるわけでもないので、女房に一蹴されるとどうしていいかわからなくなります。
「そうか、そんならもう死ぬしかねえな、死のう、悪いけど付き合ってくれ」
「あなたねえ、死ぬくらいなら死んだ気になって仕事してみたらどうなの」
「仕事ったって、今更すぐに注文がもらえるわけでもねえだろう」
「お客さんってありがたいわねえ、あなたの作った靴は履きやすいからって注文だけはもらってるのよ、最近はね中高年のジョキングが盛んなんだけど、長歩きするのにピッタリの靴なんてなかなかみつからないのよ、あなたが本気で仕事をしてくれれば腕は確かなんだから昔のお客さんたちがどんどん戻ってくれるわよ」
そうはいっても道具はしばらく使ってないし材料代もいります、そんなに簡単に仕事が始められるのかと思ったのですが女房の話では道具はしっかりと手入れがしてあるし、芝に居るおじさんに訳を話せばサラ金の借金も含めて喜んで貸してくれるからお金のことは私にまかせてあなたは仕事に精を出してくれればいいと言われた亭主は好きな酒を止めるという生まれ変わり宣言をして仕事に没頭しはじめたのです。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [270] 投稿日 [2012/2/21]
「昨日の払いってなんだ」
「お金ですよ、昼過ぎに出かけていったと思ったら友達を大勢連れてきて仕出屋から酒と肴が来るから頼むぜって言うから驚いたわよ。何を頼んだのって聞いたら鮨だ天ぷらだって言うじゃない、そんなお金どうするのかと思ったけど友達の前で恥をかかせちゃあいけないと思うから、何とかしなきゃいけないと思って近所のサラ金に飛んで行ったんですよ。どんなに貧乏していてもサラ金にだけは手を出さないつもりだったけど他に手が無くて仕方なしに借りちゃったのよ。こんなお金は早く返さないとどんどん金利がかさんで返せなくなっちゃうから、私はもう心配で心配で落ち着かないんですよ」
亭主はきょとんとした顔をして女房を見つめていたのですが、自分の心を落ち着かせるようにゆっくりとしゃべり始めます。
「俺が拾ってきた三千万、確かにおまえに預けたよなあ、それは間違いないだろ、それをどうして使わないんだ」
「ばかなことを言うんじゃありませんよ、あなたは何も持ってなかったじゃない、何処で転んだんだか泥だらけになって、へべれけに酔っ払って帰ってきてさぁ、一杯だけ飲ませろって言うから、もうよしましょうって言ったんだけど、あんまりしつこいんで一杯だけ飲ませたらそのまま寝ちゃったんじゃないの」
亭主は聞いてはいるのですが、そんな話はほとんど耳に入っていません、何か悪い夢でも見ているような心持になってきます。
「おいおいちょっと待ってくれよ、夫婦の金は半分は女房の物ぐらいは知ってるけど全部持っていくのはひどいじゃねえか」
「ひどいもなにもそんなお金は無いんだからしょうがないでしよ、何なのよその三千万って言うのは」
「だからその鼠小僧が」
「あなた寝ぼけてるんじゃないの」
「だからさあ、新宿のゴールデン街で」
何を言ってるんだか支離滅裂になった亭主を冷たくあしらいながら悪い夢でも見たんだろうと突き放します。
「いや、絶対夢なんかじゃねえよ、第一この肩が痛いのは鞄をぶつけられたからなんだ」
「肩が痛いって言ったって、転んだんじゃないの、上着もずぼんも泥だらけだったじゃない」
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [269] 投稿日 [2012/2/17]
「ほらごらんなさい、もうすぐお正月ですよ、こんな寒い日に眠り込んじゃったりしたら死んじゃうよ、もうお酒はほどほどにしろっていってるじゃないの」
確かに朝まで眠り込んでいたら凍え死んだかもしれません、亭主の話ではそれを救ってくれたのは何処かから降ってきた鞄だというのです。新宿のゴールデン街で飲みつぶれた亭主が路地の隅で寝ていると何処かから鞄が飛んできて肩にぶつかった、投げつけた奴に文句の一つも言ってやろうと思ったけれど誰も居ない。それで鞄の中身を見るとお金が入ってたと言うのです。
「そうなの、変な話もあるもんだわねえ、それでお金はいくらあるの」
「ちょっと数えてみろよ」
「私がですか、何だか手が震えちゃって数えられないわよ」
「ちょっと待ってろよ、・・・札束が三十個あるぜ、三千万円じゃねえか」
大変なお金です、落とした人は大騒ぎで探しているのでしょうからすぐに警察に届けなきゃと勧めたのですが亭主は聞くものではありません。
「馬鹿なことを言うんじゃないよ、落とした金が俺にぶつかってくるわけがねえじゃねえか、これは貧乏な俺を哀れんだ神様が恵んでくれたんだ。こんだけの金がありゃ楽な暮らしが出来るぜ、温泉に行ったりして面白おかしく暮らそうぜ」
「そんなことしてだいじょうぶなんですか」
「大丈夫さ、誰も見てねえんだから、俺達に同情した鼠小僧が投げ込んでくれたと思えばいいんだ」
そういわれてみればそんな気もするし、何といっても貧乏神に居続けされているような毎日を思うとそんな夢のような世界に少しの間でも浸ることが出来ればどんなに嬉しいことかと少しばかり悪魔のささやきに負けそうになった女房だったのですが、良心もまたしっかりしていて悪魔に負けなかったのはさすがでした。
「わかったわよ、今日はもう遅いから一杯飲んで寝ておしまいなさいよ、お金はちゃんと預かっといてあげるからさ」
「おう、そうしてくれ、明日っから楽しみだぜ」
翌々日でございます、よく寝込んでいる亭主を揺り起します
「うむ、ああよく寝たなあ、いい心持だ」
「いい心持だか何だか知らないけど、昨日の払いはどうするんですよ」
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [268] 投稿日 [2012/2/14]
鞄の夢4(続きの2)
「十五から酒を飲み出て今日の月」なんていう句がありますけれども、「今日の月」を「運の尽き」と言い換えたほうがいいような人もいるようでございまして、一度お付き合いを始めたが最後お酒とは無理心中なんてこともあるようでございます。そんな男を亭主に持ったおかみさんなんてものはもうすっかり心得ておりまして、いくら遅く帰ってきても驚くもんじゃございません。
「あらあら、どうしたんです。上着もずぼんもこんなに汚しちゃって、また路地裏かなんかで倒れてたんじゃないんですか、それに何ですそんな汚い鞄なんか抱え込んじゃって」
もう諦めて先に寝ようかと思っているときにようやく帰ってきた亭主は何処で手に入れたのか薄汚い鞄を抱えたまま、外の気配を窺うような仕草をしてから家の中に入ってきました。
「どうしたの、誰かいるんですか、なんだかおどおどしてるみたいで変だわねえ、何ですかその汚い鞄は」
「悪いけど水を一杯もらいたいなあ」
「何を言ってるんですか、こんなに遅くまで飲んできて、いつものことだけど心配するじゃないですか、水ぐらい自分で飲んだらどうなんですよ」
「そんなこと言うなよ、いまいい物を見せてやるから」
「またそんなことを言って、どうせ焼き鳥の残りかなんかでしょう」
「まあちょっとこの鞄を見てくれよ」
何だかわからないけれども得体の知れない鞄なのです、しっかりした革製の鞄なんですがかなりくたびれていて、何よりも気にかかるのは汚いだけではなくて、臭気というか毒気というか怪しい雰囲気を持った鞄なのです。そうですね、人間でいえば度々修羅場を潜ってきたような、なにかぞっとするような雰囲気を持っているのです。
その鞄のフアスナーを亭主が恭しく引きあけると転がり出てきたのは沢山の札束です。
「あら、大変なお金じゃないの、こんなお金がどうしてここにあるのよ、あなたとうとう人の物に手をだしたんじゃないの、情けないわねぇ、いくら貧乏したって夫婦二人でなんとか今日までやってこれたんじゃないの、それにあなたが少しだけでも働いてくれたら人並みの生活が出来るんですよ」
「いやそうじゃねえんだ。今日は新宿で飲んでたんだ」
「飲んでたって、毎日飲んでるんじゃないの、別に珍しいことじゃないでしょ」
「まあ、黙って聞いてくれよ、それがさあ、今日に限って酔いが早くてゴールデン街の路地の奥で寝ちゃったらしいんだ」 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [267] 投稿日 [2012/2/10]
溝口 浩
新宿ゴールデン街という街があります。東京新宿の花園神社に隣接する一帯に木造長屋建ての店舗がマッチ箱のように並んでいる街で、作家やジャーナリストが集う街としても有名なのですが、ゴールデンという名前が標準的にこの町の体を表しているかといえば首をかしげざるを得ません。と言うよりはこの街に連なる飲食店が文壇バー、おかまバー、ぼったくりバーの三つに分類されることからみてもかなり怪しげな街だと言っていいのでしょう。
ゴールデン街と名を変えたのは1958年4月1日、売春防止法が施行される3月31日までは青線地帯といわれる売春宿が軒を並べ、そしてこの青線というところにこの街の持ち続けている怪しさがあるのです。この街にほとんど隣接して新宿御苑までの間にある二丁目売春街は公に認められて赤線地帯と呼ばれていたのに対して無許可で赤線まがいの行為をする店が軒を並べていたのがこの俗にいう青線地帯でしたから、二丁目に比べると一段下のランクとしてみなされ、値段も二丁目が四百円のところを三百円という具合、当然そこにはべる女も吉原や二丁目から流れてきたような年増や程度の低い女も多く、全て非公認の店ですから暴力団の介在なども当然なことだったのでしょう。これから始まる人情話の発端はこのゴールデン街で起こった不思議な事件なのですが、公に出来ない怪しげな金の飛び交うこの街では特に不思議な出来事でもないのかもしれません。
新宿大ガード脇にある思い出横丁にカウンターだけの一杯飲み屋、共同便所の正面にあるこの店はいい気持ちになって外に出たとたんにアンモニアの臭いが鼻を襲ってくることさえ我慢すれば、四十を少し過ぎた若作りのおばさんを相手に気安く飲めて居心地はいいのです。
男は毎日のようにこの店に通って来ます、毎日来るといっても特におばさんに気があるようでもない、よっぽどこの店が気に入ってくれたのだろうと店の扱いも丁寧ですから男は機嫌良く飲んでゆくのです。
この日もこの店で飲んでから男はゴールデン街に足を向けました。
ちよっと飲み過ぎたかな、頭の隅にそんな思いを走らせながら思わずよろけると細い路地に倒れ込んだのです。何時間経ったのか、いや何分だったのかもしれません、突然肩に受けた重い衝撃に我に返った男は目の前に転がっている鞄をぼんやりと眺めながら、慌ただしい足音が乱れて遠ざかってゆくのを夢うつつの中で聞いたようでした。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [266] 投稿日 [2012/2/7]
中 村 晴 重
目の前にある作品も、作者にとっては『過去の自分』であろう。また、当選すれば本になることを前提に書かれたとしても、実際に本に載り、「分析・解釈」されて、第三者が朗読するなどとは夢にも思わずに書かれたことと思う。きっと、「それは違う。自分は、・・・・。」という想いがきっとあるに違いない。「『380字』を突き回されても迷惑だ。』という想いもあるかも知れない。
「一方的で、失礼な分析や解釈ばかりで、申し訳ない。」と作者に心で謝りながら、それでも朗読を学ぶ者として、「分析・解釈」し、「朗読する。」のである。
作者の心に迫る朗読のためには、
作者の心 ~ 作品(文字)~ 読み手の心(解釈)~ 朗読(肉声)
という流れを、何度も往復しなければならない。
本稿の書き出しの2行を、声に出して読んでみた。
やはり・・・、朗読は難しい。
1行目と2行目の間には、どんな「間」がふさわしいのか。「難しい」の前には、どの程度の「間」が適切なのか。また、「難しい」は、どんな感じで声にすればいいのか。書いた本人が悩み、困るのである。「心の言葉」と「文字の表す意味」と「肉声」との違いに戸惑うばかりである。
「オギャー」とこの世に生を受けた時から今日までずっと声を出し続け、人に自分の想いを伝えるためにずっと喋り続けてきたにも関わらず、『素直に、自然に、話すように』朗読することは難しいのである。
なぜ、何のために、人は朗読をするのか。
「世の中には、『武術・武芸・武道』という言葉があるのに、話し方には、『話術・話芸』はあっても『話道』は無いのか?」などと、ますます泥沼に入り込んで行く。
『朗読の道』に想いを巡らすことは、人生に想いを巡らし、自らの生き様を模索する「求道」に通じるものなのであろうか。
『朗読とは何か?』
この問いに答えることは、難しい。
おわり
中 村 晴 重
投稿者 [中 村 晴 重] 記事番号 [265] 投稿日 [2012/2/3]
中 村 晴 重
「おーい、さえ子」という会話文は、内言語なのか外言語なのか、頭の中の言葉なのか、口から出た声なのか、正解は無いのであろう。何度も何度も繰り返す日々の中では、声に出したこともあったり、声にならなかったこともあったりしたのではなかろうか。答え・正解というのは無いのであろう。「自分の感情」を「言葉」に置き換えられないのが、人間の「心の言葉」なのだから。
「肉声」なのか、「心の言葉」なのか、結論を出しかねたまま、時間が過ぎた。
色々な状況・場面を想定し、読み方を変えてみた。しかし、結論は出なかった。どう読んでみても、それなりの話になる。結局、当日にどう読むかは、その場の自分の感覚に任せることにした。自分の順番の前に、全文を心の中で何度も読み返し、作品の世界の中に没頭することにしたのである。
特に意識したのは、「出だしの会話文は、最終段落の続きである。」という感覚で、文末の「・・・。」の感情を、そのまま出だしの雰囲気に繋げようと思った。そして、そのままの流れで、聴いていてくださる方の雰囲気の中にとけ込んでいくのが一番自然なのだと、自分に言い聞かせた。あれこれ解釈して突き回すのを止め、作品の中に自分を置くことにしたのである。
自分の番が来た時、出だしの文章を読み始める前に、一度、最後の一節、「俺の声が聞こえるかい、さえ子・・・。」を、心の中でつぶやくことにした。その瞬間に感じた文末の「・・・。」の感情が、出だしの声を決めてくれると信じたのである。
前に読んだ人からマイクを受け取り、一礼をして客席を見た。真剣なたくさんの眼差しを感じた。予定通り、最後の一節を心の中でつぶやき、「おーい、さえ子」と声を出し始めた。
『「おーい、さえ子」と呼んでもおまえの返事がない・・・。』
朗読しながら、「今までと違う朗読をしている。」と感じる、もう一人の自分がいた。聴き手を前にした、「生の朗読」とは、こういうものなのであろうか。
聴いてくださった人の心には、何が届き、何が届かなかったのであろうか。
確かなのは、8月27日、私が、あの朗読会場に居た皆さんと、共に息をしながら、同じ作品を共有していたということだけである。「朗読している自分がいて、自分の声を感じた自分がいた。」という感覚である。
(つづく)
投稿者 [中 村 晴 重] 記事番号 [264] 投稿日 [2012/1/31]
中 村 晴 重
『一次案』を書いてみて、「何か、違うよな~。」と感じつつも、さらに読み続けていった。すると、何度となく読む内に、ある時、読みながら涙が出てきた。作者の心に、自分の心が共鳴した瞬間であった。
私は涙もろい人間で、本や映画だけでなく、人の話を聴いていても涙腺が緩んでしまう。感動的な本を読み聞かせしていると、涙声になり、声が詰まってしまうこともあった。「言葉の奥」にある情念に共感した時、涙腺が反応してしまうのである。
役者さんは自分の仕事として役を演じる時、身体全体でその人物になりきって、本当に涙を流したり、腹から笑い転げたりするのだという。そして、「役者としての自分が演じている姿」を、もう一人の自分が常に冷静に客席からそんな自分を眺めているのだという。役柄は、あくまで役柄であり、自分ではない。自分が演じる配役上の人物にすぎない。その役になりきりながらも、あくまで「演じている自分」をどこかで意識するのだという。
『朗読』でいえば、「読み手として内容を理解しようとしている自分」と、「声を出している自分」と、「それを聴いている自分」の関係に当たるのであろう。「自分が共感し共鳴した情感を、自分の声に乗せて聴く人に届ける。」つもりであるが、聴き手に届いたのは、「作品の心・作者の心」なのか、「自分の感情」なのか、難しいところである。届けるべきものは、「作品の心・作者の心」である。自分の声(表現)が、それを妨げていないか、悩むところでもある。
何度読んでも難しかったのが、最初の1行。出だしの「おーい、さえ子」という会話文である。
『「おーい、さえ子」と呼んでもおまえの返事がない・・・。』
初めは、「奥さんが生きていた時と同じように、実際に声を出している場面」と考えてみた。すると、一次案に書いたように、「居間から、台所にいる妻に、いつものように(明るく)声をかけている。」となる。そして、「~おまえの返事がない・・・。」に向かって、妻の死という現実を受け入れなければならない自分と向き合うようになる。当然、声も、外に向かう声から、内面に向かう声へと変化していく。その方が作者の悲しみが、より深く感じられると思ったのである。
しかし、この文章を最後まで読むと、「~俺の声が聞こえるかい、さえ子・・・。」で終わるのである。きっと作者は悶々とした想いで毎日を過ごし、走馬燈のように想いを巡らせ、何度も何度も、さらに何度も、妻に向かって「心の言葉」で呼びかけ続けているように思えてくる。たった「380字」の中に万感の想いを綴っているのである。
「肉声」なのか、「心の言葉」なのか。「肉声」だとしても、どのような「声」なのであろうか。
(つづく)
投稿者 [中 村 晴 重] 記事番号 [263] 投稿日 [2012/1/27]
中 村 晴 重
作者の真意とかけ離れ、誤解の塊であることは承知の上で、「朗読原稿 分析(一次案)」としてまとめてみた。自分自身の読みの限界を感じながら・・・。それが、以下の稿である。
8番目の『個人的な共感度』という項目は蛇足かも知れないが、あくまでも、作品に対峙する自分自身の気持ちを大切にしたいと思った。
2011年8月9日
朗読原稿 分析 ( 一次案 )
中 村 晴 重
1,作品の大意
元気だった奥さんが急な病で亡くなり、定年間際(直後?)の男性が、奥さんの死をなかなか受け入れられずに、奥さんの幻影に語りかけている。
2,主人公の人柄
・ サラリーマン生活を三十数年過ごしてきた。
・ 妻は専業主婦で、子どもはいなかったかも知れない。
・ 子どもがいたとしても、既に自立して家を出ている。夫婦二人の生活が長かった。
・ 日常生活の多くを妻に頼ってきた男性。 (妻依存型の男性)
・ 妻に苦労をかけたと反省しているが、妻からの、思いもかけぬ優しい言葉を聞き、さらに、妻へ甘えている。
・ 急病(1年程度の看護)で他界した妻への思いが強く、あまりに急な変化に心がついて行っていない。
・ 妻の死後、一人で生きていく決意をしたにもかかわらず、妻の死を認められないでいる。
3,全体的な読みの調子
・ 死んでしまった妻への手紙であるから、落ち着いた優しい音調。
・ 夫は、優しく、弱いところがあるが、弱さを前面に出すのではなく、優しさの面を出す。
4,文章構成 (4段落構成)
① 妻に話しかけても返事のない生活。妻の死を受け入れられずにいる夫。
② 妻が入院した時のエピソード。二人の会話。妻の言葉で救われた夫。
③ 妻の優しさを胸に、生きていく決意をする夫。(弱気、あまり強くはない。)
④ 未練が強く、妻の死を受け入れられずにいる夫。①に戻っていく。
5,段落ごとの扱い
① 居間から、台所にいる妻に、いつものように(明るく)声をかけている。
② 思い出を静かに語る。独り言のように。
③ 決意であるが、強くはない。語尾の・・・は、上げ調子。
④ 会話文は、明るく語りかける。だんだんと、優しく、弱く、甘えるように・・・。
文章の終末部分なので、最終段落である事を予感させ、ゆっくりかみしめる。
6,6回ある「おまえ」の扱い
① 「おまえの返事がない」が初出。優しく、死別を予感させる。
② 「おまえの死を確認する」は、大切に。 死別が確定された。
③④⑤ 「おまえ」 優しく語りかける。
⑥ 「おまえの写真に向かって」 最後の語りかけ。
文末の「さえ子・・・。」に繋がる「おまえ」でありたい。
7,4回ある「さえ子」の扱い
①、③は、生きている「さえ子」さんに向けての語りかけの調子。
②は、入院中の「さえ子」さんへの語りかけ。
④、最後の「さえ子」は、だんだんと、優しく、弱く、甘えるように。・・・は、上げ調子。
8,個人的な共感度
・ 奥さんに優しい点は素晴らしいが、弱さが全面に出ており、“自立した男”としては、不満がある。
・ “女々しい”とまでは言わないが、“力強く生きる”メッセージが欲しい。
・ 女性読者からは、支持が多いかもしれない。
(つづく)
投稿者 [中 村 晴 重] 記事番号 [262] 投稿日 [2012/1/24]
中 村 晴 重
まず、本の1ページにまとめてある文章を、4段落に分けてみた。そして、自分が読みやすいように、句読点を補い、意味のまとまりを意識しながら改行を加え、区切りを入れて書き換えてみた。そして、A4サイズに印刷し、朗読用の手持ち原稿とした。
確実な文章読解のためには、視写が有効であるという。1字1字書き写していくと、作者の想いがよく解り、息づかいまでも伝わってくる。推敲を重ねたであろう文章の重みが、より深く理解できるのである。
文章をこのように書き換えた上で、自分なりに「どのように読むのがふさわしいのか。」、「どう読めば作者の心が聴き手に伝わるのか。」と悩みながら、作品分析を試みてみた。何をどう解釈すれば作品分析になるのか暗中模索であったが、まず、思いつくまま八つの項目を立て、文字を置いてみることにした。作者の意図に反する点も多いと思うが、まず、強引に自分なりに解釈してみた。
作品を読み、理解すると言うことは、作者の人生観・価値観を読み取っていく作業である。そして、解釈していくということは、自分自身の人生観・価値観に照らし合わせていくことだと思う。人は、「知っていることしか理解できない。」という。正に、自分自身が問われるのである。読みの深さは、自分自身の人生の豊かさに比例していく。
まな板に乗るのは、「作者・作品」ではなく、「自分自身」なのである。
(つづく)
投稿者 [中 村 晴 重] 記事番号 [261] 投稿日 [2012/1/20]
中 村 晴 重
『朗読とは何か?』
この問いに答えることは、難しい。
日常生活の中で、文字を声に出して読む機会は、ほとんど無い。新聞・書籍をはじめ、仕事上の書類など多くの「文字情報」を目にするが、大抵は「黙読」である。人に大事な話をする機会があると、必死に原稿を書いて、つい、それを「読んで」しまう。子ども達に「読み聞かせ」をした経験はあっても、「ただ読んだだけ」であったように思う。自分なりに、持てる知識を総動員して工夫をしたつもりではあるが、果たしてそれが「朗読」と呼べるようなものであったのか、はなはだ怪しい。「音読と朗読の違い」など、辞書的説明は理解できるが、解ったようで、結局、よく解らないのが実情である。
「朗読が上手になりたい。」と、単純な動機で朗読教室の門を叩いたものの、勉強するほど泥沼に入って行くような気がする。
「越中八尾 おわら風の盆 朗読会」に参加するに当たり、自分に割り当てられた作品をどのように朗読するのか、悩みが始まった。
私の朗読する作品は、『60歳のラブレター』の中の一編で、380字程の短いエッセイである。しかし、それは、66歳の男性が、妻を看病し、その最期を看取り、独りで生活しながら、日々繰り返し頭をよぎる断ちがたい想いを込めて綴った『夫から妻へ』の『380字』である。テーマは重い。一つひとつの言葉の中に、二人の人生が詰まっているのである。その、わずか『380字』の中から、作者の人生を理解し、妻との生活を想像し、作者の妻に対する想いを読み取らなければならない。そして、読み取ったものを基に朗読し、聴き手に伝えなければならないのである。これは、神様でも不可能なことだと思う。しかし、それでも『朗読する。』のである。
私の担当した作品は、文頭に掲げたものである。皆さんならどのように朗読されるだろうか。以下の稿は、私が『朗読とは何か?』と自問し、迷いながら進み、発表会当日をどのように迎え、そして、どのように「朗読」したのか、についての軌跡である。勉強不足や理解不足の点について、ご指導いただければありがたい。
(つづく)
投稿者 [中 村 晴 重] 記事番号 [260] 投稿日 [2012/1/17]
本当を言うと私も心配してたのです、あれだけ私を可愛がってくれた帝ですから大勢の追っ手を遣わして無理やりにでも私を連れ戻しに来るのではないかとも思ったのです。でも杞憂でした、帝はわかってくれたのです。帝はおっしゃったそうです。
「どうにも仕方がない。その男を処罰したところで、今となっては姫宮を取り戻して都に戻すこともできない。それならば竹芝の男に生きている限りずっと武蔵の国を所領させ、税や賦役も免除することとしよう」
こうして私に武蔵の国を預けるということになったのです。男は私のために屋敷を皇居のように造ってくれました、穏やかな暮らしでしたわよ。子供も何人か出来たけど、男の子は武蔵の姓を頂いて栄えたのですよ。それに男も心得ていてそんな立派な屋敷も私が死ぬとすぐに取り壊して神社を建てたの、それが竹芝神社になったというわけ。そうそうこんな事があってから帝も懲りたのでしょうね、火たき屋には男を入れないで女を置くようにしたのですって。
姫宮の長い話は終わりました。千年も前のおおらかな話です。
「そんなことがあったのですか、姫君も出来心が始まりとはいえ良い伴侶を得られて幸せでしたね」
「これが定めだったのでしょうね、宮中に生まれた種が武蔵の国に花を咲かせたのもそれなりの意味があるのでしょうね。あら、少しおしゃべりが過ぎたわね、ぼつぼつ帰らなければ」
「もうお帰りですか、またお会いできますか」
「そうね、あなたが翁と言われるようになったら、もしかしたらね」
二人はいつの間にか亀塚古墳の頂に座っています。海の方向に目を転じるといつもは出船入船で賑わっている芝浦の港も正月のこの日だけは静かな光を放っているようです。
太田道灌がこの丘の頂に創立した亀塚神社は江戸時代にこの丘の前を通る古代の東海道の反対側にあった二万坪の功運寺が明治維新とともに土地を取上げられ中野に移転した功運寺の跡地の一部、現在の土地に移されて今はありません。
「千年の昔もこんな風景だったのですか」
問いかけて振り向くとそこにはただ枯れ草をゆする風の音だけが通っていました。
「いい正月だ」背伸びをして立ち上がるとお雑煮の香りが鼻をくすぐります。
「いいかげんに起きなさいよ」母の声に気付くとまだ床の中、初夢の名残をもう少し楽しんでいたいな、受験勉強は明日から追い込みです。
おわり
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [259] 投稿日 [2012/1/13]
男も驚いたでしょうが呼ばれたので恐れ入りながら欄干のそばにやってきたのよ。そこで「先ほど言った事をもういちど私に聞かせておくれ」って言ったの。そしたら武蔵の国から連れて来られたこの男は恐縮しながらも話してくれました。
武蔵の国にいれば楽しく暮らせるのに、遠い京にまで連れてこられて宮中で火たき屋の衛士をしなければならない、どうしてこんなにつらい思いをしなければならないんだろう。私の国では七つ三つと造って置いてある酒壷に、さしかけて浮かべたひたえの瓢、瓢箪を二つに縦割りしたひしゃく、が南風が吹けば北になびき、北風が吹けば南になびき、西風が吹けば東になびき、東風が吹けば西になびくのを見ることも無くこんなことで毎日を過ごしているのだから情けない。
この話を聞いて私の好奇心がみるみるふくれあがって、思いもよらないことを口走ってしまったの。
「私を連れて行って、それを見せておくれ。こんなことを言うのはそれだけのわけがあるんだから」
男は驚いたわよ、姫宮を連れ出すなんて恐ろしいことですからね。
それでも私の見込んだ男だけあって、あきらめがいいと言うか、運命に従ったというのか知らないけれど、私を背負って宮中を抜け出してくれたのよ。
この男は案外頭も良くてね、必ず人が追ってくることを予想してその夜は勢多の橋のたもとに私を座らせてから、この橋を柱一間分ほど壊して、それを飛び越えてから私を背負って一気に走ったので七日七晩目には武蔵の国に着いてしまったの。
私の父母、帝と后は心配して捜してくれたけど、武蔵の国の衛士がとても良い香りのするものを首に引っ掛けて飛ぶように逃げていったという情報を聞いて使者を出したの。ところが勢多の橋が壊れていて先に進めず、三月目にようやく武蔵の国にたどり着いたのです。そこで私がこの使者を呼び寄せて、
「私はこうなる運命だったのでしょうか。この男の家が見たくて、私を連れて行けと言ったものだから、こうしてやってきたのです。ここはたいへん住み良く思います。もしこの男が処罰され、ひどいめに遭わされるのなら、私はどうしたらよいのでしょう。これも前世にこの国に住み着くという因縁があったからこそです。早く都に帰って朝廷にこの事を奏上して下さい」と言ったのです。
使者は私がこう言うのだからどうにもしようがない、ということで都に戻り、帝にそのままを奏上してくれました。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [258] 投稿日 [2012/1/10]
それから長い年月の後、太田道灌がこの台地に物見台(燈台)を置くにあたってこの祠を守護神として社を創立したので亀塚と言われるようになり、この丘が古墳と見られることから亀塚古墳といわれるようになったのです。
ようやく様子がわかってきました、なんのことはない子供の頃の遊び場なのですから。
「なるほど、そうすると芝浜坂というのは今の聖坂ですね」
「ようやくわかってきたみたいね、私も千年近くも眠っていたから景色はすっかり変ってしまったけどやっぱり懐かしいわね」
「そうするとあなたは本当に千年も前の人なのですか、それにお尋ねしたいのはあなたがどなたなのかと言うことなのですよ、まさか小野小町じゃないでしょうが、あっごめんなさいね、小野小町もこれ程かと思うようなお綺麗な方なんですが」
「無理しなくてもいいのよ、これでも私は宮中に居たのよ。だけど名前は無いの、この時代はね誰の娘とか言われるだけで本人の名前では記録に残されないてないのよ」
「宮中に居られたのならなおさらです、何故こんな武蔵の国にまで落ちてこられたのですか」
「それがね、ちょっとした好奇心からだから面白い話よね、実はね、この話の顛末が更科日記に書かれてるの」
今はもう武蔵の国に入ってきた。特に景色のよい所も見えない。浜辺も砂が白くて美しいなどということもなく泥のようで、紫草が生えると聞く武蔵野も葦や荻だけが高く生え、馬に乗った人の弓の先が見えないほどです。その中を分け入って行くと、竹芝寺という寺があった。
更科日記の記述はこうして始まるのですがこのご婦人、いや素性が分かってみれば帝の姫宮ですからこれからは恐れ多くも姫宮さまです、の回想をしばらく聞いてみましょう。
ある日のことです、私は一人で御簾のそばに出て柱によりかかってあたりを眺めていたんです。そうすると何となく耳に入ってきたのが御殿の前庭を掃いている男の声で、瓢がどうしたとか、どちらになびくとか独り言をいっているのです。それがなんとなく気になって、面白半分にその男に声をかけてみたのです。
普段はありえないことなんだけど、その時はちょっと変だったのね。御簾をかきあげると「そこの男、こちらへおいで」と声をかけたのよ。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [257] 投稿日 [2012/1/6]
何が起こったのでしょうか、馥郁とした香りに呼び覚まされてあたりを見回すと香りの主は妙齢のご婦人なのです。
どうしたんだろう、神主さんにお祓いをしてもらって、寝床から出ようとは思ったのですが何しろ連日の夜更かし、大晦日は明治神宮に初詣のあと帰ってきたのが明け方で、昨日はまた従兄弟達とトランプのナポレオンが盛り上がり、ほとんど徹夜のレンチャンだから起きたくても起きられないのでした。どこかで「お雑煮を食べなさい」と言う母の声が聞こえたようなのですが、いつの間にか再びの白河夜船に身をまかせていたのでしょう。
思いもかけないご婦人の出現に、粗相があってはと飛び起きたのですがそこで又驚きの連続です。
「あれっ、何処だここは」
「ほほほほ…」と鈴を振るわせるような笑い声の主は馥郁たる香りの主。
「あなたは?ずいぶん時代がかったお姿ですが、それよりもここは何処なんでしょう」
にこやかにこちらを見つめていたご婦人は静かに口を開いたのですが何を言っているのかさっぱりなんです。英語とかフランス語とかそんな種類の言葉ではないし、中国語や韓国語でもない。思いっきりゆったりとしたその言葉はそれでも何とは無く懐かしい響きを持っているのです。もしかしたら日本語?それもかなり古い時代の、そうだとしたら現代語バージョンに切り替えてもらわないと分かりません。
「あら、ごめんなさいね、私の時代の言葉で話したもんだから分からなかったのね」こちらの気持ちが通じたのか突然の現代語バージョンです。
「驚きましたね、いったいいつ頃の言葉なんです?それに私の時代の言葉ってどういうことなんです」
「ここはね、武蔵の国の竹芝というところよ、私は京の都からやってきたの、この先に坂があるでしょ、あれが竹芝坂、ここは竹芝寺の境内なのよ」
何を言っているのかわからないままにあたりを見回すと何となく見慣れた小高い丘が目につきます。
「あれは亀塚古墳に似てるけど、違いますか」
「よくわかったわね、私が死んだ後この地に建てられた芝浜寺にあった酒つぼの下に白い霊亀が住み着いたの。それをこの土地の人たちが神として祀り、和合豊熟を祈願したところたいへんな霊験があったのよ。それから何年かして大雨があった翌日に土地の人が参拝に行くと酒つぼも霊亀も石になっていたので人々は驚いて祠を設けて尊拝するようになったのね」 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [256] 投稿日 [2012/1/3]
溝口 浩
昭和も二十年代の終わりともなれば東京の海岸線に近いこの街にも残されていた敗戦の傷跡が見えなくなり、貧しさは変らないまでも平和を楽しむ風潮は溢れていました。敗戦と共に盛んになったクリスマスともなれば子供達はサンタクロースの贈り物が待ち遠しく、若い大人たちは訳も無く盛り場に群れ集い、銀座などは新橋から当時尾張町と言われていた銀座四丁目あたり、それから有楽町方面に折れての数寄屋橋までは歩くのも容易でない程の混雑を楽しんでいました。今では信じられないことなのですが本当にそれだけが楽しみでただ訳も無く銀座にでかけて行く、そしてせいぜいが大混雑の喫茶店にもぐり込んでこの日だけのスペシャル価格といえば体裁はいいけれど、早い話が通常の何倍かのコーヒーを飲んでクリスマスという祭りを楽しんでいたのです。そんなことですから大学生の従兄弟についていってもただ銀座の人波にもまれて帰るだけ、大晦日もただ明治神宮にお参りして帰るだけでした。
騒がしい音とともに頭の周りを何かが飛び交っているような気配を感じて眼を覚ますと頭の上で白いものがサッサッという音を発しながら右に左に流れています。はっとして飛び起きると布団の上に正座をして頭を下げました。
頭の上を右から左へ飛び交ったのは大麻(おおぬさ)というお祓いの道具で榊の枝に細く切った紙をくくりつけたもの、右から左へ振られてこれで終わりです。頭をあげると近所の亀塚神社の神主さんが白髭に埋もれた顔をほころばせています、1月2日の朝のことでした。
「よく寝ているからそのままでお祓いさせてもらいましたよ、おめでとうございます」
「ありがとうございます、今年は大学受験の年ですからよろしくお願いします」
寝たままでお払いを受けてご利益があるのかどうだかわからないけれど神主さんが請け負ったのだからお任せするしかないと観念してゆっくりと立ちあがります。神主さんはと見ればまだ隣で寝入っている大学生の従兄のお祓いにとりかかっていました。
亀塚稲荷神社は現在の東京都港区三田四丁目、当時でいえば功運町、明治中期までは月の岬と言われた月見の名所である聖坂の途中にあります。1266年に建立した阿弥陀信仰を記した供養石があることから小さいながらも歴史を感じさせる神社ではありますが、三田の春日神社の末社にしかすぎません。氏子も少なく社前を通っても気をつけないと見過ごしてしまうほどの小さな神社なのですが、それだけに我々にとってはかなり身近な神主さんでもあったのです。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [255] 投稿日 [2011/12/30]
~疎水の音を聞きたくて 田中幸子 埼玉支部A
八尾の旅では、素晴らしい蔭山先生の朗読、皆で頑張った「60歳からのラブレター」、富山市観光と楽しいたくさんの思い出ができました。とくに、風の盆恋歌の序の章に出てくる「疎水の音」を聞きたく、尋ね歩き、耳にした時の感激を忘れません。
~飾り気の無い温もり 久保田行江 埼玉支部A
八尾の街はひっそりと優しく、飾り気の無い温もりで迎え入れてくれました。久しぶりにお聞きする先生の朗読の世界のヒロイン(?)になり、そしておしゃべりを満喫できた楽しい旅でした。
~艶っぽい作品で 根岸孝子 埼玉支部A
蔭山先生の朗読会はさすがプロ
越中おわら風の盆にしっとり艶っぽい作品で、すばらしかったです。
おわら風の盆の踊りも間近で見ることが出来ました。又私も、朗読させて頂く事が出来て、とても良い勉強になりました。ありがとうございました。
おわり
*写真は富山市内、民族民芸村の五百羅漢②
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [254] 投稿日 [2011/12/27]
~福袋 柳 宏子 埼玉支部A
わずか一泊二日でしたが大きな「福袋」をプレゼントされたようなとても楽しい、有意義な旅行でした。どうもありがとうございました。
~また参加したい旅でした 松井利江 埼玉支部A
国際朗読ことば協会の八尾旅行、素敵な旅でした。参加された会員の皆様と親睦を深められたこと、つたない自分の朗読を聴いていただいたこと、そして何よりも蔭山先生の朗読を拝聴できたこと(それも物語の舞台で・・・)。
第二回朗読の旅があったらまた参加したいと思います。
~ピタリとはまった朗読 中村二三 埼玉支部B
ずっと行ってみたいと思っていた八尾でした。先生の朗読は、あの八尾の町の雰囲気、たたずまい、空気にピタリとはまっているように思え、とても
“ステキ”でした。地元の方に風の盆の踊りも教えていただき感激しました。おどりでたっぷりと八尾の夜を楽しみました。ありがとうございました。
~深夜までも楽しみたい 大野寿美子 埼玉支部A
帰宅してからCDを聴き、たどたどしい朗読に拍手を頂いた事に恥ずかしさと申し訳なさを感じました。風の盆は素晴らしく、深夜までも楽しみたいと思いました。
~胡弓の音色に酔って 下村良子 埼玉支部B
水音の町八尾で、先生の朗読「風の盆恋歌」に聞き入り、街に出ては、越中おわら節の踊り、歌い手さんの歌声、胡弓の音色に酔い、風の盆をたっぷりと感じてきた八尾の夜でした。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [253] 投稿日 [2011/12/23]
~地元ご婦人の好意 野崎千春 埼玉支部A
八尾駅から「ぐるりんバス」で稲穂がこうべを垂れ始めた田園風景と水音、坂の町を眺めながら朗読会場に到着。
朗読会は先生の「風の盆恋歌」の朗読に聞き入り感激冷めやらぬうちに会員による「60歳のラブレター」の朗読に入った。この読みがお客様にどう伝わったか不安な気分を引きずりながら「おわら風の盆」踊りの見物に出かけた。
前夜祭というのに人出の多いのに驚いた。人ごみの中、やっとの思いで踊りを見る事が出来たが、想像していた雰囲気とちょっとちがうような気がした。
人ごみからぬけて下ってくると踊りの連から少し離れた一角で数人の踊り手が掛け声をかけながら踊っているのに出会い、我々の仲間の数人がそれに加わり踊りの由来や振り付けの説明を聞きながら踊った。なかなか経験できることではないので少し興奮した気分で集合場所に向かう途中、土産物の露天に立ち寄ったところ一人のご婦人がご自宅の玄関先まで案内して下さり、町の住居の由来やら特徴などを説明し、自分も若いころ踊り手として夜の明けるまで町中を踊り明かした経験などを話して下さった。そのご婦人の郷土を愛し、文化や風俗風習を後世に伝えて行こうという熱意に心を打たれた。
翌日も好天に恵まれ、富山の歴史館などの見学を修学旅行気分であじわう事が出来た。
旅行を企画して下さった事務局のご苦労を思い感謝・・・・ありがとうございました。
…続く
*写真は富山市内、民族民芸村の五百羅漢①
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [252] 投稿日 [2011/12/20]
~原稿読むのに精一杯 長藤 謙三 広島支部
八尾の町は、井田川に沿って三階建ての家並みが続いて見える坂の町、その情緒あふれる町並みは、少々窮屈なバスで、さっと通りすぎてしまうのはもったいない。もう一度、ゆっくりと歩いてみたいところでした。
山元食道を会場にした朗読会では、朗読の先輩方の中で、「60歳のラブレター」の一篇を読むという貴重な体験をさせてもらいました。自分なりに声にしようとして初めて気付くその作品の思いの深さやおもしろさに惹かれ、いっしょうけんめい練習しました。わずか数十秒の朗読とはいえ、私にとっては「朗読デビュー」となる緊張の一瞬です。もし、この手紙を書いた人がその場におられたら…。作者の思いを損なうのではないかと、申し訳ないような、恥ずかしいような気持ちになり、覚えていたはずの文章も頭の中からとんで、原稿を読み上げるのが精一杯でした。
蔭山先生のライブ朗読を初めて聴くことができました。しかも取り上げられたのは、まさにその地、そのときにぴったりの『風の盆恋歌』です。
何も構えることなく、自然で淡々とした、それでいて無駄もすきもない語り方。深いところへ、きちんと納まるような朗読でした。
先生の朗読の中で、風の町、水の町、八尾のもの静かで奥深い情趣を味わうことができたような気がします。
たまたま通い始めた朗読教室でしたが、もっともっと「朗読」というものを知りたい。自分もまた、ほんものの朗読ができるようになりたい。そのためなら自由に使える時間の全てをかけてもいい、そんな気持ちにさせられた越中八尾の朗読ツァーでした。
…続く
*写真は風の盆の踊り
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [251] 投稿日 [2011/12/16]
~踊り手の指先に感動 友光春枝 埼玉支部A
八尾の旅は同行させていただき、本当に良かったと思っております。
朗読には参加いたしませんでしたが、皆さんの朗読は無理なく、とても柔らかく読まれ、あの場の雰囲気に合った素晴らしい発表でした。勿論、先生の朗読は素晴らしく、胸に来るものがありました。
私は、以前読んだ「風の盆恋歌」から八尾の町の情景を想像しておりましたが、正に思い描いていたものと同じようでした。
昼間の町並みを歩いていると、どこからか水音が聴こえ、各々の家の玄関や格子戸の内にはさりげない季節の花が飾られており、しっとりとしたたたずまいの町並みでした。昼は観光客も少なく、ぼんぼりの飾られた家並みをのんびり散策できました。夜の賑やかさとは対称的でしたね。でも夜の踊りも素晴らしかったですね。女性の踊る姿はとても美しかったですが、私は男性(若者)が指先をピッと伸ばして踊る姿に特にとても感動しました。町中で伝統を守っているのだなということを強く感じました。
とに角、八尾はたった数時間の滞在でしたが想像していた以上に感動でした。
二日目もまとめて富山のいろいろを見学できて、とても楽しく良かったです。
お土産もついついたくさん買ってしまいました。それにしても松先生がくるくるとよく動いていただき、面倒を見てくださったことがお疲れだったことと感謝しております。
この旅ではたくさんの方にもお会いできました。私は朗読には参加せず便乗組みで申し訳けありませんでしたが、本当に楽しい富山の旅でした。
~実りある「合宿」でした 川西千加子 埼玉支部A
先生の朗読を近くでじっくりお聞きでき、感動しました。また、拙いながら、同じステージで自分も参加できたこと。風の盆では、地元の方々と小っちゃな輪をつくり一緒に踊ったこと。富山の観光等々。今でも、心温まる思い出です。
そして、何よりも先生方をはじめ、会員の皆様との尽きないお話「おしゃべり」が最高でした。 「合宿」・・・すてきですね。松先生の温かいご配慮に感謝いたします。楽しい旅を有難うございました。
…続く
*写真は八尾街中の夫婦地蔵
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [250] 投稿日 [2011/12/13]
~「また、訪れたい異空間」 古家洋子 銀座教室
「富山はこんな町を隠し持っているんだ」
これが私の八尾の町並みに対する第一印象です。
江戸時代に迷い込んだかのような町屋と呼ばれる家並み、それを繋ぐ急な石段。
昔日の繁栄を物語る料亭に、寺院の前の蓮の鉢植え。ただの地方の田舎町では到底あり得ません。
そんな町並みの一角にある町屋食堂を一軒借り切って、今回の朗読会は行われました。
会員の方々が各々個性溢れる朗読を披露。私も新参者ながら参加させていただきました。
そして、本場で聞く蔭山先生による「風の盆恋歌」。さすがに圧巻でした。
街と言葉が共鳴するとでも言うのでしょうか、ステージで聞くのとは異なった音色を感じました。まさしく一夜限りの「八尾言霊ライブ」です。
夜は街流しを追いかけて、皆で道から道へ走り回りましたね。
伝統芸能と呼ぶには余りに幻想的な音と踊りに、時の経つのも忘れて最終電車に駆け込む羽目になりましたね。
駆け足行脚もとっても良い思い出です。
町並みと音、富山の豊かさに現実を忘れた2日間でした。
また、あの異空間に包まれたいと来年のイベントを心待ちにしている私です。
最後に
運営からガイドまでこなしていただいた蔭山先生、事務局長。
撮影、時々引率まで担当していただいた溝口様、中村様。
本当にありがとうございました。次回も宜しくお願い致します。
…続く
*写真は八尾の街中②
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [249] 投稿日 [2011/12/9]
~八尾追慕 藤原政恵 埼玉支部A
しっとりとした蔭山先生の朗読“風の盆恋歌”を聞いた後、微熱めいた余韻に浸りながら、提灯の明かりの道を胡弓に泣いて流されてゆく。
先生によって今宵明確に息づかされた人物。私は今誰の思いを抱いて歩いているのだろう。土地の方々の親切さと仲間達の愛に包まれて輪になって踊るうち、静かに狂おしいものが込み上げてきた。妙に人恋しくなった一夜でした。
“あれが風の盆だった!” 連れて行って下さって本当に有り難うございました。
~水の音がきこえる 三浦和子 八王子支部
初めての八尾でした、水の町八尾ということでとてもたのしみにしておりました。水の音がきこえる~想像もつきませんでした。着いた日、町を少し歩きました。どこからともなく水の音が聞えてきました。何か心が洗われるようなきれいな水の音に胸うたれました。
又、夜にみた男女の踊り、特に男女一人ずつ少し高いところに立って踊ったり。私は初めてよくみる事が出来ました。男踊りの手の仕草、とてもつやっぽく、すばらしく思いました。
私の勝手で次の日体調を悪く早く帰していただきました。水の音と踊り、しっかり聞き、見させていただきました。大変たのしい八尾の旅でした。
…続く
*写真は理事長の朗読
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [248] 投稿日 [2011/12/6]
「おわら風の盆」は毎年9月1日から3日にかけて富山県八尾の11の町内で行われています。この3日間には、全国から20万人もの人がこの町を訪れるという大きな行事なのです。また8月20日から30日までは、前夜祭として毎夜、各町が交代で“町流し”と“輪踊り”をおこなっています。
そんな町でのNPO法人国際朗読言葉協会の八尾朗読会は、その“風の盆前夜祭”に併せて8月27日に開かれました。蔭山理事長の朗読は高橋治の「風の盆恋歌」、その後は会員の皆さんによる朗読「60歳のラブレター」、長い歳月を共に過ごしてきた夫婦のラブレターと不倫の話を取り合わせた朗読会は「人生を語り、味わう」のにふさわしいテーマだったのかもしれません。
ところで“おわら風の盆”はどのようにして始まったのでしようか。一説によると元禄15年(1702)3月、加賀藩から下された「町建お墨付」を八尾の町衆が町の開祖米屋少兵衛家所有から取り戻した祝いに、三日三晩歌舞音曲無礼講の賑わいで町を練り歩いたのが始まりとされています。どんな賑わいもお咎めなしということで、春祭りの三日三晩は三味線、太鼓、尺八など、鳴り物も賑々しく、俗謡、浄瑠璃などを唄いながら、仮装して練りまわりました。これをきっかけに孟蘭盆会(旧暦7月15日)も歌舞音曲で練り廻るようになり、やがて二百十日の風の厄日に風神鎮魂を願う「風の盆」と称する祭りに変化し、台風の厄日とされる立春から二百十日目の9月1日から3日に行われるようになったのです。
踊りについては豊年踊りと新踊りがあって、豊年踊りは農作業の動作を踊りにしたもので誰でも楽しめる踊りです、また新踊りとは男踊り(かかし踊り)と女踊り(四季踊り)に分かれる。男踊りは農作業を表して勇猛に踊り、女踊りは蛍狩りを表現して艶っぽく、上品に踊るのが良いとされています。
…続く
*写真は八尾の街中①
*写真は溝口 浩の撮影によるものです
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [247] 投稿日 [2011/12/2]
2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記(続きの7)
翌、8月28日(日)。
朗読が終わった安心感からか、熟睡し気持ち良く目覚める。美味しい料理とお酒のお陰で体力・気力とも充実。天気の週間予報では雨の心配があったが、予想以上の晴天。今日は、富山市内観光。遠足気分である。都合で先に帰られた方と別れ、総勢20名。
事務局長、松先生のお薦めスポットは、「富山市 民俗民芸村」。昨日の朗読会では司会進行を一人で務め、今日は、バスガイドさんのように参加者を引率する。富山駅前から市内循環バスに乗り、民俗民芸村へ出発した。
8月28日は、まだまだ陽射しがきつかったが、日陰に入った時の風は心地良かった。見学の途中で椅子に座わると、そのまま一眠りしたくなるほどであった。朗読発表を終えた安堵感が、一層、吹き抜ける風に安らぎを感じたのであろう。まずは、陶芸館の前で記念撮影。その後、考古資料館、民芸合掌館、民俗資料館、篁牛人(たかむらぎゅうじん)記念美術館等、園内の各施設を見学した。移築した古民家や民俗資料も素晴らしかったが、中でも、越中富山の薬売りに関する資料を集めた「売薬資料館」は、富山ならではのものであった。昼食を挟み、ゆっくりと民俗民芸村を満喫した。
富山駅前で解散した後、近くのショッピングセンターでお土産を買う。地酒、ホタルイカ、風の盆グッズ等、色々買ったが、一番のお気に入りは、『風・風人
(ふうど)』と染め抜かれたTシャツである。
多くの想い出を胸に、帰路についた。今回の朗読会で読ませていただいた「60歳のラブレター」を我が身に置き換え、「男の華・女の華」である60歳、70歳を、「人生の華」としての80歳・90歳につなげるように、これからも朗読の道に邁進したいと思う。さらに、「風の盆恋歌」のような出会いがあってもいいのではないか、などと不埒な思いも抱いた今回の「越中八尾 風の盆 朗読発表会」であった。
蔭山先生、松事務局長をはじめ、一緒に朗読会を支え、盛り上げてくださった多くの方々に感謝しながら、「朗読会 顛末記」を閉じさせていただく。
※ なお、今回の朗読会の模様は、DVD(溝口さん制作)、CD(中村制作)として記録してあります。機会があれば、ぜひご視聴ください。詳細は事務局にお尋ねください。
おわり
中村晴重
* 写真1は7つの有料施設を全て見学
* 写真2は当日の模様を録音したCD
* 写真3は民族民芸村 陶芸館の前で記念撮影
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [246] 投稿日 [2011/11/29]
2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記(続きの6)
風の盆を満喫し、八尾の駅に帰るバス停に集まったが、ここで、ハプニング勃発。
バス停で並んでいたが、人数が多過ぎて我々の手前でバスは満員になってしまった。「ここから後ろの方は、次の便にしてください。」という無情の言葉。JRに乗り遅れたら、ホテルに帰れなくなる。不安が走る。
何せ、大所帯である。余裕を見て、JRの最終便ではなく一つ前の電車を予定していたが、バスが最終便となると電車も最終便である。八尾の駅では乗車券を買ったりして乗り換えの時間が足りないかも知れない。事務局長の発案で、先発隊がタクシーで八尾駅に行き、先に全員の乗車券を買っておくことにした。
バス停にいた係員は、「バスの最終便が満員になると、乗れない可能性もあります。」と、物騒なことを言う。さらに、「これだけの人数なら、一つ前のバス停で待っていた方が、間違いないですよ。」とますます不安を煽る。
「一つ前のバス停は、西新町の踊りの会場のすぐ横手です。」という案内を頼りに、全員が移動することにした。バス停はすぐに分かったが、まだ踊りの真っ最中。この混雑の中をバスが通れるのかと、不安になる。「バスが来なかったら・・・」、「最終便の電車に乗り遅れたら・・・」と、不安が膨らむ。
しかし、不安は杞憂であった。5分前には会場に置いてあった物を含め、きれいに片づいてしまった。ついさっきまで溢れるほどの人混みだったのに、それも幻だったかのように、静かな通りに戻っていた。バスは予定通り10時にはバス停に着き、人のまばらな通りを走り始めた。
「運転手さん、JRの最終便に乗るから、間に合うように急いでくださいね。」とお願いすると、運転手さんは、「大丈夫ですよ。電車も分かっていますから、置いて行くようなことはしませんよ。」と、笑いながら言った。不安で緊張していた我々も、一気に和やかな雰囲気になった。「風の盆」のもつ魅力の一端に触れたような気がした。
最終便のJR電車の中は、「風の盆」の興奮が冷めやらず、賑やかな話し声で溢れていた。
…続く
*写真は越中八尾駅 富山JR行き最終便
間に合ったので、この余裕。
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [245] 投稿日 [2011/11/25]
2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記(続きの5)
8時になった。楽しい時間は過ぎるのが速い。美味しい料理やお酒にも未練が残ったが、8時から風の盆の踊りが始まるというので見物に出かけた。全員がまとまって行動する予定であったが、人が予想外に多く、すぐに見失いバラバラになってしまった。
20日から30日までの前夜祭の期間中、各町内が順番に踊るそうである。27日の夜は、西新町と東新町の二つの町内が当番であった。幸い、二つの町は、朗読会場からすぐ近くであった。人が集まっている所を目指していくと、すでに始まっていた。見物人も一緒に踊ることができるそうであるが、私は気後れして、大勢の見物人の輪の外から写真を撮る事に専念した。「おわら風の盆」の全体像を見たわけではないが、二つの町の踊りは十分に「風の盆」の雰囲気を感じさせてくれた。
…続く
* 写真1は東新町の町流し
* 写真2はかわいい子供たちも踊っている
* 写真3は西新町の輪踊り
* 写真4は西新町の踊り
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [244] 投稿日 [2011/11/22]
2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの4)
続いて、各地の朗読教室会員による朗読発表会、「60歳のラブレター」である。「夫から妻へ」、「妻から夫へ」と、内容は様々であるが、直接には言いにくいことを、手紙の形で伝えている。
私が朗読したのは、66歳の男性の書いたもので、病死した妻への断ち切れぬ思いを絞り出すように叫んでいる作品である。暗唱できるまで読み込んだつもりであるが、余裕は無く本番はあっという間に過ぎてしまった。聴かれた方の心に、作者の想いが届いたであろうか。他の方の朗読を聴いていると、自分より遙かに上手に感じる。まだまだ修行が足りないようである。
マイクを次々と手渡しながら、緊張の中で朗読発表が進んだ。今回の読み手は次の17名(教室名)である。
① 下村良子 (埼玉B)
② 中村晴重 (広 島)
③ 松井利江 (埼玉A)
④ 田中幸子 (埼玉A)
⑤ 中村世津子(埼玉B)
⑥ 久保田行江(埼玉A)
⑦ 藤原政恵 (埼玉A)
⑧ 長藤謙三 (広 島)
⑨ 三浦和子 (八王子)
⑩ 中村二三 (埼玉B)
⑪ 古家洋子 (銀 座)
⑫ 根岸孝子 (埼玉A)
⑬ 野崎千春 (埼玉A)
⑭ 北山秀子 (埼玉B)
⑮ 川西千加子(埼玉A)
⑯ 大野寿美子(埼玉A)
⑰ 松 みき
最後は、事務局長に締めていただき、朗読会は終了した。
続いて、聴きに来てくださった方とご一緒に、懇親会。朗読が終わるまでは緊張していたので、お酒の味は、また格別。大いに盛り上がった。富山名物の料理とお酒を堪能した。
…続く
*4枚の写真は懇親会で笑顔が弾ける会員の皆さん
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [243] 投稿日 [2011/11/18]
2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの3)
いよいよ、朗読会である。
まず、会場設営をする。蔭山先生の朗読用の席を作り、パソコン、プロジェクター、テープレコーダー、スピーカーなどを設置する。朗読に映像とBGMを合わせて、新しい朗読の世界を感じていただこうという趣向である。会場が準備できると、リハーサル。立つ場所、礼のタイミング、次の人へのマイクの渡し方、退場の仕方等、全員で確認する。初めて人前で朗読する人や、初めてマイクに声を通す人もいて、リハーサルにも緊張感が漂う。蔭山先生も、マイクテストとBGMの音量調整のためにリハーサルを行う。さすがに我々とは違い、余裕がある。
朗読を聴きに来てくださるお客様の席を用意し、準備完了。
13名のお客様が集まられて、いよいよ朗読会の開始。
事務局長は、挨拶、進行、マイク調整、BGMの音出し、映像の送り出しと、大奮闘。特に蔭山先生の朗読の時は、約40分間、効果音、BGM、映像等を次々と替える大仕事。照明を落とした暗い会場で、会場脇の狭い所に身を隠し、朗読原稿に合わせて次々と音と映像を切り替えていく。途中で、手元を照らすロウソクが燃え尽きて無くなったので大変。暗がりの中で必死にライターの火を頼りにテープカウンターの数字を読み取って、間違えないように音出しのタイミングを計る。
そんな舞台裏とは関係なく、蔭山先生の朗読は参加者の心を捕らえ、時間の経つのも感じさせず、『風の盆恋歌』は佳境に入る。情景描写、心情描写、年齢差のある男女のセリフなど、絶妙の間合いで作品の心を伝えている。
「不倫の話はどうも・・・・」という蔭山先生のお言葉ではあったが、“風の盆の最中”に聴く『風の盆恋歌』は、やはり味わいが深い。蔭山先生の生の朗読を聴く機会はあまり無いので、得難い体験であった。
…続く
*写真は リハーサル中の蔭山先生
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [242] 投稿日 [2011/11/15]
2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの2)
駅前から町の循環バスで、会場に移動する。座席が15程度の小さなバスである。いつも利用するお年寄りのために、前の席を五つほど空けて欲しいとのことであった。普段はその程度の利用者しかいないようである。20名余りの団体で乗り込んだので、半数は、バスの後ろで立つことになった。バス代は均一料金で、65歳以上は100円、65歳未満は200円。もちろん自己申告である。100円出すか、200円出すかで、大いに盛り上がった。私は、当然200円の組である。
発車時刻の関係で遠回りする循環バスに乗ったので、はからずも「八尾の町めぐり」のようであった。街の通りの両側にはぼんぼりが立てられ、それぞれに町の名前が書いてあった。時間はかかったが地図の町名を見ながら「今、ここを走っている。」と、町探検を楽しんだ。
会場の山元食道に到着。緊張の中でリハーサルを行う。いよいよ朗読会の始まりである。次回は、朗読会・懇親会の様子をお伝えする。
なお、“風の盆”についてもっと知りたい方は、ネット等で検索されると詳しく紹介されている。
…続く
*写真1は 循環バスに乗って会場へ
*写真2は 本番直前、会場の山元食道の前で
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [241] 投稿日 [2011/11/11]
2011『越中八尾 おわら風の盆 朗読会』 顛末記 (続きの1)
中村晴重
“おわら風の盆”は、毎年9月1日から3日にかけて八尾の11の町内で行われている。この三日間には、全国から20万人もの人が八尾の町を訪れるという大きな行事である。また、8月20日から30日までは、前夜祭として毎夜、各町が交代で“町流し”と“輪踊り”を行っている。それぞれの町の踊りには特徴があり、各町がその練習の成果を競い合っている。前夜祭にも多くの人が訪れ、各町が趣向を凝らした“風の盆”を楽しんでいる。
今年の八尾の朗読会は、その“風の盆前夜祭”に合わせ、8月27日に実施することになった。過去3度、八尾の地で朗読会があったそうであるが、4度目にして初めて“風の盆”に合わせた朗読会となった。もちろん、蔭山先生の朗読は、高橋治の小説『風の盆恋歌』である。
私は、広島教室で朗読を学び始めて3年目。ようやく朗読の楽しさが分かり始めたばかりだ。そんな私も、先生に誘われて初めて朗読会なるものに参加することになった。銀座、八王子、埼玉など各地の朗読教室生徒さんが16名も集まられると聞き、緊張する。朗読作品は、『60歳のラブレター』である。
“風の盆”の熱気にあふれる越中八尾の町で、「60歳を過ぎた夫婦のラブレター」と、「不倫の話」を取り合わせた朗読会は、「人生を語り、味わう」のにふさわしいテーマであったかも知れない。
朗読会の後は街に出て、“風の盆”を見学する予定も入っていた。私は、富山県への旅行も初めてなので、朗読会に参加する緊張感と、“風の盆”を見学する期待感の中で当日を迎えた。
新幹線とサンダーバード号を乗り継ぎ、約5時間かけて富山に到着した。自分の朗読する原稿ばかりが気になって、沿線の景色はほとんど記憶にない。東京方面からの参加者は、列車の都合で予定より少し遅れて到着。昼過ぎには、全員が富山駅前のホテルに集合した。全員が揃ったところで、荷物をホテルに置いて八尾に移動。JRの越中八尾駅は、小さな駅舎であった。普段は、利用者も少ないのであろう。
…続く
*写真は石垣の坂が印象的な八尾の町
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [240] 投稿日 [2011/11/8]
誰かに助けられたといえば忘れてならないことがあるんです。それが又私には全然記憶に無いことなんだから始末にわるいんですけれど。話は長男の嫁に聞いてそうだったのかと納得してはいるんですけれどね、話はこうなんです。
七十五歳で胃がんの手術をしてから五年たって、娘たちにハワイまで連れて行ってもらったりしてすっかり元気になったようでした。ところがそこに落とし穴があったんですね、今度もまた娘たちに連れられて長野の善光寺にお参りして帰ってきて三日目ぐらいでしたか、なんとなく朝から気分がすぐれなかったんですよ。午前中に来てくれた義姉のヘルパーさんが一時過ぎになんとなく私のことが気になったらしいのです。午前中にさよならを言ったときの様子がどうもいつもと違う、そんなことで念のために我が家をのぞいてみたら私が倒れていたというわけですぐに救急車を呼んでくれたんですね。脳梗塞は三時間が生命線だと言いますけれど、たぶん倒れてすぐに病院に運び込まれたから特にこれといった後遺症も無くてこうして元気に過ごしています。もしもヘルパーさんが気に留めてくれなかったら、いまこうしていられるかどうか、ヘルパーさんには感謝しきれないものがありますよね、こんなふうにいろんな人に助けられて卆寿の坂を越えることが出来たんですからね。。
ころぶなと常に子等に言われしが今日は卵を持ちてつまずく
裏山の松は伐られて山肌の見るにさびしく枯草の風
短歌はむつかしくてね、先生がちっともほめてくれないので長男に愚痴をいったりしたんですけど、自分の感じた事を素直に詠もうと決めてから投稿する歌壇に入選するようになって張り合いがでてきました。
添い寝せし孫は寝言に我呼べりながき睫よ何を夢みむ
腰病める我を思ひて風呂洗ふ孫の仕草もたどたどとして
七草の揃はぬ粥をすすりつつ新所帯の孫の正月思ふ
道路掃く我に一礼しおはようと頬赤き子は声をかけゆく
そろそろ疲れてきました、最近は人とお話をする機会が無くてね、こんなに長くお話をしたのは久しぶりなんですよ。それでも楽しかった、いろんなことを思い出させてくれて、ありがとうございます。
これでもう少し生きられるかもしれませんね、そうそう義姉の百歳まではまだ六年ありますからね。
おわり
溝口 浩
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [239] 投稿日 [2011/11/4]
生かされる命
そんな時代から四十年の月日が流れて私たち夫婦も義姉と一緒に静かに暮らせるようになってきた頃で世の中はバブルとかで騒がしいけれど私たちには縁の無いことでした。静かな時が流れているだけのようで私も短歌を習い始めたんです。
レザーの音ジージーと立つに安堵する恙なき夫の今日のはじまり
連休に心待ちする子等は来ず落花掃きつつ猫によびかく
子供会のお手玉作りをたのまれて軽々進む袋縫ふ手は
公園の空きカン集めて腰のばす一日一善わずかなれども
引き出しの隅に残れる一束は香港よりの長男の文
このままの時間が流れてゆけばいいなと思ってましたよ、でもね世の中は思い通りにはいきませんね、八十も半ばに近づいた主人が入院してしまったのです。この頃は病院も完全介護ではなくて家人が付き添わなければならないから私も病院に泊り込みました。もちろん子供や嫁たちも交代で泊り込んでくれたけれどどうしても私が主体になるわけなのですよ。そんなある日に先生からとんでもないことを告げられたんです。主人を診てくれている先生が貧血気味の私を調べてくれたら何と胃に大きなガンがみつかったの。すぐに子供たちに連れられて築地のガンセンターで胃の三分の二を取ったんだけれど一週間の入院の間主人が寂しがったそうでかわいそうだったけどしかたないですよね。無事に退院したらすぐに主人のもとに駆けつけたけど本当に嬉しそうな顔をしていました。私のことを待っていたんですね、それからすぐに旅立ってゆきました。
ガラス戸に落つる結露は臨終の夫の悲しき点滴に似る
私のガンは七センチもあってもう少し遅かったらリンパ線に転移していたらしいのです。主人に付き添っていたから先生に貧血を疑われて、それでガンがみつかった、主人のおかげで助かったのかもしれません。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [238] 投稿日 [2011/11/1]
戦後のこと
食糧事情は戦時中よりもかなり悪くなって何でも配給です。その配給がまた途絶えがちなものでとても足りるものではありません。今だったら足りないですよと言って騒げば政府がなんとかしてくれるようですが、この時代は自ら確保しないと飢え死にしてしまうのです、だから買出しですね。この頃は目黒の碑文谷に住んでいたと言う事と、戦前は小田急線沿線に土地勘があったので登戸から東林間の方に行ってました。当時はものすごいインフレでお金の価値などは無いみたいなものですから農家も品物を持ってゆかないと食料を分けてくれません。食料といってもサツマイモが主ですがこれを着物と換えてもらうのです。ところが農家も足元を見て出し渋りをするものだから苦労しました。
もちろん農家はお米をもっていますけれどお米は買えません、統制品なので帰りの列車の中で警察官に見つけられると没収されてしまいます。それでもお米を子供たちに食べさせたい一心でサツマイモの下に隠して持ち帰ったこともありましたよ。
スーパーに食材あふれる今の世に時々思ふ戦後の粥食
三陸の鰹手に入るぜひ来いと迎えをよこす嫁はやさしく
野菜高七草粥も品足らずすずなすずしろのみでまかなふ
佃煮にせんと摘み取る山椒の実鳥の餌にといささか残す
一番目の短歌にある粥食なんですけどね、いまどきのヘルシーなお粥と違ってサツマイモの方が多くてお米が芋の間に見え隠れしているようなものだから寂しいものでした。この頃は調味料にも苦労しましたよ、塩だって海塩が無くて岩塩だったり、特に醤油の無いのには困りました。一時は朝も晩も野菜炒めで、隣家の人から「おたくは野菜炒めが好きなのね」などと言われたりしたけれどソースしかないから煮物なんかは出来なくてどうしても野菜炒めになってしまうのですよ。物不足のこの時代には醤油の原料である小麦や大豆が不足して作るのもままならないうえに、本醸造の醤油は製造に一年もかかったので簡単には手に入らなかったのです。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [237] 投稿日 [2011/10/28]
それから少しの時もおかずに超満員の車内に善意の輪が広がりました。
息子たちのそばにいた男性が「坊やいくよ」と言いながら次男を抱き上げると隣のおじさんに渡します、「ぼくも一緒だね」と長男も抱き上げられて隣の人に、こうして暖かい空気に乗った空中リレーは天から舞い降りるように二人の息子を私たちの手元に戻してくれたのです。次男はともかく長男は一年生でも大きなほうですから重かったと思うのですが、嬉しいことでした。
ところでこの戦時の旅なのですが主人はなるべく近いところに居て欲しいからだと言ってましたがどうにも納得がいきません。最近になって長男が連合軍の戦後処理情報をつかんでいたのではと言い出しました。軍需産業で景気のよかった主人ですから軍部接待の折に色々な情報が入っていたでしょうし、何よりもあの時期に列車のキップがよく取れたなと思うのです。
敗戦時に連合軍が作っていた四カ国による日本分割統治計画によると北海道と東北がソ連で、関東、中部、近畿をアメリカ、中国地方と九州がイギリスで四国は中国でした。この計画が日の目をみなかったことはなんといっても幸せな事だったのですが別に九州は中国統治の案もあったようです。その当時はドイツの四カ国による分割統治が実施されていたので当然考えられることだったのです。そんな風に考えると生涯家族と生き別れになると心配した主人が戦時の旅を強行した意味が分かってくるのですが、そんな話は妻にも出来ない時代だったのですね。
つるされし風鈴にふれ日記書く手もとはげまし風は過ぎゆく
戦時の旅は神戸から名古屋を経て甲府にいたり、最終的には山梨県の石和に落ち着きました。石和は桃の産地ですからよく食べさせてもらいましたけれど食料全般に豊かかというとそうでもなくて子供たちに食べさせるのに苦労はしましたが、お米が少ないといっても大豆はあるので大豆をご飯に炊き込んだりしてそれなりの物はたべられましたよ。そうそう玄米を一升瓶に入れて棒で突きながら七分米にするのは長男の仕事でしたね。それから大豆を金槌で叩いてやわらかくするのもやってくれましたね。
石和には敗戦後しばらく住み続けたのですがその年の暮れになると東京もようやく落ち着いたので帰ることになりました。嬉しかったですね、久しぶりに姉に会えるし、台湾の姉一家も帰ってくるという話ですからたのしみにしていました。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [236] 投稿日 [2011/10/25]
今から思えば敗戦まで二ヶ月もなかったんですけど、六月の終わりに突然主人がやってきたんです。会社の工場が疎開している山梨にこれから行こうと言うのですから驚きました。だってそうでしょ、空襲の激しい道中を子ども三人連れて、しかも一月半前に生まれた長女はまだ首も据わってないんですよ。
いやだともいえないのでついてゆくことにしたのですが迷惑といえば迷惑な話でした。
戦時の旅は別府から船で神戸に着きました。この日から三十二日の後に広島に原爆が投下されるなんて誰も思ってはいませんでしたが、ぐずぐずしていたらどんな災難にであったかわかりません。神戸では空襲を受けた列車がひどく遅れてずいぶん待たされました。駅前の広場に大勢が座り込んで列車の到着を待っているのですが周りには戦災孤児たちの群れが鋭い目を光らせています。
おむすびを食べていた長男に孤児の一人が近づいてきました、長男はお結びをもったままぼんやりと孤児を見ています。突然真っ黒な手がお結びを狙った瞬間、私の手が長男のお結びを取上げていました。何事が起こったか理解しかねている長男が私を見上げています。よかったねと小さくつぶやいて小さく笑顔をみせるしかありませんでした。
何時間も待ってやっと到着した列車は超満員で子供連れでは乗れそうもありません。すると突然でした、主人が子供二人を窓から車内に押し込んだのです。びっくりしました、もしも私たちが乗れなかったら子供たちはどうなるんだろうって、もう気になるばかりで何が何でもと赤子を抱いたまま列車のデッキに押し込まれました。とても無理だと思った乗り込みは列車が動き出すとともにゆすられて隙間が出来てなんとか親子三人のスペースが出来たのですが、そうなると気になるのが二人の息子、背を伸ばしても見えるものではありません。たしかに窓から押し込んだのだからこの車内にいるのは確かなのだろうけれど顔を見るまでは安心できません。背の高い主人に様子を聞いてもわかりません。それが突然のことで一瞬何のことかわからなかったのですが「うまうまちょうだい」と聞きなれた声が聞こえました、次男がおなかが空いたときに訴える声なのです。すかさず主人が叫びます「いま、うまうまちょうだい、と言った子をこちらによこしてください」、驚きましたねこちらにといってもどうやってこの満員の車中を移動できるのでしょう。
朝毎に投げやるパン屑待ちきれずガラス戸つつく影絵の雀
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [235] 投稿日 [2011/10/21]
大分市街も危ないということで小さな峠をひとつ越えた村に移ったのは三月の終わりでした。長男も一年生だからどうせ田舎に引っ越すのなら初めからその土地の国民学校に入ったほうがいいだろうというのもこの時期を選んだ理由でした。
この頃の生活は都会に比べれば食料に困るということもなくて、大家さんの食事会に呼ばれて手打ちのうどんをごちそうになったり、お米にも別に困ることはなかったっですね。長男の話ではお弁当はみんながお米のご飯を持ってきているようだったし、この時期にしては恵まれていたのでしょうね。そんな環境の中で長女を出産できたのは幸いでした。長女の出産を機に東京に残っていた主人の姉が大分に帰ってきて子どもたちの面倒を見てくれるから私も楽でした。
この義姉は私たちの結婚以来同居をしている人なので少しお話をしておきますと、二十代で亭主を亡くした義姉が主人を養子にしてそこに私が嫁入をしたというわけなので戸籍上は義理の母ということになっているのです、ややこしいでしょ。そんなことだから次男が生まれると長男は必然的に義姉が面倒見るようになったのですよ。それはまあありがたかったけれどちょっと困ったことになってしまったの。姉は長男に自分のことを大きい母ちゃん「おきかあちゃん」、私のことを小さい母ちゃん「ちいかあちゃん」と呼ばせはじめたんです。ちょっとひどいと思ったけれど義姉は家長だから文句も言えなくて、いやでいやで仕方なかったですよ。だから長男が幼稚園に入る前日に「うちのちいかあちゃんがね、なんて言ったらみんなに笑われるよ、今日からはお母さんて言いなさいね」と言い聞かしてそれから母の地位を取り戻したというわけ、がまんんも長い時間でした。
そんなことがあったからといって義姉との仲が悪くなったことは特にはなかったですね。戦後の食糧難の時代には買出しなどは積極的に引き受けてくれたし、ずいぶんと世話にはなったと思います。主人が亡くなったあとも義姉がいてくれたからずいぶん助けられましたよ、そして百歳まで足以外はどこも悪いところ無しで生き延びたんだからたいしたものです。
語るべき人も居まさぬ雨の日は樋より落つる音を友とす
最近は気が弱くなって「私もぼつぼつ」などというと長男が「百歳まであと六年あるよ」などといってくれる、義姉の年まで生きましょうかね。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [234] 投稿日 [2011/10/18]
でもね、それでも空襲から命を守られたことだけは確かですからね、戦災孤児になってしまった子どもたちが、仮に都会に残っていたとしたらほとんどが親と一緒に死んでしまったはずだから結果としては良かったのですよ。だから今回の原発事故で真っ先に子ども達を強制疎開させなかったのは何故だろうって思うんですよ、少なくとも福島県の児童は全員他県に避難させなければいけなかったのに政府の対策は全く逆なんですからね。この時代を知らない政治家や官僚だから温古知新の考えが全く無いのですよ。子どもたちがかわいそう、これから何かと気に病みながら生きていかなければならないだけでも大変なことなんですよ。原爆投下の日に広島に居たというだけで結婚を断られたというような悲劇だけはくり返さないでもらいたいですね。
私も小学校前の長男と次男を連れて疎開しましたよ、もちろん主人は仕事があるから東京に残りましたけどね。私一人が行くといっても大分には親も居るし兄姉や義兄たちもいるから心配はありませんでしたね。ところがちょっと困ったことがあってね、主人が私の姉のご主人に疎開の話を報告に行った時のことなんですよ。主人が疎開の話をすると「お前たちは非国民だ、東京でがんばれないのか、どうしても疎開するのなら兄弟の縁を切る」とまでいわれたのですよ。この方にはいろいろな事でお世話になっているのだけれど、さすがに主人もこれだけは受け入れられないので「結構です」って啖呵を切って帰ってきたんだけど悲しいことだったわね。それでも戦争が終わってみればそんな話は霧のように消えて、元の親しい姉妹のままで過ごせたんだから一時的な病気みたいなものだったのかもしれませんね。
大分に帰ってみると東京でやらされていた防火演習なんか全く無しでのんきなものだったわね。それでも婦人はもんぺをはくのが強制されていて、私が着物のまま長男を連れて阪東妻三郎の「法松の一生」を観に行ったときには交差点で交通整理をしていた巡査に「外出にはもんぺをはく」としかられたわよ。
そんなのんきな時代がいつまで続くわけもなくて、豊後水道に侵入した空母から飛び立った艦載機が大分航空隊を攻撃しながらついでに我々の民家にも機銃掃射を浴びせる空襲が始まりました。警戒警報が鳴ると長男と次男を抱えて庭の防空壕に飛び込みます。やがて空襲警報が鳴るか鳴らないかの感覚で機銃掃射のカタカタカタという不気味な音が頭上を通り過ぎてゆきます、生きた心地なんて全くありませんでした。
古棚に残れる息子のハーモニカ過ぎし日思い「故郷」を吹く
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [233] 投稿日 [2011/10/14]
ところが空襲警報も鳴らないのに飛行機の爆音がするんですよ、不思議に思って庭に出てみるとはるかに高い空を爆撃機がゆうゆうと飛んでいるじゃありませんか。とりあえず次男を抱いて防空壕に入って飛行機を眺めていると長男がのんきな顔をして帰ってきました。長男が無事に帰ってきたので余裕も出来たのか知りませんけれど、飛行機を眺めていたのですがこれが米軍機だとは半信半疑だったですね。そのうちに高射砲陣地からの砲撃が始まったのでやっぱり米軍機だと納得したのですが、一万メートルの高度を飛ぶ米軍機まで高射砲の弾が届かなくて途中で放物線を描いて落ちてゆくんですよ。それに日本の飛行機が迎撃しないのも不思議なことでしたね。こうして悠々と帝都を偵察した米軍のB29は太平洋上に去ってゆきましたが、それからしばらくして日本の戦闘機が何機も飛び回っているのみると、今更なによ、と悔しくなりましたよ。
この時の防空壕が今から思えば漫画のようなもので庭に穴を掘ってそこに大阪から引っ越してきた時の大きな木箱、六尺に四尺くらいあったかしら、そんな箱を埋め込んだだけですから屋根なんかないんですよ。だから雨が降ったら水が溜まってしまって、もちろん排水溝なんか考えてもいないから溜池ですね。それでも防空壕には入るように指導されているから木箱のふたを小さめにして浮かべたんですよ、五右衛門風呂の変形みたいでおかしかったわ、のんきな時代でしたね。
もちろんそんな時代がいつまでも続くはずもありません、七月にサイパン島が陥落すると東京が空爆の日帰りコースになって、しばらく続いた偵察空襲のあとに東京も空襲の危険が大きくなって小学生は疎開することになったの。地方に親戚や知人のいる家はそこに疎開して、それが無い家の子は集団で強制的に長野や群馬などの村に連れていかれたのですよ。それも子どもたちの安全を願うというよりも将来の兵士を枯渇させないための処置だからひどいといえばひどいものなんですね。経験者たちの話ではひもじい思いをしたのが深刻で、畑に盗みに入って捕まったり苦労したらしいのですよ。引率の先生だってひどい人がいてね、配給される食糧をピンはねして自分の家族に食べさせたり、生徒の一人があの先生だけは絶対に許せないと喜寿に近い今でも怒ってますよ。食べ物の恨みは恐ろしいことですね、そんな先生はほんの一部の人に限られていたんでしょうけれどね。とにかくみんな狂っていたんですよ、お国の為にとかいいながら結局は自分の為に動いていた人なんていくらでもいたんですからね、今も昔も変わりはないですよ。
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [232] 投稿日 [2011/10/11]
こうして話がばたばたと決まって五ヵ月後の十一月にはもう嫁入りだから私も流れに流されただけという感じだったわね。ただ私も気になってたんだけど嫁入支度するお金が無いのよ、父にはもうそんな力はないし、どうするのかと思ってたら四番目の姉が支度の一切を賄ってくれたの、ありがたいと思ったわ。私は姉たちに助けられてここまでこれたとつくづく思ったわね。
四番目の姉のご主人には女学生の頃からずいぶんかわいがってもらったわ、義兄はその頃は珍しいカメラを持っていたから私をモデルにずいぶん撮ってくれたんです。おかげであのころの写真がたくさん残っているのはありがたいことだわね。四番目の姉夫婦にはその後もいろんなことでずいぶんお世話になりました。
故郷の海をしのべば思はるる亡き姉の歌海よめる歌
仏前にこのみずみずしさを供えんと故郷に送る千葉の香水
千葉の香水というのは千葉県名産の梨、八月中旬から下旬が旬の「幸水」のことを言っているのですけどね、姉はいつも喜んでくれていたようですよ。
妙法蓮華経ととなえまつりて早朝の清き流れに供物を託す
結婚式は大分市内で挙げたんだけど母の姿が見えなかったのは残念でしたね。父はもちろん出席したのですがちょうど台湾の姉のところに行っていた母はこの日のために帰ってくることはなかったんです。なぜ母が台湾に行ったのかはもう忘れてしまいました、何か理由があったんでしょうけれどね。
戦中のこと
そんなことで結婚してからは夫の出征とかいろいろあったのですがほとんど忘れてしまって、そうねえ、戦争中のことなら少しは覚えてるわね。
昭和十九年(1944)の夏だったかしら、警戒警報のサイレンが鳴ったのでさっそく身支度をを始めました。身支度といってももんぺの上にゲートルを巻いてズック靴を履くだけなんですけど、それだけで身が引きしまる思いでした。幼稚園に行っている長男のことが気になったけれど、ぼつぼつ帰ってくる時間だし警戒警報だからたいしたこともないと思ってました。…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [231] 投稿日 [2011/10/7]
こうして一人だけ残された私が両親とともに移り住んだのは近所の裏長屋だったわ。二階建ての四軒長屋でね、二階が六畳一間で一階が六畳と三畳、母はいつも静かに繕い物なんかをしている人だし、父は仕事も無いのでぶらぶらしていて好きな人形浄瑠璃なんかを観に行ってたわ。私は近所の加藤米店のアキちゃんと友達になって毎日遊んでてね、楽しかったわよ。アキちゃんとは生涯の親友になって、ここに来る前からの親友だったハルちゃんと一緒に長いおつきあいになったけど二人とも先に逝ってしまったわね。
芋の葉に転がる瑠璃の露の玉集めて歩く七夕の朝
九十までなほ生きゆかんと友に言ひ電話を切れば膝のふらつく
朝顔の種くれし友は急逝す種ふくらみて芽吹くこの朝
それから何年かしてこの長屋を出ることになったの、台湾の姉が新しい家を建ててくれたのよ、嬉しかったわね。私ももう小学校の五年生になってたから姉の気持ちが心に滲みたわ。そして何よりも嬉しかったのは台湾に避難していた二人の姉が帰ってきたことなの、新しい家が出来たからみんなで住めるようになったのよ。兄だけは台湾に残って台北旧制高校から台北帝大に入ってその後は毎日新聞の記者として敗戦まで台湾にいることになったんだけどハンサムで私の自慢の兄だったわ。
楚々と咲く水仙の群れに木漏れ陽のゆらぎて光る早春の庭
それから何年か経った頃の話だけど、いつの間にか二人の姉たちもお嫁に行ってしまって、また両親と二人だけの生活になっていたある日の事だったわ。女学校を卒業して間もない頃だったわね、思いもかけない人が訪ねてきたんです。市内で乾物問屋を手広く商っているお内儀さん、すぐに義母になる人よね、が突然我が家にやってきたのよ。普通は仲人をたてて静かに事を運んでくるのだけれど、この人の場合はいきなりやってきて娘さんをいただきたいというんだから驚いたわね。後で聞いた話だけど破産した家の娘を嫁にとることについてはかなりの反対があったらしいの、それでも義母だけは「破産したとはいえこの家に育った娘なら間違いは無い」といって譲らなかったらしいのよ、嬉しい話よね。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [230] 投稿日 [2011/10/4]
九州の大分は豊後水道を隔てて愛媛と向き合う温暖な気候に恵まれた豊かな土地です。今ではブランド品になっている関あじ、関さばに城下かれいをはじめとした海産物、かぼす、干ししいたけなどの農産物がこの土地に彩りを与えてくれています。この土地に生まれ、一代で財を築いた祖父には男の子が生まれなくて、仕方が無いので二人の娘に養子を迎えて事業を継がせたのです。
次女である母に婿入りした父は製糸工場を受け継いだのですが経営にはあまり熱心ではなかったようなのですが、それでも私の生まれる少し前から生糸の輸出が急増して糸の値段が暴騰したんです。だからもうその頃はたいへんな景気でしてね、大きな屋敷には築山もある大きな庭もあって、姉たちは優雅な毎日を送っていたらしいのですよ。ところが私にはそんな記憶は全く無いのです、私だけ本当に損をしているみたいで悲しくなってきますよね。
そんな優雅な時代を私が味わう事が出来なかったのにはわけがあるんです。ちょうど私の生まれた大正六年(1917)のことなんですが長野県諏訪市から片倉製糸と大和製糸が県内に進出してきたんです。大和はその後廃業してしまいましたが片倉はいまでも片倉工業として栄えている大資本ですから大分の中小製糸工場が太刀打ちできるはずがございません。悪いことに大正九年(1920)になると第一次世界大戦後の世界的大不況が経済恐慌になって、全国で倒産が続出するようになったらもう父の会社なんか持ちこたえられるはずもありませんわよね。そしてその上にですよ、本業だけならともかく相場にも手をだしていたんですから工場はもちろんのこと家屋敷まで全部はぎとられてしまったものだから私たちはこの家を出て行かなければならなくなったんです。
この当時の我が家はお嫁に行った三人の姉と家を出ていた長男は別にして、あとに残されていたのは五人の子供たちと両親ですから七人の大所帯です。これから借りようという六畳二間の裏長屋に住めるわけがありません、だから台湾にいる二番目の姉のやっかいになろうとしていたのですが、姉もたいへんなお荷物をしょいこんだものだと思いますね。
台湾の姉は大分県から初めて御茶ノ水大学に行った才媛でね、女学校の頃に姉の家庭教師を務めていた林房雄さんとのラブロマンスは後に著名な作家となった房雄さんの「美しき南の国」にくわしく書かれているんですけど、そんな姉はこの時台北女子師範の先生をしていたんです。それから姉のご主人は北大農学部を出て台湾総督府農林専門学校(後の台北帝国大学理農学部)の教授をしていて、私たちみんなの生活が姉夫婦の肩にかかってしまったんです、私たちだけじゃなくて両親の生活費もですよ、姉夫婦にはもう感謝してもしきれないほどなんです。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [229] 投稿日 [2011/9/30]
溝口 浩
幻の台湾
旅立ちの朝だというのに心がはずむなどということは全くなくて、それよりも胸の奥底に重たい石を抱えているようなうっとうしい空気が流れていました。それも私だけではないんですよ、兄姉たちもみんな黙りこくったままだし、母は何かを言いたくてもいえない苦しさに耐えているようでした。こんな時にはみんなの中心にいて、元気付けてくれなければならないはずの父は奥の部屋にこもったきりで出てくる気配もありません。そんな空気を察してか空もまたどんよりと曇って、いまにも泣き出しそうでした。
ぼつぼつ出立しなければならない時間なのに誰も動き出す勇気が無くて、ただうつむいているだけの兄姉たちだったのです。四歳の私は泣き出したいのを我慢してじっと足元の小石をにらみつけていたんですよ。だってそうするしかなかったんですもの。小さな女の子が母の元を離れて海の向こうに出かけてゆく、いくら二番目の姉が連れて行ってくれるといっても寂しさと悲しさで小さな胸は引きちぎられるようでした。一緒に行くことになっている二番目の兄や四番目、五番目の姉たちも本当は行きたくないんですからね。でも行きたくないなんて絶対に言えないことだったんです。
何だかわかりませんが押しつぶされそうな緊張感が続いていました。二番目の姉が必死でこの緊張感を破るように口を動かそうとした時でした
「みんな行ってしまうんかい」
母の搾り出すような声が降ってきます。
「末ちゃんだけ残そう」
二番目の姉のとっさの声が私の体を包んでからす~と消えてゆきます
末ちゃんって、私のことだけど、残そうって、私はどうなるの、行かなくてもいいの? 真っ白になった頭の隅で四歳の女の子はぼんやりと何かを感じ取ろうとしていたのですが、ただ時間だけが流れてゆくのでした。
この姉の一言が私の人生を決めてしまいました。その後どうなったのか全く覚えてはいません、気がついたときには兄姉たちはみんな行ってしまって、がらんとした広い部屋の中に母と二人だけ座っていました。
「末は残ったのか」
奥の間から出てきた父がいつもと違ったやさしい声音で声をかけてくれても、何の感興もありません。ただ母と一緒にいられるというだけの安心感の中に身をゆだねていたのでした。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [228] 投稿日 [2011/9/27]
ちなみにこの歌は作詩者不詳であるが後に神保信雄が作詞し、「山男の歌」としてダークダックスの最大のヒット曲になった。
~娘さんよく聞けよ山男にや惚れるなよ 山で吹かれりやよ若後家さんだよ~
「武夫とここに来たことがあったな、あの時は紅葉が盛りだった」
この時期の伊豆山では紅葉にはまだ少し早い、巳之助は紅葉が見たくなった。
「箱根はもういいかもしれない、豊川様にご挨拶に行ってくるか」
三菱財閥の大番頭であった豊川良平の妻が箱根の宿に滞在しているという事は聞いている。良平が亡くなってからかなりになるが奥方は健在で四男に嫁を世話してくれた。
「もう一年になるか」
四男は去年の十一月十四日に式を挙げたから丁度一年になる。婚儀のご挨拶は済ませているが武夫の事でも心配をかけた。
「気持ちが静まったところだし、ご挨拶に伺うか」
初島に白い波が寄せている。
巳之助は立ち上がるといつものように胸を張って宿を出た。
おわり
溝口 浩
*写真は巳之助が撮影した雲崗の石仏
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [227] 投稿日 [2011/9/23]
この時から巳之助は興味を持っていたのだが訪ねる機会に恵まれなかったのである。雲崗への道中は次男に無理を聞いてもらったおかげで軍が協力してくれた。巳之助は雲崗石窟の巨大な石仏を前に武夫との長い会話を楽しんだ。
帰国すると休む閑も無く最後の仕事が待っている。巳之助は大別山の石を持ち帰った。大別山の超高圧で変成された大きな石、これをもって深川の正覚院に鎮魂碑を建立したのである。碑の脇にはこれも現地から持ち帰った八本の樹木が植えられた、巳之助は古希の坂を越えた。
翌年の十一月十九日、巳之助は伊豆山にいる。伊豆山は熱海と湯河原の間にある地味な温泉地だが海岸近くにある「走り湯」が有名だし、伊豆山神社などの名所もあって贔屓の客も多い。伊豆山温泉の象徴である走り湯は約千二百年前の養老年間の発見といわれ、わが国でも珍しい横穴式源泉が山腹から海へ向かって噴出している。
巳之助は十六日に投宿して四日間柏の間に泊まっている。宿は萬兆閣相模屋文作という長い名前だが千人風呂旅館として名が通っていて何度か投宿しているのでゆったりと疲れをほぐしてくれるのだが、それでも古希の坂を越えた巳之助はさすがに疲れがとれにくい、最近の五年ほどはいろんなことがありすぎた。
「お勘定をここに置かせていただきます」
出立を告げると部屋付の女中が勘定書きを置いて出ていった。
勘定書きが風で動いた、部屋代は一泊八円、十七、十八日は昼の席料が一円づつ足されている。上の酒を二合づつ飲んだ、十八日には調子が出て一合追加した、一合五十銭。十七日はビールを追加した、七十銭である。毎日十二銭の牛乳を飲んでいる。勘定書きの尻を見ると新聞代、サービス料込みで三十八円八十七銭、白米十キロ三円二十六銭の時代である、現在の金に換算するといくらになるのだろうか。
初島の向こうにうっすらと伊豆大島が見える。ぼんやりと海の彼方に目を泳がせていた巳之助の耳にかすかな音が届いてくる。
~娘さんよく聞けよ…..~
江田島の海軍兵学校生徒が歌う「巡航節」である。
「武夫がよく歌っていた」
~娘さんよく聞けよ 生徒さんに惚れるなよ 沖でドンと鳴りや 若後家よ~
「武夫も若後家を作ってしまったな」
結婚生活をいくらも経験していない嫁のことを思った
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [226] 投稿日 [2011/9/20]
次男の手紙は本論に入る。
「往路は福岡、上海、南京、漢口の間を空路がよろしいでしょう。慣れないと疲れるかもしれませんが、それでも日数が短いからずっと楽だと思います。少なくとも南京、漢口間の往路は空路がよいと思います。船ではこの間で六日かかるのです、帰りは下りで四日です。夜は停船するのでそのくらいかかるのです」
長江(揚子江)には上海、南京、漢口、重慶など十三の貿易港があって日本郵船や大阪商船の出資した東亜海運の船が運航されている。夜間は航行しないというから危険があったにちがいない。話は具体的な手続きに入ってゆく。
「渡航制限が相当厳重なようですが渡航許可は海軍省からでも手を回してもらわないと、相当困難だと想像します。南京や漢口にも知人がおります、南京には総司令部第十五軍に渡辺三雄技師殿が居ります。まだ揚州、杭州は知りませんが近くその地へ行くつもりです。往路は上海に迎えに出たいと思います。上海は過般来軍人に対するテロが激しいので軍人の単独行動を禁じられております、もし行き違ったら蘇州駅で出張所の今村と聞き、電話されれば誰か迎えが出ます。ただ、秋の方が私の行動としては自由になるかもしれません」老齢の父を慮った細やかな配慮が行間ににじんでいる。
「道中で色々なことがあると思いますが、いざという時に無理を聞いてもらえるように普段からそれなりの手は打ってありますからご安心ください。荷物は出来るだけ軽くすること、ひとつがよろしいでしょう。旅館は一泊最低十円(朝食つき)と踏んでください」
細々とした話が続いた、日付は四月六日である。手紙を封に戻した巳之助はひとつうなずいてから以代に手紙を渡した。
「次男も元気のようだ」
巳之助は九月に大陸に渡った、次男の敷いた路線に従って埋葬地を訪れ八人の戦士にジュラルミンの塊を遺族に届けたことを報告した。李先林父子にも面会して謝辞を述べた。次男の心配りが実ってか軍も協力してくれて思いを達することが出来た。しかし欲が出た、武夫ともう少し一緒の時間を過ごしたい、巳之助は雲崗石窟を訪ねたいと思った。
雲崗石窟は北魏が現在の大同を都とした460年ごろから彫り始め都を洛陽に移した524年を中心に彫り進められ、その後も続いたので隋や唐時代の仏像もある。石窟は東西一キロに及んで五十三の石窟に五万を越す石仏が彫られている。東京帝国大学の伊東忠太教授が明治三十五年(1902)に調査をして、その文化的価値を発表した。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [225] 投稿日 [2011/9/16]
その日のうちに東京向島に宮川三空曹宅をも訪ね、土日を利用した遺族歴訪が始まった。遺族歴訪だけでも六十九歳の身にはこたえるが、その先に大陸への渡航が待っている。好きな酒を止めた、血圧を下げる薬を飲みながら養生にはげんでいる。
二十五日には桜井兵曹長を茨城県筑波町に訪ね、三月四日山梨県韮崎に阿部二空曹の遺族宅を訪問した。続いて五日に山中三空曹宅の遺族を茨城県見栖町に弔し、十二日には岐阜県明知に堀一整曹宅を訪ねてひと段落ついた。さて問題は樺太である、奥地三整曹を訪ねて樺太の敷香に向かうつもりで父上に手紙を出したのだが連絡がつかない。後にわかったことだがこの手紙は樺太と札幌の間をさ迷っていたのである。この時期桜井兵曹長の父は札幌に出張中であったが、旅先で脳溢血のため急逝した、重なる不幸に巳之助は声も出ない。大陸渡航は迫っている、健康にも自信が無い、樺太はあきらめざるを得なくなった。
「お父様、お待ちかねのお手紙ですわよ」
次男の妻以代が巳之助に声をかけた。次男は次男(つぐお)という、自分宛の手紙ではないが大陸にいる夫からの便りである、息災でいることを知るだけでも嬉しい。
「おう、そうか、お前宛でなくて悪かったな」
軽い冗談を言いながら巳之助は封を切った。中支那派遣第三十野戦部郵便局気付登部隊森田隊蘇州出張所からの軍事郵便である。次男は鉄道省の職を捨てて志願し陸軍士官としてこの地に渡っている。巳之助は自らの考感詣でを次男に託していたのである。
「父上のご計画は進捗中ですか、考感行きの計画が出来ました」
巳之助の頬が紅く染まる。
「お歳のこともあり又各方面の治安のてんもあり、成るなら私が代わって参りたいのですが植木のことがあるので、また支那鳥瞰図の事もあり代われないわけでしょう」
巳之助はこの鎮魂の旅の総仕上げとして深川の正覚院に碑を建立し、その脇に現地で採取した八種の樹木を植えたいと計画している。また遠く中国まで行くからにはその雄大な景色を得意の鳥瞰図で表現したいと考えているのである。次男はそれだからこそ自分が身代わりとはいかないことを残念がっている、日本軍がこの地を制圧しているといっても中国は広い、面で制圧しているわけではなく点で制圧しているに過ぎないから常に危険に向き合っているといわざるを得ない、次男が心配するのも故なきことではない。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [224] 投稿日 [2011/9/13]
宮川勝治三空曹を仮埋葬してくれたのは現地に住む李先林父子と二人の中国人であった。一部始終を見ていた四人は宮川三空曹の遺体を見つけると危険を冒して土中に葬ったが、ここに悲劇が起こった。李父子はすぐに逃亡して陸軍の庇護を受けたが残る二人は中国軍に捕らえられ漢奸として銃殺された。
情報が少しづつは入ってくるようになった。今村家とは近親にあたる松野貞夫主計中尉が、現地近くに出張した機会を利用して、陸軍部隊に護衛されながら一月六日に現地の墓標に到着し八人の英霊を慰めた。更に松野は危険を承知で宮川三空曹の遺体を埋葬してくれた李先林父子に感謝の言葉を述べて、軍隊が持参した塩二俵を贈った。
勝見捜索隊が収集した機の残骸は焼け爛れてジュラルミンの塊になっている。この塊の一部が木更津航空隊に送られてきた事を知った巳之助は、木更津を訪れてこれを貰い受けた。この塊の中に八人の魂が込められている、巳之助は八人の遺族を歴訪する決意を胸にした。先ず一月二十九日に今村家の菩提寺である深川正覚院で一周忌の繰上げ法要を執り行うと残骸の塊を八っに分け、白木の箱に収めた。巳之助の遺族巡礼が始まる。
二月十九日の夕刻、白布で蔽った小さな四角の包みを胸に抱いて逗子桜山の「得猪寓」と門標のあがった玄関先に立ったのは巳之助である。鶴子未亡人と実母の静子、それに二人の幼い忘れ形見に迎えられると真っ先に中佐の霊前に額ずき、持ってきた木箱を備えたとき巳之助の目に霊前に供えられた軍帽が目にはいった。
「坊!この帽子は坊のだね」
「ウーム、それはお父ちゃんの」
「オ、そうか、坊はえらい、おじいちゃんは間違えちゃったよ」
子供を相手に冗談を言った後未亡人に向き直った。
「中佐殿や倅やみんなが飛行機と一緒にえらい勢いで燃えて、天に燃え上がっていったのでしょう、この塊の中に一人いるか、五人いるか、八人全部いるのか~とにかく一番大きいのをこちらへ持って上がりました」
「人間は・・・」
夫人がフト何か言いかけて黙った。
駅までの道中で巳之助は取材の新聞記者に語った。
「樺太出身者が一人ありますのでそこへも行かねば気がすみません。この遺族歴訪の延長として秋にはぜひ大陸に渡り、考感の現場をも弔う予定です。アッハッハ、女々しい爺の心根を笑ってください」
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [223] 投稿日 [2011/9/9]
巳の助の三男武夫は明治四十四年(1911)五月十日に渋谷区千駄ヶ谷で生まれた。東京府立第四中学校(都立戸山高校)を卒業の後海軍兵学校第五分隊に属して広島県江田島に駐していたが、中国大陸に移動して南京の飛行場にいる。南京は長江流域華南の中心地で十四世紀から十五世紀にかけて世界最大の都市であった。首都であったことも十指に余る。
四月二十六日、今村武夫大尉の操縦する九六式陸上攻撃機は得猪治郎中佐指揮のもと南京基地を単機で飛び立った。密雲垂れ込める日を選んでの奇襲攻撃であったという。地図で見ると上海から西へ七百キロほどの漢口市の北、十六キロの位置にある考感飛行場への空爆である。得猪機が近づくと迎撃のため六機が舞い上がってきたが、難なくこれを撃墜した後、飛行場を爆撃して帰路につこうとしたその時であった。突然上空に避難していた一機が急降下、攻撃に転じてきたがたちまち得猪機に撃たれて墜落状態になった。ところが不幸にもその敵機が得猪機の翼端に衝突し、敵機はそのまま墜落していったが得猪機もまた操縦がむつかしくなり、ふらふら状態で飛行を続けた。これを見た残りの敵機が襲い掛かり、得猪機はこれに応戦して三十分にわたり交戦したが遂に敵地の空に華と散った。
巳之助が一報に接したのは翌日である。
~現地航空隊上坂司令の報告によれば昭和十三年四月二十六日、密雲を利用、考感飛行場の奇襲を決行すべく得猪指揮官は攻撃力優秀なる今村機を選抜し、勇躍基地を離陸して目的方面に飛翔したるまま帰隊せず~
生死の程はわからぬまま四月二十九日に外国通信記事が「激戦のうえ地上に突入し壮烈な最期を遂げた」ことを告げ、これを知った巳之助は家族に武夫の戦死を告げた。
六月二日所属鎮守府において盛大な合同葬が執り行われ家族親族多数が出席した。式の後巳之助は空柩を捧げて家郷に向かった。葬儀はあらためて自宅で執り行われたが祭壇には遺骨はおろか一筋の髪も無い。
武夫の戦死から半年がたったが遺体も発見されず詳細もわからない、わかっているのは全爆弾を投下した後敵戦闘機と激戦を交え、搭乗八人が全て壮烈な死をとげた事だけである。それでも調査は続けられていた。十二月十七日考感方面警備の陸軍藤江部隊が考感の北東十五キロの地点に墜落機があり、搭乗員は現地中国人の手で仮埋葬されているとの情報を得た。さっそく得猪機乗員の分隊長であった勝見五郎大尉を指揮官とした十六名からなる捜査隊は十八日未明に現地に急行した。現地に到着して仮の墓を掘り返してみると宮川勝治三空曹の遺体だけが現れた。遺体は直ちに火葬に付された。 続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [222] 投稿日 [2011/9/6]
北海タイムスの記事はなおも続く。
「今村氏は六月初旬に渡道し、同月末まで一往復乃至二往復の実地見聞を行い、七月初めから約一ヶ月かかって下図を書き上げた。これを札鉄局に送って承認を得た上本図に取り掛かったのが八月上旬、以来六十八歳の老齢に鞭打って毎日役所を休み、東京渋谷区千駄ヶ谷の自宅に引き篭もって精進すること一日二十時間に及びようやく完成をみたものである」
これに対して巳之助は嬉しそうにインタビューに答えている。
「ようやく三巻の表装と索引一部が出来上がって、残る一巻だけ表具屋に出していますが、十七日には全部完成するので十八日に発って札幌に持参する心算でいます。日時が無かったので毎日二十時間も老骨に鞭打ってようやく完成しほっとしているところです」
大役を終えた巳之助は上野の鈴本を覗いた、金原亭馬生が出ている、巳之助は以前から目をつけているがしょっちゅう名前を変えるし全くうれない噺家なので偶然の出会いでしか聴けなかったのだが、馬生になってからは一皮むけたようにうれだしている。この男は人情噺に見るべきものがあるのだがこの夜は「替わり目」をやった。この時期に人情話を聴く客などほとんどいない、不況で笑いだけが求められている。「替わり目」は笑いをとる噺である、いつも酔っ払って帰る亭主が今夜もべろべろに酔って帰り、どうしても酒を飲ませろという。さんざん押し問答が続くがこのやり取りが馬生は絶妙である。根負けした女房が酒の肴におでんを買いに行くのだが、それまで威張っていた亭主が独り言で「あんないい女房はいない、いつも感謝してるんだ」などと本音をはく、ところが出かけたと思った女房がまだ家にいることに気づいてあわてるという噺である。巳之助も大役からの開放感もあって大いに笑った。金原亭馬生は三年後に五代目今古亭志ん生を継ぐ。ちなみにこの年の二月二十六日に起こったクーデター、いわゆる二・二六事件で警視庁を占拠した麻布の近衛歩兵第三連隊に柳家栗之助が一兵卒として加わっていた、この男が後の人間国宝五代目柳家小さんというのも面白い。
二年近くが過ぎた、昭和十三年(1938)三月にはナチス・ドイツがオーストリアを併合して欧州は一触即発の状態にあり、アジア大陸でも戦火が広まっている。四月には国家総動員法が公布され、総力戦を遂行するため国家の全ての人的、物的資源を政府が運用できる旨を規定された。経済の戦時経済化が急務であったので経済の統制化が図られたのである。 …続く
*写真は「昭和天皇北海道行幸ご説明鳥瞰図」下図のうち室蘭付近の図
彩色されていないのが残念です。
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [221] 投稿日 [2011/9/2]
巳之助の沿線行脚が始まった。それぞれの路線を一往復、又は二往復して沿線の風景をスケッチしながら脳裏に刻み込んでゆく。六月も終わりに近くなって沿線の見聞を終えた巳之助は札幌の宿で札幌鉄道管理局長の山下と対座している、藻岩山の麓の宿には梅雨を知らない北海道の薫風が流れ込んでくる。
「四巻に分けた巻物にしたいと思うんですがね」
「巻物だとご説明し易いですね、門鉄からも説明しやすい素晴らしいものだったと聞いていますので大船に乗った気持ちでいますよ」
門鉄とは昨年の陸軍大演習で説明図を作った門司鉄道管理局である。
「概略なんですけどね、一巻目は室蘭から滝川まで、第二巻は滝川から旭川を経由して帯広までにします。それから第三巻は帯広から釧路を経て根室までにするんですが、問題はその後がややこしいルートなので迷ったんですが第四巻は帯広から大樹間、下富良野から滝川間、そして岩見沢から小樽へとこんな区分けにしたいと思っています」
「なるほど、それならばご説明し易いですね、ところでいつ頃完成しますか」
「それが悩みの種なんですよ、巻物となると表装もしなければなりませんからその時間も見なければなりませんからね、それでもなんとしても間に合わせないわけにはいきませんから何とかやってみますよ。陛下の室蘭ご入港は九月二十四日ですから遅くとも二十日までにはお届けしますよ」
帰京した巳之助の奮闘が始まった。スケッチブックには山や谷はもちろん街や工場の様子も描き込まれている。これをもとにして下絵を描いたがこれからが大仕事である。本番は絹の布に描く、もちろん極彩色に色づけされる。時間が無い、不眠不休が続いた、六十八歳の身にはかなり辛い。
鳥瞰図は三万三千分の一の縮図になっていて一キロが三センチの割合になっている。これを幅九寸(27㎝)長さ九十五尺(28.5m)の絹地巻物に収め、四巻に分けてそれぞれを表装し苦心の労作は完成した。この間の経緯を昭和十一年九月十七日付の北海タイムスは次のように報道している。
「行幸御道筋を描く光栄の鳥瞰図四巻 今村翁の謹作成る」と大見出しのあと
晴れの地方行幸に際し室蘭ご上陸から小樽でご上艦迄の陸路ご乗車中沿線の事情を山下札幌鉄道局長から親しくご説明申し上げることになっているが、このご説明材料として札鉄の依頼で鳥瞰図を鉄道省嘱託今村巳之助氏の手許で謹製中であったが、十七日をもって立派に完成するので今村氏が携行、十八日夕べの急行で上野を発ち渡道の上札鉄局に届けることになった」
札幌鉄道管理局だけでなく北海道のマスコミもこの鳥瞰図の完成をかなり気
にしていた。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [220] 投稿日 [2011/8/30]
昭和四年五月、三年の嘱託期間を過ぎて巳之助を迎え入れてくれたのは鉄道省である。鉄道省としては好き好んで迎え入れたわけでは勿論ないのだろうが、規模は小さくてもまさに「天下り」でそれなりのメリットがあるのだろう。それにしても話題の天下りがこの時代からしっかりと根付かされていた事を思えばめったなことでは根絶できない根の深さを改めて感じるのである。巳之助も鉄道省への移籍を「陸地測量部より差し回される」と書き残している。
鉄道省での仕事は特に決まってはいない、鉄道省としても還暦を過ぎた老人に特に期待するものもない、それでも巳之助の一日は過ぎてゆく。
「七時時報、天気予報を聞き修養講座中に出勤準備をして七時二十五分に音楽放送に送られて出門、七時三十五分に代々木駅発車、七時五十五分東京駅着、鉄道省玄関の二つの胸像に黙祷して八時に入室する。出勤簿には靖国神社の祭神桂島松涯氏手刻の印章を押捺し、八時半に給仕が茶をいれてくれるまで代々木駅で買い求めた読売新聞の読み残しを通読する。昼は時間が来れば誰よりも早く食堂に行く。隠居はすいているうちが邪魔にされない。食事は特殊の場合のほかは蕎麦の盛りである、昔江戸っ子は早飯、早糞、早走りを最善としたから、この教訓で気が短くなっている。気短には菜を要さない盛り蕎麦、かけ蕎麦に限る、うどんよりも滋養があって風味がある。」
こんな巳之助を見ていると全く閑な毎日を持て余しているようだが、巳之助がそんな器用なことが出来るわけも無い、世間が放っておかないのである。
細かな絵描きは勿論だが雑文書きの注文も舞い込んでそれなりに多忙な毎日を送っており、昭和十年十一月には陸軍大演習が宮崎県の都城で行われた折に、天皇への説明地図の作成が門司鉄道管理局より依頼されて好評を博している。
昭和十一年(1936)六月十七日、巳之助は旭川に近い層雲峡の宿、層雲閣の鶴の間で鉄道地図を前にして構想を練っている。
昭和十一年九月二十四日、昭和天皇が乗艦された戦艦比叡は横須賀を出航し同月二十六日に室蘭に入港する。それから札幌経由旭川、帯広、釧路、根室に至り、帯広に戻って昭和七年に開通したばかりの広尾線で大樹、下富良野、それから岩見沢を経て小樽への約八百七十四キロの行幸となる。そしてその間の行程を札幌鉄道管理局の局長が天皇にご説明するのだが、その為の鳥瞰図作成の命が巳之助に下っているのである。巳之助はまだこの長距離をどのように表現すればいいのか思案がたっていない。巻物にするしかないなとは漠然と考えてはいるがそうすると表装にも時間がかかる、間に合うのだろうかそれが気がかりだった。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [219] 投稿日 [2011/8/26]
幸いにして家族は無事であった、家は傾いてはいるけれど立派に住める状態を保っている。ただし家の中は混乱しているから片付けに手間がかかるがそんなことは倒壊したり焼け出されたりした人たちの事を思えば何ほどのことも無い。参考にお見せする地震直後の今村邸はつっかい棒で支えられているが何よりも障子紙の異様な破れが繰り返された揺れの強さを示している。
関東大震災は相模湾北西沖八十キロを震源として発生した。東京はもとより千葉、茨城から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらした。地震の発生が昼食時間だったことが重なって百三十六ヶ所で火災が発生した。加えて能登半島沖に発生していた台風の影響で強い風が吹いていた。火は強風に煽られて火災旋風を起こしながら広まり、百九十万人が被災し十万人以上の人が死亡した。この間に流言蜚語が飛び交った、深刻な事態を招いたのは「朝鮮人暴動」の誤報である。流したのは警視庁官房主事、混乱の中で情報を遮断された日本人は朝鮮人の強奪や強姦を恐れる者も多く、朝鮮人と見れば暴力を加え、これにより死亡した朝鮮人は二百三十一人、間違えられた中国人三人、日本人五十九名と記録されているが実際の数字はこんなものではなかったのかもしれない。
第一次世界大戦による戦争景気は、戦後の反動不況を招いた。追い討ちをかけるように襲ってきた関東大震災は京浜工業地帯を崩壊させ、不況は慢性化してしまった。昭和に入ると不況は一層深刻化し昭和二年には震災手形の処理をめぐる国会中の片岡蔵相の失言から、経営不振の銀行が明らかとなり銀行の取り付け騒ぎが起こった。こうして経済界や金融界が混乱し金融恐慌が起こった。この恐慌は田中儀一内閣のモラトリアム(一時的な債務の支払い猶予)と日銀融資で一応の処理はされたのだが不況は改善されていないまま昭和四年(1929)の世界恐慌に遭遇し、農村の疲弊を中心とする昭和恐慌が始まった。
巳之助の身にも不況の影は忍び寄っている。世界的な軍縮の波と財政の逼迫もあって陸軍でも人員整理が始まった。人員整理といっても六十歳の巳之助はとっくに定年を過ぎているわけだし、整理されたとしても不満を唱える立場には無い。それよりも陸地測量部がこの年になってもまだ巳之助を雇い続けているということに驚くが、その後の寓しかたをみると彼の存在価値が理解できる。
巳之助は四十一年間奉職した陸地測量部を辞したが陸地測量部は手厚く彼を寓している。まず大正十五年(1926)五月に給与の階級を二階級特進させた。こうして退職金の基準を大きくした上で翌月に解雇したのだが、そのまま嘱託として再雇用している。嘱託の期間は三年続いた。 …続く
*写真は関東大震災直後の巳之助邸、障子の異様な破れが衝撃である
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [218] 投稿日 [2011/8/23]
ちなみにこの白華庵は翌年にオンドルからの失火によって焼失してしまった。
十日、雨去リ九時ニ出発、食料五回ニ弁当ヒトツ付デ一円六十三銭、老僧ガ餞別ヲクレタ。十時に再び雨が降り出し、更に強くなったのでびっしょりとぬれてしまった。その後は温井里の温泉場にしばらく滞在して測量を続け、十六日に鶴松園に入って今回の職務を全うした。十一日間の測量、観測は金剛山を一望できる大鳥瞰図として実ることになる。
余談だがこの年、金剛山の各地をくまなく見て廻った歌人の大町桂月はこの時期金剛山で一時的に盛んになっていたタングステン採鉱の為の三井鉱山事務所に宿泊したり休息したりした。三ヶ所あった事務所はいずれも山奥にあってそこでの面白い経験を話している。
「夕食に猪の肉が出てきたのですが、なんとこの猪の肉は狼が食い残した肉だったのですよ、ちょっと驚いたけどね、とにかく旨いもんだから全部いただきましたよ」
この時代の金剛山に行くということは観光に行くというよりは探検に行くと言ったほうが正確だったのかもしれない。
大正十二年(1923)九月一日、巳之助は三宅坂の陸地測量部にいた。この日は土曜日だから半ドンである。
「もう昼かな」
見上げた先に時計の針が十一時五十八分を指していた。
帰り支度をしようと腰を浮かせた時であった、部屋全体が大きく揺れた。間仕切りの衝立が倒れ、窓ガラスが砕け散った。照明灯が散乱した、誰かが「机の下に逃げろ」と叫んだ。巳之助も机の下に身を隠したが揺れは止まらない。しばらくして揺れが止んだので今のうちにこのビルから脱出しようとして机の下から這い出ると又揺れだしたので机の下に逆戻りした。大きな揺れが三度繰り返された。ようやく揺れが止んだので机の上を整理して階段を駆け下りた。コンクリート壁にいくつもの亀裂が走っている。外に出てからも小さな揺れは際限なく襲ってくる。
「電車は無理だな、歩くか」
警視庁の本庁ビルから煙が上がっている、濠をはさんで帝劇からも火の手があがった。
「大変なことになったな」
心配なのは千駄ヶ谷の自宅である、家族は無事だろうか、巳之助は足を速めた。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [217] 投稿日 [2011/8/19]
翌朝四時半、暁鐘連打の響きに目覚めたけれど東方の山々は高く聳え立っていて未だ夜は明けていない。少しばかり眠って五時半に起きると早くも洗面する人たちが列をなしている。朝食は貝二皿、豆腐、大根に煮豆等が出た。大盛りの飯の半分を弁当箱に貝と一緒に詰めて出かけた。荷物を憲兵出張所に預けたのが八時二十分過ぎ、寺の前を過ぎるとすぐに表示があって、表示どおりに左岸を二町(220メートル)程行くと支渓黄泉江に出る。そのまた左岸を一町半で橋を渡り右岸を進むと突然視界が開けて奇岩奇石の重なり合う先に釈迦峰が聳り立ち、さすがの巳之助も初めて看る佳境であった。
その日は白華庵に泊まる。白華庵は長安寺に近い表訓寺の末寺に炊事場、浴場、便所を新設して日本食を出せる様にした施設だが、これが内金剛の観光開発の始まりだといわれている。
夕食は七菜二汁だから詳しく記す。①豆もやし胡麻浸し②昆布柚焼き③唐菜唐辛子漬け④岩海苔煮つけ⑤豆腐付け焼き⑥大根六角切塩漬け⑦大豆油煎り胡麻かけ、以上七菜に椎茸、じゃがいも、豆腐の汁、それから普通の汁の二汁である。飯は山盛りで約五杯分だから驚く。
八日は三仏岩のあたりを見回って四時半頃白華庵に帰り着いた。
そこへ篭を背にした男が登ってきた。現地の荷物持ちが大きな行李を背負っている。植物採集かな、と思っていたらその通りで靴を脱ぐ早々に整理をし始めた。名を聞くと河野宗一といい平壌中学の教諭をしているという。
河野宗一は明治二十年(1887)埼玉県所沢に生まれた。広島高等師範学校を卒業と同時に鹿児島県師範学校に奉職、二年後請われて平壌官立中学校に移った。後に官立京城師範学校の舎監長教務部長となり教科書編集官を兼任した。敗戦後は荒地の開拓を行い、埼玉県入間市三ヶ島に研磨微粉の製造工場角三工業株式会社を創設した。
八月九日終日風雨、一歩モ出ル能ワズ、周りの山々は茫漠としてほとんど見えない。外からの冷気を避けてだだオンドルの上に横たわっているだけである。
河野氏ト僧侶(貫虚老師、六十三歳)トノ問答を興ニワズカニ閑を医スルノミ。
よっぽど閑だったのだろう、閑となれば食事の話につながってくる。
食事二汁七菜、丁重ナレド何時モ同献立ナリ。いくら七菜といえども同じ献立では仏の顔も三度で食欲も衰えるかと思いきや、当庵の料理風味スコブル口ニ適ヒ、ザンジ食料増加セリ。だから何のことやら訳がわからない。早い話がこの宿の料理が気には入っていたのだけれど、もう少し色をつけてくれよという贅沢なお願いなのだろう。ところが宿のほうとしては慣れない日本料理でこれ以外作りたくてもレパートリーが無かったのかもしれない。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [216] 投稿日 [2011/8/16]
金剛山観光は大正四年(1915)頃には道路の整備も始められた。この年は日本の韓国併合から満五年目であったので「始政五年記念朝鮮物産共進会」という催しが大々的に行われ、事業の一つとして京元線方面から金剛山に向かう道路が整備された。ただ整備されたといっても何とか自動車が通れるくらいの道路で、バスなどの定期の自動車運行は無く、徒歩や馬での利用が中心の道路であった。ちなみに京元線というのは日本海側の港町元山と京城(ソウル)とを結ぶ路線で大正三年に敷設された。大正十三年(1924)にはこの路線の途中にある鉄元駅から金剛山電気鉄道という私鉄路線が分岐したが大正七年にはもちろん存在しないから巳之助は鉄元駅から自動車で来たのである。なお共進会の開催は金剛山の観光開発にかなりの効果があったようで、共進会の江原道協賛会が内金剛の入り口にある末輝里に食料品や絵葉書などの売店を兼ねた金剛山観光の案内所を設けた。また朝鮮鉄道局の経営する金剛山ホテルという西洋式ホテルがオープンした。韓国一の老舗といわれるウエスティン朝鮮ホテルの創業が前年の大正三年(1914)だから、金剛山が未知の山であった時代にホテルを建設したというのは大英断であったと言わざるをえない。
この時巳之助は同僚の河野と共に測量に来ている。河野は大学出の秀才で小学校中退の巳之助にとっては一緒に仕事をすること自体が嬉しい。二人は金剛山観光の表玄関である長安寺にその第一歩を記している。八月というのにオンドルが焚かれている。オンドルとは朝鮮半島や中国の華北北部、東北部で普及している床下暖房である。本来は台所のかまどで煮炊きした時に発生する煙を居住空間の床下に通し、床を暖めることによって部屋全体を暖める設備である。火災の危険を避けるためにオンドルを備えた家の土台はすべて板石を用いて築き、部屋の床は石板の上を漆喰で塗り固め、その上に油をしみ込ませた厚紙を貼っている。また暖房の必要の無い夏季には床下につながらない夏季用のかまどを使った。なお現代ではほとんどが床下温水暖房であるという。
八月でもオンドルが無ければ寒いというのに渓の水を浴びた、骨に凍みるのはあたりまえだが自動車とはいえ砂塵の中の長旅は水浴びを待ちかねていたのであろう。
長安寺は内金剛の入り口にあって、奥のほうにある景勝地に行くためには自然に長安寺の前を通るような地形になっている。その長安寺の食事が岩海苔やゼンマイ、貝などで三十五銭であったという。そのほか二十五銭や十五銭もあるというから寺の食事でも松、竹、梅のランクがあったのだろう。官費旅行だから自動車での道中とか松の食事とか豪勢である。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [215] 投稿日 [2011/8/12]
翌大正四年、東京名勝図衝立が大正天皇に献上されたという知らせを聞きながら巳之助は四月から丹波地方を測量して二十万分の一の地図を製作すると、直ちに朝鮮総督府付臨時土地調査局嘱託製図事務という長ったらしい辞令を受けて半島に渡った。
前年に始まった第一次世界大戦は早期終結の予想に反して長期化の気配が濃厚となっている。ドイツ軍とイギリス、フランスなどの連合軍はフランス北東部に塹壕を構築し、それはやがてスイス国境からベルギーのフラマン海岸まで繋がる。映画「西部戦線異常なし」に描かれた緊張の中の静寂な世界である。
大正も七年となった八月、巳之助は引き続き朝鮮半島にいる。この頃内地では富山に始まった米騒動が全国に広がろうとしていた。第一次世界大戦の影響による好景気は、都市部の人口増加、工業労働者の増加をもたらし、更には養蚕などによる収入の増加があった農家はこれまでの麦や稗といった食生活から米を食べる生活に変化していった。このようなことで農業人口の流失と米の消費量が増大したことに加え、大戦によって米の輸入量が減少したことも加わって米価が暴騰したのである。更に大陸では四月に日本軍と英国軍が自国の居留民保護を理由としてウラジオストックに上陸し、八月二日には日本軍がシベリヤ出兵を宣言、アメリカもこれに同調して出兵した。大陸の情勢も又かなりきな臭くなっている。
北朝鮮の日本海側、韓国との国境近くに金剛山がある。海岸線に沿って三十八度線を越えて韓国に達する太白山脈に属する山で、古来朝鮮半島では白頭山と並ぶ名山とされてきた。金剛山は内金剛、外金剛、海金剛に分けられるが、内金剛や外金剛では花崗岩からなる奇岩怪石が連なる山々や美しい渓谷の景観を堪能することが出来る。そして海金剛では海や湖の絶景が楽しめる。また自然の美しさばかりでなく、新羅時代より仏教が盛んであった金剛山には由緒正しい寺や石塔、石仏などが多くあって、自然美の調和が魅力である。
大正七年八月六日午後五時、自動車で長安寺着、寺経営の旅房ニ入ル、約八畳、床オンドルデ暖カシ。渓水ニテ浴ス寒冷骨ニ徹ス。夕食岩海苔、ゼンマイ、南瓜、貝、昆布。三十五銭ナリ、次ハ二十五銭、十五銭。
ちょうど掌に収まる程度の小さな手帳に鉛筆で書かれた細かな文字と繊細な風景、巳之助の残した旅行記である。老眼鏡を必要としない筆者でも目を細め、時には天眼鏡で覗き見るような細かさの上に自分の為の走り書きであるから解読に苦労する。それでも一番の原因は筆者の浅学が巳之助の達筆についてゆけないという事で、これは巳之助を恨むものではない。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [214] 投稿日 [2011/8/9]
巳之助は竹内を訪ねた。代表作に「神武天皇像」や「伎芸天」を残したこの男は五十六歳で巳之助とは一回り年長だが巳之助の技術を認めて好意を示してくれる。
「巳之助さんが顔を見せたってことは、お前さんに決まったようだね」
「恐れ多いことですがそんなことで」
「恐れ多いことなんかあるもんか、いろいろあったらしいがお前さんに決まると思ってたよ」
「それで先生は何を彫られるんですか」
「天文台だ、あんまり面白くもねえが」
「天文台ですか、麻布にしか無いもんといやあ天文台ですかね」
「初っから決まってんだからしかたがねえや」
東京天文台は明治二十一年(1888)に東京大学理科大学付属東京天文台として麻布の飯倉に建てられ、大正十一年(1922)に三鷹に移設されるまで存在した。
「ほかの区も決められてるんですかね、日本橋なんかも」
「日本橋は魚河岸だそうだ、芝は芝の浜だ」
「そうですか、名人といわれる皆さん方に引けをとらないものを描きますよ」
「名誉なことだからな、一世一代の仕事だ」
竹内久一にとってまさに一世一代の仕事になった。この時から三年の後この世を去るのである。
この衝立を見て不思議に思うのが、当時の名工といわれるその道の達人たちが精魂込めて作り上げた各地区の名所図絵が散らされた衝立の中央にある極彩色の地図が、周りの名人達に少しも負けていないのである。これはもう東京美術学校がデザインした時から地図は今村巳之助と決められていたのではないかとさえ思われるのだが贔屓目なのかもしれない。
余談だがそれから九十七年の後にこの衝立は子孫の目の前に現れる。宮内庁三の丸尚蔵館での特別展示「大正期皇室御慶事の品々」、たまたま友人に誘われて入館した巳之助の孫娘は展示されている東京名勝図衝立の前に立ち尽くしていた。説明文に書かれている今村巳之助の文字がまぶしかったという。巳之助の残した書付の中にこの衝立の名もあったのだが、どんな物なのか何処に在るのかは皆目わからなかったから、偶然とはいえ衝撃の出会いに息を呑む思いで、ただ見入っているばかりであった。この報は直ちに一族に伝えられ、巳之助を祖父や曽祖父とする者たちが次々に訪れ、先祖の作品に触れる事ができた。
六ヶ月続いた展示が終了する七日前のことであった、奇跡の出会いと言っていい。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [213] 投稿日 [2011/8/5]
時代は明治から大正へと移ってゆく。大正四年の天皇即位式に先立ってこの日に献上される「東京名勝図・万歳楽図衝立」が東京市から東京美術学校に制作依頼された。この衝立は横285cm縦216cmの大型の衝立で、表面は桐柾目地の中央に東京市の地図、その周囲に東京市在住の工芸家による十五の区の名勝を扇面で散らすという大作である。この東京市地図の制作が東京美術学校から陸軍陸地測量部に依頼された。地図といえば陸地測量部に頼むしかないので当然といえばその通りである。一方陸地測量部で鑑賞に堪える地図となれば黙っていても巳之助の仕事になりそうなものだが、そうは簡単にいかないのが浮世の常で自推他薦の者が殺到する。東京市の地図といっても唯の地図ではない、皇室の御物として永久に保存されるのである、名を残せるうえに名誉も残せる。腕に自信があるなしに関係なく希望者は多い、それに贔屓筋がつくから簡単には決まらない。政治的な贔屓筋を持たない巳之助の立場はおぼつかないものである。ところがこれが案外とすんなりいってしまった、身に着いた運といえるのかもしれない。
「例の衝立だけどねぇ」と巳之助に話しかけたのは小倉倹次である。
「地図の監修は私に決まったよ、よろしく頼みます」
「それはよかった、落ち着くところに落ち着くもんですね」
「皇室への献上品だからね、最高の物を作らないと後で大変なことになる、何よりも周囲には名人達の扇面画が睨みつけてるんだからね、これに負けるような地図じゃあいけませんよ」
「それでどのように描きますか」
「それはもう今村さんの好きなようにやってよ」
「周りの扇面は誰なんです」
「日本橋が香川勝広、芝は加藤陶寿」
小倉は担当の決まった扇面の担当者の名を上げてゆく、香川は彫金、加藤は磁器、いずれも名人である。
「それから麻布は竹内久一、ああ今村さんはこの人とは面識があったね」
「竹内さんですか、これは強敵だなぁ、意欲が沸いてきますよ」
竹内久一、木彫家である。安政四年(1857)浅草で生まれ象牙彫刻を学んだが奈良の古像を観て木彫を志し、寺社の古彫刻を研究して古仏の模刻像を多数制作した。岡倉天心に協力して東京美術学校を創立し、彫刻科の初代教授となった。巳之助が知恩院の設計などをしていた時に知り合い、その後も親交を暖めている。 …続く
*写真は「東京名勝図衝立」
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [212] 投稿日 [2011/8/2]
資金調達、戦闘指導力に加えてこの戦を勝利に導いたものとして優秀な諜報活動がある。明石中佐は開戦時に山形有朋の英断により今の金額にして四億円以上を支給されると、ロシア革命支援作戦を画策した。ヨーロッパに潜伏する反帝政組織を中心として工作資金をばらまき日本陸軍最大の謀略戦を行ったのである。この活動によってストライキ、サボタージュ、武装蜂起などが起こり、ロシア国内が不穏となって厭戦気分が増大し士気が衰えた。この活動は後のロシア革命に繋がる。こうして国の総力を傾けた戦に勝つことが出来た日本だがこれ以上戦を続ける力の無いことを見透かされ賠償金を取ることも出来ず、外債の支払や金利の負担に苦しみ続けることになる。
明治四十三年(1910)にロンドンで開かれた日英博覧会には巳之助の「日光地図が出品され、翌四十四年には図絵科教育主任となり後進の育成にもあたっている。この年の十月に小倉倹司から声がかかった。久留米の特別大演習である。小倉は日清戦争の折に陸地測量部の写真班として従軍したがこの時に従来の乾板からフイルムが使用され、写真班としては日本最初のフイルム撮影といわれている。巳之助が台湾に赴任する際には下関のふぐで壮途を祝ったが、その後すぐにドイツ、オーストリアに写真術と製版技術研究のため留学し、明治三十二年までの四年間を過ごした。帰国後間もなくオーストリア陸地測量部のヒューブルから学んだコロジオンエマルジオン法による写真乾板を使って三色版の研究をおこない、一般刊行物では最初の三色版印刷物を発表した。明治三十五年には参謀本部においてこれを天皇にご覧にいれる栄に浴している。明治三十七年(1904)の日露戦争にも従軍して撮影した水師営の会見は先に述べた。小倉は写真の先駆者として不動の地位を築いている。
「久留米の大演習にご臨席される陛下にご説明用の絵図を描いてもらいたいんだけど」
「それは名誉なことだ、喜んで描かせてもらいますよ」
「身分としては写真班として行って貰うから辞令は「久留米特別大演習統監部管理部写真班」という長ったらしい名前になるけれど」
陸軍大演習統監のため明治天皇は十一月十日に久留米市にお入りになった。大演習は南北軍に分かれて行われ、十五日には久留米練兵場で観兵式、午後から工兵第十八大隊南側作業場において大宴会が催され大演習は終わった。この時天皇にご説明する為の絵図を巳之助が作成したがこの図が後の北海道ご巡幸の為の絵図につながる。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [211] 投稿日 [2011/7/29]
日本側ではこの提案では日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下に入り、日本の独立も危険な状態に陥る。またシベリア鉄道が全線開通するとヨーロッパに配置されている軍隊の極東方面への移動が容易になるので戦うならば開通前に開戦しなければならない。かくして明治三十七年(1904)二月二十六日に国交を断絶した、日露戦争のはじまりである。
列強の中で極東の小国日本が大国ロシア帝国に勝てると予測するものは皆無に近かった。しかし日本人は政治力、諜報力、軍事指導力を駆使してよく戦った。政治的にはイギリスと結んだ日英同盟が大きかった。イギリスは北海から極東に向かうバルチック艦隊のスエズ運河の通行を拒否したのみならず、艦隊の通過情報を逐一日本にもたらした。スエズ運河の通過を拒否されたバルチック艦隊がやむなくアフリカの喜望峰を大迂回して日本近海に到達したのは翌年の五月二十七日である。この七ヶ月に及ぶ大遠征によって兵員は疲労の極みにあった。待ち受けていたのは東郷平八郎率いる連合艦隊、両艦隊の激闘は二日間にわたって続けられ、バルチック艦隊はその艦艇のほとんどを失い司令長官が捕虜になるなど壊滅的な打撃を受け、連合艦隊は喪失艦が水雷艇三艘という圧勝であった。世界のマスコミの予想を覆すこの結果は列強諸国を驚かせ、トルコなどロシアの脅威に怯える国々を熱狂させた。この結果日本の制海権が確定してロシア側も和平に向けて動き出したのである。
戦争には金が要る、当初対露戦の戦費は四億五千万円と見積もっている、ところが全く金の無いところから戦争を始めたのだから金集めの専門家たちの苦労も並大抵ではない、とりあえず一億円はほしい、この難役に挑んだのが日本銀行副総裁の高橋是清である。まず高橋が苦労したのは諸国が日本の負けを信じ込んでいることであった。負けるとわかっているものに金を貸すバカはいない、開戦とともに日本の既発行の外債は暴落している。是清はロンドンで活動を始め、四月には関税収入を担保にしてイギリスの銀行家たちと五百万ポンドを成約し、続いてドイツ系のアメリカユダヤ人の知遇を得てニューヨークの金融街から同じく五百万ポンド(約五千万円)の成約を得た。戦況は金の流れを変える、明治三十七年(1904)五月に朝鮮半島の付け根、中国との国境を流れる鴨緑江(おうりょくこう)の渡河作戦で日本軍が勝つと国際市場で日本の外債は安定し、第二回、第三回の募集では大盛況となった。結局日本は六回の外債発行によって約十三億円の金を調達したが日露戦争開戦前年の一般会計歳入は二億六千万円であったから如何に巨額の調達であったかがわかる。ちなみにこの戦争の戦費総額は十八億を超えた、国の歳入の七倍である。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [210] 投稿日 [2011/7/26]
講堂で、お廊下で、或いは時々校長室の窓から拝していたお姿、私達とは全くかけ離れた遠くのほうに厳しく光っていらっしゃるとしか考えられなかったお姿、それなのに余りにもお優しい態度にびっくりして先生のご様子を拝見しなおしました。何と言う静かな和やかな微笑でしょう、何と言う真情の篭ったお言葉でしょう。先生はいろいろとお聞きあげ下さり、またお話くださいました。本当にこんなみすぼらしい一生徒の為にお考え下さるあり難いご温情に感謝いたしました。学校の私達のお父様なのだ、ひしひしと胸に迫る歓喜と感激に涙ぐみながらお部屋を辞した私は、あの夕闇の中をお帰りになられるお姿をいつまでもお送りいたしました。ハッと我に帰った時、門灯の光がうるんで見えていた。昭和四年十二月の思い出。
巳之助は後に槇山に勧められて奈良洛中図を描きあげる。
世界中の予想を覆して日清戦争に勝ち、領土を広げたこの国はそれ故にこその重圧がかかってくる。世界情勢もまた日露の戦いに向けて動き出した。この頃のロシア帝国は広大な領土を守るために多数の軍港を必要としたが、これらはウラジオストックのように冬季には凍結してしまうので冬季にも凍結しない港を得ることが悲願であった。その達成のためにロシア帝国がとったのが南下政策で、トルコ帝国と戦って得た勝利でバルカン半島に大きな地歩を獲得した。
ところがヨーロッパ諸国からみればロシアが増強されることは大きな脅威になることから、ドイツ帝国のビスマルクは列国の首脳を集めてベルリン会議を主催してロシアの得た権益の放棄を求めた。これによってロシアは南下政策を断念して、進出の矛先を極東地域に向けることになったのである。
一方近代国家の建設を急ぐ日本では、安全保障上朝鮮半島を自国の支配下に置く必要があるという意見が大勢をしめていたが、この時代の日本にはロシア帝国と戦えるだけの力は無く、戦争を回避しながら交渉によって解決する道を選んだ。ところがロシア帝国は清との間に密約を結び遼東半島の南端に位置する旅順、大連を租借し、旅順に太平洋艦隊の基地をつくるなど、満州への進出を推し進めていった。明治三十六年(1903)の日ロ交渉では朝鮮半島は日本、満州はロシアの支配下に置くという妥協案が出された。よその国を勝手に分けようとしているのだから対象となる国の民にとっては迷惑な話だが、そんな話も何の疑問も無く議論されていたのである。これに対して急進派が主導権を握ったロシアは朝鮮半島については北緯三十九度線以北を中立地帯として、一切の軍事利用を禁止する案を出してきた。自国の強大さを信じ込んでいるロシアとしては日本との戦争を恐れる理由は全く無かったのである。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [209] 投稿日 [2011/7/22]
槇山栄次の晩年は女子教育に捧げたと言っていい。ここに奈良女子師範学校内にある左保会が発行した「槇山栄次先生記念」という槇山を偲ぶ一冊がある。
以下この一冊の頁を繰りながら槇山の人となりを探ってみる。
先ずは長女春子の思い出話から逸話を拾ってみると、「父の蘭画きは少ない趣味の一つでした。「お父様の蘭はいつも同じ形だ」などと私どもに悪口を言われながら、それでも蘭を描くということは父には本当に愉快なことだったのでしょう。春の卒業式前になると毎朝数枚づつ描いては学校に持ってゆき、夕方には「またこんなに頼まれた」と嬉しそうに白い色紙を持って帰ってきたものです。夏で思い出すのは父のビール飲みです。その頃一日井戸に沈めておいた冷たいビールを大きなコップに注いで一息にゴブゴブと飲み干すのが毎夜の楽しみでした。口ひげに泡がついているとはやしたてると「ア・ウマイ!」と息をつきながら圓い手でクルッと口のまわりを撫でた父の姿。ある時従姉が井戸から壜を上げる拍子に紐を切って落としてしまい、すっかりご機嫌を損じてしまったこともありました。秋のなり物、柿栗も大好物でした。栗はよく薄く切って食膳にのせるのを喜んで食べていました。また、まだ一家が東京にいた頃食後父のお供をしてわざわざ町の果物屋まで大きな柿を買いに行ったことも覚えております」栄次ととくの築いた家庭の様子にほのぼのとさせられる。
教育者としての槇山の素顔は多くの関係者が書き残しているが彼の人となりを含めて教え子の木村満佐さんの一文をそのまま紹介する。
「はい」御返事が聞こえたので、いそいでハンドルを握ると静かにドアを開いた。サッと冷たい風が流れ込むのを感じながら礼をすると、お部屋の空気が暖かかったせいか急に上気して真っ赤になってしまった。黄昏の光が南の窓から斜めに入り込んでいるが、お部屋は何となく重苦しい灰色に感ぜられた。東の窓に近くストーヴが赤々と燃えていた。その側の東向きのお机に何かしきりにお仕事をなすっていらっしゃった先生は、こちらを振り向かれて眼鏡越しにご覧になるとやさしく「こちらにいらっしゃい」と仰言ってすぐ筆を置かれて眼鏡をおはずしになられた。宿舎を出る時もう風呂に行く友もあったのに、この寒い日にこんなに遅くまでお仕事をなすっていらっしゃるのだと思った時、もったいなく、すまなくて前に出ようとしても、堅くなって動きがとれなくなったように思われた。すっかり向き直られた先生は、も一度「もっとこちらへ」と仰った。やっと数歩歩み寄ってお示しくだすった椅子の前で慌てて一礼してハッとした。「寒いでしょう」何もこだわっていらっしゃらないような、そして全く隔てのないご様子が意外でした。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [208] 投稿日 [2011/7/19]
札幌の春は五月も下旬にやってくる。雪に閉ざされていた大地に若葉が萌えだすと梅、桜など春の花々が一斉に競い合う。北海道のお花見にはジンギスカンが付き物である、一歳未満の子羊のラム肉を兜を伏せたようなジンギスカン鍋で玉ねぎなどと一緒に焼いて食べる。花の下はもうもうたる煙が充満して桜も燻されているようだが花のことは視野にない。ジンギスカンと道産子は切っても切れない間柄にある。ところが北海道でジンギスカンが普及し始めたのは昭和の初めからで、この時代には北海道にジンギスカンは無い。それでも長い冬の間閉じ込められていた屋内から花々の溢れる戸外に飛び出せる喜びは変わるものではない。
巳之助は妹のとくが嫁いでいる槇山栄次宅を訪れた。
「これは義兄上よくいらっしゃいました、長らくご無沙汰をしております」
槇山は慶応三年(1867)の生まれだから巳之助より二歳年上であるが妻の兄であるから義兄として遇している。
「栄次さんも大変なご出世で嬉しい限りです、とくも息災のようで何よりですな」
「台湾の仕事が終わったら今度は北海道ですか、ご苦労なことでございます」
「兄は山歩きが好きですから喜んでるんですよ、特に北海道はご贔屓ですからね」
「台湾に比べれば北海道は天国みたいなものですよ」
「台湾の治安はようやく落ち着いたようですが、危ない目にもあったんでしょうね」
「初めの頃は測量などをやっていると何時襲われるか分からなかったから、今こうしてここに居られるのも奇跡といえるかもしれませんね」
「お兄さん、槇山はドイツ語の会話も勉強もしてるんですのよ」
「ドイツ語に堪能な栄次さんがさらにご勉強ですか」
「いやいや、ちょうどビール会社の社員に達者なのがいましてね、勉強させてもらっています」
槇山栄次は山形県米沢の生まれ、教職員として山形県下の小中学校で教鞭を取っていたが、その才を認められて文部省に引き上げられた。しかしあくまでも現場の教育に拘り、秋田県尋常小学校々長などを経て前年に北海道師範学校、現北海道教育大学、の校長として赴任して来ている。翌明治三十五年には女子高等師範学校の教授に転じた後文部省の各種委員を歴任した。槇山が名を残すのは大正八年(1919)に奈良女子高等師範学校、現在の国立奈良女子大学、の校長となってからである。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [207] 投稿日 [2011/7/15]
思いもかけない言葉に重吉は聞き返した。
「知恩院ですか、それはどういうことです」
「今村は測量屋だけど宮大工としても一流だからね」
「京都の知恩院の阿弥陀堂が荒廃が進んだんで取り壊して建て直すんですよ、本格的な作図は二年後なんですけど取り壊す前によく見ておかないとね、そんなことで帰って来いというわけなんですよ」
嘉義の九月は暑い、日中は三十度を越え、最低気温が二十三度だから夜といっても二十五度以上はある。酒を酌み交わす三人にとってもはや暑さは苦にもならない。この後の重吉は僅かな期間のうちに嘉義の長者と呼ばれるようになる。
明治四十四年(1911)に開通した森林鉄道は阿里山から切り出した木材を大量に運搬できるようになり、製糖会社も繁栄して嘉義の町は大いに栄えた。嘉義はまた山海の産物の集散地ともなり、阿里山への登山口としても世界的に有名となったのである。明治神宮や靖国神社の大鳥居には嘉義の檜が使われている。
知恩院は京都市東山区にある浄土宗の総本山で本尊は本堂の法然上人像と阿弥陀堂の阿弥陀如来である。三門を潜り急な石段の男坂を登りきると左手に巨大な屋根を持つ雄大な建築物が見える。俗に大殿といわれるこの建物は法然上人の御影をまつることから御影堂と呼ばれている。その御影堂の西側に立つのが阿弥陀堂で、その阿弥陀堂が荒廃しており、再建が宮内省の内匠寮技師である木下清教に託された。木下は巳之助無くしてはこのプロジェクトは為しえないと判断し、助手として参加してもらえるように陸軍陸地測量部に申し入れた。従って設計の責任者は木下清教だが、それは名目で実態は巳之助の肩に全てがかかっている。ところが共に働く製図担当者は八田巳之助、清水磯吉、岩城庄之丈、横田某という者たちでほとんどが木下と同じ内匠寮の京都系技師であるから意思の疎通が万全とはいかない、巳之助は工手学校(現在の工学院大学)を出て建築家の道を歩みだしていた弟の竹次郎を加えた。この時に木下清教が書いた設計料が五百円という文書が残されている。この当時の五百円がどのくらいの価値があったのだろうか、明治三十三年の米一石が十六円十九銭というから現在の米価と比べてみると五百円が百五十万円に届かない。そんなに少ないの、と言いたくなるが米の生産量は当時に比べて格段に増えているし、値段も下がっているので比較は難しいのかもしれない。ただしこの五百円が全てであるのか一部の設計料であるのかに多少の疑問も残る。
阿弥陀堂の仕事を終えた巳之助は本業に戻って北海道に渡る。札幌では嬉しい出会いが待っていた。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [206] 投稿日 [2011/7/12]
翌明治三十一年三月に台湾総督が児玉源太郎に代わった、桂太郎、乃木稀典などを経て四代目である。児玉以前の三人は悉く統治に失敗している、児玉は最後の切り札といっていいが見事にこれに答えた。児玉の成功は民政局長に後藤新平を起用したことによる、後藤は先に送り込んでいた浜野弥四郎に上下水道の完成を急がせ、新渡戸稲造を呼び寄せて殖産局長兼精糖局長に任じた。新渡戸は精糖による統治の経済的基礎を確立させることになる。新渡戸の肖像は五千円札紙幣で見ることが出来る。後藤の功績について李登輝前総統の言によれば「今日の台湾は後藤新平が築いた礎の上にある、後藤が度量衡、司法、教育などすべての近代的な制度を築き上げ、植民地になってわずか十年で、日本本国の援助がいらないくらい生産性も上がり、教育程度も高まった。後藤新平の台湾統治は搾取するための植民地化ではなかった。台湾に文明を分けてくれたのである」という最大の賛辞である。
巳之助に転勤命令が出た、早速宮崎重吉が送別の宴を設けてくれる。
主賓が巳之助なのは勿論だがあとは浜野弥四郎一人というこじんまりした宴である。
「檜の事業は順調な様じゃないですか」
「今村さんのお陰です、一足早く事業にとりかかれたのが成功でした。少ない資金ではじめたのですが利益が大きいので走りながら事業の拡大が出来ているのですよ」
「それにしても父上は残念だったね」
巳之助の父弥兵衛は昨年の暮れに亡くなっている、せめて一年でも長生きをしていてくれたらと浜野は言うのである。
「死に目には会えなかったけど葬式には間に合いましたからね、父も六十六年間の生涯を自分流に生きてきたからね、満足してますよ」
「今村さんは帰られますけれど、浜野さんはまだまだ居られるのでしょ」
「まだまだですね、何時のことになるのやら」
浜野は苦笑しているのだが結局は二十三年間も台湾に居続け、その結果は見事な業績である。浜野が作った二十一箇所の上下水道などで台湾の社会環境が大きく変わり浜野がこの地を離れる頃には、農業の灌漑面積も八千ヘクタールから四十六万ヘクタールにまで急増した。台北の上下水道は現在でも当時のものが使われているという。
「ところで今村さんは東京で何をなさるんですか」
「知恩院ですよ」
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [205] 投稿日 [2011/7/8]
巳之助の話は具体的になってきた。阿里山の檜は良質で森も深い、何より好都合なことは水源が鳥頭山(うとうさん)に求められるようなので有里山がダムになることはなさそうである。ところがこんな宝の山がいまだ世に知られていないから手を打つのは今のうちだという。それに、と巳之助は言葉を継いだ。
「伐採の許可願いを出すときには植林計画も添えたほうがいい、役所の印象がよくなる、なによりも森の資源を枯渇させないことが大事ですからね」
森林資源、日本の国土に占める森林率は68%でフインランドの74%に次ぐ森林国である。先進国ではイタリア、アメリカ、ドイツなど30%台で日本の半分以下だ、中国などは21%しかない。その日本も歴史的に観ると森林を失う危機は何度となくあった、特に徳川初期には末期的症状であった。戦国時代には武将達が競って城を築き、寺社の建立も盛んであった。更に徳川時代に入ると人口が急増して建材需要が旺盛となり森林破壊は留まるところを知らず、本州、四国、九州、北海道南部の森林のうち当時の技術で伐採出来るものの大半が失われた。このような状況を憂慮した徳川幕府は1666年以降森林保護に乗り出し、森林資源の回復と厳格な伐採規制、流通規制をした。この保護策の伐採規制は違反者には死罪を申し付けるほどの厳格さであったという。こうしてこの国の森林は蘇り世界で二位の豊かな森を持つことが出来たのである。その森林が危機に瀕している、森林の維持には手間がかかる、その手間が人手不足、金不足で森が荒れている。日本人は自国の森林を残して他国の森林を荒らしてきた。こうして入ってくる安い建材が自国の林業を衰退させたにもかかわらず森が荒れるのに手をこまねいている。最近では外国からの建材も高騰して国内産と変わらないというが、一度構築されたルートは簡単には正せない。筆者は数年前から消費科学連合会の主唱する森林ボランティア活動を通じて林業を営む人々と交流の集いを続けている。彼らはそれぞれが積極的に行動を起こして成功もしているがいまだ全国的な広がりにはいたっていない。我々の務めは林野庁や環境省への働きかけなどを行うことは勿論だが実態をご存知でない人々に浸透してこの国の森林保護活動の輪を広げることが責務だと思っている。
余談が過ぎた、宮崎重吉に戻る。それからの重吉の活動はすさまじいものであった。事業の元手を作るために漢文教師のかたわら生命保険の代理店など、金になることならば何でもやった。そして小金が溜まれば金貸しで増やしながら檜の事業に邁進した。
阿里山一帯は檜の原生林が台湾の背骨にあたる二千メートル級の山々に群生していてその開発に重吉達日本人が入り台湾の嘉義は林業の町として繁栄を極めるようになる。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [204] 投稿日 [2011/7/5]
巳之助もこの地域の測量をしている。浜野弥四郎とは同年の上に疎開先とはいえ同じ千葉県で生まれたのも何かの縁と深い交際が続いている。
「この方は宮崎さんといわれるのだが、阿里山の檜の事を聞きたいらしいんだ」
「檜ですか、具体的な調査はまだなんで今のところは何とも言えませんね」
愛想無しの返事だが重吉は言葉の中に含みを感じた。未来が開けるかもしれない。
その日の夕刻である、宮崎重吉は一升瓶を下げて巳之助の宿を訪ねた。
「今日は突然にぶしつけなことをお訊ねして申し訳ありませんでした、ここの檜に目をつけて調査をしているのですが素人なもので不安もあるんですよ」
「いや、こちらこそ失礼した、立ち話では都合の悪いこともあろうかと思いましてね」
「そうでしょうね、そんな気配が感じ取れましたのでぶしつけながら突然うかがったわけなんですが」
せっかく来たんだからと招きいれながら巳之助は不機嫌な様子でもない。重吉も追い返されるのを覚悟の上で訪ねてきたのだから、招じられるままに遠慮することもなく上がりこむと一升瓶を差し出した。
「私もいま始めたところだ、飲みかけだがいっぱいやりませんか」
これもまた遠慮はせずに差し出された盃を一気に飲み干すと自己紹介からはじめた。大分の出身であること、三倍の給料に惹かれてやってきたこと、漢文の教師で終わる気は全く無しで、事業を起こすことに生涯をかけている事などを熱っぽく語った。
「そうですか、それでここの檜に目を付けたけれど確信が持てないというわけなんですね」
「おっしゃる通りです、先ほどの様子では見込みがありそうだと感じましたが」
「私は測量屋だけれど元々は宮大工だからね、檜は良い物を見続けてきたんですよ」
「それはまたお見それいたしました、それほどのお方にお会い出来たのは幸運と言う他はありませんね、どうぞよろしくご教授いただきたいんですが」
「買いかぶられても困るけど多少のお手伝いは出来ると思いますよ」
「それで品質なんですが、良いものなんでしょうね」
「間違いないね、それに運び出すのもそんなに厄介ではない、台湾の特産品になれるよ」
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [203] 投稿日 [2011/7/1]
太陽が地表を照らす角度は季節と時刻によって変化する。いちばん角度が大きくなる正午ごろの場合春分と秋分の日には赤道上で垂直に照らす。また北半球の夏至には北緯23度26分で太陽が垂直に照らす、この緯度が最も高緯度で太陽が天頂に来る地域であって、この緯度を北回帰線と呼ぶ。
さつまいもの形をした台湾のほぼ中央を北回帰線が走っている。その北回帰線の真下、統治下にあって日本の最高峰として知られた三千九百五十二メートルの新高山、現在は玉山と呼ばれている、に連なる有里山の麓に嘉義がある。都市でいえば台北から台中、嘉義、台南、高雄と南に下るほぼ中央に位置しているこの地で水源を見つけながら上下水道の設計をしている男がいる。
男は浜野弥四郎と言う。浜野は明治二年に成田市寺台の豪農、黒川久兵衛の次男として生まれ、佐倉市の旧佐倉藩医浜野家の養子となって東大工学部に入り、英国出身で東京の上下水道を設計した水道技師バルトンに師事した。このバルトンが当時の内務省衛生局長、後に台湾総督児玉源太郎の下で民政局長として辣腕を振るった後藤新平のすすめで台湾に渡り、浜野も助手として付いて来た。ちょうど巳之助がこの地に赴任した時期に重なる。あれから二年が過ぎて明治三十年、二人は台北の上水道の調査から始めて各地を廻り、浜野は嘉義に来ている。この間バルトンはマラリヤにかかり東京に戻ってしまっている。
「突然お声をかけて申し訳ございませんが、水道の調査をされているとお見受けいたしましたが、阿里山に水源地があるのでしょうか」
それこそ突然である、浜野と同年輩の男が声をかけてきた。
「まだはっきりしたことは言えませんが阿里山ではないでしょうね」
「それでは阿里山にダムなんかは出来ないのですね」
「ダムを造るとすれば鳥頭(うとう)山でしょう、阿里山にはありませんね」
「それはありがたい、檜が台無しになってしまうところだった、申し遅れましたが宮崎と申しましてこの地で漢文を教えております」
宮崎重吉と名乗るこの男は明治三年に大分県大分郡宮苑に生まれた。家は代々神主であったが暮らしは楽ではない、そんな重吉に転機が訪れた。政府は台湾振興策として現地勤務の公務員を募った。給料は内地の三倍という触れ込みに重吉は乗った。嘉義に住み着いた重吉は漢文の教師をしながら事業を夢見ているのだが、阿里山の良質な檜に目を付けているのである。
「檜ですか、私はあまり興味はないけれど、ちょうどいい男が来ましたよ、山のことならあの人に聞けばいい」
やって来たのは巳之助である、浜野とは別行動だがここ何日かは嘉義に滞在している。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [202] 投稿日 [2011/6/28]
余談だが大分市の「ふぐ良」はふぐ専門店として県下でも一番の店と知る。
昭和から平成に変わる何年かの間、国民のほとんどが中流階級の幻想に浸っていた幸せな時代に筆者は何度かこの店を訪ねた。ふぐの刺身は薄造りが普通だがこれはふぐの身が硬いことによるのともう一つは高価な魚だけに少量を多量に見せる技でもある。ところがふぐ良のふぐは身が厚い、それが少しも硬さを感じることなくふぐの身の量感を味わうことができる。筆者の従兄の縁から必ず別室で付き合ってくれたこの店の親父さんの話では硬さを感じないぎりぎりの厚さで薄造りにしていると言う。
ポン酢にふぐの胆を溶いて、これを薄造りにつけて口中に運ぶ、ねっとりとした胆の味がふぐのボリューム感にからんで二三度かみ締めたあと喉をすり抜けてゆく。博多のふぐはご贔屓の「千太」でシーズンには連日のように食べていたからその素晴らしさはよく知っていたけれど、それとは全く別の珍味ではある。
「夏のふぐも美味しいんですよ、一度夏に来てくださいよ」
親父さんにそう言われていたけれどとうとうその約束も果たせずに今日まで来てしまった。東京では食べられない九州のふぐの想い出である。
清は台湾を「化外の地」としてほとんど整備していなかった。その為に土匪(どひ)が横行して住民を困らせていた、土匪とはアウトローの更にたちの悪い者達で裕福な家の人たちを誘拐しては身代金を要求するのである。そんな時代であったから各地に点在していた部落は土匪から村を守る為に、部落全体を竹薮で囲んでいた。部落に入る道は牛車がやっと通れる程度の細い道で竹薮は密集しているし棘が多いので土匪が侵入しにくく銃弾さえも通り抜けない程竹薮が密集していたという。ところがこの囲いは土匪に対しては堅固だがその反面蚊の大量発生を招きマラリヤで倒れるものが後を絶たなかった。また原住民の高砂族たちは部落間の争いが激しく、首狩りなどもまだまだ風俗として残っていたのである。新たな統治者となった日本は土匪征伐と同時にこのような竹薮を切り払って町を整備するところから始めねばならなかった。
日本軍の台湾上陸は続く、十月には乃木稀典の指揮する第二師団が南部に上陸し二十一日には台南に入った。十一月十一日には大本営に全島平定が報告され、軍政から民政に移行すると翌年四月一日に大本営は解散した。
この間の日本軍の損害は大きく、五万人の兵のうち五千人が死に、一万五千人がマラリヤや赤痢にかかって戦闘力を失った。同様に女子供を巻き込んで抵抗した台湾側は一万四千人の死者を出したと推定されている。 …続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [201] 投稿日 [2011/6/24]
五月八日に日清講和条約が発効すると日本は割譲された台湾に近衛師団を送り込んだ。二十九日に近衛第一旅団が北部に上陸し、六月十七日に台北で台湾総督府始政式が行われた。しかし南進が始まると流言蜚語などによる武装住民達の抵抗が激しく、増援軍を派遣して七月二十九日に台北管区を制圧することが出来たが、全島を制圧するには至っていない。厄介なのは住民の抵抗だけではない、この土地の風土病が兵士達を苦しめた。衛生状態が非常に悪い、暑い時期にゲリラ戦に巻き込まれたこともあって腸チフス、赤痢などにかかる兵士が多く、近衛師団長の北白川宮能久親王陸軍中将がマラリヤで陣中に没した。
下関条約の図面作成の任務を終えて旅順から下関に戻っている巳之助に辞令が下っている。八月一日付で台湾総督府陸軍幕僚付を命ず、こんな不穏な時期に台北に渡らねばならない。陸軍の支配下にあるのだからあたりまえといえばそれまでだが死の覚悟だけはしておかなければならない。戦闘員では無いといっても彼らにとって日本人は敵なのである。
「いよいよお別れだな、台湾はかなり厳しい状況にあるらしいから覚悟して行かねばな」
「小倉さんとはずっと弥次喜多でやってきたけど、いよいよですね」
「こんな時代だ、わずか九ヶ月の間に広島、下関、旅順、下関と渡り歩いて、お互いに先も見えないけれど好きな道を歩いてるんだから文句は言えないね」
「そのうえに下関のふぐが食べられるんだから云うことはないですよ」
二人は割烹料亭の春帆楼で初めてのふぐを肴に酌み交わしている
この時代にふぐを食することは禁じられている、ところが山口県下に限ってはふぐ食が解禁されている。ふぐと云う魚は美味ではあるが猛毒を持ち、度々人の命を奪ったことから豊臣秀吉の時代から明治初頭にかけて武士のふぐ食を禁じていた。特に長州藩は家禄没収などの厳しい処罰が定められていた。維新となり武士の法度が消えるとふぐ中毒が増加したので明治十五年(1882)には「ふぐ食う者は拘置科料に処する」という令が発布され、全国でふぐが食べられなくなった。ところが明治二十一年に下関を訪問した伊藤博文が割烹料亭の春帆楼でふぐを食べたところその旨さに感動し、山口県知事に働きかけて山口県下のふぐ食を解禁したのである。
現在ではふぐ食は全国的に認められているが胆を食べることは禁じられている。ところが唯一大分県だけはこれを禁じていない。ふぐに関する条例は都道府県の条例で規制されているのだが大分県の県条例ではふぐの胆を食すのが禁じられていないのである。
…続く
投稿者 [溝口 浩] 記事番号 [200] 投稿日 [2011/6/21]